トレード(プロ野球)

登録日:2024/10/10 Thu 00:10:00
更新日:2025/04/03 Thu 02:30:31
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トレードとは、日本のプロ野球(NPB)における選手の移籍形態のひとつで、選手の保有権を他球団に譲渡することを指す。
フリーエージェント(FA)移籍(及び、それに伴う人的補償移籍)、自由契約選手の獲得、現役ドラフト以外での移籍が基本的にトレードとして扱われる。


【概要】

主に自球団で余剰気味のポジションの選手を他球団に放出することで、以下を目的に行われる。
  • 自球団の層が薄いポジションを補強する
  • 当該ポジションが手薄な球団に移籍させて活躍の場を広げる
稀に選手からの希望で行われるケースもある他、それ以外にもさまざまな理由や思惑の元に行われることがある。

FA制度が導入されるまでは、球団によっては主力選手同士によるトレードもしばしば行われ、新聞などでは「世紀のトレード」と呼ばれることもあった。

セ・パ両リーグ間で人気に大きな格差があった1990年代までは、所属球団で構想外の扱いを受けた選手同士を交換するという意味合いを含む場合もあり、トレードにマイナスイメージを持つ選手やファンも少なくなかった。
しかし2000年代以降はパ・リーグの人気が上昇し、移籍前の球団では燻っていた選手がトレードを機に大きく活躍する例も増えたことから、むしろ移籍をプラスにとらえる方が大多数になっている。

プロ野球選手はドラフト指名された球団と正式契約に至った時に『統一契約書』と呼ばれる契約書に調印しなければならず、その中に「選手はNPB他11球団への譲渡を承諾する」という条項が含まれているため、基本的に選手は球団主導で行われるトレードを拒否することは認められていない*1
しかしながら、過去には1985年オフに巨人から近鉄へのトレードを拒否して任意引退となった定岡正二や、1976年オフに中日から西武へのトレードを通告されながら拒否して、処分を受けながらも中日で現役を全うした藤波行雄など、トレードを拒否した例も少数ながら存在する。

トレードの種類については、大きく分けて次の4つがある。
  • 1対1で選手をトレードする「1対1トレード
  • 複数人同士で選手をトレードする「複数トレード
  • 選手と金銭を交換する「金銭トレード
  • 選手を無償で譲渡する「無償トレード
以下、それぞれについて事例を挙げていく。


【主なトレード(年度順)】

1対1トレード

1対1で選手を交換する、最もオーソドックスなタイプのトレード。
基本的に実績や戦力的価値が同程度と判断された選手同士が行われるが、年俸や実績に格差がある「格差トレード」と呼ばれる事例も存在し、中には金銭を加えた形で行われるトレードも存在する。

  • 小山正明阪神山内一弘大毎)(1963年オフ)
長打を打てる打者を欲していた阪神とエース級の投手を欲していた大毎のトレード。
小山は歴代3位となる通算320勝を挙げた大投手、山内は通算2271安打・396本塁打を記録した大打者であり、NPB史上1・2位を争う大物同士のトレードで、冒頭に記した「世紀のトレード」の最初の例である。

  • マイケル・ソロムコ(阪神)若生智男(大毎)(1963年オフ)
上記の小山⇔山内トレードと並行して実現した、NPB史上初の外国人選手の移籍である。

  • 江藤慎一(中日)川畑和人(ロッテ)(1970年途中)
王貞治・長嶋茂雄の全盛期に割って入り、2年連続首位打者を獲得するなど中日の主軸打者だった「エイトマン」江藤は、1969年に就任した水原茂監督からの厳しい叱責に選手を代表して抗議したことで怒りに触れてしまう。シーズン終了後に構想外になり、トレードを通告される。
しかし、あくまで「中日の江藤で終わりたい」とトレードを拒否した彼は任意引退に追い込まれてしまった。翌年、ロッテの新監督に日鉄二瀬時代の恩師である濃人渉が就任すると、「江藤を引き取る」と申し出て、中日との交渉を始める。結果として高卒4年目の川畑とのトレードという形式で現役復帰を果たした。
彼は途中加入ながら10年ぶりのリーグ優勝に貢献。翌年には一塁手のレギュラーとして3度目の首位打者を獲得し、史上初の両リーグ首位打者を達成した。
自身の誕生日である10月6日に行われたシーズン最終戦でタイトル確定した江藤だったが、翌7日に急転直下の出来事が起きる。
一方の川畑は、広島阪急への移籍を経て1978年に引退。その後は阪急でコーチを1年務めた後、参議院秘書を経由して公明党から西宮市議会議員選挙に出馬。1995年に初当選し、以後4期に渡って市議を務めた。

  • 江藤慎一(ロッテ)野村収大洋)(1972年オフ)
10月7日、前日に首位打者が確定した江藤はトレードを通告された。当初ロッテは成田文男を含めた2人と平松政次とのトレードを申し込んだものの大洋側に断られたため、替わって江藤と大卒3年目の野村収の1対1交換という形で成立した。
この年、ロッテは濃人監督が放棄試合を起こして二軍監督へ降格し、入れ替わりで昇格した大沢啓二監督は守備や走塁を重視していたため、首位打者を獲った彼すら構想外になっていた。大洋ではジョン・シピン、松原誠とのクリーンアップで中心打者として活躍。
その後、1974年オフに河原明とのトレードで太平洋クラブライオンズに移籍し、選手兼任監督として迎え入れられた。
一方、ロッテに移籍した野村は中学時代から参考にしていた小山正明に刺激されて覚醒し、初の2桁勝利を達成。その後はトレードで日本ハムに移籍し、最高勝率のタイトルを獲得するなど活躍。1978年に大洋に復帰する。

  • 乗替寿好(太平洋)永射保(広島)(1973年オフ)
全国に約20人しかいないとされる「乗替」と、同じく約50人しかいないとされる「永射」による激レアな苗字同士のトレード。
乗替は西鉄→太平洋と貴重な左腕投手として期待されたものの5年間で47試合の登板にとどまり、広島に移籍した後もなかなか活躍することができず、結局未勝利のまま1975年に引退。
一方の永射は同じく左腕で2年目からサイドスロー変速フォーム(アンダースローとも)に改造。移籍後は山田久志を参考にフォームを完成させ、左の強打者相手に大活躍を見せる。トニー・ソレイタやレロン・リー、門田博光などの強打者をして大の苦手と公言し、「顔を見るのも嫌」状態であった。
主にワンポイントとしての起用だったが、奇襲的に先発して完投することもあった。その後は大洋やダイエーと在籍を変え、1990年に引退。
ピンクレディーの楽曲『サウスポー』は永射がオールスター戦で王貞治を打ち取った場面がモチーフ。

  • 若生智男(阪神)安仁屋宗八(広島)(1974年オフ)
阪神移籍後、江夏豊・古沢憲司とともに先発3本柱を築いた若生が、史上初の沖縄県出身選手である安仁屋との交換トレードで広島に移籍し、1975年の球団史上初のリーグ優勝に貢献。翌年をもって引退したが、3チーム(大毎・阪神・広島)でリーグ優勝および日本シリーズ出場を果たした史上初の選手でもあった。
一方の安仁屋はジョー・ルーツ打撃コーチと折り合いが悪く、ルーツの監督就任を機に移籍が決定。当初は移籍を拒否して引退するつもりだったが、知人から「1年、遊びのつもりで行ってこい」と説得されて移籍を決断。「契約したからにはルーツを見返してやる」と意気込んだ。阪神では中継ぎとして活躍し、初年度は66試合全てリリーフでの登板で規定投球回到達という珍しい記録を達成し、最優秀防御率とカムバック賞のタイトルを受賞した。

  • 江川卓(阪神)小林繁(巨人)(1978年オフ)
1978年のドラフト会議で起きた、いわゆる「空白の一日」に端を発するトレード。この問題はこじれにこじれた末に江川がいったん阪神に入団した後、小林とのトレードで巨人に移籍する形で決着した。
小林は巨人のキャンプイン前日、それこそ飛行機で宮崎入りする直前に突如トレードを命ぜられたことでも知られる。
当時は世間の江川に対する風当たりは非常に強く、「エガワる*2という造語が流行語になるほどであった。
ちなみに現在の阪神OB会の見解は「(一瞬だけとはいえ手続き上は阪神に入団していることから)江川にも入会資格がある」とのこと。

  • 江夏豊(広島)高橋直樹(日本ハム)(1980年オフ)
自らのチーム強化に手応えを感じていた日本ハムの大沢監督は、広島が江夏をオフに放出するという情報を入手するや否や、迷った末にエースの高橋を放出してまで獲得した。
新天地でもリリーフとして優勝に大きく貢献し、史上初となる両リーグMVPの快挙を達成。
しかし、1982年に大沢監督が退任し、後任である植村義信監督の構想から外れたことで西武へのトレードが決定した。
一方の高橋は広島では2年間で2勝と期待に応えられず、根本陸夫に誘われる形で1982年6月に1対2トレードで西武に移籍。

  • 福間納(ロッテ)深沢美雄(阪神)(1981年途中)
1980年代のWin-Winトレードの代表例として知られるトレード。
27歳でプロの世界に飛び込んだ左腕福間は、即戦力として期待されるも入団2年で1勝もあげられなかった。おまけにインベーダーゲームのやりすぎで左ひじも負傷することになった。一方、右の下手投げの深沢は阪神で中継ぎとして起用されるが目立った活躍はしていなかった。
トレードが成立すると、福間は主に中継ぎとして活躍。83年には69試合登板(2先発)で規定投球回に達し、最優秀防御率を獲得。1990年に引退。
深沢は、同じくアンダースロー投手の仁科時成とともに先発の一角を担い、荒れ球という欠点は持ちながらも多彩な変化球を武器に3度の2ケタ勝利を挙げるなど活躍。
有藤通世が監督に変わると構想から外れるようになり88年シーズンをもって引退する。
後年ロッテに渡辺俊介が登場すると、投球フォームが深沢に似ていると懐かしむファンも多かった。

  • 水谷実雄(広島)加藤英司(阪急)(1982年オフ)
互いに実績充分であり、チームの主力選手同士の大型トレード。どちらも球団フロントや監督と確執を抱えており、体の良い厄介払いとも言える面がある事は否定できない。
水谷は阪急で4番DHとして出場、苦手な守備から解放されて移籍初年度は打点王に輝く。しかし、翌84年の開幕戦で頭部に死球を受けて左側頭部骨折・三半規管損傷の重症を負い、長期欠場を余儀なくされる。翌85年も後遺症に悩まされ、引退。
引退後はコーチとして6球団(中日含めてすべて関西球団)で選手を指導。主な教え子は、高橋智、野村謙二郎、江藤智、前田智徳、緒方孝市、金本知憲、中村紀洋、井上一樹、荒木雅博。
一方の加藤は広島でまずまずの成績を上げていたが、後半に肝炎を患い75試合の出場にとどまる。シーズン終了後に近鉄へ移籍。広島在籍は1年であった。

  • 新井宏昌(南海)山口哲治(近鉄)+金銭(1985年オフ)
パ・リーグを代表する巧打者だった新井は、チームメイトである門田博光の体のひねりで打球を飛ばす打法を意識し始めて自分のスイングを見失っており、球団から「君は外野手では4番手だが、他球団から欲しいという話が来ている」と言われ、「それなら引っ越さなくてもいいところが希望です」と答えたことで希望通りに近鉄への移籍が決まった。これは当時新婚で家を新築したばかりだったため。
新天地では中西太の指導で自分のバッティングを取り戻し、2番打者として1番大石とのコンビでチームの得点源になった。1987年には打率.366で初の首位打者を獲得し、1992年に大卒選手としては史上5人目の2000本安打を達成して引退。
一方の山口は、投手としては珍しく新井のつけていた背番号「6」を承継。しかし3年間で12試合の登板に終わったことで1988年に引退。その後は阪神・近鉄で打撃投手や二軍投手コーチを歴任し、近鉄の消滅後は新設された楽天に入ってスコアラーやスカウトを務めた。
ちなみに新井には3人の娘がいるが、三女の貴子は「笑わない男」こと稲垣啓太と結婚。

  • 小野和幸(西武)平野謙(中日)(1987年オフ)
西武と中日のトレード。素質はあるが伸び悩む小野と、実績はあるが星野仙一監督と野球観が合わずに干されていた平野。
西武から持ちかけたトレードは互いに「Win-Win」のトレードになった。
小野は翌年に18勝を挙げて最多勝に輝き、平野も西武の黄金期を支えたレギュラーとして活躍した。
2人とも1993年にそれぞれ戦力外通告を受け、何の因果か揃ってロッテに入団。小野は1995年・平野も1996年をもって引退し、2人とも2002年まで指導者として共闘した。

  • 鹿取義隆(巨人)西岡良洋(西武)(1989年オフ)
巨人で中継ぎや抑えで活躍した鹿取は、1987年に抑えとしてリーグ最多の63試合に登板して防御率1.90を記録し、その活躍からファンから「鹿取大明神」、鹿取の登板を告げる「ピッチャー鹿取」は流行語になり、酷使されるというニュアンスの「鹿取(かと)られる」という造語も生まれた。
一方の西岡は西武で左キラーと呼ばれる打撃に野村克也から「日本一の肩」と呼ばれた強肩、1986年には規定打席未到達ながらゴールデングラブ賞を受賞するなど、使い方でいくらでも化ける要素のある選手だった。
鹿取は1989年に調子を落とし、藤田元司監督から「放出するつもりはないが来季も起用法は変えないので、トレードを希望するなら他球団からのオファーに応じる」と伝えられていたことや、巨人の外野陣が原辰徳、ウォーレン・クロマティ、吉村禎章と守備に難のある選手ばかりで、前年に左投手に8完封を許したことで左投手対策として西岡に白羽の矢が立ったためにトレードが決定。
新天地では輝きを取り戻し、潮崎哲也や後に杉山賢人と揃って「サンフレッチェ」と呼ばれる勝ちパターン継投の一角を担った。
巨人時代もルイス・サンチェス、角三男(角盈男)との3人で勝利の方程式を担い、JFKなどのハシリではあったがマスコミに評判が悪く、当時の王貞治監督にかけて「(ワン)パターン」とバカの一つ覚えみたいな扱われ方をされた。
1997年の引退後は巨人の投手コーチやGMを歴任し、第1回WBCでは侍ジャパンの投手コーチとして世界一に貢献。
一方の西岡は巨人でも左キラーや守備要員として活躍し、1994年オフに金銭トレードでロッテへ移籍。

  • 野田浩司(阪神)松永浩美(オリックス)(1992年オフ)
阪神とオリックスのトレード。野田は阪神で先発ローテーションを守り、「NPB史上最高のスイッチヒッター」と称される松永は阪急(オリックス)で三塁のレギュラーとして活躍していた中で発生した主力投手と主力野手同士のトレード。
結果はオリックスが大きく得をし、野田はオリックスでエース格の投手として1993年に最多勝を受賞し、1995年まで3年連続2桁勝利を達成するなど先発投手として活躍。1995年4月21日のロッテ戦では球場特有の風を味方につけて1試合19奪三振の快挙を達成するなどリーグ優勝に貢献した。当時ヤクルトの監督だった野村監督は「恐ろしいフォークの使い手がセ・リーグから去った」と野田の移籍を喜んだぐらいだ。
一方の松永は次の年のオフにFA宣言をしてダイエーに移籍し、阪神を1年限りで退団した。
ちなみに、現在でもルール上は松永と同様に移籍したその年にFA権を行使することは可能だが*3、この時にかなりの反感を集めたことから、後述のサブローや澤村拓一のようによほど退団ないし移籍する理由がなければ稀であろう。

  • 木村拓也(日本ハム)長冨浩志(広島)(1994年オフ)
1990年にドラフト外で捕手として入団した木村は支配枠から漏れて任意引退扱いになった後に、俊足と強肩を買われて外野手に転向。着々と出番を増やしてはいたが、さらなる飛躍を模索していた。
一方の長冨は1986年に新人王を獲得するも年々成績は下降。投手王国広島にあって自身の立場が危ういと感じて自らトレードを志願していた。
この2人でトレードが成立。木村は内野の守備・スイッチヒッターにも挑戦し、以降ユーティリティープレーヤーとしてアテネ五輪代表まで昇り詰める。
長冨は日本ハムでリリーフ専任として起用された後に1997年にはサイドスローに転向。しかし、チームの若返りを理由に1997年オフに戦力外通告を受け、金銭トレードでダイエーに移籍。

  • 阿波野秀幸(近鉄)香田勲男(巨人)(1994年オフ)
阿波野は1986年にドラフト1位で近鉄に入団し、1年目から先発ローテーション投手として4年連続2桁勝利・規定投球回数到達と活躍していたが、1991年以降は登板過多・左膝の骨折・牽制へのクレームなどで調子を崩し、さらに鈴木啓示監督と野球観が合わずに干されていた。
潜在能力は高いが安定した成績が残せない香田と干されていた阿波野に目を付けた両者の思惑が一致し、トレードが成立した。
阿波野は近鉄時代のような全盛期の投球を取り戻すことができず、1997年に再びトレードで横浜への移籍を経て2000年に引退。
香田は近鉄で先発・中継ぎ・抑えと役割を問わないユーティリティー投手として在籍7年で184試合に登板。2001年に引退した。
両者ともに指導者に転身して、名選手を育て上げた。

  • 西村龍次ヤクルト吉井理人(近鉄)(1995年開幕直前)
西村は1989年にドラフト1位でヤクルトに入団し、1年目から先発ローテーション投手として4年連続2桁勝利・規定投球回数到達と活躍していたが、1994年に内角攻めの球が頭部に当たって乱闘騒ぎになり、危険球ルールが制定される原因を作ったことで6勝にとどまった。
吉井は野茂英雄と一緒にトレーニングコーチの処遇を巡り、鈴木啓示監督と対立。野茂はアメリカに新天地を求めて退団し、鈴木監督が吉井を交換要員に持ちかけたトレードだったが、西村は「僕は行きたくありません」とはっきりと近鉄行きを拒否。最終的に鈴木監督から西村に直接説得の電話が入り、3月18日にトレードが成立した。
吉井はヤクルトで活躍後、MLB・オリックス・ロッテと渡り歩いて引退。現在はロッテの監督を務める傍ら、就任直後の第5回WBCでは侍ジャパンの投手コーチを兼任して14年ぶりの王座奪還に貢献した。
西村は近鉄では振るわなかったが、テスト入団したダイエーで復活。現在は経営者になっている。

  • 盛田幸妃(横浜)中根仁(近鉄)(1997年オフ)
横浜の正外野手である波留敏夫がプロ野球脱税事件に関わったことが発覚し、翌年に開幕からの出場停止処分が下されたため、その代役を探していた権藤博監督があと一歩でレギュラーをつかめずにいた近鉄の中根の獲得を強く要望。近鉄はセットアッパーの佐野重樹が肘の手術で来季絶望となりリリーフ投手の補強を目論んでいたため、先発転向が失敗し右ひじを痛めて登板機会が減ってはいたが「大魔神」佐々木主浩とのダブルストッパーとして活躍していた盛田との交換を提示することでトレードが成立した。
実績や年俸でだいぶ格差のあるトレードではあったが、中根は佐伯貴弘との併用で右翼手として出場、得点圏打率.408という勝負強さを発揮し、「マシンガン打線の1人いてまえ」としてリーグ優勝に貢献。
一方の盛田はリリーフ専任に戻って好投していたが、5月末くらいから身体の不調を感じ始めた。
登録抹消後に精密検査を受けると、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受ける。このとき医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告されたという。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったが不屈の闘志でリハビリにより克服。2001年にはリーグ優勝に貢献し、カムバック賞を獲得。
結果的に両者ともにチームのリーグ優勝に貢献する良トレードになった。

  • 阿波野秀幸(巨人)永池恭男(横浜)(1997年オフ)
巨人へ移籍した阿波野だったがなかなかかつての投球を取り戻すことができず、ほとんど二軍暮らしで一軍未勝利だった。
そこを当時の横浜監督で近鉄時代にコーチとして阿波野を知る権藤が巨人に働きかけ、トレードを打診。内野のユーティリティープレイヤーを求めていた巨人へ永池恭男が移籍することになった。
阿波野は翌年50試合に登板して「権堂再生工場」の第一号として注目を浴び、日本シリーズにも出場して日本一に貢献。
2000年をもって権藤監督が退任し、後任の森祇晶監督とは野球観が合わないと思い、現役を引退。
永池は巨人でユーティリティープレイヤーやスーパーサブとして活躍したが、2002年オフに複数トレードで近鉄に移籍。2004年の球団消滅後は楽天に加入し、2006年に引退。
その後は楽天で指導者やスコアラーとして働き、2016年からはDeNAに移籍して指導者・球団職員として働いている。

  • 河本育之(ロッテ)石井浩郎(巨人)(1999年オフ)
河本はロッテ時代に成本年秀とダブルストッパーと称され、リリーフの柱として活躍していたが1998年以降は肩の故障に苦しみ、石井浩郎は巨人では控え内野手としてまずまずの結果を残していたが、石井のポジションである一塁手には清原和博やドミンゴ・マルティネスといったライバルが多くなかなか出場機会に恵まれなかった。
河本は巨人移籍後もロッテ時代のような全盛期の投球を取り戻すことができず、2004年に再びトレードで日本ハムへの移籍を経て、黎明期の楽天にも在籍し引退。石井はロッテ1年目の2000年はクリーンアップとして活躍したが、2001年は出場機会が激減し、2002年に横浜へ移籍した上で引退。現在は自民党の参議院議員を務めている。

  • 吉原孝介(中日)柳沢裕一(オリックス)(2000年オフ)
ともにプロ入団時は巨人に在籍した元同僚で捕手同士のトレード。
吉原はガッツあふれるプレーが信条だが、巨人でも中日でもオリックスでも3番手捕手にとどまった。
2004年9月27日の近鉄最後の試合では途中からマスクをかぶり、合併する両チームの最後を見届けた選手の1人にして、オリックス・ブルーウェーブとしての最後の打者でもある。2006年の引退後はオリックスや巨人のコーチを経て現在は中日のスカウトを務める。
柳沢はアマNo.1キャッチャーとして巨人に入団するもプロでは伸び悩み、巨人では6年間で28安打0打点、オリックスでも2年間で無安打と振るわず中日に移籍。
中日では投手の調子を見抜く能力が評価され、一転してブルペンを固める裏方として活躍、半ばコーチのような存在であった。
古巣の巨人戦でヒーローインタビューを受けた際、

「僕は巨人を追い出された人間なんで、今日ここまで頑張って来れたんだということを見せつけることができて本当によかったです」

などと大粒の涙を流して嗚咽しながら語ったエピソードは、あまりにも有名。
その後、2005年に小田幸平が巨人から移籍してくると出番を失い、戦力外通告を受ける。
引退後は楽天でコーチを務めた後、2019年にBCリーグ信濃グランセローズの監督に就任。2024年にはグランドチャンピオンシップ初制覇を遂げる。

  • 平井正史(オリックス)山崎武司(中日)(2002年オフ)
平井は1995年のリーグ優勝に15勝27セーブと大きく貢献したが、1999年~2002年までは一軍未勝利と鳴かず飛ばずで、一方の山崎武司は1996年にセ・リーグ本塁打王を獲得して1999年のリーグ優勝に貢献するなど中日の主軸打者として活躍していたが、当時の山田久志監督との確執もあって2002年は一軍26試合出場に終わってしまう。この状況に山崎は自らトレードを志願してオリックスに移籍し、移籍一年目の2003年は22本塁打を放ちまだ健在であることを証明し、平井は2003年にはカムバック賞を受賞し後の中日黄金時代の中継ぎ投手としてチームを支えるなどいわゆる「Win-Win」のトレードになった。
なお、山崎は2004年に再び上層部と確執を起こしてオフに戦力外になり、再びの覚醒を遂げた楽天時代を経て2012年に中日に再入団。一方の平井も衰えが見えて2012年オフ戦力外になった後、トライアウトを経てオリックスに再入団。結果として元鞘へ収まったトレードであった。

  • 川尻哲郎(阪神)前川勝彦(近鉄)(2003年オフ)
暗黒時代の阪神投手陣を支えていた川尻だったが、リーグ優勝を果たした2003年シーズンは2試合の登板にとどまった。「来季の契約は結ばない」と宣告され、トレードを志願すると近鉄が獲得に名乗り出た。
移籍後は、球界再編問題の渦中に入る羽目になるが、最後まで球団合併阻止に尽力。その後楽天で引退。
一方の前川は開幕前のヤンキースとの親善試合で勝ち投手になるなど期待されていたが、シーズンに入ると打たれまくって3試合0勝2敗と散々な結果になってしまった。翌年オフに古巣の合併先であるオリックスに移籍するが、そのシーズンオフに道路交通法違反(無免許、ひき逃げ)と業務上過失傷害で逮捕、程なく契約を解除される。

  • 山北茂利(中日)清水将海(ロッテ)(2004年オフ)
2004年に中日の監督に就任し、1年目にして圧倒的な強さで5年ぶりのリーグ優勝を達成した落合博満だったが、それでも彼は「このままでは来年は最下位になってしまう」と現状に甘んじることはなく、トレードを敢行。
山北はこの年こそ故障で活躍できなかったとはいえ、前年までは貴重な左のセットアッパーとして大活躍を見せていただけに、このトレードには驚きの声が上がっていた。
代わって中日に加入した清水は控え捕手として活躍したものの、山北は残念ながら振るわず、後にトレードで横浜に移籍した。引退後はヒマラヤのアドバイザーを務め、後に女子プロ野球の監督に就任している。
清水はその後ソフトバンクへの移籍を経て2011年に引退。一度も戦力外通告を受けることなく3球団を渡り歩いたという珍しい経歴の持ち主である。

  • 木村拓也(広島)山田真介(巨人)(2006年途中)
マーティ・ブラウン新監督の若手起用の方針によって全く一軍での出番がなかった木村と、外野守備はチームトップクラスながらも打力不足がネックだった山田の交換トレードが2006年途中に成立。
木村は何でも屋として原辰徳監督から絶大な信頼を寄せられ、2007年からのリーグ3連覇に貢献。中でも「急造捕手」として延長12回表に土壇場でマスクをかぶり、引き分けに導いた2009年9月4日のヤクルト戦は彼のユーティリティーぶりを表す試合として名高い。
この年をもって引退の上でコーチに転身したが、開幕直後の2010年4月2日の広島戦の試合前に倒れ、意識を取り戻すことなく5日後に急逝。4月24日にお別れの会と追悼試合が行われ、同学年の谷佳知が逆転満塁本塁打を放って巨人が勝利した。
同性同名の木村拓哉と親交があり、広島時代の2002年9月7日には約束通り本塁打を放って拓哉を喜ばせた他、告別式では献花も行っている。
一方の山田は2007年途中にトレードで阪神へ移籍。

  • 寺原隼人(ソフトバンク)多村仁志(横浜)(2006年オフ)
ソフトバンクと横浜のトレード。多村は2006年の第1回WBCに出場するなど球界を代表する外野手として活躍していたが、「スペランカー」の愛称がつくほどシーズンを通しての活躍ができないのが課題だった。一方の寺原は斉藤和巳・和田毅・杉内俊哉・新垣渚など当時の豊富な先発投手の陰に隠れ、存在感が薄くなりつつあったところで多村とのトレードで横浜に移籍することに。
多村は2010年にベストナインに選ばれるなど主軸としてリーグ優勝に貢献し、寺原も先発・リリーフ両方こなせる投手として当時暗黒時代ど真ん中だった横浜を支えた。
その後、2012年オフに多村はトレードで、オリックスに移籍していた寺原はFAでそれぞれの古巣に復帰している。

  • 山田真介(広島)喜田剛(阪神)(2007年途中)
山田は移籍早々一軍登録されたものの、赤星憲広が怪我から復帰するとすぐに抹消され、二軍でも振るわず。翌年は一軍に出場することなく、二軍でもさらに成績を落としたことからシーズン終了を待たずに戦力外通告を受けて引退。
一方の喜田は移籍を機に出場機会を大きく伸ばし、阪神時代の5年間で8試合からこの年だけで67試合と8倍以上に上昇。2010年途中に1対2トレードでオリックスへ移籍。

  • サブロー(大村三郎)(ロッテ)工藤隆人(巨人)+金銭(2011年途中)
「つなぎの4番打者」として2度の日本一に貢献したロッテのサブローは、2009年に「生涯ロッテ宣言」をしファンを歓喜させるも、2011年5月に死球で右手薬指を打撲。軽傷をアピールするも一軍登録を抹消され、そのまま復帰することなく6月29日に唐突にトレードが発表される。
表向きは「低迷する打線のテコ入れをしたい巨人と俊足の外野手を探していたロッテの思惑の一致」とされていたが、「球団社長と運営本部長との不和が噂されていたサブローを球団が放出したくて仕方なかったのでは?」と勘繰る声もあった。
巨人では原則として名前や愛称などでの登録名を認めていないため*4、彼は慣れ親しんだ「サブロー」ではなく本名の「大村三郎」として巨人に入団。背番号はそれぞれ移籍前につけていた番号を承継した(応援のコールは引き続き「サブロー」)。
サブロー改め大村は移籍後初打席とCSでのシーズン最終打席で本塁打を打つなどベテランらしい活躍をした。おまけに坂本勇人・長野久義・谷佳知のロッカーがとても汚いと率先して掃除もした。
シーズン終了後、先述の球団社長と運営部長の退任が発表されると、大村はFA宣言してすぐにロッテに復帰。巨人在籍はわずか5か月ほど(154日)だったが、2016年の引退試合には阿部慎之助や内海哲也など当時のチームメイトが6人も応援に駆け付けるという人望の厚さがうかがえた。現在はロッテの二軍監督を務める。

一方の工藤は2009年に日本ハムから巨人に移籍し、俊足好守の外野手として期待されていたが、松本哲也や亀井義行などの台頭によりはじき出される形となり、今回のトレードでロッテに。移籍後は岡田幸文・伊志嶺翔大と鉄壁の外野守備陣を築くが打撃が低調に終わり、翌年には角中勝也・荻野貴司・清田育宏らの台頭で出番を完全に失い、2013年に戦力外通告を受ける。その後中日に移籍して引退し、中日コーチを経て現在は阪神コーチ。

  • 小山雄輝(巨人)柿澤貴裕(楽天)(2016年オフ)
悪い意味で散々な結果を招いたことで知られるトレード
一軍である程度将来を期待されながらも燻っていたが二軍ではいい成績を残していた小山と二軍で月間MVPを獲得するなど好成績を残してシーズン途中に支配下登録をされたばかりの柿澤は、投手の補強が望まれる楽天と期待できる若手野手が欲しい巨人の思惑が一致し、両球団ともに明確な意図があって互いに移籍先での出場機会増加を期待できるトレードとしてファンからも好感を持たれていた。
ところが柿澤は移籍後も一軍に出場することがなく、それどころか2018年7月に同僚の野球用具を窃盗して売却していたことが判明し、まさかの契約解除
結果的に自軍の選手が不祥事を起こしたということでネガティブに報道される形になり、しかも柿澤は楽天時代から窃盗疑惑で騒ぎを起こした経歴があったことも判明するなど*5、巨人としてはこのトレードで不祥事だけを掴まされて得るような結果になってしまった。
一方の楽天に移籍した小山も移籍初年度はわずか5試合の登板で防御率は11.12という散々な成績で大きく期待を裏切る形になり、翌年は一軍登板がないまま戦力外通告を受けて引退という苦い結末に終わった。その後は巨人に球団職員という形で出戻っている。

  • 岡大海(日本ハム)藤岡貴裕(ロッテ)(2018年途中)
この年、前半戦で打率.287・20盗塁を記録した不動のリードオフマン荻野貴司がオールスター直前に負傷し、全治2か月の長期離脱を余儀なくされたロッテは走攻守で高い身体能力を誇る岡に目をつけ、2015年にプロ初本塁打を放った時の投手でもある藤岡とのトレードで獲得。
岡はスタメンから代打・代走・守備要員までさまざまな役回りを担いつつも、試合終盤には「ヒロミナイト」と呼ばれるここぞの勝負強さを発揮。2024年にはNPB新記録となる8試合連続二塁打の快挙を達成した。
一方の藤岡は新天地でも2年間で6試合の登板にとどまり、2019年途中に2対2トレードで巨人へ移籍。

  • 和田恋(巨人)古川侑利(楽天)(2019年途中)
投手陣の底上げを求めた巨人と右の長距離砲を補強したい楽天の思惑が一致した、ともに高卒6年目同士のトレード。
和田は前年から約6倍となる31試合に出場したものの、2020年以降は4年間で27試合と振るわず、2023年をもって戦力外通告を受けた。2024年は明治安田生命でプレーし。2025年2月に引退を発表。ジャイアンツアカデミーのスタッフとして巨人に復帰した。
一方の古川は巨人でもチャンスをつかめず、2021年に戦力外通告を受けてトライアウトで日本ハムと育成契約。支配下登録を勝ち取ってこの年キャリアハイとなる34試合に登板したが、オフに第1回現役ドラフトで地元のソフトバンクに移籍。
しかし2023年は9試合の登板に終わり、育成契約で再スタートするものの支配下に戻ることなく戦力外通告を受けて引退。11年間で4球団を渡り歩き、トレード・トライアウト・現役ドラフトを経験するなど激動の人生だった。

  • 澤村拓一(巨人)香月一也(ロッテ)(2020年途中)
澤村は2010年にドラフト1位で巨人に入団し、1年目から先発ローテーション投手として2年連続2桁勝利・3年連続規定投球回数到達、後に抑えに配置転換して2年連続35セーブ以上を挙げるなど最多セーブ投手など活躍していたが、この3年くらい精彩を欠いていた。
打力のある左打ちの若手野手を欲しかった巨人と球威のある右投手が欲しかったロッテと思惑が一致し、2020年9月7日にトレードが発表された。
9月のトレードになったのは、この年はコロナ禍で公式戦の開幕が3か月遅れたことに伴う特例措置として、NPBと選手会の合意によってトレード期限が9月30日まで延長されていたため。
推定年俸に約1億4750万円もの開きがある「格差トレード」として話題になった。
澤村は入団してCSに登板した後、この年のオフにFA権を行使してMLBへ移籍。2023年の開幕前に義理を通してロッテに復帰した。
一方の香月は巨人で結果を残せず2023年に戦力外通告を受け、オリックスと育成契約を結んだ。

  • 加藤匠馬(中日)加藤翔平(ロッテ)(2021年途中)
捕手の獲得を目指していたロッテが中日に打診した「加藤トレード」。史上3例目となる同姓トレードで、ロッテはトレード時点でこの年一軍出場なしながら、肩と守備で評価の高かった匠馬を以前から調査していたという。
得点力不足に悩む中日は交換要員として、俊足強肩のスイッチヒッターである翔平に着目。ロッテの外野手は充実しており、二軍では高成績を残していただけにロッテ側も「飼い殺しはしたくない」という方針があったという。
匠馬はこの年57試合に出場し、打率こそ1割を切りながらもプロ初本塁打を放つ活躍。続く2022年は24試合と半分以下にとどまったが……(後述)。
一方の翔平は、移籍直後の試合となるヤクルト戦で即先発起用され、移籍後初打席でいきなり初球本塁打を放つ。実はロッテ時代にもルーキーイヤーの2013年に史上初の「新人野手によるプロ初打席初球初本塁打」を記録しており、2球団での初打席初球本塁打(両リーグとしても史上初)を達成した。その後も代打や守備要員としてチームに貢献していたが、一軍出場なしに終わった2024年をもって引退した。
ちなみに、ロッテはこのトレードの前日にも有吉優樹を放出し、DeNAから国吉佑樹を獲得した「ゆうきトレード」を敢行したばかりだったが、ロッテ関係者は「狙ってはいません。偶然です。偶然」と苦笑いした。

  • 田口麗斗(巨人)廣岡大志(ヤクルト)(2021年オフ)
2021年の開幕直前に発表された巨人とヤクルトのトレード。MLBではよくあることだが、NPBでは珍しい主力選手と若手有望株同士のトレードである。
田口は2015年~2018年の4年間で主に先発投手として起用されたが、中継ぎ転向以降は防御率が4点台となるなど不安定な投球が続いていた。廣岡は内野をどこでも守れるユーティリティー性があったものの打撃の確実性には難があり、さらには2019年には当時のワーストタイとなる開幕41打席無安打を記録するほど打撃不振に陥っていた。
田口はヤクルトのブルペンを支え続け、リーグ連覇と2021年の日本一に貢献して1人4連覇を達成。一方の廣岡は巨人でも伸び悩み、2023年途中に内野手が手薄になっていたオリックスへ移籍。

  • 伊藤裕季也(DeNA)森原康平(楽天)(2022年途中)
中継ぎ投手の層を厚くしたいDeNAと右打者が手薄な楽天の思惑が一致したトレード。伊藤はこの年こそ振るわなかったものの、プロ初の開幕スタメンを勝ち取った2023年は12球団第1号にして、新球場であるエスコンフィールド初の本塁打を放って歴史に名を刻んだ。最終的に一度も抹消されることなく初の一軍完走を果たし、出場試合数・安打数・本塁打数・打点数でキャリアハイの成績を残した。守備でも内野の全ポジションを守るなど貴重な戦力として活躍している。
一方の森原もセ・リーグでも安定した投球を続け、2023年の夏場以降は不調の山﨑康晃に代わってクローザーを任された。2024年にはオールスターに初出場を果たすと、ソフトバンクとの日本シリーズでは最後を締めて26年ぶりの日本一の胴上げ投手になるなど充実した1年を過ごした。

  • 坂本光士郎(ヤクルト)山本大貴(ロッテ)(2022年途中)
ヤクルトとロッテのトレード。いずれも社会人野球からプロに入った20代の左投手だが、変則フォームの投手を求めたヤクルトと、球威で押すタイプの投手を求めたロッテの思惑が一致したことでトレードに至った。
2人とも新天地でもサウスポーとしてブルペンを支えており、それぞれチームに欠かせない存在になっている。

  • 阿部寿樹(中日)涌井秀章(楽天)(2022年オフ)
中日が楽天に打診して行ったトレードで、近年では珍しい主力同士の1対1のトレード。阿部は前年規定打席到達で打率.270・9本塁打・57打点と貧打に苦しむチームでは貴重な打てる内野手として活躍。涌井は通算150勝をマークし、過去所属した西武・ロッテ・楽天の全球団で計8度の2桁勝利を挙げるなど史上初の3球団で最多勝利を受賞し、2009年には沢村賞も獲得した実績抜群の右腕だが、前年は10試合の登板にとどまるなど少し実力に陰りが見え始めていた。
移籍後の涌井は経験豊富な貴重なベテランとして、阿部は一発のある貴重な右打者として2人とも一軍戦力としてまずまずの結果を残している。

  • 京田陽太(中日)砂田毅樹(DeNA)(2022年オフ)
上記の阿部⇔涌井トレードからわずか3日後、中日は主力同士のトレード第2弾を敢行。今度の相手は同一リーグのDeNAだった。
京田は5月4日のDeNA戦で攻守に精彩を欠き、立浪和義監督から「戦う顔をしていない」という理由で途中交代させられ、さらに試合中に二軍への強制送還を命じられた。結局その後も復調することなく、土田龍空に遊撃のレギュラーを奪われたことで自己ワーストとなる43試合の出場に終わっていた。一方の砂田は左のワンポイントなどとして2017年にはキャリアハイとなる62試合、2020年にも58試合に登板してブルペンを支えていたが2022年は15試合の登板にとどまっていた。
京田は移籍早々新ユニフォームの発表会や球団歌収録にいきなり顔役として呼ばれるなど破格の待遇を受ける。シーズンが始まるとレギュラー定着こそならなかったものの、中日時代に経験のなかった三塁手や一塁手としても出場するなど献身的な働きでチームを支えたほか、上記の経緯から京田のあらゆるプレーが「バトル○○」と呼称されるようになるなど自他ともにネタとして定着。2024年には古巣との試合で人生初となるサヨナラ打を放ち、シーズン最終戦では古巣の3年連続最下位を決定付ける決勝打を放って立浪監督に引導を渡した。
一方の砂田は2023年は18試合の登板にとどまり、フォーム改造などを機するも復活できず、一軍での出場がなかった2024年をもって現役を引退した。

なお、京田のトレード相手は当初捕手の戸柱恭孝との噂があったが、同じく捕手の嶺井博希がソフトバンクへFAで移籍したことで流れた説がある。

  • 廣岡大志(巨人)鈴木康平(オリックス)(2023年途中)
投手陣の補強を望んでいた巨人と内野手が故障続きで手薄になっていたオリックスの利害が一致したことで成立したトレード。大阪府出身の廣岡は地元に戻ってくることになり、チーム事情から外野手にも挑戦するなど貴重な戦力として活躍。タイミングの関係で絶妙に出られていなかった日本シリーズに初出場を果たした。
一方、「K-鈴木」の登録名で知られていた鈴木は昔からのファンだった巨人入りを果たし、最速158km/hのストレートで26奪三振を記録する活躍を見せたものの、8月以降は与四球や失点が増加。防御率6.59ながらもブルペン事情の厳しいチームを支えたが、救援陣が劇的に改善された2024年は一軍出場なしに終わり、オフに戦力外通告を受けてヤクルトと育成契約を結んだ。
田口も含め、結果的には巨人だけが損をしたような状況ではある。

  • 石川慎吾(巨人)小沼健太(ロッテ)(2023年途中)
お前さん達」と揶揄されるほど救援陣が壊滅的だった巨人は上記の廣岡⇔鈴木トレードから約2か月後、今度は外野手が手薄になっていたロッテとのトレードを敢行。抜群の二軍成績を残しながらも一軍では出番がなかった石川を放出し、こちらも二軍暮らしが長かった小沼を獲得した。
石川はパンチ力のある打撃に左キラーという長所を生かし、彼とは逆に右投手に強い角中との併用でAクラスおよびCS進出に貢献。一方の小沼はコンディション不良で一軍での出番はなく、手術を受けた上で育成選手として再出発したが、翌年も二軍での登板もかなわず、オフに戦力外通告を受けた。

  • 吉田輝生(日本ハム)黒木優太(オリックス)(2023年オフ)
金足農業高校の甲子園準優勝に大きく貢献して「金農旋風」を巻き起こし、2018年にドラフト1位で日本ハムに入団した吉田だったがプロではなかなか芽が出ず、2023年オフに地元の先輩である中嶋聡監督やかつてダルビッシュ有らを指導した中垣征一郎巡回ヘッドコーチもいるオリックスへのトレードが決定。投球フォームの修正に取り組んだことで2024年は2年ぶりの50試合登板をクリアし、4勝0敗・14ホールド・防御率3.32を記録した。
一方、黒木はこの年最少となる2試合の登板に終わり、オフに戦力外通告を受けて西武と育成契約を結んだ。

  • 若林晃弘(巨人)郡拓也(日本ハム)(2024年開幕直前)
若林はバッテリーを除く内外野全ポジションを守れる上にスイッチヒッター、郡も捕手を加えた全ポジションをこなせるというユーティリティープレイヤー同士のトレード。捕手の層を厚くしたい巨人と野手の強化を図る日本ハムの思惑が一致したことによるトレードとされる。
しかし、若林は移籍直後の古巣とのオープン戦中に負傷し、一度は実戦復帰を果たしたものの5月に再発したことでプロ7年目で初めて一軍出場なしに終わってしまう。第3捕手として期待された郡も5試合の出場にとどまった。

  • 松原聖弥(巨人)若林楽人(西武)(2024年途中)
巨人と西武によるトレード。2人とも20代外野手という共通点はあるが、2021年に育成出身選手ではセ・リーグ初の2桁本塁打・球団2位タイ記録となる27試合連続安打を放つなど打率.274・12本塁打・37打点の成績を残した松原に西武が着目し、打線の強化を図るために巨人に打診したとされる。移籍後即スタメンで起用されるなど貴重な戦力として活躍した。
一方の若林はシーズン終盤に自然気胸と診断されたものの、史上初となる同一シーズン2球団(両リーグ)サヨナラ打や史上9人目となる同一シーズン両リーグ本塁打を放つなど要所で活躍し、4年ぶりのリーグ優勝に貢献。
続く2025年は丸佳浩の負傷もあって2年連続の開幕スタメンに名を連ね、サヨナラ打を含めた4安打*6の大暴れを見せて球団史上初となる開幕戦5点差逆転勝利に大きく貢献。

  • 野村大樹(ソフトバンク)齊藤大将育成)(西武)(2024年途中)
一見すると主軸を期待されるも結果が出ない若手野手と、ドラフト1位左腕ながらも結果が出ない中堅投手のよくある環境を変えるためのトレードに見えるが、特筆すべきは史上初となる支配下選手と育成選手による異例のトレードであり、ファンだけでなく野球有識者界隈にも衝撃を与えた。
野村はまずまずの二軍成績を残しつつも一軍では出番に恵まれなかった中、壊滅していたこの年の西武打線の中で打率.225・5本塁打とまずまずながらもOPS.716と光るものを見せ、貴重な戦力として活躍。
一方の齊藤は支配下登録を掴めないままオフに戦力外通告を受けて引退した。

選手層が厚いソフトバンクとはいえ明らかな格差トレードであり、打線の強化を図る西武と左腕を補充しつつ支配下枠を空けたいソフトバンク*7の思惑の合致によるトレードと考えられる一方、その裏には山川穂高のFA移籍に伴う人的補償騒動のお詫び説がまことしやかに語られているが*8、真相は定かではない。

  • 濵口遥大(DeNA)三森大貴(ソフトバンク)(2024年オフ)
内野の層を厚くしたいDeNAと貴重な左腕を求めるソフトバンクの思惑が一致した、比較的実績のある選手同士のトレード。
この年の日本シリーズでもリリーフとして好投して26年ぶりの日本一に貢献した濵口は通算44勝の実績があり、佐賀県の出身でもあることからソフトバンクとしても2016年のドラフトにおいてもスカウトのリストに入っており、実に8年ぶりの獲得になった。同時期には2018年のドラフト1位の上茶谷大河も現役ドラフトでソフトバンクに移籍しており、ドラ1投手2名の移籍劇にファンの間でも衝撃が走った。
一方の三森は2022年と2023年に2年連続で102試合に出場したものの、この年は故障もあって25試合の出場にとどまっていた。本職は二塁手ながら、当初は同じポジションのキャプテン牧秀悟だけではなく近年は休養を挟みながらの起用が続く三塁手の宮崎敏郎や故障がちな一塁手のタイラー・オースティンのバックアップとしての役割も期待されてのトレードになったが、開幕後はチーム事情から2020年に1試合しか経験していなかった外野手にも挑戦している。


複数トレード

選手を複数人同士で交換するトレード。選手の実績や戦力的価値に差がある場合は1人と複数人によるトレードの事例も存在する。「大型トレード」と呼ばれることも多い。
なお、2002年の日本ハム⇔阪神や2020年の巨人⇔楽天のように、あるトレードの直後に同一球団の組み合わせで再度別の選手のトレードが行われる場合があるが、本項では便宜上1つのトレードとして記述する。

  • 種茂雅之大橋穣(東映)岡村浩二阪本敏三佐々木誠吾(阪急)(1971年オフ)
現代ではまず考えられないであろう、同一リーグでの正捕手・正遊撃手同士のトレード
日本シリーズでなかなか巨人に勝てなかった阪急は、1969年に史上初のシリーズ退場処分を受けた捕手の岡村と、1971年日本シリーズで拙守を見せてしまった遊撃手の阪本を「日本一になるためには守備の強化が必要」と放出候補に指定。交換相手に選ばれたのはこの年、6度も福本豊を盗塁死させた種茂*9と、強肩遊撃手ながら打撃に難のある大橋だった。
ちなみに種茂と岡村は立教大学野球部の先輩・後輩という間柄であった(種茂が2年先輩)。
種茂は阪急で2年レギュラー捕手として活躍し、3年目に後輩の中沢伸二に定位置を譲ると翌年に引退。
大橋は1982年に引退するまで7年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞するなど期待通りの活躍をした。
岡村は腰痛をこじらせてしまい、レギュラーは奪えなかったことから1974年に引退。
阪本は東映→近鉄→南海と渡り歩いて1981年開幕直前に引退。
佐々木はというと、一軍登板がなく同年限りで引退。

  • 大杉勝男(日本ハム)内田順三小田義人(ヤクルト)(1974年オフ)
球団の親会社が前年オフに日本ハムに代わり、東映カラーの払拭を目指すフロントは主力選手の大量放出を断行する。
まずは大杉をヤクルトの内田・小田と交換トレード。大杉はヤクルトで活躍し、1978年の球団史上初の日本一の原動力となる。
内田は日本ハム・広島と渡り歩いて引退。選手としてはパッとしなかったが指導者して大成し、広島・巨人コーチとして名だたる名選手をを育て上げた。
小田は日本ハム・南海・近鉄と渡り歩き引退。こちらは社会人経験を経た後、近鉄のスカウトを務めて赤堀元之を見出だした。
ヤクルトでも二軍打撃コーチやスカウトを務め、青木宣親や武内晋一の入団に尽力。後にスカウト部長を務めた。
こちらも選手としては振るわなかったが、スカウトとして大成した例と言えよう。

  • 土井正博(近鉄)柳田豊芝池博明(太平洋)(1974年オフ)
本来は柳田・東尾修と長池徳二(阪急)というトレードで話が進んでいたが長池が拒否したため、紆余曲折を経てこのトレードになった。
土井はパ・リーグを代表する主砲だったが、走力や肩に衰えが見え始めていた。
芝池は元々近鉄に所属しており、2年前に金銭トレードで移籍していたが、出戻る形で古巣に復帰。柳田は阪急相手に好投しているところを西本幸雄監督に見出された。
土井は本来の外野手から一塁手も兼任するようになり、移籍1年目で本塁打王のタイトルを獲得。後述の田淵がチームに加入すると指名打者を任されることが多くなり、1981年に引退。
引退に関して、本来は辞めるつもりはなかったが監督退任が決まっていた根本睦夫に「お前には廣岡達朗新監督の管理野球は向いてないから、ここで引退しろ」と言われて従ったらしい(実際、廣岡は土井を構想外扱いしていた)。
芝池は近鉄で2年、中日で2年プレーして引退。
柳田は近鉄で13年間過ごして先発・中継ぎ・抑えとフル回転。1987年に引退。
なお、柳田の従甥はソフトバンクの柳田悠岐である。彼と同様に本名は「やなぎた」だが、当時は登録名を「やなぎだ」にしていた。

  • 張本勲(日本ハム)高橋一三富田勝(巨人)(1975年オフ)
1975年シーズン終了後に行われたトレード。
川上哲治監督が「V10」を逃して退任し、現役を引退してすぐさま監督に就任した長嶋茂雄は手腕を期待されたが、自分自身や「V9の頭脳」と呼ばれた捕手の森昌彦(森祇晶)の穴を埋めることはできず、球団史上初の最下位に沈んだ。
これらの穴を埋めるべく、日本ハムでフロントと揉めて浮いていた「安打製造機」と呼ばれる張本を獲得し、代わりに20勝を2度達成している高橋と、自分の穴を埋めるべく南海から移籍しながら結果を残せなかった富田を放出した。
張本は王貞治との「OH砲」で2度のリーグ優勝に貢献したが、視力の衰えから1979年にロッテに移籍した。
高橋は2度の2桁勝利を達成するも故障がちで、富田は日本ハムで三塁手の定位置を獲得。4年連続規定打席到達を果たす活躍を魅せた。
三者三様のトレードだった。

  • 江夏豊望月充(阪神)江本孟紀池内豊長谷川勉島野育夫(南海)(1976年キャンプイン直前)
球団と不和関係と噂されていた両チームのエース同士が絡む、2対4の電撃大型トレード。
入団から9年で159勝を挙げ、「NPB記録となるシーズン401奪三振」「オールスター9者連続奪三振」「延長戦ノーヒットノーラン」といった記録にも記憶にも残る成績を残すなど誰もが認める大投手の江夏だったが、1973年ごろから金田正泰監督との確執が生じていた。
一方の南海では、1974年ごろから野村克也監督の当時の愛人である伊東芳枝(後の野村沙知代)が選手起用に口出しするといった公私混同も甚だしい現場介入を行い始め、チームに悪い空気が漂っていた。我慢の限界に達した選手陣は野村監督に直訴するも受け入れられず、エースの江本ら4人にトレードが通告された。
江夏は100球以上投げると右肘がしびれるという血行障害に悩まされるようになり、移籍後の南海では野村監督にストッパーへの転向を勧められる。当初は拒否していたものの「野球界に革命を起こしてみないか」という言葉に惹かれ、当時の最優秀救援投手に輝くなどクローザーとして活躍した。

一方、江夏とともに南海に移った望月は故障もあって1977年に引退。
江本は阪神のエースとして6年プレーしたが「ベンチがアホやから野球でけへん」と言い放ち、監督批判と見なされたことで責任を取る形で引退。その後は解説者や評論家の傍ら、タレントや参議院議員も務めた。
池内は阪神移籍を機にリリーフに転向。当時のNPB記録となるシーズン72登板(1982年)を記録するなどチームに不可欠な存在になり、大洋や阪急と渡って引退。
長谷川は移籍当初こそ活躍できなかったが阪神で7年間過ごして引退。
島野も5年間過ごして引退。その後星野仙一の名参謀として中日や阪神でコーチを務める。

  • 島谷金二稲葉光雄大隅正人(中日)森本潔戸田善紀大石弥太郎小松健二(阪急)(1976年オフ)
日本シリーズで宿敵巨人を初めて倒しV2を成し遂げた阪急が、シーズン終盤から水面下でトレードに動いていた。上田利治監督は、「阪急はこれからもV3、V4と続けていくチーム。打倒巨人に満足していると、知らない間にぬるま湯にひたることになる」と、血の入れ替えを決断。特に、シリーズ第7戦で値千金の逆転ホームランを打ち、シリーズ制覇の立役者森本の喜び爆発のベースランニングを、上田は涙をこらえて見ていた。
当初は、戸田⇔島谷の1対1だったが、話が進むうち、阪急から戸田に森本を加え、さらに大石、小松が加わる。中日からは島谷のほかに稲葉と大隅が追加されるという4対3の大型トレードが実現した。
中日はこれまでトレードによる補強を積極的ではなかったが、与那嶺要監督が合理性を重視したため、今回の大型トレードに踏み切った。
結果から言うと、中日に移った4人の初年度成績は戸田6勝、大石未勝利、森本スランプ、小松1軍出場なしと散々。
一方の稲葉は最高勝率獲得、島谷はキャリアハイ、大隅も前年より出番が増えるなど、阪急が得する結果となった。与那嶺監督は退陣に追い込まれ、以降中日は、星野仙一が監督に就任するまでトレードに消極的になる。

  • 田淵幸一古沢憲司(阪神)真弓明信若菜嘉晴竹田和史竹之内雅史(西武)(1978年オフ)
1978年に球団史上初の最下位に沈んだ阪神と、時を同じくして球団売却と本拠地移転が発表されたクラウンライター改め西武の間で行われたトレード。
阪神はドン・ブレイザー新監督が就任すると、同年打率.288・38本塁打の成績ながら度重なる怪我により守備の衰えが顕著になっていた捕手の田淵幸一を構想外とし、代わりにやはり守備面の衰えが見えていた藤田平の後継になりうる遊撃手を獲得しようとしていた。
一方の西武も新チーム初年度の目玉となる選手を求めており、スタメン定着して同年ベストナインを受賞したばかりの若手遊撃手だった真弓明信の放出を覚悟してでも取りに行きたいトレードであった。
こうして阪神の田淵と西武の真弓・若菜・竹田の1対3トレードが成立。同日に阪神の先発投手古沢憲司と西武の当たり屋*10ベテラン外野手の竹之内雅史のトレードも成立しており、便宜上この2つを1つにまとめて扱われることが多い。
なお、前者のトレードはマスコミに騒がれないよう深夜2時に発表したが*11、当然ながら逆に田淵の不満を大きく煽ってしまい、最終的に移籍は了承されたものの田淵と阪神の関係はこじれてしまった。

トレード後、田淵は主力打者として1984年の引退まで西武を牽引。しかし捕手としてはやはり限界が来ており、基本的に一塁手ないし指名打者としての出場であった。
その後は1990年~1992年にダイエーの監督を務めた以外は主に解説者として球界に関わっていたが、2002年に友人の星野仙一に誘われて打撃コーチとして24年ぶりに阪神に復帰し、2003年のリーグ優勝に貢献した。
真弓もまた主力打者として1995年まで阪神で奮闘。守備位置はチーム事情に合わせて転々とし、遊撃手から二塁手へ、さらに右翼手へとコンバートしている。
竹之内はベテランながら2年連続2桁本塁打を放つなど活躍したが、1981年に受けた166回目の死球によって右手を壊してしまい、これにより翌年引退。打撃コーチとしても1985年の阪神の球団史上初の日本一に貢献した他、ダイエーと横浜で数多くの打者を育て上げた。
古沢は先発投手としては衰えが深刻で、1980年には中継ぎに転向。さらに1982年に広島にトレードで移籍。
若菜は阪神で田淵の後継捕手として活躍していたが、1982年に私生活で不倫問題を起こしたことで同年限りで退団。その後はアメリカの3Aタイドウォーターでの選手兼任コーチを経て1983年途中から大洋に控え捕手として入団。翌年からメイン捕手に復帰し活躍していたが……(後述)。
竹田は故障でほとんど投げられず1980年限りで引退。その後はクラウンライター以前に所属していた中日でスコアラーや打撃コーチを務めている。

余談だが、西武移籍後の田淵を描いたアニメ映画『がんばれ!!タブチくん!!』では、トレードやそれに近い言葉*12を聞くと極度のノイローゼになり発狂するというシーンがある。あくまでギャグアニメなのでギャグ補正がかかっているが、冒頭に記したトレードに対するネガティブイメージを象徴する演出と言えよう。

  • 高橋直樹(広島)古沢憲司大原徹也(西武)(1982年途中)
パ・リーグに復帰した高橋は、大学の先輩である廣岡達朗監督の元で7勝を挙げ、所沢移転後初のリーグ優勝と日本一に貢献。続く1983年も最優秀勝率のタイトルにリーグ2位の防御率と安定した投球を披露するが、1985年オフにトレードで巨人へ移籍。しかし新天地では4試合の登板にとどまり、翌年限りで引退。これにより戦前生まれの選手全員が引退になった。
一方の古沢は新天地では3年間でわずか1試合の登板にとどまり、1985年をもって引退。
その後は広島や阪神で投手コーチを歴任し、阪神では「鬼軍曹」として井川慶藤川球児に基礎を教えたり、カープアカデミーでラモン・ラミレスやヘロニモ・フランスアを見出したりするなどしている。
大原も2年間過ごした後に1983年オフに福井保夫・森脇浩司との交換トレードで加藤英司とともに近鉄へ移籍し、1987年をもって引退した。

  • 江夏豊(日本ハム)柴田保光木村広(西武)(1983年オフ)
大沢監督の退任よって構想から外れた江夏だったが、「巨人に取られる前に自分のところへ引き入れたい」という坂井保之球団代表の考えもあり、守護神の森繫和がいながらも1対2トレードを断行。しかし開幕からなかなか調子が上がらず、廣岡監督からの不審や優勝争いから脱落して若手中心の起用に代わったこともあり、7月12日の登板を最後に出番が与えられることはなく、史上初の200セーブと通算3000奪三振を目前に退団。
その後は36歳でメジャーに挑戦したが入団はかなわず現役引退。
1993年に覚醒剤取締法違反で逮捕され、裁判で実刑判決を受けたことから野球殿堂入りは果たされていないものの、現在では阪神や広島のOB同窓会試合やパワプロのOB枠に収録許可が出るなど、各種のOBが参戦する企画に何らかの形で登場することは多く、十分すぎるほど更生したと見なされているようである。

一方の柴田は東京ドームおよび平成初となるノーヒットノーランを達成するが、晩年は病気に見舞われたことで1994年をもって引退。木村も1年限りで戦力外通告を受け、大洋への移籍を経て引退した。

  • 新谷吉孝欠端光則(ロッテ)竹之内徹右田一彦(大洋)(1983年オフ)
ロッテで長らく控え外野手だった新谷が高卒3年目の欠端を伴い大洋へ移籍。相手に選ばれたのは左投左打外野手の竹之内と、駒田徳広の「満塁男」伝説を作るきっかけになったプロ初打席満塁本塁打を献上してしまった右田。
竹之内はロッテで4シーズン過ごして引退。
右田は稲尾和久監督からスローカーブを伝授され、従来の速球とスローカーブを駆使した緩急あるピッチングで7シーズン過ごして引退。
新谷は大洋では結局出番がなく1年で引退。欠端は速球とフォークを武器に先発ローテーションの一角を担うことになる。
広島と相性がよかったことから「カープキラー」と呼ばれ、大エース遠藤和彦がケガで離脱中はチーム最多勝を挙げる活躍などをし、1994年に引退。
なお、欠端の弟の信行は大相撲元幕下の外ヶ濱(伊勢ノ海部屋)。当時はプロ野球選手の兄と大相撲力士の弟という「異種スポーツ兄弟」としてマスコミをにぎわせ、プロ野球選手名鑑での欠端の趣味欄には「大相撲観戦」と書かれていたりした。
また、長女の瑛子はゴールボールの選手としてロンドンパラリンピックで金メダルを獲得している。

  • 田尾安志(中日)大石友好杉本正(西武)(1985年キャンプイン直前)
1984年、選手会長であり実力も人気も申し分なかった田尾に急転直下のトレードが言い渡された。これには多くのファンが激怒。トレード反対署名活動が起こり、大の田尾ファンだったイチロー少年は小学校の家庭科の授業でエプロンに「田尾もどせ」と刺繍して抗議したほどである。
それでも移籍を受け入れた田尾は西武で2年過ごした後、今度は吉竹春樹・前田耕司との交換トレードで阪神に移籍。引退後は楽天の初代監督を務めた。
どちらの移籍先でも開幕前の調整がうまくいかず、思うような結果は残せなかったと述懐している。
大石は中日に移籍後、中尾・中村武志の控え捕手となり、中日ファンにとっては伝説の近藤真市プロ初登板ノーヒットノーランを導き、抑えの郭源治の球を受けるリリーフキャッチャーとして活躍。杉本も左投げの先発として1986年はチーム最多勝を挙げる。その後ダイエーに移籍して引退。

  • 有田修三(近鉄)淡口憲治山岡勝(巨人)(1985年オフ)
内角主体の強気なリードが信条の有田は、温厚なリードの梨田昌孝とともに馬の合う投手「だけ」担当することでうまく力を引き出す「ありなしコンビ」として恐れられていた。近鉄には毎年のようにトレードの打診が来ていたが、有田は草魂・鈴木啓示の引退を機に出番を減らしており、1985年に巨人とのトレードが実現した。当初、江川・西本と先発3本柱を組んでいた定岡正二との1対1トレードで話が進んでいたが、定岡が移籍を拒否して電撃引退。
どうしても有田が欲しかった巨人はV9最後の生き残り・淡口とプロ未勝利ながら本格的右腕の山岡との交換で移籍合意にこぎつけた。
淡口は4年間近鉄で活躍し、1989年に引退。山岡は1991年まで現役を続けるも、プロで勝利を挙げることはできなかった。
一方の有田は山倉が復調した関係で2番手捕手として槙原寛己や加藤初の先発の際に出場するなど活躍した。1990年にダイエーにコーチ兼任として移籍し、翌年現役を引退。

  • 落合博満(ロッテ)牛島和彦上川誠ニ桑田茂平沼定晴(中日)(1986年オフ)
異例となる1対4のトレード。前年に「打率.360・50本塁打・116打点」で三冠王を獲得するなどロッテの主砲だった落合が師と仰ぐ稲尾和久監督が解任され、フロントに不信感を抱いたことで発生したトレード*13。彼は中日移籍後もタイトルを幾度と獲得するなど、チームの主軸として期待通りの働きを見せた。
むしろ今日では中日のオレ流監督やGMにアニメーション評論家としての活躍の方が著名か。この意味では中日は非常に長く得をしたと言える。
一方のロッテが獲得した4人は、牛島は守護神として最優秀救援のタイトルを獲るなどの大活躍を見せ、上川は二塁手のレギュラーおよび貴重なバイプレイヤーとして活躍。平沼も中継ぎ投手として9年間で261試合に登板するなど活躍したが、桑田は残念ながら活躍できなかった。

なお、この異例とも言える1対4のトレードを実施した理由について、当時中日の監督だった星野仙一は、「巨人が落合の獲得に動いており、実現してしまったら誰にも手に負えない超重量打線が完成してしまう。それを阻止するために何としてでも中日に来てもらわなければならなかった」などと、生前に遺した自らの著書で明かしている。
当初は1対2の予定だったのが、ロッテ側との交渉が難航したことで最終的に1対4になってしまったという。
しかも星野監督のミスのせいで牛島にはトレードの話が全く伝わっていなかったのだそうで、「新聞記事を読んで初めて知った」と苦言を呈してきた牛島に対して謝罪したらしい。
ここまでしてまで獲得した落合だったが、結局はFAで巨人に移籍されることになってしまうというのは何とも皮肉な話である。とはいえ中日在籍期間中の1988年にはリーグ優勝に貢献していることを考えれば、1987年の時点で落合が巨人入りすることを防いだという点では無駄だったとはいえまい。

  • 中尾孝義(中日)西本聖加茂川重治(巨人)(1988年オフ)
走れる捕手として定評がある中尾だが、この頃は球団と野球観で対立。外野をやらせたい球団とあくまでも捕手にこだわる中尾で摩擦が絶えなかった。
巨人は山倉和博・有田修三に対するカンフル剤として中尾の獲得を中日に打診。中日側が投手を熱望したため、西本・加茂川の放出で話が纏まった。中尾は巨人で活躍し、後に大久保博元とトレードで西武に移籍して引退。現在は専大北上高校の硬式野球部監督を務める。
西本は2年間で20勝・11勝と活躍するも椎間板ヘルニアで低迷し、オリックス・巨人と渡り歩いて引退。現在は評論家として活動する。
加茂川は1年で大洋にトレードし、2年間在籍するもプロ未勝利のまま引退。現在は会社員。

  • 門田博光(南海→ダイエー)内田強原田賢二白井孝幸(阪急→オリックス)(1988年オフ)
1988年、40歳にして打率.311・44本塁打・125打点で二冠を獲得した門田は「不惑の大砲」と呼ばれ、この年で消滅した南海ホークスでの選手生活に花を添えた。しかし、買収先のダイエーは福岡に本拠地を構え、ホーム球場となる平和台球場は内外野が人工芝だったことや、子どものために単身赴任を避けたくて何とか関西球団に残れないかと球団側に打診。移籍先に選ばれたのは阪急から名称が変わったオリックスだった。
門田は1968年にドラフト12位で阪急に指名されながらも入団を拒否していた経緯があり、実に21年越しのオリックス入団になった。1989年・1990年と2年連続で30本を超える本塁打を放ち、移籍後も「ブルーサンダー打線」の中軸を担って活躍する。
1991年に子どもの進学で単身赴任が可能になったのと、上田利治監督が辞任したことなどの理由から古巣にあたるダイエーに復帰し、2年間プレーして44歳で勇退した。
一方の原田と白井は目立った活躍ができず引退。内田はトレード初年と2年目はスタメンで捕手として登場していたが、吉永幸一郎が台頭してくると出番が激減し、1993年に引退。

  • 高沢秀昭水上善雄(ロッテ)高橋慶彦白武佳久杉本征使(広島)(1989年オフ)
1988年首位打者の高沢と、3度の盗塁王の高橋というタイトル獲得経験者同士が絡む2対3の大型トレード。
走力の衰えが顕著だった高橋と、練習場の整備を巡ってコーチといざこざを起こした白武を放出候補とした広島は、前年に首位打者を獲得するも、89年は不調だった高沢に白羽の矢を向ける。
そこに両チーム1人ずつ加えて実現したトレードだが、高沢は2年プレーした後金銭トレードでロッテに出戻り、水上は野村謙二郎とのレギュラー争いに敗れて1年でダイエーに金銭トレードで移籍。高橋は金田正一監督とそりが合わず、1年で遠山奬志との交換トレードで阪神に移籍。杉本は結果として一軍出場がないまま引退と、本件の大型移籍はどちらサイドも成功ではなかったと言わざるを得ない。成果は白武が4年間中継ぎメインで活躍できたというくらいか。
ところで本来、トレードは双方の球団が同時に発表するのが常だが、本件はロッテ側が承諾する前に広島が先走ってトレードを発表。結果的に破談にならなかったものの、ロッテ側が抗議して広島が謝罪するという顛末になった。

  • 池田親興岩切英司大野久渡真利克則(阪神)藤本修二西川佳明吉田博之近田豊年右田雅彦(ダイエー)(1990年オフ)
4対5の大型トレード。
開幕投手を2度務めた「球界のマッチ」池田は89・90年と2勝どまりと低迷。一方の西川も89・90年は1勝に甘んじ、彼らを中心に肉付けされたトレードとなった。
池田はチーム事情でリリーフに配置転換され、2年連続2ケタセーブを達成。その後ヤクルトに移って95年に引退。以降、長らくテレビ西日本の解説を務めている。
岩切はレギュラーをつかみ取れず、4年で14試合の出場にとどまり引退。大野は移籍初年度で盗塁王を獲得したが、徐々に出番が減って95年に中日で引退。渡真利は2年過ごした後、セ・リーグの審判員に転身。20年以上ジャッジを下す。現在は阪神園芸に在籍し、主に鳴尾浜球場の整備を担当している。
藤本・西川は結局阪神では未勝利に終わり、藤本は95年に西武で引退。西川は92年に引退。吉田は2年間で43試合に出場、レギュラー争いに敗れて引退。スイッチピッチャー近田は、結局話題性の先行を打破できずに2年で引退。ゴルフのレッスンプロに転身した。「左打だけど」右田は4年で3試合の出場にとどまり引退。先述の右田一彦の弟である。
結果として、ダイエーが少し得したトレードとなった。

  • 長嶋清幸(広島)山田和利音重鎮(中日)(1991年オフ)
NPB史上初めて背番号「0」を背負った長嶋は強打の外野手として活躍していたが、1990年に新人の前田智徳が挨拶してこないなど、自身に対する悪態に𠮟責をするとフロントから大目玉を食らう。
これを見かねた中日の星野監督が手を差し伸べる形で翌年にトレードを打診して移籍は成立。その後はロッテ・阪神と渡り歩いて引退。
一方の音は守備力の高い外野手としてチームに貢献。山田は内外野どこでも守るユーティリティープレーヤーとして活躍。すると、1995年に若林隆信(+金銭)との交換で2人そろって中日に復帰する。君たちはニコイチか。その後山田は1996年に引退。音も1999年に引退する。
なお、音の娘の華花は子役・アイドルを経て現在は舞台女優・パチスロライターを務める。山田の長男は俳優の山田裕貴

  • 秋山幸ニ内山智之渡辺智男(西武)佐々木誠橋本武広村田勝喜(ダイエー)(1993年オフ)
ダイエーの根本陸夫監督が計画した、1990年代を代表する電撃3対3トレード。トレードの目玉とも言える秋山と佐々木は移籍後も主力として活躍したが、西武にとって大きかったのは橋本の存在で、西武では貴重な中継ぎとして1995年~2001年まで7年連続50試合登板をするなど大きく活躍したことから、どちらかといえば西武が得をしたトレードであったと言える。ただし、ダイエー時代にエースとして君臨していた村田は西武では活躍できず、2年後に中日にトレードされた。
ダイエーは当時Bクラスの常連だったため、常勝球団の西武から選手を入れることで選手たちの意識を変えて勝てるチームを作るという目的があった。
さらに翌年、工藤公康と石毛宏典もFAでダイエーに移籍したことも幸いして、ダイエーは徐々に勝てるチームへと変革を遂げた。
なお、秋山は2002年の引退までダイエーで活躍した後、福岡ソフトバンクホークスに球団名が変わってからは二軍監督やチーフコーチを経て2009年から監督に就任。2度のリーグ優勝と日本一に導くなど、常勝軍団の礎を作った。
先述の落合もそうだが、「後の名監督を拾った」と評価できるトレードは数多いのだ。

  • 佐藤真一田畑一也(ダイエー)柳田聖人河野亮(ヤクルト)(1995年オフ)
バルセロナ五輪に出場した佐藤は強肩強打の外野手として27歳にしてプロ入りを果たし、即戦力として期待されたが、秋山幸ニらの壁に跳ね返され、出場機会をなくしていた。
田畑は1991年テスト生入団のドラフト10位ながら、4年で2勝と微妙な成績で、本人は出場機会を求めてトレードを志願していた。
ダイエー出身の柳田はトレードでヤクルトに移籍していたが、土橋勝征との二塁手の定位置争いに敗れてこの年は一軍出場ゼロに終わったことから出場機会を求めていた。
河野は俗に言う二軍の帝王
「互いに環境を変えたら実力を発揮して、活躍するのでは?」という意図から行われたトレード。
柳田は移籍当初は出場機会を得てオールスターゲームに出場するほど活躍したが、浜名千広・小久保裕紀・鳥越裕介・井口忠仁らとの定位置争いに敗れ、2001年に戦力外通告を受けて引退。指導者を経て現在は会社員。
河野は1996年・1997年と出場機会を得て活躍したが首脳陣の信頼を得るまで至らず、中日やオリックスへの移籍を経てこちらも2001年に引退。会社員を経て現在はDeNAのスカウトを務める。
佐藤はヤクルトで飯田哲也、真中満、稲葉篤紀、ドゥエイン・ホージー、アレックス・ラミレスらの中に入り定位置獲得まで行かなかったが、スーパーサブとして活躍。40歳まで現役を続けて2005年に引退。各球団で指導者をした後、2024年から札幌大学硬式野球部のコーチに就任。

  • 仁村徹酒井忠晴山本保司(中日)前田幸長平沼定晴樋口一紀(ロッテ)(1995年オフ)
仁村、前田を中心とした3対3のトレード。
捕手以外の8ポジションで出場経験のある仁村は、ロッテ移籍後は一塁手として打線の主軸を担う。翌年、指導者になるために引退。兄の薫とともに熱血指導でアライバなどを育て上げた。山本はユーティリティープレーヤーとして8シーズン過ごして引退。酒井は守備力の高さを評価され、小坂誠と鉄壁の二遊間を形成。2002年オフに中日に復帰、その後楽天に移る。
樋口は中日で2年過ごすと、ロッテに復帰。しかし、1年で戦力外通告を受け、阪神に移るも阪神でも1年で戦力外とされてしまった。
落合博満との1対4トレードでロッテにやって来て、清原和博との乱闘で知られる平沼は10年ぶりに中日に戻る。2年過ごしたのち西武に移って引退。現在は昇竜館の館長である。
前田は、移籍2年目に大幅に負け越してしまい、中継ぎ転向を志願。以降、たまに先発することはあったが主にリリーフとして活動した。
が、山田久志投手コーチと関係が悪く、監督就任時に大幅減俸を提示されたため、FAで巨人に移籍する。
以上、中日ーロッテ間を行ったり来たりが3人もいるトレードだった。

  • 武田一浩松田慎司(日本ハム)下柳剛安田秀之(ダイエー)(1995年オフ)
武田と下柳をそれぞれ中心とした2対2のトレード。
武田は1988年にドラフト1位で日本ハムに入団して以降、時にリリーフ、時に先発とフル回転して日本ハム投手陣を支えていたが、
1995年は開幕前に左足肉離れで出遅れ、同年に就任した上田利治監督との確執もあって二軍で規定投球回に到達して最優秀防御率を獲得するなど二軍暮らしとなっており、オフにはトレード要員となっていた。
一方の下柳は自身が酷使の犠牲者であることから投手を大事に起用することで知られていたあの権藤博コーチが唯一平然と酷使する程のタフネスぶりで左のリリーフとしてダイエー投手陣を支えていたが、
こちらも1995年は開幕直後に自動車運転中のスピード違反に起因する交通事故で上顎骨折などの重傷を負い、わずか2勝と期待外れの成績に終わる。
日本ハムは同年オフ、FAで左投手の河野博文が巨人に流出したことから左投手の補強が急務となっており、そんな折にダイエーから下柳を交換要員として提示されたが、
ダイエー側の内部で「下柳ならもっといいトレードができる」として1対1のトレードへの反対意見が上がったため、
互いに微調整を行った末に松田と安田を巻き込んだ2対2のトレードが成立した。

……なのだが、実はこのトレードには裏話がある。
ダイエーへのトレードが成立する前には同年オフに中日監督に復帰した星野仙一が明治大学の後輩である武田の獲得を狙っており、
武田本人も星野の下でプレーすることを希望していた。
武田本人が後年に二宮清純に語った話では、ダイエーとのトレードが成立する当日の午前中までは中日の与田剛とトレードされる予定だったが、
中日側が与田の放出を渋った*15ことが原因で中日へのトレード話はなくなり、ダイエー監督・王貞治の希望が通る形になったという。

その後、武田は1996年から1998年までダイエーで左の工藤公康と並ぶ右のエースとして活躍。
チームが最下位に沈んだ1996年は孤軍奮闘の15勝を挙げ、1998年には13勝で最多勝を獲得すると、それを置き土産に同年オフには相思相愛だった星野中日に移籍、1999年には9勝を挙げて中日の優勝に貢献した。
ダイエー時代は工藤とともに後の正捕手である城島健司の成長にも一役買っており、成績はもちろんのことそれ以外の面でも武田獲得はダイエーにとって大成功だったと言える。
一方の下柳も日本ハムで見事復活を果たし、後述のように2002年オフに阪神へトレードされるまで主にリリーフ、時に先発として投手陣の柱を担ったことから、このトレードもまさにWin-Winと言えるだろう。
当初の構想通り武田↔与田トレードが成立していたらどうなっていたことやら。

松田はダイエーでは結果を残せず2年で戦力外になるが、テスト入団したヤクルトで左の中継ぎとして活躍、2001年にはリーグ優勝・日本一に貢献。
引退後もスカウトとして山田哲人や村上宗隆を発掘している。
安田は日本ハム移籍後にダイエー時代を上回る出場機会を得るも、1997年終盤に同じ右打者で一塁・外野を守る西浦克拓が台頭してきた煽りで戦力外通告を受け、
地元・愛知県に本拠地を置く中日に移籍。1999年からはトレード相手だった武田とチームメイトになり、2000年限りで引退、
その後は打撃投手やスコアラーとしてチームに残り続けている。

  • 石井浩郎(近鉄)石毛博史吉岡雄二(巨人)(1996年オフ)
近鉄の4番として1994年に打点王を獲得した石井は、翌年以降ケガに悩まされるようになった。1996年は2試合に出場にとどまり、契約更改で野球協約の制限を超える62%ダウンの提示を受け激怒。その後の交渉も難航し、石井は退団の意思を固める。一方、球団側は「トレードになるだろう」とメディアに先んじて語ってしまい、これに対して選手会が待ったをかける*16。結果として、減額制限いっぱいの30%ダウンで契約更改したうえで、トレードが成立した。
相手は巨人で100セーブを達成したが救援失敗が目立つようになっていた石毛と、なかなか出番を与えてもらえていなかった未完の大器・吉岡だった。
石井は6月に一軍昇格すると、いきなり巨人の天敵であった大魔神佐々木から本塁打を打つなど一定の活躍を見せる。しかし、ケガが多くなかなかフル稼働できず、99年オフにロッテにトレードされる。
吉岡は1998年から6年連続2桁本塁打を放つなど、近鉄の主力に成長。分配ドラフトでは新規球団への入団を希望し、楽天に加入。2008年まで所属する。
石毛はチーム事情で先発転向するも結果が残せず2002年に戦力外通告を受ける。その後阪神にテスト入団し、所属した3球団すべてでリーグ優勝を経験して2005年に引退。

  • 伊良部秀輝(ロッテ)ジェイソン・トンプソンシェーン・デニス(サンディエゴ・パドレス)(1996年オフ)
  • 伊良部秀輝ホーマー・ブッシュ(パドレス)+金銭ルーベン・リベララファエル・メディーナ(ニューヨーク・ヤンキース)(1996年オフ)
日米双方の球界を騒がせた、いわゆる「伊良部メジャー移籍騒動」である。
3年連続2桁勝利、2年連続最優秀防御率を獲得した伊良部だが、当時の廣岡GMからKOされた試合後に「闘争心がない」と酷評され、球団に不信感を募らせる。そこで中学時代からの夢だったヤンキース入団を実現すべく、メジャー挑戦を表明。しかし、当時の彼にはFA権がなく、ロッテ球団は業務提携していたパドレスと交渉して1対2のトレードを成立させる形でメジャー移籍を容認した。
だが、「ピンストライプのユニフォームの重さというのは野球を経験した者にしか分からない」とあくまでヤンキース入りを目指す彼はこれを拒否。野茂英雄をドジャース入団に導いた団野村を代理人に立て、パドレス・ヤンキース間で2(+金銭)対2のトレードを成立させた。
MLBでは3球団間でのトレードは割とありふれているが、当時のNPBではいわゆる「荒川事件」「江川事件」しか前例がなく、実質タブー視されていた。
この騒動により、他のMLB球団から機会均等を求める声が上がり、NPBにおけるポスティング・システムの確立に繋がった。
なお、ロッテにやってきたトンプソンは1年目こそチーム最多本塁打タイを記録するが、翌年は外国人枠に押し出される形でシーズン途中に退団。デニスも期待通りの活躍ができずもれなく退団する。

  • 大豊泰昭矢野輝大(中日)久慈照嘉関川浩一(阪神)(1997年オフ)
1990年代後半の暗黒阪神と中日のトレード。
このトレードの目玉は何と言っても矢野であろう。中日では中村武志の控え捕手として2番手捕手に甘んじていたが、阪神に移籍すると水を得た魚のごとく活躍して瞬く間に正捕手となり、2003年と2005年のリーグ優勝に大きく貢献。引退後は監督も務めるなど矢野にとっては大出世と言えるトレードであった。
他の選手たちも大豊は1990年代後半の暗黒阪神では貴重な一発の打てる選手として活躍し、関川も1999年のリーグ優勝に貢献して外野手のレギュラーとしてベストナインを受賞。久慈も貴重なバイプレイヤーとして活躍するなど4人とも一軍戦力として機能した。
うち関川・久慈は後に阪神でコーチを経験している。

  • 波留敏夫(横浜)種田仁山田博士(中日)(2001年途中)
NPBが公式に認める、シーズン途中での年俸1億円の選手の初のトレード例。
バイプレーヤー的な存在の内野手と先発中継ぎの両方ができる投手を求めていた横浜の森祇晶監督が、野球観の合わない波留を交換要員に中日の星野監督に打診したことでトレードが決まった。
波留は「逆指名で横浜に入団したのでこのまま横浜で終わりたかった」と号泣した。
星野監督は波留に期待したが期待に応えられず、2002年オフに酒井忠晴とのトレードでロッテへ移籍。ここでも期待に応えられず、2004年オフに球団から戦力外通告を受けて現役を引退した。
独特な打撃フォームで知られる種田は横浜で規定打席到達も達成するなど活躍し、西武へ移籍して2008年に引退。その後…。
山田は横浜で2005年に引退。

  • 下柳剛中村豊野口寿浩(日本ハム)伊達昌司坪井智哉山田勝彦(阪神)(2002年オフ)
2002年オフに阪神の星野監督が試みた「血の入れ替え」により発生した阪神と日本ハムのトレード。厳密に言えば坪井と野口の1対1のトレード発表の1週間後に下柳・中村⇔伊達・山田の2対2のトレードが発表された形である。
下柳は先発投手として大きく活躍し、2003年と2005年のリーグ優勝に貢献。中村は2005年9月の中日との天王山で値千金の勝ち越し本塁打を放ち、野口も矢野に次ぐ控え捕手としてチームを長らく支えるなど阪神にとっては非常に大きなトレードになった。
一方、日本ハムは坪井がレギュラーとして活躍し、伊達も移籍後は貴重な中継ぎとしてチームを支えたが、山田は移籍後3年間で43試合の出場に終わるなど振るわず、トータルでは阪神が得をしたトレードと言える。

  • 石井義人細見和史(横浜)富岡久貴中嶋聡(西武)(2002年オフ)
石井は打撃の素質は認められつつも守備難から一軍に定着できていなかったが、トレード後は開花し複数年にわたり3割近い打率を残す好打者に成長。西武打線の一員を担う主力として定着し、古巣への在籍期間を大きく上回る9年間を西武で過ごした。
その後、2011年オフにトライアウトで巨人へ入団。新天地ではもっぱら代打の切り札として活躍し、2012年のCSファイナルステージではサヨナラ打を放つ活躍でMVPを受賞。2013年をもって引退し、現在はトラック運転手になっている。
細見は横浜時代からの怪我に苦しみ続け、西武でも2試合の登板に終わったことで戦力外通告を受ける。入団テストを経て阪神に移籍したが一軍での出場を得られず、2003年をもって引退。現在は不動産業に勤務。
一方の富岡は2003年にキャリアハイとなる38試合に登板。2004年は10年目にしてプロ初勝利を挙げたが、これも含めて4試合にとどまったことで戦力外通告を受け、トライアウトで復帰した西武でも一軍出場なしに終わり、2005年オフに金銭トレードで楽天へ移籍する。
中嶋も若手の相川亮二、谷繁元信と入れ替わりで中日から移籍してきた中村武志との正捕手争いに参戦する形でハイレベルなポジション争いが期待され、開幕マスクこそ被ったものの以降は故障や打撃不振などで結果を残せず、中村の復調や相川の台頭で脱落したことからオフに金銭トレードで日本ハムへ移籍。

  • 岡島秀樹(巨人)實松一成古城茂幸(日本ハム)(2006年開幕直前)
潜在能力は高いが安定した成績が残せない岡島、守備は優秀だがバットに当たらない實松、内外野全て守れるが特徴がない古城という3人を、「互いに環境を変えたら実力を発揮して、活躍するのでは?」という意図から行われたトレード。
岡島は才能を開花させて左のセットアッパーと活躍し、2006年のリーグ優勝および日本一に貢献*17。2007年から挑戦したMLBでも日本人投手として初めてワールドシリーズに登板し、レッドソックスの世界一に貢献。ソフトバンクでも2014年のリーグ優勝および日本一に貢献し、2015年はDeNAに移籍して引退。
實松は2019年まで現役を続けて引退。息の長い控え捕手だった。
古城も控え選手として2013年まで現役生活を全うした。引退後はスカウトやコーチを歴任し、2025年から内野守備・走塁コーチを務める。

  • 谷佳知(オリックス)鴨志田貴司長田昌浩(巨人)(2006年オフ)
谷は主に外野手として5度のリーグ優勝と2度の日本一に貢献し、2010年に同学年の木村拓也が急逝した際には追悼試合で満塁本塁打を放ち、ヒーローインタビューでは涙ながらに木村への思いを語った。2013年オフに戦力外通告を受け、古巣に復帰して2015年に引退。
鴨志田は巨人時代を上回る6年間をオリックスで過ごし、2013年をもって引退。長田も2008年以降一軍出場がなく、2010年途中に引退した。

  • 濱中治吉野誠(阪神)平野恵一阿部健太(オリックス)(2007年オフ)
阪神とオリックスのトレード。濱中は前年の2006年には規定打席到達で3割20本を達成するなど阪神待望の右の生え抜き大砲として活躍していたが、翌2007年は林威助や桜井広大の台頭によりレギュラーを剥奪されてしまう。吉野も星野監督時代の2002年・2003年は貴重な中継ぎとしてチームを支えていたが、岡田彰布監督の就任後はJFKの台頭により存在感が薄くなってきている状況であった。
一方、オリックスが放出した2人は平野は怪我恐れないアクロバティックなプレーでブルーウェーブ末期から合併したてのオリックスを支えていたが、2006年の試合中に負った大怪我以降は故障や打撃不振もあってやや精彩に欠けている状態で、阿部も近鉄時代の2003年には高卒1年目ながら先発で2勝を挙げるなど将来のエース候補として期待されたがその後はパッとせずと、当時両チームで燻っていた4選手同士のトレード。
結果はどちらといえば阪神が得をし、平野は藤本敦士から二塁手のレギュラーを奪って2012年まで5年連続規定打席に到達するなどチームの主力として大活躍し、2008年にはカムバック賞も受賞。阿部も移籍1年目の2008年は32試合登板など出場機会を大きく増やした。
一方の濱中は移籍1年目こそ9本塁打を放ったが以降はパッとせず、2010年オフに戦力外通告を受けてヤクルトに移籍。吉野も2008年~2013年のオリックス在籍6年間のうち3年は40試合以上に登板するなど中継ぎとしてチームを支えたが、2013年にソフトバンクに再びトレードとなり、その年のオフに戦力外通告を受けて現役を引退した。

  • 二岡智宏林昌範(巨人)マイケル中村工藤隆人(日本ハム)(2008年オフ)
二岡は長年巨人で遊撃手の定位置を守っていた川相昌弘を1年目で追いやってレギュラーを奪取し、長打力もあって後に選手会長も務めるなど攻守の要だったが、2008年に女性スキャンダルを起こし、同様に不祥事を犯した林と2人揃って懲罰的なトレードに。
日本ハムではマイケルが抑え投手として活躍するも年俸が高騰し、チームの財政事情を圧迫することから、「右の強打者と左の中継ぎを求めていた」という名目で二岡と林を受け入れ、マイケルと工藤を放出した。
二岡は故障もあって巨人時代ほどの活躍はできずに引退。後に古巣へ復帰し、三軍監督や二軍監督を経て現在は巨人のヘッド兼打撃チーフコーチを務め、2024年のリーグ優勝に貢献。
林はDeNAへの移籍を経て引退。現在は船橋中央自動車学校の専務。
マイケルは西武に移籍して引退。
工藤はロッテ・中日と渡り歩き引退。現在は阪神で二軍外野守備走塁コーチを務める。

  • 迎祐一郎(オリックス)+金銭喜田剛長谷川昌幸(広島)(2010年途中)
迎は2012年、初の1試合2本塁打や9回裏1点ビハインドの場面に代打で登場して起死回生の同点適時打を放つなどの活躍を見せ、自己最多の55試合に出場。しかし2014年は4試合の出場に終わったことで戦力外通告を受け、現役を引退した。
一方の喜田はNPB新記録となる10人連続安打の一員になるなど主に代打として活躍し、オフに再び2対2トレードで横浜に移籍。オリックス在籍期間はわずか205日であった。
長谷川は炎上と打線の援護を得られない好投を繰り返すという波の激しいピッチング。翌年は1年目以来となる一軍登板なしに終わり、オフに戦力外通告を受けて引退した。

  • 寺原隼人高宮和也(横浜)喜田剛山本省吾(オリックス)(2010年オフ)
寺原はオリックスで2年過ごし、2012年オフにFA権を行使してソフトバンクに復帰した。
高宮は2011年の春季キャンプ中にオーバースローへ再転向し、シーズンを通して安定した成績を残す。しかし2012年は1試合の登板に終わり、オフにFA移籍してきた平野恵一の人的補償で阪神に移籍。
一方の喜田は一軍出場なしに終わり、オフに戦力外通告を受けたことで引退。
山本は移籍1年目にもかかわらず初の開幕投手に指名されたが、数試合続けて序盤で早々にKOされるなど打ち込まれるケースが目立ち、11敗目を喫して以降は配置転換されたリリーフとしても結果が出なかった。
球団が横浜DeNAベイスターズとして再出発した2012年はオープン戦から好調を維持し、降雨コールドながらDeNAとして初の完封勝利を収める。しかしその後は勝ち星がないままシーズンを終え、オフに3対3トレードでソフトバンクに移籍。

  • レビ・ロメロ福元淳史(巨人)久米勇紀立岡宗一郎(ソフトバンク)(2012年途中)
珍しく外国人選手が絡む2対2トレード。ロメロは巨人時代からの弱点だったクイックや走者を出した時の不安定な投球が改善されず、3試合の登板に終わったことでこの年限りで退団。その後は独立リーグでプレーした末に2015年をもって引退し、現在はMLBのマイナーでコーチを務める。
福元は移籍早々にプロ初の一軍昇格を果たしたものの2年間で16試合の出場にとどまり、2013年に戦力外通告を受けて引退。現在は中国・四国地方担当のスカウトを務める。
一方の久米も新天地では一軍昇格を果たせず、この年限りで引退。

……と3人が移籍後も振るわなかった中、特筆すべきは立岡の存在。移籍早々に守備で負傷し、後遺症によって右打席でバットを振れなくなったことから左打ちに転向して以降は主に代打・代走・守備要員としてさまざまな役割を担いつつも、2015年にはキャリアハイとなる91試合に出場して規定打席未到達ながら打率3割を残し、2022年にはプロ初のサヨナラ本塁打を放つなどスポット的に活躍したが、後に守備で重傷を負い、一度は育成契約になりながらも懸命なリハビリを経て2024年途中に支配下へ復帰。7年ぶりの猛打賞を記録するなど復活を印象付けたが、シーズン終了後に引退を発表した。2025年からは三軍コーチを務める。
トレード時は久米の方が期待されていたが、終わってみればソフトバンク時代を上回る12年を巨人で過ごすなどこのトレードの中で最も長生きであった。

ちなみに、福元と立岡は2013年5月15日に揃ってプロ初安打を放ち、揃ってヒーローインタビューを受けるという奇妙な縁がある。

  • 東野峻山本和作(巨人)香月良太阿南徹(オリックス)(2012年オフ)
東野は2009~11年の3年間、先発で規定投球回数到達を果たした巨人を代表する先発投手。反面、原監督と野球観が合わず揉めており、トラブルメーカーの側面もあった。山本は内外野全て守れる汎用性の高い選手。
オリックスは先発投手と野手が欲しいことから、中継ぎ投手の強化を目指す巨人に中継ぎ投手として活躍していた香月と、潜在能力が高いが活かしきれていない阿南を巨人へ放出して互いの利害が一致した。
しかし、東野は2年で戦力外通告を受けてDeNAに移籍。そこでも2年後に2度目の戦力外通告を受けて引退と、巨人時代の輝きを取り戻すことはできなかった。
山本はオリックスの1年目こそ活躍したが、その後はパッとせずに2015年に戦力外通告を受けて引退。大阪経済大学硬式野球部監督を経て2023年からオリックスの球団職員。
香月と阿南も2016年まで巨人に在籍し、揃って戦力外通告。香月は社会人を経験して現在は独立リーグの兼任コーチを務め、阿南は球団職員に転身。

  • 糸井嘉男八木智哉(日本ハム)赤田将吾大引啓次木佐貫洋(オリックス)(2012年オフ)
トレード対象の5人のうち野手は3人がシーズン規定打席到達、投手2人は規定投球回到達経験があるなど主力同士の2010年代を代表する大型トレード。
目玉の糸井は移籍後のオリックスでも球界を代表するアホの子*18外野手として活躍し、4年間在籍した後FAで阪神に移籍。一緒に移籍した八木はオリックスで未勝利に終わるなど活躍できず、2014年オフに戦力外になって中日に移籍。一方、日本ハムが獲得した3人は、大引は2年間チームのレギュラーを務め、木佐貫も移籍1年目は規定投球回に到達するなど活躍し、赤田も貴重な控え外野手としてチームを支えた。八木が活躍できなかったことから実質「1対3のトレード」と言われることもあるが、結果を見れば比較的釣り合っていたとも言える。

  • 新垣渚山中浩史(ソフトバンク)川島慶三日高亮(ヤクルト)(2014年途中)
新垣は2004から3年連続二桁勝利を達成するなど力の有る球を投げるが制球難に定評があり、山中は制球力に定評があるが球威がないのが玉にキズの投手だった。
川島は元々日本ハムから2007年オフに複数トレードで入団し、2009年は規定打席に到達。内外野全て守れる汎用性の高い選手だったが、それ以外の年は怪我に泣かされ続けた。
日高は2008年に入団し、2012年に中継ぎで活躍した以外は怪我に泣かされて続けた。
そこで「互いに環境を変えたら活躍するのでは?」という両球団の思惑からトレードが成立。
しかし、日高は2015年オフ、新垣も2016年オフに戦力外通告を受けて退団。
山中はヤクルトで先発もロングリリーフもこなせる下手投げとして重宝され、2020年に現役引退。現役通算17勝は全てヤクルト時代で、阪神戦で通算7勝、甲子園での阪神戦だけで5勝を挙げるなど、阪神キラーと呼ばれた。
「チャンスを与えてくれたヤクルトには感謝しかなく、野球への悔いもない」
とのことで、引退後はヤクルト本社の営業部で勤務している。
川島はソフトバンクでスーパーサブとして起用され、汎用性の高い内外野守備としぶとい打撃でチームに貢献したが、2021年に戦力外通告。オフに楽天に入団したが、翌年はコロナ禍に泣かされて体調不良が長く続き、思うような活躍ができずに引退。2023年は二軍、2024年からは一軍で打撃コーチを務めた。

  • 大田泰示公文克彦(巨人)吉川光夫石川慎吾(日ハム)(2016年オフ)
中田翔や筒香嘉智に匹敵する潜在能力を持つと評され、松井秀喜の背番号「55」を与えられながらも伸び悩む大田になかなか登板機会を貰えない公文と、ドラフト1位で入団しながらここ一番で期待に応えられない吉川に打力はあるが守備に難がある石川と、「互いに環境を変えたら活躍するのでは?」という両球団の思惑からトレードが成立。
大田は規定打席に到達し、日本ハムのファンから当初は「巨人を出る喜び」などと揶揄されたが、後の方になると双方のファンから「こんな選手だったっけ……」と称賛された。
その後はノンテンダー*19による自由契約となったことから高校時代に活躍を見せた横浜スタジアムを本拠地とするDeNAに移籍。スーパーサブとして活躍したが、故障がちであったこともあり2024年に戦力外通告を受けて引退。
公文は日本ハムを経て複数トレードで2021年途中に西武に移籍。怪我に泣いたことで2023年をもって引退。
吉川は日本ハム時代の輝きを取り戻すことはできず、2019年途中に複数トレードで日本ハムに復帰。
石川は出番こそ少ないながらも要所で活躍し、中でもマジック20を点灯させた2019年8月24日の代打サヨナラ本塁打は「巨人ファンが選ぶ今シーズン印象に残った選手」第3位、「ファンが選ぶ名シーンベスト10」第1位に選ばれたほど。2023年の途中に野手が手薄になっていたロッテへ移籍した。

  • 宇佐見真吾吉川光夫(巨人)藤岡貴裕鍵谷陽平(日本ハム)
令和初のトレード。
捕手のライバルが多かったことで巨人では出番に恵まれなかった宇佐見は移籍を機に出場機会を大きく増やし、2022年にはキャリアハイとなる81試合に出場。しかし、開幕マスクを被った2023年は9試合で無安打と結果を残せず、6月に2対2トレードで中日へ移籍。
古巣へ復帰した吉川は2年間で9試合の登板にとどまり、2020年オフに金銭トレードで西武に移籍。
一方の藤岡はこの年一軍登板なしに終わり、続く2020年も12試合の登板にとどまったことで戦力外通告を受けて引退。アカデミーコーチを経て現在は打撃投手を務める。
鍵谷はこの年27試合、2020年にはチームトップの46試合に登板するなどフル回転してリーグ連覇に貢献。続く2021年もキャリアハイとなる59試合に登板するなど巨人のブルペンを支え続けたが、その後は出場機会が減少し、2023年をもって戦力外通告を受ける。育成契約で古巣に復帰し、支配下登録に戻ったものの一軍登板がないまま引退を表明。
引退試合では1年目の2013年以来11年ぶりに先発し、打者2人を抑えて有終の美を飾った。試合後には引退セレモニーが行われ、同期入団の大谷翔平から労いのビデオメッセージも流された。

  • 池田駿髙田萌生(巨人)ゼラス・ウィーラー高梨雄平(楽天)(2020年途中)
巨人と楽天のトレード。厳密に言えば6月の開幕直後にまず池田とウィーラーのトレードが発表され、その翌月に髙田と高梨のトレードが行われた形である。
池田は推定年俸1450万円、ウィーラーは推定年俸2億円と「年俸格差トレード」としても話題に。
ウィーラーは2021年は新外国人のジャスティン・スモークとエリック・テームズの加入で出番が減少……と思いきや、テームズが出場早々負傷し、スモークも家庭の都合で電撃退団、さらにその埋め合わせで途中来日したハイネマンも体調不良で即退団と、この年の巨人は助っ人野手に呪われたシーズンになり、そんな中で彼は22試合連続安打記録を記録するなど孤軍奮闘し続けた。2022年をもって引退し、現在は巡回打撃コーチを務める。
一方の池田は楽天でも振るわなかったことで2021年をもって引退したが、猛勉強の末にプロ野球選手では2人目となる公認会計士の資格を取得。
続く7月には髙田と高梨のトレードが発表される。髙田は楽天の2年間でも7試合の登板にとどまったことで2023年に自由契約になり、現在は地元の社会人野球でプレーしている。一方の高梨は変則サウスポーとして巨人のリリーフを支え続け、2020年と2024年のリーグ優勝に大きく貢献。年齢も含めてブルペンリーダーとして救援陣を盛り立てている。

  • 江越大賀齋藤友貴哉(阪神)渡邉諒髙濱祐仁(日本ハム)(2022年オフ)
右の野手を探していた阪神と投打に高い潜在能力を誇る選手を欲していた日本ハムの思惑が一致したことによるトレード。
高い身体能力を誇りながらも打撃に難があり、致命的なミート力に欠けていたことから「4ツールプレイヤー」とも揶揄されていた江越は、たびたびの負傷を押して出場を続け、2023年は初の100試合出場をクリア。打撃でも2018年以来5年ぶりとなる本塁打を放つなど存在感を見せていた。しかし、2024年は19試合の出場にとどまったことで戦力外通告を受け、引退を表明。
齋藤は移籍早々紅白戦で右膝前十字靭帯断裂の重傷を負ったことで2023年は全休したが、復帰した2024年はキャリアハイとなる25試合に登板。いつしか「さいこうゆきや」という愛称が定着するようになる。
一方、渡邉は代打としての起用が中心ながらも「直球破壊王子」の異名通り要所でパンチ力のある打撃を披露。オリックスとの日本シリーズでは第1戦で山本由伸から先制適時打を放って日本一に貢献した。
しかし、兄の卓也も所属していた阪神に入った髙濱は一度も一軍で出場機会を得られず、2024年オフに戦力外通告を受けた。

  • 山本拓実郡司裕也(中日)齋藤綱記宇佐見真吾(日本ハム)(2023年途中)
中日と日本ハムによるトレード。山本は日本ハムのブルペンを支え続け、郡司もユーティリティーとしてさまざまなポジションで出場。2024年にはオールスターにも出場した。
一方の中日組も、齋藤はオリックスからの移籍時にもトレードを経験。史上12人目となる同一シーズンに2球団での勝利投手および、史上2人目となる「通算3勝を全て異なる球団で挙げる」という珍記録を達成。宇佐見も巨人から日本ハムに移籍する際にも2対2トレードを経験しており、8月に3本のサヨナラ打を放つなどの勝負強さを見せた。
総じて「Win-Win」のトレードと言えよう。

  • アダム・ウォーカー(巨人)高橋礼泉圭輔(ソフトバンク)(2023年オフ)
巨人とソフトバンクで行われた1対2トレード。
この年のソフトバンクは助っ人外国人が総崩れになっており、2022年に23本塁打を放った実績を持つウォーカーに着目。投手陣の補強を望む巨人と利害が一致したことや指名打者制のあるパ・リーグなら優位に働くということでトレードが決定。開幕スタメンに名を連ねたものの、パ・リーグの壁にぶつかったことで1年を通して二軍暮らしが多く、この年限りで退団。
一方の高橋は開幕ローテーション入りを果たし、4月までは初見では打ちにくいアンダースローの利を生かして好投を続けたものの、5月頃からは対策が進んだことで打ち込まれる試合が多くなった。
かねてから巨人ファンだった泉もシーズンのほとんどで一軍に同行し、ビハインド時や延長戦を中心に登板。「長嶋茂雄DAY」と称された記念試合でプロ初セーブを挙げるなどリーグ優勝に貢献した。


金銭トレード

選手を金銭と交換するトレード。
選手を放出する側は対価として選手は獲得できないが、文字通り一定の金銭の受け取りや支配下枠を空けられるなどのメリットがある。

  • 江夏豊(南海)広島(1977年オフ)
NPB初のクローザーとして地位を確立させた彼だったが、野村監督が解任されたことで自らも退団を志願し、金銭トレードで広島に移籍。
阪神時代の晩年から衰えていた直球の威力が回復した*20ことで投球の幅が広がり、1979年は4年ぶりのリーグ優勝に貢献。プロ13年目で初の優勝を味わい、優勝を決めた10月6日の古巣との試合で胴上げ投手になった。
近鉄との日本シリーズでは後世に伝わる「江夏の21球」という自分で無死満塁にして自分で零封する球史に残る劇場大リリーフ劇で球団史上初の日本一に導き、セ・リーグMVPを受賞。翌年もチームのリーグ・日本一連覇に貢献し、オフに交換トレードで日本ハムへ移籍。

  • 安仁屋宗八(阪神)広島(1979年オフ)
この年にドン・ブレイザー監督が就任すると練習態度を巡って対立し、シーズンの大半を二軍で過ごしたことでオフにはコーチ就任を打診される。すると、広島の古葉竹織監督から「現役を続けたいなら戻ってきてもいいぞ」と誘われ、球団に相談の上で広島に金銭トレードで復帰(無償トレード説もあり)。
十二指腸潰瘍を発症したこともあって1981年に引退し、以降は投手コーチや二軍監督を務め、3度のリーグ優勝と1984年の日本一に貢献。選手を繁華街に連れまわす半面、川口和久・津田恒実黒田博樹・大竹寛などを熱心に指導。二軍時代の金本知憲にも覚醒のきっかけを作るアドバイスをしている。
立派な白髭とカープの赤いユニフォームから「安仁屋サンタ」と呼ばれていた。

  • 加藤英司(近鉄)巨人(1985年オフ)
近鉄で2年プレーした3度の打点王、加藤を巨人が金銭トレードで獲得。全球団からの本塁打を達成するも、中畑清から一塁手のレギュラーを奪えず、おもに代打として68試合の出場にとどまる。
オフに自由契約を通告されて、南海へ移籍。パ・リーグ関西3球団に現役として所属した数少ない選手となった。
5月にかつての同僚にして同期入団の山田久志から本塁打を放ち、通算2000本安打を達成し同年限りで引退。
引退後は日ハム、オリックスでコーチを務め、小笠原道大や坂口智隆の打撃の師匠として知られる。

  • ラルフ・ブライアント(中日)近鉄(1988年途中)
来日した彼は当時26歳と若いこともあり、中日としては二軍で経験を積ませた上で将来の戦力に育てる方針だったが、1988年に当時近鉄の主砲だったリチャード・デービスが「大麻所持で逮捕・退団(起訴猶予)」というとんでもない事態を引き起こしてしまう。急遽代わりの外国人を探すことになった近鉄は、二軍にいた彼に目をつけて中日に譲渡を打診する。中日側も当時一軍の外国人は2人しか登録できず*21、外国人枠は郭源治とゲーリー・レーシッチで埋まっていたことや、上記の通り当面の間は一軍で起用するつもりがなかったこともあり、近鉄からの打診を「一軍で使うこと」を条件に了承し金銭トレードが成立(無償トレード説もあり)*22
移籍したブライアントは中西太打撃コーチの粘り強い指導もあって主砲として覚醒。在籍した1988年~1995年の8年間で三振こそ多いが*23通算259本塁打の豪快な打撃でチームを牽引し、本塁打王3回・打点王1回に1989年のパ・リーグMVPを受賞するなど球団史に残る名助っ人になった。
惜しまれつつも1995年をもって退団したが、近鉄ファンは入れ替わるようにして入団したタフィ・ローズに彼の後釜としての役割を期待するようになる。後釜になれたのはご存じの通り。

  • 蓑田浩二(阪急)、津末英明(日本ハム)巨人(1988年オフ)
走攻守三拍子揃ったトリプルスリー経験者ながら成績の衰えが顕著だった蓑田を、東京ドーム完成に際して外野守備のうまい選手を探していた巨人が目をつけて移籍を打診。一方の津末は日本ハムで一塁手や指名打者として出場していたが、1987年に不振に陥るとそのまま出番を失っていた。この年に構想外になったところを巨人の監督に復帰した藤田元司に見出され、高校・大学時代のチームメイト原辰徳を介して移籍を打診。それぞれ金銭トレードで移籍が成立した。
2人とも1989年のリーグ優勝に貢献するも、翌年途中に揃って引退表明。以降、シーズン終了まで打撃コーチ補佐やベースコーチなどを任されることになった。

  • 本原正治山田武史(巨人)ダイエー(1990年途中)
巨人の投手陣の選手層の厚さによりほとんど出番のなかったこの2人が、投手陣の相次ぐ故障で最下位にあえいでいた田淵監督率いるダイエーに声をかけられ、金銭トレードが成立する。
もっとも、2人合わせて移籍金が100万円だったことから「実質無償トレード」と呼ばれている。
山田は同年20試合に登板するも、肩・膝の故障で翌年に引退。
本原は先発ローテーションに入る活躍ぶりを見せ、この年はプロ初勝利を含めた5勝を挙げ、そのうち3勝がこの年優勝した西武から挙げたもので「レオキラー」と呼ばれた。
翌年にはオールスターにも出場したが、相手チームが研究し始めると打たれ始め、1993年オフに広島へ移籍。1994年限りで自由契約になった。
パンチ佐藤(プロ通算3本塁打)にホームランを打たれた数少ない投手のうちの1人であり、実はイチローの一軍初打席の相手でもある。

  • 長嶋一茂(ヤクルト)巨人(1992年オフ)
国民的スターである長嶋茂雄の長男でもある彼は1987年にドラフト1位でヤクルトに入団し、プロ初安打を本塁打で飾って「ミスター二世」として注目を集めたが、1990年に就任した野村監督の「ID野球」に全くなじめず、1992年にはプロ初の一軍出場なしに終わってしまったところを、茂雄が監督に復帰した巨人に金銭トレードで移籍することになる。
1993年こそ46試合に出場したが1994年は右肘の故障によってまたしても一軍出場なしに終わり、1995年をもって茂雄から引導を渡される形で現役を引退した。
現在はタレントとして活躍しており、世代によっては彼が実際にプロ野球選手だったことを知らない人もいるかもしれない。

  • 西岡良洋(巨人)ロッテ(1994年オフ)
巨人へ移籍した彼だったが、毎年のように打撃成績が下降したことや、この年に同じ右打ちの外野手である岸川勝也がトレードで入団したことで、かつての恩師である廣岡がGMを務めるロッテに金銭トレードで移籍。開幕直後は代打要員として起用されたが、打率が1割を切ったことで二軍へ降格し、通算1000試合出場まで残り8試合に迫りながらこの年限りで引退。
その後は各古巣でコーチを歴任し、2002年には巨人へ復帰。外野守備・走塁コーチとして鹿取とともに2年ぶりのリーグ優勝と日本一に貢献した。現在は焼肉店を経営している。

  • 橋上秀樹(ヤクルト)日本ハム(1996年オフ)
主に代打や外野の守備要員として活躍していた彼は1996年オフに金銭トレードで日本ハムへ移籍し、1998年には左打者の小笠原道大とともに左右の代打の切り札として活躍。
しかし1999年は不振だったことでオフに戦力外通告を受け、ヤクルト時代の恩師にして阪神の監督に就任していた野村に請われ、入団テストを経て阪神に加入したが、新天地では一軍に上がれず、2000年オフに戦力外通告を受けたことで引退。
引退後は楽天・独立リーグ・巨人・西武・ヤクルトの各球団でコーチを歴任し、2024年には二軍に新規参入したオイシックスの初代監督を務めた。2025年からは作戦戦略コーチとして11年ぶりに巨人に復帰し、高校の後輩にして2012~2014年の現役時代に指導した阿部慎之助監督とタッグを組む。

  • 長谷川滋利(オリックス)アナハイム・エンゼルス(1996年オフ)
MLB日本人投手最多登板記録を持つ長谷川の移籍は、海外FAでもポスティングでもなく金銭トレードであった。彼は1993年から契約更改のたびにメジャー挑戦の意向を球団に伝えており、1996年からのMLB移籍を井箟重慶球団代表に確約させた。実際は事がうまく運ばず、この年は残留したがチームのリーグ連覇と19年ぶりの日本一を土産に海を渡った。
1997年1月に念願のMLB移籍を果たし、当初は先発での起用だったが、1か月経った頃からリリーフに配置転換。初年度は50試合に登板した。エンゼルスで5年、その後マリナーズに移って4年過ごして引退。

  • 長冨浩志(日本ハム)ダイエー(1997年オフ)
王監督たっての希望でダイエーに移籍した彼はオーバースローに戻し、1999年と2000年のリーグ連覇に貢献。2001年7月28日の近鉄戦では球団史上初の40歳以上の救援勝利投手になった。
しかし、2002年はプロ入り初の一軍なしに終わり、王監督から直々に「若手に席を譲ってくれないか」と言われたことで引退した。

  • カツノリ(野村克則)(ヤクルト)阪神(1999年オフ)
1997年と98年の2年間で51試合に出場したカツノリは、1999年に監督が父・克也から若松勉に代わると、1軍に昇格することさえなくなっていた。
シーズンオフ、父が指揮している阪神に金銭トレードで移籍。ただ、「呼んだのは監督ではなくあくまで球団側だった」らしい。ヤクルト時代よりは出番が増えたが、星野仙一に監督が交代するとやはり出番が激減する。

  • 村上嵩幸(村上隆行)(近鉄)西武(2000年オフ)
1989年のリーグ優勝に貢献するなど長らく近鉄の一員として活躍した彼だったが、2000年はプロ入り初の一軍出場なしに終わり、オフに金銭トレードで右打者が不足していた西武へ移籍。古巣との試合で恩返しの本塁打を放つなど58試合に出場し、2001年限りで引退。
その後は独立リーグの兼任監督や中日の打撃コーチを経て現在はソフトバンクで打撃コーチを務めている。

  • 中村武志(中日)横浜(2001年オフ)
この年、1998年に横浜の正捕手として38年ぶりのリーグ優勝と日本一に大きく貢献した谷繫元信が森監督との確執によって中日にFA移籍してきたため、彼は熟慮の末に出場機会を求めて金銭トレードで横浜へ移籍。結果的には「正捕手同士の交換トレード」という形になった。
しかし、2002年からの3年間で年々出場機会を減らしていき、2004年オフに無償トレードで新設された楽天に移籍。有銘兼久とのバッテリーで球団史上初の完封・完投勝利を達成するなど最後の輝きを見せ、この年限りで引退。通算2000試合出場まであと45試合を残しての引退であり、21年間の現役は同期入団の中では最長である。
現在は韓国リーグでコーチを務める。

  • 大塚晶文(近鉄)中日(2003年途中)
長らく近鉄の守護神を務めたが、前年にポスティング・システムを使用してMLB移籍を試みたものの交渉が不調に終わったことで自由契約を希望し、2003年シーズン当初に金銭トレードで中日に移籍した。
新天地でも首脳陣とのトラブルで退団した当時クローザーだったエディ・ギャラードに代わって守護神として活躍し、2004年からは晴れてMLBに移籍。パドレスでも中継ぎとしてチームに貢献し、2006年の第1回WBCでは胴上げ投手になった。

  • 中嶋聡(横浜)日本ハム(2003年オフ)
2005年と2006年には79試合に出場することもあったが基本的には試合後半を任される「抑え捕手」として活躍し、2007年以降はバッテリーコーチを兼任……というか晩年はもっぱらコーチ専任であり、出場試合数も年々減少傾向にあった。
というのも、日本ハムのみ一軍(札幌)と二軍(鎌ケ谷)の本拠地が地理的にかけ離れており、仮に一軍の捕手にアクシデントがあったとしても二軍から捕手を緊急昇格させることが困難だったため、彼が有事の際の「保険」としての役割を担っていたからである。
体力的には既に限界ながらもなかなか引退を認めてもらえなかったが、2016年の北海道新幹線開通によって交通面が改善されることや、捕手登録されていた近藤健介が外野手へコンバートされたことで彼の緊急時の捕手起用が可能になったことにより、2015年をもってマスクを置いた。一軍実働年数は工藤公康に並ぶ29年におよび、野手ではNPB最長である。
いったんはコーチを退任し、GM特別補佐を務めた後2018年に現場に復帰したが、自ら申し出たことでオフに退団してオリックスの二軍監督に就任した。退団発表は10月19日だったが、これは奇しくも阪急がオリックスに身売りすることが発表されてちょうど30年目であり、「最後の阪急戦士」だった彼の古巣復帰を手助けするという日本ハム球団の粋な計らいでもあった。
その後、2020年8月に西村徳文監督が解任されたことから監督代行として指揮をとり、オフに正式に監督に就任。「ナカジマジック」と称される采配と適材適所の巧みな戦略眼で21世紀初のパ・リーグ3連覇と2022年の日本一に導き、万年下位だったチームを見事に常勝軍団に引き上げた。

  • カツノリ(野村克則)(阪神)巨人(2004年開幕前)
阪神で居場所をなくしてしまったカツノリに巨人が手を差し伸べる。背番号は55を勧められたものの「荷が重い」と辞退して63となった。巨人では本名で登録を原則としているため「野村克則」として登録。しかし、一軍出場はわずか3試合に留まり、同年のシーズンオフに戦力外通告を受けた。その際にジャイアンツ側からブルペン捕手、または二軍バッテリーコーチ就任を打診されたが現役続行を希望し、12球団合同トライアウトを受けた。トライアウトでは結果を残し、田尾安志の目に留まり、新球団・東北楽天ゴールデンイーグルスに入団する。そして、登録名が再びカツノリになり、2006年からは父・克也が監督に就任。三たび親父の下でのプレーとなる。同年限りで現役を引退するが、以降現在までキャリアが途切れることなく各所でコーチを務め続けており、選手時代に所属した4球団すべてに在籍経験を持つ。

  • 岩隈久志(オリックス)楽天(2004年オフ)
近鉄のエースとして活躍した*24彼は球団合併を機に当初はオリックス側に分配ドラフトで振り分けられていたが、合併に際して労使妥結の前提となった近鉄選手の移籍先には本人の意思を尊重するという趣旨の「申し合わせ」を引き合いに、一転して入団を拒否する。仰木彬新監督をはじめとした球団幹部が説得するも、選手会は「あくまでオリックスは近鉄から譲渡を受けた立場であるため、岩隈は移籍先を選ぶ権利がある」と擁護して譲らなかった。
最終的にはオリックスが譲歩したことで希望通り金銭トレードで楽天に移籍し、田中将大という絶対的エースの加入後も貴重な計算の立つ先発投手として黎明期のチームを支えた。
何より球団史上初の開幕投手、つまり楽天の投手として初めてマウンドに上がった男になったのは今でも語り継がれている。
恐らく本項目でも屈指のアレな噂が残るトレードでもあり、「そもそも分配ドラフトのルール制定そのものに問題があり、これでオリックスに有利にしすぎたせいで岩隈との決裂を招いた」とする都市伝説は現在でも残っている。

  • 鉄平(中日)楽天(2005年オフ)
二軍では好成績を残していたが、当時のチームには福留孝介、アレックス・オチョア、英智、井上一樹など外野手の層が厚かったことで、当時の落合博満監督から移籍を勧められたこともあって金銭トレードで楽天に移籍することに。
新天地ではチームの選手層の薄さもあってレギュラーに定着し、2009年には首位打者とベストナインを獲得するなど球団史上初のAクラスおよびCS出場に大きく貢献した。

  • 富岡久貴(西武)楽天(2005年オフ)
トライアウトで復帰した西武でも一軍登板なしに終わった彼は翌年の構想から外れ、金銭トレードで楽天に移籍。
しかし、創設直後で層の薄い新天地にあっても2年間でまたしても一軍出場なしに終わってしまい、2007年オフに3度目の戦力外通告を受けた。
その後は地元群馬県の独立リーグでプレーし、2009年をもって引退。現在は会社員。

  • 渡辺直人(楽天)横浜(2010年オフ)
渡辺は2006年に入団し、翌年からすぐに遊撃のレギュラーとして活躍。
2010年は不振に陥ったことで規定打席にも到達できず、低調な成績に終わったもののオフの12月1日には契約を更改したが、わずか8日後に横浜への金銭トレードが発表される。
実は11月の時点で、同じ内野手としてMLB経験がある松井稼頭央と岩村明憲の2人の入団が発表され、実績十分の2人のMLB帰り選手に出場機会が与えられることから、渡辺がその余波を受けることが確実。
さらにはポスティングでMLB挑戦を目指していた岩隈久志の交渉が破談になったことで残留が決定的になり、アテにしていた移籍金が入らなかったことも理由のひとつとの報道もあり、球団の財政事情的に厳しくなったことで守備力強化を目指す横浜と思惑が一致した。
「楽天では最高の仲間と最高の野球がやれた」
と別れの挨拶をし、横浜では
やってやる! やってやるぞ!
そう言って新天地に飛び込んだ渡辺は、藤田一也との争いに勝って二塁の定位置を掴んだ。
球団がDeNAとして再出発した2012年は怪我で出番が減り、2013年の夏に西武へトレード。
新天地でもベテランの味を発揮し、
「自分でもライオンズの生え抜きだと思うときもあるくらい」
とチームへの強い愛着を口にするようになったが、源田壮亮らの台頭で2017年オフに戦力外通告を受け、楽天へ8年ぶりに復帰。2020年に引退。
「最高の球団で、最高のチームメイトと、最高のファンと共に野球ができて、本当に幸せでした。全ての出会いに感謝。14年間、夢のような時間をありがとうございました」
という言葉で締めくくった。
その後は打撃コーチやヘッドコーチを歴任し、2025年から二軍監督を務める。

  • 小山桂司(中日)楽天(2012年途中)
中日では貴重な控え捕手として活躍し、特に正捕手の谷繫元信が怪我で離脱した際はベテランとしての経験を活かし、谷繫が抜けた穴を見事に埋める活躍を見せた。
だが、生まれ故郷の宮城県仙台市が2011年の東日本大震災によって被災したことを受け、落合監督に頭を下げて楽天への移籍が決定。
残念ながら地元では目立った活躍は残せず、2015年に戦力外通告を受けて現役引退。
その後は古巣の中日でブルペン捕手となり、2023年からは独立リーグでコーチを務めている。

  • 涌井秀章(ロッテ)楽天(2019年オフ)
先発投手を補強したい楽天と若手が育ちつつあって投手の目途が立ったロッテの思惑が一致したトレード。
同時期に楽天から美馬学、ロッテから鈴木大地がFA宣言しており、結果的にそれぞれ相手球団に移籍したことから人的補償を含めた調整が複雑化し、当初の交換トレードから大型の金銭トレードという形に落ち着いたという*26
短縮シーズンになった2020年は11勝4敗・防御率3.60を記録し、5年ぶり4度目にして史上初となる3球団での最多勝を達成。
その後、2022年オフに交換トレードで初のセ・リーグとなる中日へ移籍する。

  • 山本泰寛(巨人)阪神(2020年オフ)
内野の全ポジションを守れるユーティリティーが持ち味だったがこの年は一軍出場なしに終わり、内野陣の守備力と競争意識を高めるために阪神が長年のライバルである巨人から金銭トレードで獲得。巨人の選手がトレードで阪神へ移籍した例は1990年オフに石井雅博が鶴見信彦との交換トレードで移籍して以来で、金銭トレードとしては史上初。
新天地でも持ち味を発揮したが2023年は一軍出場なしに終わり、戦力外通告を受けて中日に移籍。セ・リーグの3大老舗球団である巨人・阪神・中日に選手として所属した史上初の人物になった
その中日では一転して八面六臂の活躍を見せつけるなど貴重な戦力として活躍したことや、彼の退団によって阪神の内野が手薄になってしまったことから、阪神ファンから「何で山本をクビにしたんだ」などと惜しまれる事態にまでなってしまった。

  • 吉川光夫(日本ハム)西武(2020年オフ)
2020年は開幕一軍入りを果たしながらも7月を最後に二軍暮らしが続き、5試合の登板にとどまっていた彼は左の中継ぎ投手が不足していた西武に金銭トレードで移籍。
しかし、4月6日の誕生日の試合で1回8失点と炎上するなど5試合で防御率16.62と振るわず、オフに戦力外通告を受けた。
現在は独立リーグで兼任コーチを務める。

  • 炭谷銀仁朗(巨人)楽天(2021年途中)
西武からFAで巨人に加入した彼は主に2番手捕手としてチームを支えていたが、原監督との話し合いの末に金銭トレードで楽天に加入。
西武時代にはノーヒットノーランに導くなど長年バッテリーを組み、2017年から楽天にFA移籍していた岸孝之と再び組むことになり、彼の全球団勝利や通算150勝達成をアシスト。
ベテラン捕手としてチームに貢献していたが、2023年をもってチームの若返りを図る球団から戦力外通告を受け、6年ぶりに古巣へ復帰。
復帰会見の際には巨人時代を振り返って坂本勇人・阿部慎之助・亀井義行の3人の名前を挙げて野球観を変えるような影響を受けたといい、彼らから受けた感銘を今度は西武の若手捕手陣に還元してやりたいと語った。楽天時代の話を振られた際には安楽智大の問題の余波が生々しかったこともあってか、あえて言及を避けるなど捕手らしい賢明な判断でリスクを未然に回避していた。

  • 近藤大亮(オリックス)巨人(2023年オフ)
救援陣の補強に奔走する巨人は、投手大国オリックスながらも前年12試合の登板に終わった彼を金銭トレードで獲得。吉村禎章編成本部長はかねてから注目しており、彼自身も先に入団した鈴木と同じく巨人ファンだったことから双方ともに納得のトレードとされた。
しかし、プルペンが飛躍的に改善されたこの年は層の厚さに阻まれて一軍出場なしに終わる。

  • 今野龍太(ヤクルト)楽天(2024年オフ)
2019年オフに楽天を自由契約になり、ヤクルトに入団した彼は移籍を機に出場機会が大きく増加。2014年~2019年の実働5年間(2016年は手術で育成契約のため全休)で15試合だったのが2020年だけで20試合に出場し、2021年はキャリアハイとなる61試合に登板するなど勝ちパターンの1人としてリーグ優勝と日本一に貢献。続く2022年も54試合に登板してリーグ連覇に貢献するが、2023年には26試合の登板にとどまり、この年もわずか6試合と振るわなかったが、オフに投手陣の補強を進めていた古巣に金銭トレードで復帰。同時にヤクルトの同僚だったミゲル・ヤフーレや柴田大地、小森航太郎に加えて森岡良介コーチも楽天入りしている。
一方で楽天からも茂木栄五郎や澤野聖悠がヤクルトに移籍しており、このオフは両球団間で多数の移籍が行われていた。
このトレードの珍しい性質としては、上述したように戦力外通告をされた球団にトレードで出戻ることになったという点だろう。


無償トレード

選手を無償で譲渡するトレード。実質的な移籍で「交換」ではないが、これもトレードの1つ。自由契約になっている選手を獲得する場合には当てはまらない*27
基本的には前の球団で構想外扱いになった中堅~ベテラン選手がトレードされるケースが多いが、稀に何らかのトラブルが発生したことで前球団での在籍が厳しいと判断した大物選手がトレードされる場合もある。
また、2004年オフに新規参入した楽天は少しでも戦力を確保すべく、他球団を構想外になった選手たちを次々と無償トレードで獲得。創設直後で練習環境やノウハウが不十分なチームにあって、文字通り兼任コーチ的なリーダーシップを発揮した。
選手の引越し費用は前在籍球団が負担するのが常になっている。

  • 白野清美(南海)国鉄(1962年オフ)
NPB史上初の無償トレードされた選手とされている。

  • 山内一弘(阪神)広島(1967年オフ)
広島の監督に就任した根本陸夫に誘われ、無償トレードで移籍した彼は卓越した打撃理論と徹底したプロ意識を若手たちに植え付け、翌年の球団史上初のAクラスに貢献。1970年をもって引退したが、彼の背番号「8」は「ミスター赤ヘル」こと山本浩二に受け継がれ、1975年の初のリーグ優勝の原動力になった上に引退後は球団初の永久欠番に指定されるなど、チームにとって彼の移籍は極めて大きな分岐点になったと言えるだろう。

  • 山内新一(南海)阪神(1983年オフ)
山内和宏(背番号18)、山内孝徳(同19)とともに本人は背番号20と「山内トリオ」の一角だった山内新一は、1973年と76年にシーズン20勝を達成するも最多勝に届かない悲運の技巧派エースだった。1983年に2勝と低迷すると、阪神へ無償トレードで移籍。
初年度は7勝を挙げ復活の兆しを見せるも、翌年は5試合の登板に終わり引退。
だが、阪神日本一のメンバーに名を連ねる有終の美となった。

  • 竹田光訓(大洋)三星*28(1988年オフ)
明治大学でエースとして活躍し、平松政次の背番号「27」を継承するなど期待されていた竹田だが、プロ2年目の1986年の活躍以降、不祥事もあって出番が激減していた。
自身が在日朝鮮人であることからかつて新浦壽夫も在籍した三星に活路を求めるも輝きは取り戻せず、1991年に大洋に復帰して同年限りで引退。打撃投手に転向後打球が頭部を直撃するという憂き目に遭うこともあったが、広報や寮長など長年球団職員を務め、現在はGM補佐。

  • 若菜嘉晴(大洋)日本ハム(1989年開幕前)
前述の波乱を経て大洋のスタメン捕手として再び活躍を見せた若菜だったが、衰えもあって古葉竹織監督から冷遇されており、1988年に公然と球団批判を展開。球団に謝罪文を提出して事態を鎮静化させたが、日本ハムの新監督でかつての上司だった近藤貞雄に誘われて無償トレードが成立。
田村藤夫の控え捕手としての在籍だったが、翌1990年にはルーキー酒井光次郎を新人王に導くリードでチームに貢献。1991年に波乱の現役生活に幕を下ろし、これにより西鉄ライオンズに所属経験のある選手は全員いなくなった。
引退後はダイエーのコーチとして田村とともに城島健司を鍛え上げている。

  • 角盈男(巨人)日本ハム(1989年トレード期限当日)
「角、鹿取、サンチェ」の一角として活躍していた角だったが、藤田元司監督の先発投手完投構想により出番が激減し、トレードを志願する。一方深刻な左投手不足に悩んでいた日本ハムの近藤監督は藤田監督にダメもとで角の移籍を直接交渉。思惑の一致によりトレードが成立した。
移籍後は慣れ親しんだリリーフではなく先発として起用され、当時のNPB記録であった423試合連続救援登板の記録が途絶える。その代わり、プロ12年目にして初完投を記録した。
翌年、近鉄のブライアントに東京ドームの天井スピーカーを直撃する推定飛距離170mの本塁打を打たれているが、この試合前に同僚の大島康徳に「打球が天井のスピーカーに当たったら、特別ルールで認定ホームランらしい。もし当てられたらどうする?」と聞かれて、「野球辞めますよ。投手としてプライドが許しません」と答えた。結果本当に打たれたが、辞めることはなく1992年に小川淳司とのトレードでヤクルトに移籍。同年限りで引退した。

  • 井上祐二近藤芳久(広島)ロッテ(1996年オフ)
かつて、南海の抑えだった井上も前年は41試合登板の防御率5.63と振るわなかった。一方の近藤も「近ちゃんボール*29」がなかなか通用しなくなり、やはり1996年は低迷。一方のロッテは江尻監督が辞任し、エース伊良部が球団と衝突して強引にヤンキースに移籍。先発の一角だったヒルマンも巨人に移籍してしまうなど、投手陣が壊滅状態だったために2人そろって無償トレードで移籍。
井上は17試合に登板し、同年限りで引退。近藤は貴重な中継ぎとして3シーズン過ごして引退。
ところでロッテ時代の近藤は、1イニングに2度もズボンのベルトが切れるハプニングに遭ったり、盗塁を阻止すべくキャッチャーが2塁に投げた球が尻に直撃するなど珍プレー大賞をにぎわせた。

  • 小久保裕紀(ダイエー)巨人(2003年オフ)
2003年オフに起きた電撃トレード。王監督の元で4番および選手会長として長らくチームを支えてきたが、2003年のオープン戦で本塁突入の際に大怪我を負ったことで全休を余儀なくされてしまう。この年チームは3年ぶりのリーグ優勝と4年ぶりの日本一を達成するが、彼は当時の球団幹部との確執もあって自ら移籍を志願。
彼自身は移籍先に希望はなかったが、大学の先輩でもある中内正オーナーが懇意にしている巨人の渡邉恒雄オーナーにかけ合い、「こちらからお願いした立場なので見返りは要求できない」「金銭トレードでダイエーが受け取る金額を彼の年俸につけてほしい」という理由で無償トレードが決定した。

彼のように実績を持つ働き盛りの主力選手が無償トレードされた例は異例中の異例で、何より発表が優勝パレードの翌日だったこともあり、選手たちが優勝旅行をボイコットする事態に発展した。
なお、張本人たる某球団幹部は以前にも工藤公康に対して「君の登板する火曜日には観客の入りが悪い」という苦言や報復行為を行ったり、若田部健一にもFA権を行使した上での残留を認めなかったりし、それが原因で両投手のFA移籍を許す結果を招いている。また、球団代表時代にもキャプテンとして1999年のリーグ優勝と日本一に貢献した秋山幸二を減俸している。

巨人では松井秀喜のMLB挑戦以来、日本人長距離打者に恵まれていなかったことから「右の松井」と期待され、途中から第69代4番に座ると、その期待に違わぬように長嶋茂雄・原辰徳・落合博満・清原和博らも達成できなかった球団右打者初のシーズン40本塁打を達成したり、移籍選手としては史上初となる主将に任命されたりするなど暗黒時代「史上最強打線」と呼ばれたチームの一翼を担い、在籍3年間の355試合で打率.287・84本塁打・238打点の成績をマーク。
しかし、上述の移籍経緯からかねてより将来的な復帰が期待されており、確執のあった球団幹部がいなくなったことで*302006年オフにFAで復帰した。
その後も主将としてリーグ連覇や2011年の日本一に貢献し(史上最年長で日本シリーズMVP)、2012年をもって誕生日かつ引退試合でノーヒットノーランを達成される目に遭いながらも引退。
その後は解説者や評論家を経て侍ジャパンの監督に就任。2015年の第1回プレミア12準決勝では継投ミスで痛恨の逆転負けを喫したことに強い非難を浴びたが、2017年の第5回WBCでは下馬評を覆してベスト4まで進出。
2021年からチームに復帰し、ヘッドコーチや二軍監督を経て2024年から監督に就任。就任1年目で4年ぶりのリーグ優勝に導いている。

巨人は元々ドラフト時に入団するか迷った球団でもあったことや、ポジション争いに燃えた上に生涯の友人ができたこともあってか、引退後に出版した自著では「巨人に行ってよかった」と回顧している。この年は当時のチームメイトだった阿部監督率いる巨人も4年ぶりのリーグ優勝を達成しており、翌日の取材ではOBとして古巣の優勝を祝福した。

中日ではチームの投手層が厚いことからなかなか出番に恵まれなかったが、2004年オフに楽天が球界に新規参入したことが転機となり無償トレードで移籍。貴重なリリーフ投手として大きく開花し、創設メンバーの投手としては最後の生き残りになった。
その楽天のコーチも務めたことがあり、前述した涌井を再起させた事例が奇妙な球種のエピソードもあって*31著名か。

  • 大道典嘉(ソフトバンク)巨人(2006年オフ)
「最後の南海戦士」として知られ、「球界の宅麻伸」と呼ばれた彼は代打の切り札としてチームを支えていたが、シーズン終了後に電話で来期構想外を言い渡される。「南海時代からホークスの選手として頑張った自負があり、引退宣告なら引退試合をさせてもらえると思っていた。それだけに電話1本でこう告げられたのはショック」と語っている。
発奮した彼は現役続行を決意。一方で王会長は深刻な右打者不足に悩んでいた古巣に早くから大道獲得を打診しており、すぐに移籍が成立。小久保と入れ替わるように無償トレードで巨人に移籍し、代打としてリーグ3連覇や2009年の日本一に貢献。2010年をもって引退した。

  • 中田翔(日本ハム)巨人(2021年途中)
長らく日本ハムで4番として活躍していたが、チームメイトとのトラブルで8月11日に出場停止処分を受け、当時の栗山英樹監督が「このチームでは(プレーを続けるのは)難しい」と中田の放出を示唆。栗山監督と親交のあった巨人の原監督が手を差し伸べたことで20日に無償トレードが成立した。しかし、日本ハムから科された出場停止処分がわずか9日で解除されて移籍後即座に試合に出場したことや、日本ハム側での謝罪会見が開かれなかったことなどに議論が巻き起こった。
巨人移籍後は3年間で42本塁打・115打点を記録し、2022年の後半には第92代4番に座ったり*32、一塁手では史上初となる両リーグでゴールデングラブ賞を受賞したりする活躍を見せた。
しかし、2023年をもって後ろ盾とも言える原監督が退任し、新たに阿部監督が就任すると翌年の内野構想からは外れていることが判明*33。この年は自己最多の21試合に代打出場したが「代打は別物」と感じ、残りの野球人生を悔いなく過ごしたいとあくまでレギュラーでの出場を希望。
当初はFAによる移籍が予想されていたが、ランクBに該当することから補償の必要があったため、球団との3年契約に含まれていた「オプトアウト権*34」を行使し退団を志願。結果、得点力不足に悩む中日が打点王を3度獲得した彼の実績を買ったことで獲得に至った。
複数年契約選手がオプトアウト権を行使して退団する例はMLBでは珍しくないが、NPBでは非常に稀なケースである。

なお、彼は「どこからも声がかからなければ野球を辞めるつもりだった」とテレビ番組で語っており、拾ってくれた立浪監督には心から感謝しているとのこと。

  • 加藤匠馬(ロッテ)中日(2022年オフ)
上記の通り2021年に加藤翔平との交換トレードでロッテに移籍した彼だったが、捕手難にあえいでいた中日に呼び戻され*35、わずか1年半で古巣に復帰。結果的にロッテは翔平を失うだけになってしまった。

  • 長野久義(広島)巨人(2022年オフ)
ドラフト指名を2度も拒否してまでの巨人入り志望を崩さず、入団後も主軸としてリーグ3連覇や日本一に貢献したが、2018年オフに丸の人的補償として広島に移籍。
移籍後はベテラン格としてチームに貢献していたが、徐々に出場機会を減らしていたところ、前述したプロ入り経緯もあって広島の鈴木清明球団本部長が「ユニフォームを脱ぐ球団は巨人であるべき」という考えを持っていたこともあり、無償トレードで巨人に復帰することになった。
このような形での移籍になったのは、「巨人愛」が強いと思われながらも広島入団時には「(補償選手として広島に選ばれたことは)選手冥利に尽きます」と発言するといった彼の殊勝な姿勢に広島フロントが応えたものだと言われており、長野も古巣復帰に際して「カープに入ったことで、2倍の信頼できる仲間ができた」と丸や広島に最大限の感謝を伝えて巨人に帰っていった。



追記・修正は、他にも印象に残ったトレードがあれば補足お願いします。

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最終更新:2025年04月03日 02:30

*1 MLBでは特定の球団に移籍できない契約の「ノートレード条項」が存在する。野球以外でもさまざまな理由から「放出そのものを拒否できる」「特定チームへの移籍を拒否できる」契約が認められている場合が多い。

*2 周囲を顧みずに自分の意見をゴリ押しすること。

*3 在籍チームが変わっても通算してFA権に必要な在籍日数を数えるため。

*4 現在でもかなり少なく、タフィ・ローズや大勢(翁田大勢)くらいしか例がない。

*5 トラブル事態は球団も把握していたものの事実を明確にせず、当時の大久保博元二軍監督が責任を取る形で頭を丸めて事態の収拾を図り、彼に更生の機会を与えたものの、こうした温情措置が仇になってしまったと言われている。

*6 開幕戦4安打は球団では1972年の王貞治以来53年ぶり2人目。

*7 実際に、このトレードの後にソフトバンクは4人の育成選手を支配下に昇格させている。

*8 「西武は人的補償として和田毅を指名したが、急転直下で甲斐野央に変更された」というもの。他にもさまざまな情報が錯綜しているが、人的補償のプロテクトリスト(優先保有枠)は極秘事項であることから容易に口外できない点には留意する必要がある。

*9 1971年の福本の年間盗塁死は8回、そのうち6回が種茂による

*10 歴代最多の1試合3死球や当時歴代1位(現在は清原和博に次ぐ2位)の通算166死球の記録持ちゆえに野村克也から「特攻隊」と囁かれていた。

*11 後者のトレードは朝8時に発表。

*12 トレードマーク、トレーニング、トレーナーなど。

*13 ただし、ロッテのフロントが高年俸の落合を理由をつけて放出したがっていたという説もある。

*14 福井県にある通信制高校。

*15 なお与田は結局翌1996年オフに吉鶴憲治とともに内藤尚行・森廣二との2対2の交換トレードでロッテへ移籍するも結果を残せず2年で戦力外となり、1998年には日本ハムへテスト入団。翌1999年に武田が中日入りしたため、3年遅れで「中日・武田」「日本ハム・与田」が誕生したことになる。

*16 協約制限を超えた年俸減額の提示である以上、球団は選手の保留権を放棄して石井は自由契約になるはずでトレードは認められないと声明を出した

*17 巨人時代もセットアッパーとしてリーグ優勝や日本一に貢献したが、調子の悪い年はサッパリだった。

*18 糸井のアホエピソードの半分くらいはオリックス在籍時代のものと推測・確認されている。

*19 次シーズンの契約を結んでいない選手に対し、球団側が契約の意思表示をしないこと。大田はこの時国内FA権を取得していた

*20 比較的あっさり回復してしまったという理由から、「身体的な異常ではなく、心理的にトラブルが起きていたのでは?」として、現代のプロスポーツで言えばイップスを患ったと解釈されることも多い。

*21 現在は「全員が投手・野手は不可」とした上で4人まで。

*22 バファローズの親会社である近鉄電車が名古屋まで路線を持っており、主催試合の一部を中日の本拠地であるナゴヤ球場で開催していたという縁があったことも理由のひとつとされる。

*23 通算773試合出場ながら1186三振、NPB最多のシーズン204三振などシーズン三振記録の上位三傑を独占。

*24 この理由から、後述する件と関係なく基本的に「近鉄戦士経験者、なにわのプリンスだった男・岩隈」=近鉄OBとしては扱われることには留意。

*25 例えば磯部に関しては年齢面など、多くはオリックスにとっては取らなくても支障がない側面もあったとされる。

*26 人的補償としてそれぞれ酒井知史・小野郁が移籍。さらにロッテのフランク・ハーマンが楽天に、楽天を自由契約になってテスト入団でロッテが獲得した西巻賢二を含め、実質的には4対3の大型トレードとも呼ばれる。

*27 例外として、2004年オフに中日から戦力外通告を受けた酒井忠晴は12球団合同トライアウトを経て楽天に移籍しているが、経歴上はなぜか自由契約からの獲得ではなく無償トレードでの移籍として扱われている。こちらの詳細は現在まで詳しく分かっていない。

*28 韓国・KBOリーグ

*29 速めの縦カーブ。達川光男が命名

*30 親会社がダイエーからソフトバンクに変わったことによるものだが、そもそも球団売却直前に当該球団幹部は女性社員への強制わいせつが発覚して失脚していた。

*31 もともと小山の投げていた「シンカー(小山本人の申告)」はどちらかというと「下」に大きく落ちる球であり、極めて打ちにくいものの「利き手と同じほうの斜め下」に落ちると定義されるシンカーでは明らかになかった。涌井が再起したのもこれを覚えたのが大きい。

*32 奇しくも、初めて4番に座った8月11日はちょうど1年前に出場停止処分を受けた日でもあった。

*33 新人の門脇誠の台頭によって遊撃のレギュラーに目途が立ったことで、年齢によって故障しがちな坂本勇人を三塁にコンバートし、岡本和真が一塁に移ることになったため。

*34 複数年契約を結ぶ際、一定期間を経過すると選手自ら契約を破棄にして自由契約になったり、契約を見直して年俸の上澄みの機会を作ることができる権利。MLBでは契約条項に含まれていることが多い。

*35 ただし、2021年オフに3人の捕手が退団した上に4年目の石橋康太がクリーニング手術を受けたことで長期離脱を余儀なくされるなどただでさえ捕手が少ない中、ドラフトでは1人だけしか指名しないなど球団の不手際による面も大きい。