<区域内の全権限の掌握を開始します>
赤ボタンを押した大統領の耳を、抑揚のない合成音声が貫くと同時に、執務室の片隅にある大きな本棚がズリズリと移動し、やがて隠し通路が露となる。
「男の子はこういうのが好きなんだよな、もう少し成長したら、あの子にも見せてやればよかったか……」
そう独り言ちて、大統領は自らを笑った。二度と叶わぬ夢、二度と会えぬ息子。この大事なときに、自ら手放した未来を想像するな。
やることは決まっている。本棚の隠し通路に足を踏み入れると、再び合成音声が鳴り響いた。
<生体認証開始>
明かりのついていなかった暗闇の通路に、両側から光の線が照射される。その光は上下左右に自在に動き、大統領を舐め回すように値踏みする。
<──認証終了。以後、『ホープガードシステム』は大統領閣下の指揮下に入ります。コントロール・ルームへどうぞ>
暗闇の通路に、赤色のランプが輝き、大統領を薄い赤色に染めた。後ろでは本棚が元の位置へ戻ろうと、再びズリズリ動くが、大統領は振り返ることがなかった。
やがて通路を抜け、少し広いコントロール・ルームに達した。
<警備システム、掌握>
<光学監視システム、掌握>
<レーダーシステム、掌握>
<火器管制システム、オンライン>
あちこちから合成音声が響いてくるが、大統領は聞いていないのか、気にする様子もなく中央に置かれた「コントローラー・シート」に座った。
<指揮官の着席を確認。ヘッドセットを装着します。動かないでください>
コントローラー・シートに据え付けられたアームが動き、器用に大統領の頭にヘッドセットを装着する。主に空軍のステルス戦闘機などが用いているヘッドマウントディスプレイとほぼ同型だが、『ホープガードシステム』用に調整が加えられている特注型だ。
<最終武装システム、オンライン。ホープガード、起動>
起動の宣言と同時に、ヘッドマウントディスプレイに映像が表示される。瑞州の国章と、『Hope Guard System ver.5.6』の文字が浮かんで消える。やがてヘッドマウントディスプレイは、大統領府から見た外の風景を投影した。
ホープガードシステム──それは、大統領府を守備するシステムを、一個人が一括で制御するための最終安全装置である。外部の監視カメラや小型レーダーを用いて取得した情報をヘッドセットに伝達することで、視覚的に状況判断を行えるようにするなど、多くの機能が搭載されている。
本来はホープヒル[(*1)]に突撃してくるテロリストたちを迎撃するために作られた装置であり、レーダーをフル活用することで、街中に大量に存在する死角や物影までもクリアにするという優れものであったが、今回ばかりはその機能はいらなかった。
目標は空。死角などない、突き抜けた青色の舞台。視線の正面、我が物顔で舞い踊るあのクソ爬虫類は、なんとしてでも引きずり降ろさなければならない。
──たとえ撃ち落とせなくとも、私だけに目を向けてくれればそれでいい。
今大統領が目を向けている方向とは逆に、飛び去って行くヘリコプターたちが捕捉されていたが、大統領は振り返って見送ることはしなかった。
「達者でな」
蒼空を暴れ狂う黒い龍は、ちょうど最後の要撃機を撃墜した。空に閃光が走る。また一つ、命が散る。
<友軍機、壊滅>
<VLS、全弾発射用意よし>
<SAM、全弾発射用意よし>
<屋上部CIWS、展開完了>
流れてくる武装の展開状況を聞きながら、大統領の目は、あの邪龍を射抜いていた。
「俺とお前の一騎打ちだ。ホープフル・ヒルの真の実力、とくとご覧あれ。