瑞州内戦

瑞州内戦(ずいしゅうないせん、英:Zuish Civil War)は、1947年6月17日から1949年3月10日までの瑞州合衆国連邦で発生した内戦。増地保幸率いる右派(国粋主義派)の北部報国戦線が鹿毛川幕府を名乗り、瑞州北部の独立を志向して合衆国連邦と争った。

目次 瑞州内戦
1.背景
2.タイムライン
3.用語

年月日:瑞州暦1947年6月17日~1949年3月10日
場所 瑞州合衆国連邦
結果:合衆国連邦の勝利
交戦勢力
瑞州合衆国連邦
北部報国戦線→鹿毛川幕府
・陸軍参謀本部
・海軍軍令部
 ・幕府陸軍(旧連邦陸軍)
 ・幕府海軍(旧連邦海軍)
指導者・指揮官
陣内龍三
増地保幸
新垣道雄
大屋太一郎
背景
国家が国防方針を策定する際、国家戦略と軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を「政戦略の一致」と言う。1930~40年代の瑞州は対外拡張主義(覇権主義)と不干渉主義の議論が最も盛んであり、軍部(対外拡張を主張)と、外務省を中心とした政府(不干渉・国際協調による平和を主張)の争いが表面化していた。また軍部も一枚岩ではなく、血気盛んな若手将校のグループは暴力による政府首脳陣の制圧を主張し、一方で老齢のベテラン将校団は交渉を志向していた。その対立の最中である1945年、当時の大統領である慶田茂裕は国際協調を呼びかけ、軍縮を主張していた。彼と彼の所属する農民環境党の主流派は軍の予算を削減し、多くの将官を予備役とすることで軍縮を実行しようとしていたが、8月2日、過激派右翼の青年である甚野塁に瑞京駅で暗殺された [*1] 。この事件をきっかけに、農民環境党や他の反軍部的性格を持つ政党は軍部の危険性を声高に叫びつつ自警団を組織するようになり、一方で若手将校たちの敵愾心はさらに煽られ、大統領の暗殺のみでは足りないという認識を抱くようになった。
慶田の暗殺に伴い、副大統領の陣内龍三が大統領に昇格する。陣内は農民環境党内の派閥順送りの慣例で、慶田の属していた主流派とは別の派閥に属しつつも副大統領に任命されており、陣内は慶田ほどの軍縮を望んでいなかった。しかし軍部はこの人事に不満を持っており、農民環境党自体を壊滅させることを望んでいた。

八・一ニ事件
8月12日午前、陣内内閣の組閣直後の就任式典が連邦議会議事堂にて執り行われたが、就任したばかりである閣僚たちが軍部の差し向けた刺客により一斉に殺害された(八・一二事件)。殺害実行犯の河野浩司 [*2] 、梶原智之 [*3] は、物影に潜んで閣僚たちを強襲した。彼らは機関銃で閣僚たちを連続して射殺するという暴挙に出、動揺しつつも立て直した警備兵にその場で射殺された。しかし当時存在した国務大臣級の13のポストの内、陸軍大臣・海軍大臣を含めた10人が即死し、また重傷を負って搬送された3人の内2人も数日以内に死亡、残る1人も政界に復帰することは終ぞ叶わなくなってしまった。時を同じくして陸海軍の若手将校グループが、自身の指揮下にあった部隊の一部を引き連れて議事堂や周囲の官庁街を占拠した。陣内はとっさの判断で身代わりになった衛兵のおかげで軽傷で済んでおり、若手将校グループの差し向けた追撃をかわし、警備兵やシークレットサービスにより少し離れた大統領官邸(橘花園/シトラスガーデン)まで後退し、非常事態を宣言するに至った。若手将校グループを率いていたのは、老齢ながらも若手将校たちに理解を示していた増地保幸(退役陸軍大将)であり、その教え子である陸軍参謀総長の新垣道雄、海軍軍令部長の大屋太一郎も一派に加わっていた。
官邸は軍首脳部や退役軍人の大物が敵に回るという前代未聞の状況に直面し、混乱の中情報収集に努めた。軍内部の連絡系統は、陸軍省や海軍省を制圧されている中では使えないため、野戦軍司令官や艦隊司令官といった各地の重要なポストに直接橘花園から連絡を取り、どうやら陸軍省や海軍省に詰めていた一派による犯行であろうと陣内らは推定した。自身で任命した閣僚を惨殺された陣内は怒り狂い、この事件を民主主義への挑戦、あるいは反乱と見做した。また状況確認中にいくつかの高級指揮官が応答せず、残存政府首脳陣は軍に蔓延した反政府思想の根深さを体感した一方で、状況を認識した決起不参加の将校たちは、後進たちの引き起こした「虐殺」に慄然とし、大統領保護のための部隊を至急派遣することを約束した。
若手将校グループは、手勢だけでは橘花園の制圧も難しいと判断し、援軍が来るまで占拠地域の防備に当たることとした。そのため大統領側に呼応した第一歩兵師団の部隊は交戦を経ず橘花園に直行し、大統領を保護した。

北部報国戦線の成立
どちらも決定打を与えられず数日首都にてにらみ合った両陣営の様子は、すぐさま新聞やラジオといった報道で全国各地に知れ渡った。一部の国民と合衆国軍部隊は政府側を支持し、軍部の武力による政治介入を批判し、次第に軍部への風当たりは強くなっていった。対して右派勢力は、事件は弱腰の政府閣僚に対する天誅であると正当化し、軍部を支援した。特に三勢州身重郡に本営を置いていた第二歩兵師団長の兒玉幸弘陸軍少将は「報国将軍」とあだ名されたほど右派思想が強く、首都の救援のために手近な第十七歩兵連隊(波島州牟岐市)を先発させた。また第二歩兵師団の他第七歩兵師団(常陸中州水砥市)も軍部に協力的で、首都に籠って南部の非協力的な部隊に囲まれるより、濃波州の中心都市である伊菜市を拠点とするべしとの進言を瑞京にいる将校団に伝達した。増地はこの意見を容れ、第十七歩兵連隊の到着に合わせて打って出、北へ向かうことを宣言した。将校の幾人かは、首都を攻め落とすことなく逃げるようなものだと反発していたが、増地や新垣、大屋がこれを説き伏せた。

タイムライン
1945年8月2日: 甚野事件。過激派の青年に、慶田茂裕大統領が瑞京駅で暗殺される。副大統領の陣内龍三が大統領に昇格。
8月12日: 八・一ニ事件。陣内内閣就任式典中、軍部の手の者が居並ぶ閣僚たちを殺害。同時に軍部右派の青年将校たちが議事堂ほか官庁を占拠。陣内大統領は脱出し、大統領官邸(橘花園)へ退避。緊急事態を宣言し、事態を叛乱だと見做す。
8月15日: 第十七歩兵連隊により決起将校たちが脱出。大統領側は追撃を試みるも戦力不足により断念。
8月20日: 決起将校のリーダーである増地保幸(退役陸軍大将)が、北部報国戦線(Nördlich Patriotismus Front)の結成を宣言。連邦政府は即時に対抗して、軍閥支配を認めないとする談話を発表し、また増地の異例の降格(退役大将→退役少尉)や新垣道雄陸軍参謀総長、大屋太一郎海軍軍令部長の解任に踏み切った。
8月23日: 燃やされていた陸軍省や海軍省の一部の計画書が復元され、「複号計画」として連邦軍の改革計画が本格的な実行検討段階に上がる。
9月11日: 臨時に召集された臨時国会にて連邦軍改革法案、および北部報国戦線への対応の検討が開始。北部報国戦線による襲撃を警戒して厳戒態勢の中行われる。しかし北部報国戦線に同調する議員もおり、議論は紛糾する。
10月: 伊菜市長の自発的な協力のもと、北部報国戦線が防衛計画を策定。濃波州以北の地域を勢力範囲とし、連邦政府に持久する乙案を決定し、各自治体への懐柔が行われる。
1946年1月: 連邦軍改革法案あらため国防軍法、国家安全保障法が臨時議会で制定される。
2月: 国防軍法、国家安全保障法が施行。陸軍省や海軍省はそれぞれ第一軍務省、第二軍務省と改称され、指揮系統の整理や人員配置など連邦軍から国防軍への転換作業が開始。
3月~11月: 「奇妙な戦前」。本格的な武力衝突に至らず、北部報国戦線、国防軍ともに陣地構築を実施。また国防軍、編成部隊の錬成に努める。
12月2日: 第一回静陸講和会議。合意に至らず、第二回に持ち越し。
21日: 第二回静陸講和会議。非武装地帯を両陣営の勢力境界に設定することで合意するも、境界画定で難航。
1947年1月17日: 第三回静陸講和会議。尾州那古野-駿州静陸-嶋州嶋を結ぶ線で勢力境界を合意。また兵力の段階的削減を実施する方向で双方合意するも、実効的な監視手段については盛り込まれず、有名無実化。
3月: 第一、第二軍務省を発展的改組、国防軍とその隷下の陸軍庁・海軍庁・空軍庁を新編。
6月17日: 北部報国戦線、連邦政府からの独立を公表。軍事国家・伊菜幕府を名乗り「電撃」作戦を発動。空陸による奇襲作戦を実施し、国防軍の第一次戦略防衛線に破孔を穿つ(那古野爆撃・静陸の戦い)。
6月後半: 古片の戦い。幕府陸軍が静駿州古片鎮台を占領。
7月前半: 岩橋山の戦い。幕府陸軍が静駿-大城州境を突破し、瑞京に迫る。国防軍では瑞京府の絶対死守を任務とする瑞京防衛司令部(瑞京支隊)が臨時に編成される。政府首脳陣・国防軍総司令部の退避計画発動、薩鹿川内への脱出が実施。
7月後半: 幕府陸軍、瑞京を射程内に収める位置に布陣。瑞京の戦い。
9月: 瑞京内の愛宕・高瀬両駐屯地がこの時までに陥落し、国防省八幡地区のみが残る。瑞京支隊としての活動が不可能になったため、残存部隊を糾合し防備統合司令部を再編成。最先任である諸隈伸弘准陸将が防備統合司令官に就任。
10月21日: 他地域での攻勢に乗じ、防備統合司令部部隊による解囲が試みられる。作戦は成功し、包囲部隊の高級指揮官数名が戦死。連邦軍、奈羅市まで撤退することを決断。
10月末: 瑞京包囲部隊の指揮を執っていた池羽公一郎少将らが伊菜市へ召喚され、二度と戻らず。11月1日付で新たな指揮官として真田多門少将が着任。
1949年2月25日: 桜小路事件。以前から瑞州中央情報局の調略を受けていた航空部隊指揮官が幕府軍を離反し、出頭を命じられた矢先に幕府首脳陣を空襲して殺害。幕府軍は大混乱に陥り、この機を逃さず国防軍が再度攻勢に出る。
1949年2月27日: 「大老」職にあり、陸軍総裁を兼務していた鷲頭広隆(退役陸軍中将)が新たな大将軍として選出される。
3月8日: 幕府が降伏を伝達。戦闘行動の停止が両軍全部隊に伝達される。
3月10日: 鷲頭が重賀市の国防軍司令部まで出頭。副大統領の立ち合いのもと降伏文書に調印し、正式に内戦は終結する。
4月1日: 第一復員庁、第二復員庁が国防省外局として成立し、前者は国防軍の復員行政を、後者は幕府軍の武装解除を含めた復員行政を担当する。このうち第一復員庁は戦後しばらくして退役軍人管轄庁として改組された。
瑞州内戦
年月日:1947年6月17日 - 1949年3月10日
結果:瑞州国防軍の勝利。鹿毛川幕府、旧連邦軍の崩壊。文民統制体制の成立。
交戦勢力
鹿毛川幕府
陸軍参謀本部
海軍軍令部
幕府陸軍(旧連邦陸軍)
幕府海軍(旧連邦海軍)
瑞州合衆国連邦
統合幕僚監部
国防陸軍
国防海軍
国防空軍
指導者・指揮官
増地保幸大将軍
新垣道雄陸軍総裁
大屋太一郎海軍総裁
陣内龍三大統領

前史

国家が国防方針を策定する場合には国家戦略と軍事戦略との整合性が重要であり、この整合を「政戦略の一致」と言う。1900年代に入ると、瑞州軍の統帥権の独立を巡って、軍部が外務省などを筆頭とした政府と対立するという深刻な政軍関係上の問題が発生することになり、この政治的対立によって政戦略の不一致がもたらされることになった。この頃の瑞州は対外拡張主義(覇権主義)と不干渉主義の議論が最も盛んであり、軍部(対外拡張を主張)と、外務省を中心とした政府(不干渉・国際協調による平和を主張)の争いもそれに乗じたものであった。瑞州が空中分解しなかったのは、ひとえに軍部と政府の間に立つ最高権力者である大統領たちの功績が大きいが、大統領たちは自身の主張を明確化していなかった。

その対立の最中である1945年、当時の大統領である農民環境党の慶田茂裕は(明確な表明こそしていなかったものの)不干渉主義の中でも軍縮派と呼ばれる考えを支持していた。彼と農民環境党の主流派は軍の予算を削減し、多くの将官を予備役とすることで軍縮を実行しようとしていたが、4月2日、過激派右翼の青年である甚野塁に瑞京駅で暗殺された。しかしながら後年、甚野は軍部に暗殺を依頼されたヒットマンであると自供している。

慶田の暗殺に伴い、副大統領の陣内龍三が大統領に昇格する。陣内は農民環境党内の派閥順送りの慣例で、慶田の属していた主流派とは別の派閥に属しつつも副大統領に任命されており、陣内は慶田ほどの軍縮を望んでいなかった。しかし軍部は農民環境党自体を壊滅させることを選んだ。

八・一ニ事件

8月、陣内内閣の組閣直後の就任式典において、就任したばかりである閣僚たちが軍部の差し向けた刺客により一斉に殺害された(八・一二事件)。殺害実行犯の河野浩司*4、梶原智之*5は、物影に潜んで閣僚たちを強襲した。彼らは機関銃で閣僚たちを連続して射殺するという暴挙に出、動揺しつつも立て直した警備兵にその場で射殺された。

八・一二事件の被害者の一覧を以下に示す。

  • 陣内龍三大統領:事件発生時に護衛が身を挺して庇ったが、その際に床に腕を強打し、冷却措置を受ける。後にこの事件がPTSDの原因となっているが、任期最後まで大統領を務め切った。
  • 中谷孝明陸軍大臣:陸軍大将。即死。
  • 竹内隆文海軍大臣:海軍大将。即死。
  • 深津和秀副大統領:即死。
  • 中濱幸平内務大臣:即死。
  • 海野勝敏外務大臣:即死。
  • 新島武夫大蔵大臣:重傷。緊急搬送され、当面の入院措置。政界に復帰することは叶わなかった。
  • 井波啓輔法務大臣:即死。
  • 大室忠之農商大臣:即死。
  • 三代和成労働大臣:重傷。緊急搬送され、2日後に死亡。
  • 須山俊亮厚生大臣:即死。
  • 芝田昌昭国土大臣:即死。
  • 長屋隆光文部大臣:即死。
  • 三崎佳嗣大統領首席補佐官:重傷。緊急搬送され、3日後に死亡。

なお警察による捜査の過程において、陸軍参謀本部や海軍軍令部も事件に加担していたことが判明し、目の前で部下を惨殺され怒りに震える陣内は、犯人らが軍人であることが確認されたその日の内に新垣道雄陸軍参謀総長、大屋太一郎海軍軍令部長を罷免し、公職から生涯にわたって追放した。事件後、国民と政府、一部の合衆国軍部隊は軍部の武力による政治介入を批判し、次第に軍部への風当たりは強くなっていった。この事件によって、軍部大臣現役武官制はただちに廃止され、臨時に陣内自身が陸軍・海軍大臣を兼任した。

またこの事件を契機に、政府要員が一同に会した場所で全滅するというリスクがよく考えられるようになり、立法府を維持するための両院の議員各党1人ずつと、行政府を維持するための閣僚1人以上が欠席し、会場から離れた非公開の安全な場所に待機することを定めた指定生存者制度が施行された。

国防軍の設置

翌1946年、陸海軍を国防陸海空軍として再編し、軍を文民(議会・大統領)の統制のもとに置くこと(文民統制)を明文化した「国防軍法」、そして瑞州情報局(ZIA)の創設を盛り込んだ「国家安全保障法」が議会で制定された。軍部は猛烈に反対したものの、既に自身の起こした事件のせいで軍部大臣現役武官制は廃止され、政策決定の場に軍部の意向を反映できる者などおらず、結局は国防軍法の成立を指をくわえて見過ごすことしかできなかった。

同年4月1日、大統領府に国防部が新規に設置され、その指揮下に臨時に国防軍が組織された。国防部および国防軍は旧軍基地・部隊の抽出・編入・戦力建設作業に努めた。この時に旧第一歩兵師団や旧第六歩兵師団、旧第一○二近衛師団や各地の地域旅団を母体に機甲第1師団から騎兵第8師団までの師団が編成されたが、旧第二歩兵師団など軍部派の部隊がそれを拒否。八・一二事件の際に罷免されていた新垣前陸軍参謀総長と大屋前海軍軍令部長を主導者と仰ぎ、四六革命と称し、武装状態で各基地や駐屯地、砦に立て籠る事態が発生した。

戦力は拮抗、もしくは劣勢状態にあると危機感を抱いた国防陸軍司令部は、国防陸軍への編入を拒否した部隊の代替として、同年7月までに機甲第9師団空挺第10師団歩兵第11師団を編成。また第11師団の後、第12、第13…と師団編成を続ける予定だったが、人員不足により編成されたのは独立機甲第15旅団や、第1特殊作戦任務部隊から増強改編された特戦第18旅団などの師団未満の旅団級部隊だけにとどまった。それらも後々、機甲第15師団や特戦第18師団としてさらなる増強改編される予定であったが、やはり人員不足や必要性の低下により改編は見送られ、結局現在に至るまで師団へと改編されることはなかった。

翌年4月、大統領府国防部から昇格する形で国防省が設置、正式に国防軍が編成された。国防軍は陸軍の後継組織である国防陸軍、海軍の後継組織である国防海軍、陸軍航空軍から改組した国防空軍で構成された。

内戦

陣内大統領率いる国防軍と、編入を拒否した旧連邦軍の各部隊は、当初はにらみ合ったままであった。旧連邦軍を主導する新垣と大屋は、既に現役を退きつつも、未だ各界に大きな影響力を及ぼす増地保幸退役陸軍元帥を担ぎ出し、瑞州の歴史上長らく使われていなかった「大将軍」*6を名乗らせた。首班として全体の指揮を任された増地は、淡葉州鹿毛川市を新首都とした軍事独裁政権(鹿毛川幕府*7)の樹立、そして瑞州合衆国連邦への宣戦布告を1947年6月17日に行った。これを以って正式に瑞州内戦が勃発した。

鹿毛川幕府の勢力範囲は、広大な太平洋を遊弋する他国艦船や潜水艦を目にする機会がたくさんあり、「武力によって瑞州の地位をより強固にすべきである」と考える西海道地方や北西地方の軍部隊が多かった北部瑞州だった*8。対して、陣内大統領率いる合衆国連邦の勢力範囲は南部瑞州に限定された。

新規に編成された国防陸軍や国防空軍の部隊は、そのほぼ全てが対旧軍部隊のために最前線となっている中央地方に配備されていた。例外は南州地域で後方支援・教育・治安維持・国境防衛任務に当たっていた歩兵第6師団歩兵第11師団、ごく少数の地域兵団*9であった。地域兵団は各州の防衛に大きな役割を果たし、後の州兵の編成に繋がる。

サンダースクリーム作戦

サンダースクリーム作戦
Operation Thunder Scream
国防軍から見た開戦時の戦力配置。友軍は青色、敵軍は赤色で表示されている。
年月日:1947年6月17日-7月日
目標:敵首都までの打通。
結果:作戦失敗。瑞州国防軍の後退。
指導者・指揮官
増地保幸大将軍
新垣道雄陸軍総裁
大屋太一郎海軍総裁
陣内龍三大統領

内戦という最悪の事態を予測していた国防軍上層部は、敵軍の宣戦布告とほぼ同時に先手を打って進撃を開始。鹿毛川幕府の勢力範囲をより北方に限定し、また電撃戦をもって敵首都まで進もうとしていた。この目標のために発動されたのが、かねてより計画されていた作戦計画D-7 サンダースクリームである。

国防陸軍は前もって各師団を4個軍団に分けていた。東岸戦線を担当する野戦第1軍団(指揮官:藤井一樹中級陸将)、中部戦線を担当する野戦第2軍団(指揮官:川原茂昭中級陸将)、西岸戦線を担当する野戦第3軍団(指揮官:長野浩由中級陸将)、後方支援を担当する野戦第4軍団(指揮官:千代原健一中級陸将)である。サンダースクリーム作戦では、砂漠地帯のために敵の基地が少ない常陸中方面から淡葉の鹿毛川まで進撃するものと定められ、野戦第3軍団と野戦第2軍団がこの侵攻線を通り、野戦第1軍団は彼らの側面を突かれることを防ぐため東海州の敵部隊を引き受けるものとされた。

宣戦布告と同日中にこの作戦は発動され、第2・第3軍団は進撃を開始した。18日、濃前州と尾治州から進出した第1独立騎兵連隊と歩兵第7師団騎兵第8師団は、中濃州にある塩四里要塞と常陸中州の守屋要塞に立て籠もる幕府陸軍・第十三地域旅団への攻撃を開始した(塩四里・守屋要塞の戦い)。砲兵旅団である第十三旅団の正確無比な砲撃と、増援に駆け付けるだろう北部の幕府軍部隊に怯えながらの攻撃となったが、20日には両要塞とも沈黙。第十三旅団は降伏した。しかしながらこのとき、常陸中州北部にいる第十地域旅団や第七歩兵師団、濃波州の第十二地域旅団といった、幕府丁方面軍に属する各部隊は、実際には増援に向かっていなかった。

また第1軍団では陽動のため、瑞州東岸を北上するという進路を取り、嶋海州や静駿州から出撃した歩兵第2師団や第2独立砲兵連隊、歩兵第4師団が出撃していた。18日午後、それを阻止せんとする幕府乙方面軍との交戦となった(狭間似の戦い)。第一騎兵旅団や第十八地域旅団といった騎兵科の機動力に勝る部隊と、第二十歩兵旅団の組み合わされた防備に国防軍は手こずり、戦線は膠着するも、21日に遅れて到着した機甲第1師団と第3独立歩兵連隊の活躍もあり、翌日に幕府乙方面軍は後退した。

行方・鹿嶋の戦い

行方・鹿嶋の戦い
Battle of Namekata-Kashima
6月末の戦況。国防軍第3軍団は側面攻撃により窮地に陥る。
年月日:1947年6月22日-7月12日
結果:国防軍の辛勝、なれども進撃停止。
交戦勢力
鹿毛川幕府軍
・丁方面軍
 ・第七歩兵師団
 ・第七地域旅団
 ・第十地域旅団
 ・第十二地域旅団
国防陸軍
・野戦第2軍団
 ・歩兵第4師団
 ・騎兵第8師団
・野戦第3軍団
 ・歩兵第7師団
 ・歩兵第9師団
 ・第1独立騎兵連隊
指揮官
・藤松昌樹陸軍大将
 ・五嶋秀雄陸軍少将
 ・梅村憲明機甲大佐
 ・成田正英歩兵大佐
 ・上地康平砲兵大佐
川原茂昭中級陸将
髙橋晴雄陸少将
吉田義紀少級陸将
長野浩由中級陸将
榊原康宏少級陸将
柴田雅大少級陸将
阿部幸司一等陸佐

22日、敵の奇襲を警戒しながら常陸中州の砂漠地帯・鹿嶋郡に到達した第2・第3軍団司令部は、敵軍が行方郡から鹿嶋郡を通り、隣の能石州葉咋市まで伸びる防御線(行方-葉咋ライン)を構築し、瑞州最北部の淡葉州にいたはずの機甲部隊・第七地域旅団が待ち構えていることを偵察によって知った。

両軍は防御線を挟んでしばらくにらみ合ったままであった。26日に長野中将は川原中将に要請し、第2軍団に幕府軍の築いた防御線正面への偽装攻撃を行わせながら、自身の指揮する第3軍団の機甲部隊を防衛線の西から迂回させ、その背後の幕府軍機甲部隊を攻撃するために進出した。この攻撃は成功したかに見えたが、防御線西端の行方郡まで進出した折、濃波州から進出してきた第十二地域旅団による側面攻撃で物資の補給がままならなくなり、第3軍団の機甲部隊や随伴歩兵は燃料と弾薬が欠乏し、かえって不利な立場に置かれることになった。

7月1日、長野は第7師団及び第9師団を攻撃部隊として、物資補給路の障害となっている南方に陣取った第十二旅団に対する攻撃を行った。攻撃は失敗し、行方に陣取る第十二旅団はさらに10日間も戦闘を続け持ちこたえた。

しかしながら、防御線後方にいた丁方面軍前線司令部は、防御線の突破によって淡葉州の首都が危険に晒されることを懸念し、第十二旅団の陣地に援軍を送り込み、防御陣地を築くことに集中していた。このため、丁方面軍は状況対応が遅れ、7月11日にようやく前面の第2軍団への反撃を開始したものの、側方の第3軍団には準備日数を与えてしまっていた。長野中将は行方-葉咋ラインの中央に補給路を開くため、東へ向かい戦力を集中して攻撃を加えた。12日までに形勢不利と見た丁方面軍は戦場から撤退した。この戦闘で第七旅団などの機甲部隊は大きく損耗し、行方-葉咋ラインは中央の鹿嶋郡で寸断され補給路は再びつながったが、大きく損害を被ったのは国防軍も同様であった。

戦闘は戦車を多く犠牲にしながらも国防軍の勝利に終わったものの、その後の戦いにおいて重要な役割を果たすべき機甲部隊が損耗してしまい、常陸中州北部へ退却した丁方面軍に決定的な打撃を与えることができなかった。このため、国防軍の開戦以来の進撃は、行方・鹿嶋付近で停止した。

第一次水砥の戦い

第一次水砥の戦い
Battle of Mito Ⅰ
年月日:1947年7月20日-24日
結果:幕府軍の勝利。
交戦勢力
鹿毛川幕府軍
・丁方面軍
 ・第七歩兵師団
 ・第七地域旅団
 ・第十地域旅団
 ・第十二地域旅団
国防陸軍
・野戦第2軍団
 ・歩兵第4師団
 ・騎兵第8師団
・野戦第3軍団
 ・歩兵第7師団
 ・歩兵第9師団
 ・第1独立騎兵連隊
指揮官
・藤松昌樹陸軍大将
 ・五嶋秀雄陸軍少将
 ・梅村憲明機甲大佐
 ・成田正英歩兵大佐
 ・上地康平砲兵大佐
川原茂昭陸中将
髙橋晴雄陸少将†
吉田義紀少級陸将
長野浩由中級陸将
榊原康宏少級陸将†
柴田雅大少級陸将
阿部幸司一等陸佐

行方・鹿嶋で辛勝した国防軍であったが、主力となる機甲部隊の損耗は激しいものであった。しかしながら戦争の早期終結を目指す大統領らはサンダースクリーム作戦の続行を強く希望していた。そうして、まずは北西地方第二の都市である水砥を制圧する攻撃計画が練られた。水砥市は製造業が盛んであり、ここを奪取することで幕府軍の継戦能力を削ぐ目標があった。

7月20日、第8師団の第8装甲騎兵偵察中隊が威力偵察を実施し、市内に布陣する大規模の幕府軍や強制的に組織された市民軍の存在を初めて確認する。彼らは市民軍との意思疎通を図ったが、市民軍の背後には幕府軍の武官数名から構成される督戦隊がおり、結局市民軍から銃撃を受けてその場を退かざるを得なかった。

後方で報告を受けた野戦第2軍団長・川原中級陸将は、敵の防備が市民軍を交えたことで予想以上に強力になっていた点を鑑み、これに対処するため軍団主力を集中的に運用する必要があると判断した。国防軍は第4師団や第7師団を主力に、その他の部隊を支援・後方警戒に回し、翌21日夜明けに攻撃を開始した。

第4師団や第7師団で構成された部隊は、市民軍と小競り合いを繰り広げつつも、21日の午前9時には市内に進出していた。市内では予想されていた激しい抵抗も起きることはなかった。不審に思った第4師団と第7師団は第4・第7偵察中隊を隠密偵察に放ったが、前日に第8装甲騎兵偵察中隊が確認していた場所に幕府軍の姿は一切なかった。一晩で消えた敵軍にいぶかしみながら、両師団は郊外に布陣する市民軍と遠距離での銃撃戦を行った。ここで全面攻勢をかけて市民軍を殲滅するのは「国防」軍にとしては避けたいというのが、指揮官たちの本音であった。日付が変わるまでに市街地全てのクリアリングが完了し、物影からの奇襲を警戒していた国防軍は一息ついた。上層部は水砥に前線司令部を作り、瑞州第三の都市・埼武江州太刀川市の攻略までここに腰を落ち着けるように命じた。設営中の司令部には、野戦第2・第3軍のうち、第4師団長の髙橋陸少将と第7師団長の榊原陸少将が先行して到着した。

一方、幕府軍は20日までに水砥市の工業能力などを太刀川市などに移転させ終わっていた。市民軍を郊外に配置して水砥市中心部に国防軍をほぼ抵抗なしで入らせたのも、幕府軍が一晩で撤退したのも、全て国防軍に対する罠であった。

事態が動いたのは23日の午前7時である。野戦第2・第3軍の軍団司令部は当時、濃前州諏方市に置かれていたが、そこを目掛けて幕府軍が突っ込んできていた。攻勢をかけたのは東海地方北部にいた乙方面軍・第五戦車旅団と第十五・第十六地域旅団であった。彼らは国防軍の前線と司令部が離れることを見越して、南下して攻撃態勢に入っていたのである。この動きは同州三屋田市で後方警戒に当たっていた第8師団に察知されたが、防御陣地の構築も間に合っておらず、また乙方面軍は第8師団の撃滅ではなくその後ろを叩くことに専念していたため、第8師団は各所で分断された後、やすやすと防御線を突破されてしまった(三屋田の戦い)。

23日正午、丘谷-千野方面と上諏方-得木方面に部隊を二分した上で、幕府軍は同時に諏方市の国防軍司令部に対する攻撃を開始した。司令部は直ちに予備の第1独立騎兵連隊(一部部隊欠)を投入して反撃を試みたが苦戦を免れず、既に諏方市内にも幕府軍の砲弾が落下するなか、防御部隊は後退を開始した(諏方の戦い)。

司令部攻撃さる、の報を受け、後方警戒に当たっていた第9師団などは警戒地点から引き返していたが、機甲・歩兵の大規模諸兵科連合である乙方面軍に太刀打ちできるかどうかは微妙であった。また水砥市内の部隊にも動揺が走り、前線司令部では退くか退かないかで意見が対立していた。しばらく水砥から離れ撤退を偽装していた幕府軍はのろのろとした撤退運動を中止。急速反転し、23日午後2時から水砥市内は幕府軍の集中砲撃を受けた。建造物の損害を度外視したその砲撃により国防軍はたちまち恐慌状態に陥り、混乱の中前線司令部も砲撃を受け、師団高級幕僚が全員戦死するという悲劇が起こった。

幕府軍が水砥市に突入したのは午後3時30分ごろであった。国防軍は先刻の砲撃のせいで組織的な市街戦を行なう用意がなく、中隊以下の小規模部隊ごとに戦闘を展開した。第42対戦車砲中隊などの、幕府軍戦車に対する57mm対戦車砲および肉薄攻撃の攻撃は効果がなかったものの、第4独立高射自動火器大隊第1中隊が幕府軍戦闘機を撃墜することに成功した。一方、第73歩兵連隊第3大隊の一部部隊は、結樹市境において幕府軍戦車12両と歩兵部隊が市内に侵入しているのを発見し、肉薄攻撃を敢行したものの、戦車の破壊は確認できなかった。小御霊市境においては、第7武器整備中隊の将兵が最後まで抗戦し、生存者は遊撃戦に転じた。これら部隊の抵抗は組織化されてはいなかったが極めて頑強で、幕府軍は市境を突破したのちさらに中央部に進出するまでに10時間を要するほどであった。

撤退した部隊は多洗市や行方郡で再集結したが、司令部が攻撃されたという点と後退ルートが遮断されかけているという点を鑑み、これ以上常陸中州内での戦闘は不可能であると結論した。後退を始めた彼らであったが、それを許さない幕府軍の猛追を受けた。ただし幕府軍もこれに先立つ移転作業や偽装撤退、撤退からの急速反転で消耗しており、追撃も限定されたものになった。それでも第2・第3軍団が濃前州との州境を越えたときには40%が損害を受けており、ほとんど戦闘能力を喪失していた。しかしその後も常陸中州内においては、脱出の機会を逸した国防軍将兵が潜伏しており、ゲリラ戦を展開した後に脱出したりするなど個人単位での原隊復帰が続いたが、幕府軍に捕捉された例も多かった。

南三勢砲戦

南三勢砲戦
Battle of Minamisanze
年月日:1947年8月23日-25日
結果:瑞州国防軍の撤退成功。
交戦勢力
鹿毛川幕府軍
・第二歩兵師団
・第一○一騎兵師団
 ・第一騎兵旅団
・第五三戦車師団
 ・第五戦車旅団
国防陸軍
・野戦第1軍団
 ・歩兵第2師団
国防海軍
・第12駆逐隊
・第17駆逐隊
指揮官
・兒玉幸弘陸軍少将
・柳瀬孝徳陸軍少将
・谷山一正陸軍少将
藤井一樹中級陸将
富樫敏則少級陸将
久保井雅之一等海佐
安藤義洋一等海佐

南三勢砲戦とは、1947年8月23日から25日にかけて、三勢州南三勢市で起こった砲撃戦である。南下を進める幕府陸軍に対し、鳥羽・嶋方面に撤退する国防陸軍歩兵第2師団を支援するため、国防海軍第12駆逐隊・第17駆逐隊が洋上から支援砲撃を行った。

6月の内戦勃発後、歩兵第2師団は紀山州から出撃し、北上して三勢州南部や重賀州東部から幕府軍を駆逐していた。しかし体勢を立て直した幕府軍が反撃を始めると、前線や補給路が伸び、また幕府軍の物量もあって、歩兵第2師団は苦しい状況に置かれていた。師団長の富樫敏則少将は遊撃部隊である騎兵第8師団独立機甲第15旅団の増援派遣を再三上層部に具申していたが、彼らも別の戦闘線に従事しており、思うように動かすのは難しいことであった。7月中旬になると前線と本部の間を行き来していた輸送部隊が幕府軍に襲撃される事態も発生し、前線部隊が包囲されることを恐れた富樫は前線の後退を決断。三勢州から撤退し、新たに嶋海州の鳥羽・嶋市付近で敵軍を迎え撃つことに決定した。

そのために前線に展開していた部隊には撤退命令が下されたが、余裕のない状況下で撤退を始めたため、幕府軍・第二歩兵師団に撤退を察知されてしまった。展開していた第21戦闘団や第23戦闘団は彼らや増援の第一騎兵旅団・第五戦車旅団の猛追を受けながら撤退し、8月22日には州境の町である南三勢市に到達していた。

しかしながらここで撤退計画に誤算が生じる。軍事独裁を敷く鹿毛川幕府を恐れた南三勢の市長や住民らが、自分たちも一緒に嶋海州まで行きたいと申し出たのである。南三勢にはすでに他地域から逃れてきた東海地方北部の避難民で溢れており、南三勢もじきに陥落するなら、せめて陸軍に護衛されながら逃れたいということであった。鹿毛川幕府は7月1日には「居住地域からの逃散を禁止する」と表明しており、彼らに逆らって逃げたということが判明すれば、彼らの憲兵隊からどんな仕打ちを受けるか分からないため、住民や避難民は一刻も早く彼らから離れたがっていた。

富樫はこの申し出を受諾したが、それは部下に死ぬことを要請していることに変わりなかった。実際、州境での撤退作業中に前線部隊には都市部での遅滞戦闘が命じられたが、機甲・騎兵・歩兵の戦力を擁する幕府陸軍に対し、各戦闘団は少なくない被害を出している。それでも富樫は部下をやすやすと見捨てるような指揮官ではなかった。師団砲兵を効果的に運用したり、州防衛隊を民間人の撤退作業に動員した。この時富樫に突き動かされた国防軍司令部は、南三勢まで後退していた三勢州政府に対して州防衛隊の出動を掛け合ったが、州政府は「人手不足」を理由に断ったため、見かねた嶋海州が出動を申し出た。実際、居住地から避難しなかった住民も多く、住民たちから構成される三勢州防衛隊は完全に定員を満たさず、指揮系統も不明瞭であったが、後の調査によると三勢州の他地域からの避難民の中には撤退作業の支援に必要な人数は揃っていたとされる。この代わりとして嶋海州防衛隊と自主的に組織された「南三勢市防衛隊」が民間人の撤退を支援し、大きな混乱なく全員が州境を越えられたが、この件は後々まで尾を引き、戦後、南三勢市は自主的に嶋海州に編入された*10

また、富樫は上層部を強請って、海軍による対地砲撃支援の約束を取り付けた。この時、東海湾では北部の夜日市鎮守府から離脱し南下していた国防海軍の艦隊がいたが、命令を待たずして*11、嶋海州沖には2個駆逐隊が進出していた。富樫は彼らに攻撃命令を出せる指揮官の説得に成功したのである。

23日の昼間から、南三勢付近を射程範囲に収める距離に進出した第12駆逐隊・第17駆逐隊の駆逐艦による対地砲撃が開始された。これに気がついた第二歩兵師団砲兵部隊による応射も実施され、戦闘は次第に撃ち合いとなった。このとき、駆逐艦は弾着観測機を飛ばすことができないため、地上の第2師団が弾着観測を実施している。砲撃戦は休止を挟んで二日間にも及び、この砲撃戦の最中も歩兵第2師団は撤退を継続した。25日、両駆逐隊の全艦が砲弾を撃ち尽くしたところで撤退作業が完了した。

歩兵第2師団は少なくない損害を出したものの、どの部隊も全滅することなく撤退に成功した。一方、駆逐艦隊による砲撃を受けた第二歩兵師団ら幕府軍は、主要な攻撃の標的となった兵站部隊や砲兵部隊に被害が集中し、これ以上の前線の維持は難しいとして、第2師団の追撃は諦めざるを得なかった。この後、第2師団は嶋海州や海北駐屯地を拠点として戦闘を継続するが、体勢を立て直した幕府軍の進撃を止めることができず、10月から11月に掛けて紀山州南部まで後退した。

由螺-森山絶対防衛線

前線が突破されたことで一気に戦力を削がれた国防軍は、8月後半、紀山州の由螺市から近海州森山市を結ぶ由螺-森山絶対防衛線(Yura-Moriyama Definitely Defence Line)を構築し戦線の立て直しを図った。国政機関が密集しており、制圧が政治的にも大きな意味を持つ首都・瑞京府を死守するために、陣内は国防軍の全ての部隊にこの防衛線の堅持を命じた。

おおむね州境をなぞるこの防衛線は、いくつかの州境となる河川や山脈をなぞり、また遊撃部隊として戦線を補強し続けた騎兵第8師団(指揮官・郡山夏雄少将)の活躍もあり、幕府軍は紀山州由螺町から近海州森山市の間に引かれた防衛線の突破に数か月を費やした。その間、国防軍統合幕僚監部は瑞京の死守を最重要目標と設定、瑞京付近の部隊を一元的に指揮する「国防軍瑞京方面隊」を1947年10月に編成する一方で、陣内は瑞京府に緊急事態宣言を発令、一般市民の強制避難および一部政府機能の薩鹿州薩鹿川内への疎開を命じ、最悪の事態に備えた。

三洲・若山の戦い

1948年1月21日、幕府軍は紀山州若山市付近まで突出した国防軍の攻勢部隊を受け止めつつ、第五一戦車師団が岡豆州三洲市付近の防衛部隊の撃破に成功(三洲・若山の戦い)し、由螺-森山絶対防衛線が突破されるという事態が起こる。これにより国防軍は一気に瑞京まで攻め込まれる結果となった。

瑞京攻勢

由螺-森山絶対防衛線の突破を許した国防軍は、いよいよ首都瑞京府を死に物狂いで守らなければならない状況にまで追い込まれていた。対する幕府軍は、あと一歩のところで悲願である瑞京府を手中に収めることができると、兵站輸送網構築を軽視するような進撃速度で軍を進めた。

桜小路大佐の思惑

桜小路道徳は、古海幕府の重臣クラスの中でトップクラスの権勢を誇った五老家の内の一つ・桜小路氏を出自とする海軍大佐だった。旧軍時代、彼は航空機の先進性に着目し、「瑞州航空機研究会」を発足させ、集った同志と共に航空機運用の研究を日夜行っていた。このため、彼は陸軍と海軍がそれぞれ航空戦力を持っていること、即ち効果的な航空作戦の実施が難しいことに危機感を抱き、空軍の設立運動を瑞州航空機研究会のメンバーと繰り広げた。「桜小路派」と呼ばれた彼らは、しかし旧態依然とした参謀本部・軍令部の説得に失敗し、桜小路以下全員が左遷の憂き目に遭った。海軍軍令部付であった桜小路は海軍航空戦技教導隊隊長に就任したが、正面戦力に機体が引き抜かれており、この隊は実態として骨抜きの状態にあった。

鹿毛川幕府の成立時、彼は「将軍の武力を以って国を統べ、外患に対する備えとする」先軍政治を掲げた鹿毛川幕府の方針に共鳴し幕府軍に合流したが、内心では鹿毛川幕府の指導体制に不満を持っていた。五老家の出身故に、幕府の長たる大将軍には、正統性のある家系を出自とする人間が就くべきであり、決して退役陸軍元帥ごときに務まる職ではないと彼は考えていた。また鹿毛川幕府軍も旧軍の編成をほぼ引き継ぎ、陸軍と海軍がそれぞれ航空戦力を有することまで引き継いでいたため、彼の失望は頂点に達していた。しかし航空戦技教導隊隊長としてできることは少なく、内戦が勃発しても失意の日々を後方の基地で悶々と過ごす羽目に陥った。その最中、戦局の好転および戦域の拡大に伴い、彼は第六五海軍航空隊の空中指揮官として前線に配属され、時には自らも空戦に参加し、最終的に国防軍機を7機撃墜する戦果を挙げている。瑞京の戦いが始まる直前までに、彼は同海軍航空隊の司令官にまで出世していた。しかし、彼の心は晴れることはなかった。幾度となく自身は陸軍航空隊との協調に失敗しているのに、敵である国防軍は空軍を設立し、効果的な航空作戦を実施していた。さらに国防空軍を設立し初代航空幕僚長としてこれを指揮するのは、かつて瑞州航空機研究会の同志として肩を並べ、内戦前に国防軍に編入した宇佐美正隆上級空将だと聞き及ぶにあたり、彼の堪忍袋の緒はついに切れた。瑞京の戦いが始まる頃には、彼の精神状態は極度に悪化し、作戦会議や執務中に些細な部下の失態で怒鳴り散らすことが多くなったという。

それを見計らったのか、この頃から瑞州中央情報局が幕府軍内に送りこんだ工作員が桜小路への接触を開始した。この工作により、桜小路の敵意は国防軍や自身の部下にではなく、幕府上層部へと向けられた。瑞京の戦いにおいて、彼の部隊には近接航空支援任務が命じられていたが、彼の指揮は精彩を欠いており、結果として航空支援を得られない幕府軍は甚大な被害を被り、瑞京攻略に失敗した。この結果に幕府上層部は激怒し、桜小路の召喚および審問会の開催を決定。首都である鹿毛川市への出頭を命じたが、これが彼の、そして中央情報局の作戦であった。

鹿毛川事件

1948年9月2日、出頭を命じられた桜小路は、護衛編隊を伴いつつ自身も戦闘機で前線飛行場から飛び立った。操縦資格を持つ指揮官が移動の際に、少数の護衛機を伴う戦闘機を使うことは珍しくなかったが、しかし彼が引き連れた護衛編隊は通常(多くても4機)より3倍ほど多かった。この編隊は、途中で瑞州航空機研究会OBが司令を務める航空基地で補給を受けつつ、一路鹿毛川市へ向かった。

審問会の開始時刻になっても一向に現れない桜小路に対し、出席した幕府軍上層部がいら立ちを感じ始めていた頃、新垣と大屋、増地のトップ3名は「近衛師団の対空部隊が、友軍機から機銃掃射を受けた」という信じられない報告を伝令から受けた。幕閣閣議場の会議室の窓から、上層部の面々が市街地に目をやると、機影は認められなかったが、飛行機のエンジン駆動音や発砲音は確かに聞こえていた。それに気を取られ注意力が散漫となったのか、彼らは上空から響く、航空爆弾の投下音に気が付かなかった。戦闘機隊の一部から投下された爆弾は正確に幕閣閣議場の建物に着弾し、不発の数個を除く7個の爆弾が炸裂した。ダメージをもろに被った建物の柱は自重を支えきれなくなり、瞬く間に幕閣閣議場を崩壊させた。集まっていた幕府軍上層部は退避が遅れ、ほとんど全員が崩壊した建物の下敷きとなり死亡した。増地はすんでのところで瓦礫を回避し、幸運にも重傷で済んだものの寝たきりとなり、これ以降の政務の遂行は不可能となった。

幕府軍の戦略指揮機能を一挙粉砕した桜小路の部隊は、先んじて叩いておいたために近衛師団の対空部隊による反撃も受けることなく、故障不時着以外の損失をゼロのままに拠点へと帰投した。そしてこの数日後、彼や彼の部隊は国防軍に投降するも、ほとんど罪に問われることなく釈放され、今度は国防軍側として戦うこととなった。これも工作員による調略の成果だが、桜小路が調略に応じたのは、当時の瑞州中央情報局局長の説得が功を奏したともされる。この時の瑞州中央情報局局長は、桜小路家が主君として仰いできた古海幕府将軍家の出身である古海武尚が務めていた。主君からの説得となれば、桜小路も応じるしかなかった。

主導者を三人も失った幕府軍諸部隊は、「大老」職にあり、陸軍総裁を兼務していた鷲頭広隆(旧連邦軍では陸軍中将)を新たな大将軍として祭り上げた。しかし鷲頭には政治の才覚がまるでなく、支配地域の内政を担当していた増地子飼いの部下・神保憲二政事総裁らからの反感を買っていた。加えて、幕府軍内部での派閥抗争もあり、幕府軍の力は衰える一方であった(後述)。9月末には前線作戦指揮所での師団長レベルでの喧嘩があり、相手の態度に怒り狂った第五歩兵師団長の若佐幸祐陸軍少将が指揮下の部隊に撤収を命じている。

一方で弱体化した幕府軍を後目に、国防軍は戦力の回復に成功し、鹿毛川事件からしばらく経った後、本格的な反転攻勢が始まる。桜小路も国防軍としてこれに参加、戦後まで戦い抜き少将の階級で軍歴を終えた。戦後、彼は民間軍事会社「ショーグネイト」を設立し、払い下げられた軍用機を用い、主に空中戦仮想敵業務を請け負うようになったが、会社所有の航空機に「幕府空軍」と塗装するなど、叶わなかった夢を別の形で叶えた。

軍閥の形成と連邦の大反攻

鹿毛川事件による幕府上層部の壊滅の混乱は、瞬く間に幕府支配地域全土に波及した。鹿毛川幕府は先軍政治を掲げ、軍事指揮官たちに担当地域の行政権をも与えて統治に当たらせるという、封建制への回帰を段階的に実施していた。これは各地の地力を軍事に大幅に注ぎ、外患に備えるという意義があり、当初こそカリスマ性のある増地がトップの大将軍となることで外患にまとまって対処するという方針を達することができていた。しかし増地が鹿毛川事件で重傷を負い、これ以降の政務の続行が不可能となると、軍事指揮官たちの関心は如何に自分が力を蓄えて支配領域を広げるかという方向へシフトしていった。

増地の後任となる大将軍の選定は、当時北瑞州各地に派遣されていた軍事指揮官たちの合議によって行われたが、前線で国防軍と相対していた前線の指揮官たちはこの決定に参加することができず、このときの遺恨が後の大分裂の遠因となった。またこの合議においても、増地の下で大老職にあり、陸軍総裁を兼務していた鷲頭広隆が大将軍に選出されたことに不満を持った派閥もあり、次第に彼らは私兵化した幕府軍部隊同士での武力衝突に身を投じていくことになる。

ジャイアントキリング作戦

ジャイアントキリング作戦
Operation Giant Killing
年月日:1948年9月5日
結果:幕府軍第一、第二独立対空戦車中隊の壊滅。
交戦勢力
鹿毛川幕府軍
・第一独立対空戦車中隊
・第二独立対空戦車中隊
国防陸軍&
特戦第18旅団
 ・第3レンジャー大隊
指揮官
・矢野嘉昭機甲少佐
・大塚金太郎機甲少佐†
本馬毅一等陸佐
酒田健三郎二等陸佐

幕府軍は新兵器のI号重対空戦車を完成させ、瑞京攻勢のさなか、第一・第二の独立対空戦車中隊に配備していた。8.8cm高射砲を連装としたこの車両は対空・対地攻撃に猛威を振るい、国防陸軍や国防空軍の近接航空支援機を苦しめた。一方で、瑞州情報局(ZIA)はこの新兵器の存在を既に把握しており、対峙するであろう前線部隊への通達は行ってこそいたが、予想を上回る威力に前線は手も足も出ず困り果てていた。I号重対空戦車は機動力こそ壊滅的であるが、ベースになった試製XLVI号超重戦車譲りの堅牢な装甲に、8.8cm高射砲の凄まじい攻撃力はそれを補って余りあるものだった。瑞京への攻勢へを少しでも食い止めようとすれば、I号重対空戦車により未帰還車・未帰還機が多数出るという状況に、防衛司令部は悩ませられていた。

状況が変わったのは1948年9月2日、鹿毛川事件の直後である。内通者の指導者への直接的な奇襲という事態に際し、瑞京攻勢を担当していた幕府軍は浮足立った。ZIAはその隙を見逃さず、以前から計画していた、自組織と陸軍コマンド部隊の連携によるI号重対空戦車隊の無力化を目標とする計画を軍上層部に提出。調整の後、翌3日朝には計画の承認が降り、ジャイアントキリング作戦として関係諸部隊に通達された。実行部隊として、敵による被害が少なく、精鋭中の精鋭と判断された特戦第18旅団・第3レンジャー大隊が選択された。

3日夜には、瑞京府防衛のために各所に伏兵として配されていた第3大隊の隊員やZIAの局員たちが府中央部に集められ、疎開先の薩鹿川内市から急行してきたZIAの運用指揮官(蟹江相馬作戦本部次長)から作戦の説明を受けた。分散配置されていた第3大隊だったが、これは第1・第2・第4大隊とのローテーション配置であり、暇があれば敵部隊指揮所の隠密強襲・無力化の演習を行っており、蟹江が求める作戦の遂行にはうってつけの部隊であった。酒田健三郎二佐ら大隊本部との話し合いの結果、実行は5日夜と決定された。

幕府軍第一独立対空戦車中隊は岡豆州と京東区の境に、第二独立対空戦車中隊は東岡豆市南部に展開し、国防軍の瑞京守備隊を東西から圧迫していた。酒田は大隊指揮下の4個中隊を二手に分け、これらへの同時刻での攻撃を命じた。これは、片方だけ攻撃すれば通報され、もう片方が掩護に駆け付けるかもしれないという予測からの命令であり、各個撃破のリスクを取ってでも酒田は同時殲滅に拘った。一方でレンジャー中隊全滅の場合に備え、酒田は上官の本馬旅団長に対し、他レンジャー大隊の後備を要請している。

5日の21時00分、全中隊が配置についたとの報告を聞き、酒田と蟹江は作戦開始の命令を下した。両独立対空戦車中隊の野外司令部は突然の襲撃にパニックに陥り、混迷の中で大塚少佐(第二中隊長)が狙撃され戦死した。機甲部隊ではなくコマンド部隊の近接強襲に、I号重対空戦車隊はなす術もなかった。そもそも乗員が乗り込むところを狙い撃ちされたりなど、戦車を動かすこともままならず、それでもなんとか車両に乗り込んだ兵士による機銃掃射によってわずかに数名のレンジャー隊員を殺傷したのみであった。それでも白兵戦で幕府軍はよく耐えていたが、形成不利とみた矢野少佐(第一中隊長)と滝野少佐(第二中隊副長)は、それぞれ21時42分、22時01分までにI号重対空戦車の爆破および撤退を命令した。しかしながら、幕府軍の不十分な補給体制では、I号重対空戦車の自爆に対して十分な量の爆薬の確保にさえ失敗し、撤退に失敗した両中隊の大多数の隊員たちと共に捕らえられてしまった。

I号重対空戦車は、総生産輌・総配備数22輌のうち1輌がジャイアントキリング作戦に先立つ戦車戦の中で撃破、3輌が故障により前線放棄とされていたものの、作戦の結果として6輌が自爆の後に大破・走行不能、残りの12輌は国防軍に無傷のまま鹵獲された。鹵獲されたI号重対空戦車は試製48式対空戦車と改称され、その威力に注目していた陸軍は試験部隊で運用・整備方針を確立しつつ順次反抗作戦に投入、と予定した。しかし輸送中に終戦を迎え、48式が前線へ姿を現すことは遂になかった。

この作戦の成功は、苦しいところで耐え抜いていた国防軍守備部隊を奮い立たせ、後の反攻作戦に繋がっていった。








国防軍瑞京方面隊には、旧陸軍航空隊の首都防空軍団から改編された首都航空集団(国防空軍)、旧陸軍の近衛師団から改編された山岳第3師団、担当地域から撤退してきた歩兵第4師団などが隷下として含まれていた。瑞州全土から集まった部隊を統合し、物量に勝る幕府軍に対して、旧首都防空集団の独立飛行中隊には「首都防空」という至上命令のもと全国から集められた腕利きの飛行機乗りたちが揃っており、それをそのまま指揮下部隊として編入した首都航空集団は、数の差をひっくり返すような大きな戦力を有していた。それを裏付けるように、首都航空集団からは5機以上の撃墜で認められるエースパイロットが多数輩出された。

内戦時に5機以上を撃墜したエースパイロットは以下の通り。

+ ...
氏名 陣営 所属 搭乗機 撃墜数 備考
雪野明信 国防軍 首都航空集団・第5飛行中隊 I-1 47機 内戦を通じてのトップエース。旧軍所属時には五式戦に搭乗していた時期もある。戦後国防海軍に転属、VF-61に所属した。通称は「シュネー(ドイツ語で雪の意)」。
赤羽俊典 国防軍 首都航空集団・第4飛行中隊 I-1 45機 旧軍所属時には六式戦に搭乗していた時期もある。ある戦闘で被弾し右翼端を喪失、バランスを崩しながらも1機を撃墜して帰還した。これ以降彼は自らの名前に因んで、自分の機体の左翼端を赤色に塗装した。通称は「アカバネ」「レッドウィング」。
服巻益男 国防軍 首都航空集団・第4飛行中隊 I-1 32機
大角知人 国防軍 首都航空集団・第3飛行中隊 I-2 28機 I-2でのトップエース。
陣野原正満 連邦軍 飛行第四師団・第十二戦闘戦隊 四式戦闘機 25機 連邦軍のトップエース。連邦軍の中でも突出して撃墜数が多く、彼を危険視したZIAの工作員により暗殺されかかる(未遂)。後に特殊作戦「ロビンフッド作戦」において、エースパイロットのみを集め彼を殺害することのみを目的とした特殊飛行隊によって撃墜され、戦死。通称は「焼野原」。
緋村広信 国防軍 首都航空集団・第3飛行中隊 I-2 21機
眞部清吾 国防軍 首都航空集団・第1飛行中隊 I-1 20機
漆山徹朗 国防軍 首都航空集団・第6夜戦飛行中隊 I-1 20機 夜戦に長けたパイロットで、装備レーダーと自身の目によって夜間の奇襲を行った。自身の機体を黒塗りにしていたことで知られる。通称は「漆塗りのテツ」「黒い死神」。
白浦博治 国防軍 首都航空集団・第101戦闘飛行隊 F-1 16機 ジェット機におけるトップエース。通称は「高速のエース」。
植岡和三 国防軍 首都航空集団・第102戦闘飛行隊 F-1 14機 F-1の初撃墜を記録。通称は「一番槍」。
川辺隼人 国防軍 首都航空集団・第3飛行中隊 I-2 12.5機 共同撃墜1。空戦がしたいがために上司に直談判して国防海軍航空隊から国防空軍へ転属した異色の経歴の持ち主。通称は「ルフトピラート」(Luftpirat、空賊)。
志々目隆典 国防軍 首都航空集団・第1飛行中隊 I-1 10機 第1飛行中隊長。指揮官機区別用の線を機体に描いた最初の人物で、後に敵機に取り囲まれて撃墜され戦死した。司令部は指揮官機区別線をやめさせるかどうかで悩んだが、結局他の指揮官も志々目に倣って線を描いた。通称は「二本線」。
倉脇武昭 国防軍 首都航空集団・第102戦闘飛行隊 F-1 10機
芦塚茂男 連邦軍 飛行第九師団・第十戦闘戦隊 六式戦闘機 9機
新貝信久 連邦軍 飛行第十一師団・第四十五戦闘戦隊 七式戦闘機 8.5機 第二飛行中隊長。戦隊・師団司令部の方針に逆らい部下ごと連邦軍に残留、連邦軍側の第四・第九師団に合流して戦闘に参加した。通称は「稲妻一条」。
春崎喜範 国防軍 第3空母航空群・VF-25 I-3 7機 国防海軍のトップエース。うち5機は旧軍の哨戒機。
津花文吉 国防軍 首都航空集団・第101戦闘飛行隊 F-1 7機
和佐田正高 国防軍 首都航空集団・第5飛行中隊 I-1 6機
森矢靖孝 国防軍 首都航空集団・第2飛行中隊 I-1 5機 第2中隊は地上攻撃に従事していたが、自身も空戦で5機を撃墜している。うち3機は空対地ロケットでの撃墜であるから、ロケットアローという通称が付いた。
神之田寿明 国防軍 首都航空集団・第5飛行中隊 I-1 5機
坂江桂 連邦軍 飛行第九師団・第十戦闘戦隊 六式戦闘機 5機

国防省包囲戦

迫る幕府軍を前に、避難する市民や政府の護衛は南州地方などの後方部隊が担当し、国防軍瑞京部隊は彼らの撤退が完了するまで時間稼ぎを行うことを余儀なくされた。3月から5月まで瑞京府内では激しい市街戦が展開され、内戦直前に急造された愛宕・高瀬の両駐屯地は5月中旬までに幕府陸軍に制圧されてしまった。この時点で瑞京部隊の指揮決定上層部は薩鹿川内に脱出しており、愛宕・高瀬が陥落した時点で「瑞京部隊」として動くことは永久に不可能となった。

この時点で瑞京府内に残る国防軍の施設は国防省八幡地区だけであったが、地下に張り巡らされたトンネルや地下指揮所の頑丈な構造もあり、攻め込んできた幕府軍を度々撃退している。一方で地下トンネルの一部が連邦軍の火炎放射器によって焼き払われ、降伏を宣言していた国防軍の一部部隊が虐殺されるという悲劇も起こった( 第四五トンネル事件 )。

国防省八幡地区の難攻不落さに手を焼いた幕府軍は、正面切っての攻勢を掛けるのではなく、同地区を包囲し、時間を掛けてこの地に立てこもる国防軍の一掃を図った。八幡地区やその付近には騎兵第8師団や山岳第3師団の戦闘部隊が居残ったままであり、彼らは降伏する気は一切なかった。この時、駐屯地防衛のための指揮系統がバラバラだと防衛に不備が出かねないという懸念から、防備統合司令部が残存部隊で結成され、地区内の全部隊がこの司令部の決定に従うものとした。6月13日、防備統合司令官に就任した諸隈伸弘陸少将(駐屯地内で最先任)は、全部隊に向けて演説を行った。

──平和を守るという使命を忘れ、単なる戦争屋と成り下がった奴らは、もはや軍人、同国民ですらない。躊躇することはない。

その言葉に裏打ちされたように、八幡地区の防衛部隊は躊躇することなく攻め手の幕府軍を猛撃し、多大な損害を与え続けていた。薩鹿川内に後退した国防軍総司令部にも同地区の現状が伝えられるやいなや、ただちに救援部隊が送り込まれたが、それは幕府軍の包囲陣に阻まれていた。しかしながら制空権は国防軍が維持しており、付近の飛行場から発進した戦闘機や攻撃機によっても幕府軍の被害は拡大していた。背後に山を戴いた同地区は、守るに易く攻めるに難い土地であり、軍内の厭戦気分もあって、一か月を包囲に費やすも、連邦軍はついに攻め落とすことができなかった。

6月21日、防備統合司令部は幕府軍が攻勢に出ないと見るや、攻撃計画を策定し、比較的包囲の手薄な山を夜陰に乗じて通り、包囲陣を背後から急襲することで包囲を破ることを目指した。厭戦気分が広がっている幕府軍将兵に精神的なダメージを与えることも目的であった。この作戦は月の出ない日に行うことが決定され、実行部隊には山岳戦に特化した山岳第3師団の部隊が選ばれた。

23日の深夜に作戦は決行され、実行部隊は包囲軍に気付かれることなく山を通過、翌24日の午前1時に包囲側の部隊を急襲した。突然の襲撃に慌てふためいた幕府軍はまともな迎撃さえできず、大損害を被った。これに呼応して防備統合部隊の全部隊が出撃し、包囲を突破、大混乱に陥る幕府軍に第二撃を与えた後、悠々と包囲を突破し国防軍の勢力範囲内まで後退した。連邦軍の面目は丸つぶれとなり、この包囲戦を指揮していた池羽公一郎中将以下4名は利敵行為を行ったとして、十分な裁判もないままに銃殺刑に処されている。

幕府軍に手痛い損害を与え、大多数の戦力が包囲を突破することに成功したことは、結果として瑞州合衆国連邦に大きなアドバンテージを与えたが、一方で瑞京を失陥したことに変わりなく、戦線は依然として幕府優位の状況にあった。

エンド・オブ・ドリーム作戦

カラフトマス作戦成功後、主導者を失った幕府は一気に勢力が減退し戦線を押し戻された。幕府軍も戦略的な機動を封じられ、各駐屯地から国防軍を各々で迎撃しに行くことで精一杯であった。これを好機と見た合衆国連邦は、国防軍の大規模反攻作戦「 エンド・オブ・ドリーム作戦 」を10月に発令した。

ミルキーウェイ作戦

ミルキーウェイ作戦
Operation Milkyway
年月日 :1948年11月30日-1949年1月4日
場所
瑞州合衆国連邦
大西洋
結果 :瑞州国防軍の上陸成功。北海半島への橋頭保構築。
交戦勢力
鹿毛川幕府軍
・第五歩兵師団
・第一地域旅団
・第二地域旅団
・第三地域旅団
・第四地域旅団
・第五地域旅団
国防陸軍
歩兵第4師団
 ・第41歩兵連隊
 ・第43歩兵連隊
 ・第4砲兵連隊
 ・その他師団支援部隊
第15独立機甲連隊
特戦第18旅団
空挺第10師団
国防海軍
・第1艦隊
 ・第1空母戦闘群
 ・第3空母戦闘群
 ・第4空母戦闘群
指揮官
・若佐幸祐陸軍少将
・中村康敏歩兵大佐
・谷山一正歩兵大佐
・竹尾直紀歩兵大佐
・森田雅歩兵大佐
吉野誠司陸少将
遠藤宏紀一等陸佐
笠原信一一等陸佐
前田健雄陸少将

ミルキーウェイ作戦 とは、国防軍の大規模反抗作戦「エンド・オブ・ドリーム作戦」中の作戦である。北海半島の上陸、敵防衛部隊の撃滅を主目標としており、1948年末にはほとんど達成した。

ミルキーウェイ作戦は、主作戦である ミルキーウェイ (作戦行動中はM作戦と呼称)、副作戦である 大マゼラン (同、D作戦)と 小マゼラン (同、S作戦)によって構成される。M作戦に先立って行われたS作戦では、北海半島南部(岩陸州上空)の制空権を奪取・鹿毛川幕府軍の哨戒機・戦闘機部隊を破壊し空からの目を奪うことを目標とした。D作戦では沿岸の灯台や哨戒所・要塞・砲台を破壊し、地上からの目を奪うことを目標としていたが、これをM作戦に先立って行うと、国防軍の上陸計画が露呈するため、D作戦はM作戦と同時に行われた。またこの作戦全体を指揮した松村義人陸中将は念には念を入れて、敢えて上陸まで最短距離の航路である北海湾を通らず、北海半島の太平洋側まで回り込んでからの上陸を決断した。揚陸艦や輸送船団は鈍足であるため、本来これは敵艦や哨戒機等に捕捉され撃退される自殺行為である。しかし既に旧海軍の艦艇は全艦が国防軍についており、また小マゼラン作戦の成功もあって、制空権・制海権を完全に自分のものとしていたからこそ、松村はこの決断を下した。また、今までは中央地方の前線に戦力を貼り付けざるを得なかったのが、9月に幕府陸軍第五歩兵師団が喧嘩騒ぎで前線から離脱していたこともあり、多少余裕があったからこその決断とも言える。第五歩兵師団は国防軍が今から攻める北海半島を管轄地域としており、本隊から離れたところを一気に叩く狙いもあった。

1948年12月11日がM・D両作戦の出立日となった。早朝5時に新徳海軍基地やその他多くの港湾から出撃した、揚陸部隊を内包する第1艦隊の規模は、異常なほど大きく膨れ上がっていた。彼らは沖合で合流し、一路太平洋を目指した。翌12日、北海半島の太平洋側の沖合に到達した艦隊は、D作戦を行う第3空母戦闘群(旗艦:CV-06 やくも)と第4空母戦闘群(旗艦:CV-04 おわり)を離脱させた。彼らはその艦載航空機部隊と隷下の巡洋艦・駆逐艦隊を以て敵の地上の目を奪うことを企図していた。第1空母戦闘群(旗艦:CV-02 つくし)は第1艦隊本隊の露払いの任に就いた。第1艦隊は岩陸州氷山市に向かって突き進んでいった。

12日の午前8時からM・D両作戦が発動、攻撃と揚陸が開始された。海岸沿いに配置されていた灯台などの監視網は、空母から発進した戦闘機や攻撃機、巡洋艦・駆逐艦隊の対地攻撃により無力化された。いくつかの哨戒所や砲台からは敵艦隊現ると第五歩兵師団司令部などに通報していたが、艦隊陣形の中央にいた揚陸部隊を見る前に、その全てが沈黙した。そのため第五師団は敵艦隊が水上打撃部隊のみであると誤解し、沿岸砲兵部隊の掩護のために第二四歩兵連隊(仙代)が急行したものの、師団全体が上陸阻止に動くのは大きく遅れた*12

正午から上陸は開始され、歩兵第4師団や第15独立機甲連隊などで構成された上陸部隊と、阻止に動いた第二四歩兵連隊と第一地域旅団(仙代、輜重兵で構成されるが最低限の戦力を急派した)、駆け付けた第二地域旅団(秋羽州鶴丘)との間で戦闘となった。戦闘は機甲戦力を擁する国防軍側に優位に進み、夜間までには全部隊の上陸が終了していた。翌日までに第二四歩兵連隊や第一・第二地域旅団は不利を悟って後退、第五師団本隊が追い付いてくることや氷山以南に配置されていた部隊が上陸部隊の裏から奇襲することを祈った。しかしその目論見は、上陸戦開始数時間後に最南端の町・若松市に空挺降下した特戦第18旅団や空挺第10師団によって粉砕されていた。結局12日・13日の二日間で、第五師団などの鹿毛川幕府軍各部隊は、岩陸州第2の都市・氷山市をはじめとした9市を立て続けに失ったのである。

岩陸州にはまだ服島市や仙代市といった要地があったものの、これらに近い航空部隊基地である大埼飛行場は既に沈黙し、第五歩兵師団ら幕府陸軍は航空掩護の少ないままの防衛線を行わざるを得なかった。怒涛の勢いで進撃する国防軍を前に、服島市は12月19日に陥落。勢いに乗った国防軍は23日には大埼飛行場を陸上制圧し、恒久的な航空拠点を獲得。沖合に展開する空母の艦載部隊が大埼からも出撃できるようになったという状況は、国防軍にとって大きなアドバンテージであった。仙代市に残る第五歩兵師団など幕府陸軍への攻撃準備は着々と進められていった。

年の瀬も迫る30日、年末年始も返上で国防軍による仙代攻略が開始。市街戦となって仙代市の各所でがれきが積みあがっていく中、第五歩兵師団などはよく持ち堪えたものの、結局1月3日までに越野州まで撤退。州政府官庁街を掌握した国防軍は、翌日に岩陸州の解放を宣言した。

三郷の戦い

三郷の戦い
Battle of Misato
年月日 :1949年1月14日-20日
結果 :瑞州国防海軍の拠点確保。
交戦勢力
鹿毛川幕府軍
・第五歩兵師団
・第一地域旅団
・第二地域旅団
・第三地域旅団
・第四地域旅団
・第五地域旅団
国防陸軍
歩兵第4師団
 ・第41歩兵連隊
 ・第43歩兵連隊
 ・第4砲兵連隊
 ・その他師団支援部隊
第15独立機甲連隊
特戦第18旅団
空挺第10師団
国防海軍
・第1艦隊
 ・第1空母戦闘群
 ・第3空母戦闘群
 ・第4空母戦闘群
指揮官
・若佐幸祐陸軍少将†
・中村康敏歩兵大佐
・谷山一正歩兵大佐†
・竹尾直紀歩兵大佐
・森田雅歩兵大佐
吉野誠司陸少将
遠藤宏紀一等陸佐
笠原信一一等陸佐
前田健雄陸少将

岩陸州を失陥した第五歩兵師団ら幕府陸軍は、当初越野州の絶対的防衛を主眼に部隊を再配置していたが、越野州北部の三郷鎮守府を奪取されると戦況が一気に国防軍有利へと傾くため、越野州北部を集中的に守る態勢を取った。そのため越野州南部に展開していた第五歩兵師団や第一・第二地域旅団は北上、第三・第四・第五地域旅団と合流し、国防軍は抵抗のないまま越野州を北上していった。

1949年1月10日、ミルキーウェイ作戦に参加後、越野州を北上していた各部隊に「三郷鎮守府の制圧」という任務が通達された。由李湾に作られたこの鎮守府を奪取すれば、海軍艦艇の恒久的な基地を獲得できるため、この先も国防海軍による支援を必要としていた国防陸軍にとっては、ぜひとも奪い取っておきたい基地であった。司令部では、その日のうちに攻撃計画が策定された。

13日、州高速道路などをフルに活用して展開を終えた国防軍は、翌日から攻撃を開始した。戦闘は主に三郷市を擁する由李県で行われ、待ち構えていた幕府陸軍と交戦した。第4師団は三郷市の南の横出市から、第15連隊は東の本荘市から突入、第18旅団や第10師団は守りが手薄な由李湾北部に侵入し、湾を取り囲んだり侵入を許さないように配置されていた砲兵陣地・哨戒所を19日までに全て制圧した。本荘市では15日の戦車戦に打ち勝った第15連隊が防衛線を突破、三郷鎮守府へ目と鼻の先まで迫った。また、第一艦隊ではミルキーウェイ作戦で主砲弾を撃ち尽くし帰投した艦や、帰投する揚陸部隊の護衛についた艦もあって、戦力は以前より減っていた。それでも第一艦隊は残った艦で地上部隊の支援を続けた。

一方、敵の主力を相手取った第4師団は苦戦していた。鎮守府の制圧・占領には歩兵部隊が必要不可欠であるが、そうはさせないと、幕府陸軍は徹底的な防御戦闘を行ったのである。前線視察中の若佐幸祐陸軍少将(第五歩兵師団長)や前線指揮を執っていた谷山一正歩兵大佐(第三地域旅団長)が狙撃によって戦死するなどの激戦となった。しかし、18日には消耗した幕府陸軍を第4師団が突破。指揮官を失っていた第五歩兵師団や第三地域旅団は指揮系統が崩壊し、各隷下部隊長の権限で降伏する部隊も続出した。第四・第五地域旅団は国防軍に囲まれる前に戦場を離脱できたが、取り囲まれてしまった第二地域旅団は旅団全てを挙げて降伏せざるを得なかった。

鎮守府の守備兵力には、艦隊とは異なって旧軍残留を選んだ三郷鎮守府海兵団や陸戦隊(防備隊)がいた。彼らは湾や鎮守府を背後に、三郷市内に進撃してきた国防軍と向かい合ったものの、湾内に突入してきた第一艦隊から砲撃を受け、部隊や鎮守府施設に甚大な被害が及んだ。彼らは必死に抵抗したものの、新兵教育・隊員補充・拠点警備を元来の任務とする海兵団では国防軍の前線部隊との力量の差も激しく、20日夜までには全部隊が降伏した。

半壊した鎮守府を制圧した歩兵第4師団等の工兵部隊は、すぐさま鎮守府の港湾設備の復旧に当たった。

3月までに幕府全部隊が国防軍に鎮圧され、鹿毛川幕府は完全に瓦解した。3月10日、古屋は完全な戦闘の終息宣言を発し、ここに瑞州内戦は終わりを告げた。

戦後

1949年末までに、国防軍を支持しなかったり、鹿毛川幕府に参加した陸軍省・海軍省の役人や軍人は全員が内乱罪などで逮捕・起訴され、両省は解体された。彼らは釈放後も公職に就くことは制限され、この公職追放が撤廃されるのは1960年初頭まで待つことになる。

国防軍では旧軍の暴走の反省から、陸軍省や海軍省などの軍種ごとに軍政を司る役所は消滅し、陸軍大臣や海軍大臣のポストも廃止され、国防大臣には現役の武官ではなく、文民が配されることとなった(文民統制)。一方で、叛乱軍の掃討に一役買った国防軍は政治的影響力を獲得しており、完全なる文民統制が機能するのは、1954年の第二次古屋内閣による改正国防軍法の成立以降である。同法で現役武官の政治的行為はほとんど制限された。

海兵隊については、軍政面から見ると海軍省下の部局に過ぎず、政治的影響力もないに等しかったため、そのまま国防省下の部局となった。軍令面では国防軍法によって単独の軍としての独立性が保障されていることから、指揮系統において国防省内では海軍と並列になっている。こうして陸軍・海軍・空軍・海兵隊の並立の関係性が生まれた。

国防軍が勝利をおさめた一方で、国防軍は緒戦で敗北が続き、いくつかの地域を失陥するという失態を演じていた。そのために国防軍は、戦後しばらくの間、国民には歓迎されないという事態も起きている。

年表

  • 1945年
    • 7月
      • 5日:横山良一大統領が辞任を表明。
      • 22日:大統領選挙で古屋祥平が当選。
    • 8月
      • 12日:八・一二事件。陸軍大臣・中谷孝明(陸軍大将)、海軍大臣・竹内隆文が殺害される。責任を取らされて新垣道雄陸軍参謀総長、大屋太一郎海軍軍令部長が罷免、公職追放。
    • 9月:軍部大臣現役武官制廃止。
  • 1946年
    • 1月:国防軍法、国家安全保障法が臨時議会で制定。
    • 3月:陸軍省、海軍省が廃止。
    • 4月:臨時に国防軍が編成。旧軍からの移管・編入作業を行う。
  • 1947年
    • 4月:国防軍法、国家安全保障法が施行。大統領府国防部から国防省に昇格。正式に国防軍が編成される。
    • 6月
      • 17日:増地保幸を最高指導者とする鹿毛川幕府が瑞州北部に成立。瑞州内戦が開始。国防軍がサンダースクリーム作戦を発動。
    • 8月
      • 23日:南三勢砲戦。撤退する国防陸軍歩兵第2師団・現地住民を、国防海軍第12駆逐隊・第17駆逐隊が掩護。
      • 25日:南三勢砲戦が終了し、歩兵第2師団が撤退に成功。
    • 10月
      • 1日:瑞京府の絶対死守を任務とする国防軍瑞京方面隊が編成される。
  • 1948年
    • 1月
      • 21日:三洲・若山の戦いで由螺-森山絶対防衛線が鹿毛川幕府軍に突破される。
    • 3月
      • 18日:国防省包囲戦(八幡の戦い)が開始。
      • 31日:瑞京府内の愛宕駐屯地が陥落。
    • 5月
      • 10日:瑞京府内の高瀬駐屯地が陥落。
      • 23日:第四五トンネル事件。
    • 6月
      • 13日:防備統合司令部が結成、瑞京府内に包囲された国防軍全部隊を指揮下におく。
      • 23日:防備統合司令部による包囲脱出作戦が決行。鹿毛川幕府軍に損害を与えつつ、全部隊が合衆国連邦勢力範囲まで後退。
    • 7月
      • 1日:防備統合司令部が正式に解散。
    • 9月
      • 2日:瑞州中央情報局(ZIA)によるカラフトマス作戦が決行。新垣道雄、増地保幸が殺害され、大屋太一郎が逮捕される。
    • 10月
      • 3日:国防軍によるリメンバー作戦が決行。
  • 1949年
    • 3月
      • 10日:完全な戦闘の終息宣言が古屋大統領により発される。
最終更新:2025年08月22日 21:28

*1 しかしながら後年、甚野は軍部に暗殺を依頼されたヒットマンであると自供している。

*2 少佐、海軍新徳鎮守府司令部勤務。

*3 少佐、陸軍首都防衛本部勤務。

*4 少佐、海軍新徳鎮守府司令部勤務。

*5 少佐、陸軍首都防衛本部勤務。

*6 軍事・内政の全権を掌握する政権の最高権力者の官位。

*7 以後、旧連邦軍を鹿毛川幕府軍ないし幕府軍と表記する。

*8 しかしながら、鹿毛川幕府が退役''陸軍''元帥によって主導されることもあり、旧陸軍への反発心の強かった旧海軍の全艦艇は新国防軍への帰順を表明しており、各鎮守府所属の陸上部隊はともかく、海上戦力として鹿毛川幕府海軍に参加した艦は1つもなかった。後に鹿毛川幕府海軍による鎮守府の接収が行われたが、艦隊は1つ残らず脱出しており、彼らは南下して国防軍の海軍基地に移動している。

*9 旧地域旅団から改編された部隊。前線に兵力を供出したため規模は旅団未満となった。代表的な部隊には紀山兵団や尾治兵団がある。

*10 編入に際し、三勢州政府から訴えが提起され、三勢裁判所は州からの離脱は州憲法に違反するという結論を示した。しかし裁判は連邦裁判所まで持ち込まれ、結局州が市に対し必要な義務を果たしていない他、州からの離脱を規定した条文も無効であるとの判決が下された。

*11 第12駆逐隊司令の久保井一佐が第2師団の通信を傍受しており、三勢州南部出身ということもあっていてもたってもいられず、第17駆逐隊司令の安藤一佐もそれに同調した形。艦隊司令官はこれを黙認。

*12 ただし開戦前に、第五師団では第十歩兵連隊が師団決定に抗命して鹿毛川幕府軍指揮下から離れており、本来岩陸州と秋羽州に配置されている1個旅団2個歩兵連隊の内の1個がなくなっていたことに留意すべきである。