立浪和義

登録日:2023/09/29 (金) 00:24:18
更新日:2025/04/10 Thu 23:24:00
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1969年生まれ 2000安打 PL学園 お前変わらんかったな こんにちは、お馬鹿さん。 どうしてこうなった←監督時代 アニヲタ野球選手名鑑 ガラスの十代 スーパースター←現役時代 タッツ タツ バトルフェイス フランチャイズプレイヤー プロ野球 プロ野球監督 プロ野球選手 ミスター・ドラゴンズ ミスター二塁打 ユーティリティープレイヤー レジェンド 三塁手 中日ドラゴンズ 二塁手 代打溝脇 令和の米騒動 割れ 名球会 名選手 吹田市 外野手 大阪府 天才 戦う顔 打つ方はなんと貸します 打つ方は何とかします 打つ方は難と化します 摂津市 新人王 無冠の帝王 監督 監督としては無能…? 立浪和義 素晴らしい先輩 近藤の62球 遊撃手 選手としてはまごうことなき天才監督としては‥‥ 選手としては有能 野手 野球殿堂




常に前を向いて、やられたら必ずやり返す。




立浪(たつなみ)和義(かずよし)とは、元プロ野球選手及びプロ野球監督。
多くのプロ野球ファンからは、中日ドラゴンズという球団を象徴する選手「ミスター・ドラゴンズ」の一人として認識されている。


【プロフィール】

1969年8月19日生まれ。
PL学園高等学校→中日ドラゴンズ(1988~2009 ※2008~2009は兼任コーチ、2022~2024は監督)

ポジション: 遊撃手 二塁手 三塁手 左翼手 (※内野3ポジションでゴールデングラブ賞個人最多受賞)

背番号:3(1988~2009)、73(2022~)

【人生】

プロ入り前

1969年8月19日大阪府生まれて摂津市で育った。父親は社会人野球選手であり、彼から左打への転向を進められるなど野球の基礎を身に着ける。
ところが両親が離婚したことで化粧品屋をしていた母親の元に引き取られるが、兄の影響で『茨木ナニワボーイズ』という少年野球チームに所属して本格的に野球の道に入る。
後に高校やプロでも共に戦う盟友の片岡篤史や橋本清とはこの時期からの仲間だったが、片岡曰く立浪はこの時期から野球の才能がずば抜けていたと振り返っている。

PL時代

高校進学前から既に野球の才能が知られていた立浪は、進学先として濃厚だった大阪商業大学堺高校への入学を断って黄金期のPL学園に進学。
PLでは3年生の時期も主将として野球部を率いて春夏連覇という大快挙を達成する。
立浪はPLにおいて優遇された立場もあり、リーダー的存在として非常に高い手腕を発揮した。

片岡によると、当時のPL野球部においては「ファミリー」と「VS」(監督やコーチに好かれる選手がファミリーで反対がVS)という区分が存在していたが、立浪は一貫してファミリーとして扱われた。
立浪は部で禁止されている行為を犯しても監督に叱られることはなく、元々VSに分類されていた片岡も立浪の親友と言う理由でファミリーに格上げされるなど、監督をも手中に収める政治力を発揮した。
また、PLでは「徳を積む」という教えが広まっていたことで朝から片岡とゴミ掃除をする日常を送り、ある日には実家の京都の方角を恋しい気持ちで眺めている片岡に「片岡、そっちは和歌山や。京都は反対や」と伝えたという。

寮の自室は先輩の桑田真澄と同室だったが、当時の野球部のルールであった「楽にして良いと言われるまで正座をして過ごす」を破って楽に過ごしていた。
ただし、これは上述のような優遇と言うよりは、桑田がPLの生徒としては上下関係に執着しない立場だったことや桑田自身が立浪のずば抜けた才能からプロ入りすると察して丁重に扱おうと決めた結果である。
ちなみに桑田の相棒であった清原和博に「桃の花(という名前のハンドクリーム)*1を取ってこい」と言われたところ、清原のファンが持ってきた花束の中から桃の花に近い本物の花を持っていったことがある。

立浪は野球部引退後、1987年にドラフト会議で南海ホークスと中日ドラゴンズのくじ引きの末に中日が指名権を獲得したことで中日にドラフト1位で入団した。

プロ野球選手時代

立浪は1年目の1988年から首脳陣に期待をされ、当時の監督である星野仙一は当時レギュラーの遊撃手だった宇野勝をコンバートさせてまで立浪を遊撃手のレギュラーとして起用する。
1年目の立浪は打率は低迷気味だったが守備走塁などは既にプロレベルに完成していて、22盗塁、ゴールデングラブ獲得と結果を残す。年間を通して働いたことや他の新人に有力な対抗馬がいなかったこともあり、1年目から新人王を獲得。
更に前述の通り、高卒1年目からいきなりゴールデングラブ賞を受賞と、これは野手限定で言えば歴代立浪のみの快挙である。
投手も含めれば松坂大輔がいて、それでも2023年終了時点でもこの2人しかいない。

2年目の1989年は怪我が悪化して大きく出場試合数を減らすが、3年目の1990年から初の規定打席で打率が3割に到達すると一気に打撃能力が覚醒する。
5年目の1992年のシーズンからは自らの志願もあって二塁手に転向するが、安定した守備力を発揮した。
これ以降、立浪は中日の不動のレギュラーとしてのポジションを確立させる。

10年目の1997年のナゴヤドーム移転時には開幕戦で先頭打者本塁打を打つことでナゴヤドーム第1号本塁打を残す。
同年には史上47人目のサイクルヒットを達成した。中日の選手としては1953年の原田徳光、1962年の前田益穂以来、35年ぶり3人目の快挙だった。
16年目の2003年には巨人戦において2000本安打を達成。この達成試合は猛打賞で試合を決める一打を放つなど大暴れした。

2004年以降に落合博満が監督に就任して以降はしばらくの時期はレギュラーを維持していたが、2006年から森野将彦の台頭によりレギュラーの座を剥奪されることになる。
特に守備や走塁面で大きな劣化が起きていたことが原因であり、落合には主に代打要員や交流戦時のDH要員として扱われて起用されていた。
だが、まだ打撃センスは大きく衰えていなかったことから打撃成績的には劣化を感じさせない勝負強さを見せていたが、2008年にコーチ兼任選手となると打撃面でついに不振に陥る。

プロ入りから22年目の2009年に引退を決めるが、代打として規定未到達ながら打率.318という前年度から驚異的な挽回を見せ、引退試合では猛打賞やCSでもタイムリーを放つなど引退が決定した選手とは思えない暴れっぷりを見せるも引退した。
引退時は中日ファンによる背番号の永久欠番化を求める運動などが勃発した。

監督時代

引退後は解説者として活動して2019年には野球殿堂入りを果たすが、度々中日の監督就任の待望論や一部球団からのコーチ要請などを受けていた。
そして、2021年オフについに退任した与田剛の後任の中日の監督としての就任要請を受け、ファン待望の監督を任される。
中日という球団は2010年代から貧打に悩まされている球団だったことから実績のある立浪による改善が期待され、本人も「打つ方は1年間本当に打てないと言われましたけれども、必ずなんとかします」と豪語した。

立浪の意気込みに反して2022年は圧倒的な最下位に沈んでしまい、オフには立浪の意向が大きく入っていると噂される大型トレード*2が複数行使された。
2023年は現役ドラフトで加入した細川成也がレギュラーを獲得すると言った功績があった一方、チーム全体の打撃成績の致命的な低迷とそれに応じた10敗以上する先発投手を大量に生み出す。

2024年も開幕戦から「立浪辞めろ」「責任から逃げるな」などのブーイングがあったが、いざ始まってみると昨年までとは打って変わって中日が一時期首位になり*3、「立浪が突然有能になって一番困惑しているのは中日ファン」という意見もあった。

前述の通り2024年シーズン序盤は一時期首位にたつなど好調な時期もあったが交流戦以降は徐々に失速し前半終了時点で『借金8の5位』で折り返すなど優勝争いからは早々脱落し、シーズン後半は前半で作った借金を返済どころか徐々に増やす結果となってしまい、ヤクルトととの最下位争いを余儀なくされてしまう。ヤクルトとの最下位争いはシーズン最終戦までもつれることになったが、この試合に勝つか引き分ければ5位で終わり、敗れれば球団史上初の3年連続最下位が決まる運命の横浜DeNAとのシーズン最終戦で敗れてしまい、球団史上初の3年連続最下位でシーズンを終えることになってしまった。立浪も3年目の今季は勝負の年と考えていたのか、このチームの不振は流石に看過できず2024年シーズン限りでの監督退任を自ら表明した。選手としては球団を幾度と優勝や優勝争いに導いてきた立浪であったが、監督としては結果を残せず低迷期のチームを立て直すことは出来なかった。

令和の米騒動

一部メディアでは選手に試合前の食事会場にて白米の食事を禁じたという奇妙な噂を報じ、「令和の米騒動」と呼ばれる事件として各所を巻き込む議論となった。
これは立浪のかつての上司である星野仙一が、現役時代の立浪の行為に激怒してチームへの米の提供を禁じたという経験を参考に立浪が真似をしたという説がある。
同年10月21日、メ~テレ社屋で行われたイベントにおいて、野球解説者で中日OBの平田良介氏から事の真相が語られた。

平田氏曰く、細川成也と福永裕基の両選手が試合の2時間前にバンテリンドーム内の食堂にて談笑しながら山盛りの白米を食べていたところ、そこに偶然立浪監督が来訪。「そんなに食べて動けるのか」と聞かれ、「動ける」と返答した両選手に「結果を出せなければわかってるな」と監督が発破をかけたとのこと。しかし両選手は結果を残せず、結果監督の判断で米が出なくなった。
おにぎりが出ているので米が食べられないわけではないこと、米禁止にライデル・マルティネスが抗議し投手は米が解禁されていることも事実だという。

また、立浪監督と親交のあったタレント・稲村亜美氏が同年11月4日、山梨放送のラジオ番組出演した際にこの件について立浪監督本人に伺っていた事を報告。
スタメン選手が試合の1時間前に「丼メシを牛丼にして食べていた」のを見て、「それを食べたら体が動かないだろ」と注意しても止めないから「もう撤去しろ」ということに。スタメンの野手には「おにぎりがあるからそれで我慢しろ」と通達していたという。「立浪監督自身は現役時代に試合前の食事をバナナ1本で済ませており、自身の成功例も踏まえて選手が体が動かなくなるのを考慮して止めた。試合後は独身の選手のために監督の意向で食事が用意され、『終わってから食え』という話だった。」とのこと。

騒動からしばらくして、選手時代の立浪が白米を食べるCMが発掘される。野球用品メーカー「SSK」のCMであった。セリフの「野球でやっと飯が食えるようになりました」が「野球で飯を食えなくさせました」などと揶揄された。

なお、立浪本人の好物はカレーライスである。

【選手として】

立浪を選手として語る上で外せないのは、一定の長打力と高い打率を維持したその天才的な打撃センスだろう。
通算安打数は2480と球界十傑に入り、一時はNPB歴代最多記録である487二塁打を記録している。しかし意外にも打撃関係のタイトルとは縁がなかった。
二塁打については「ミスター二塁打」とも呼ばれる程定評があり、プロ初安打・最終安打も二塁打だった。シーズン中の二塁打記録が30本以上を記録した年が7回もあるなど徹底的に二塁打を打ちまくっていたが、年間最多二塁打の獲得は出来なかった。
一方で本塁打は通算で171本とあまり多くなく、キャリアハイの本塁打は16本。しかしプロ通算22年で毎年のように本塁打を放っており、2002年に五十嵐亮太から、2006年には上原浩治からサヨナラ満塁ホームランを放ち、プロ最終本塁打は豊田清から放った代打同点ホームランと狙える場面では本塁打を打つ能力も持っていた。ちなみに複数回サヨナラ満塁ホームランを放った選手は球界で5名しかいない。二塁打が多かったのはナゴヤドームの広さも影響しているかもしれない。
また出塁率が打率より1割以上高い事が多々あるなど選球眼にも優れていた。体も頑丈でケガにも強く長い球界の歴史で9人にしかいない2500試合出場も果たしている。

立浪は打撃だけではなく、守備の評価もプロ入り前から高いなど守備力にも定評があった。
ゴールデングラブ賞の獲得だけではなく、1993年には守備機会の連続無失策を続けてシーズン守備率.997を記録している。
新人の頃は遊撃手としてデビューしたが、本格的に衰えるまでは二塁、三塁、左翼と様々な守備ポジションをこなすユーティリティープレイヤーでもあった。
一方で守備指標は良くないなどデータ的には守備力を評価されていたとは言い難く、加齢に応じて守備範囲の劣化も目立っており、晩年は守備機会も少なかった。
また、ショートを守っている際に二遊間を抜こうかという打球に対して、ボールをキャッチした後一塁に回転してから投げるという高度な技を高校のころからやっていた。PL学園の後輩である松井稼頭央は「あれは立浪さんが最初だと思う」と話している。

足自体も高卒新人で22盗塁をする等、若手の頃はかなり速かったが、加齢と共に落ち着いていた。通算135盗塁、盗塁死91、盗塁成功率59、7%と盗塁自体は失敗も多く、あまり得意ではなかった。

【名(迷)言集】

  • 小さい身体がハンデだとは思いません。気持ちで負けない限りは
立浪はプロ野球選手としては身長173cm*4と大きい体格ではなかったが、それを不利だとは思っていなかった。
実際に小さい身体に反する二塁打の量産技術と2000本安打まで打った実績を見れば、有言実行した名言と言えるだろう。
PL時代の恩師の中村順司はこれを示す立浪のエピソードとして「低いところから睨みつける悪い癖があった。からだの大きなやつに負けるかぁという思い。負けん気は強かった」と語っている。
立浪は野球選手としての姿勢において、技術とか体格以上に「精神の強さ」「他者への負けん気の強さ」を重視していたのである。

  • 勝負事は勝たないとね。勝負事はケンカ
監督就任時の2022年開幕直前の日刊スポーツなどのインタビューで語っていた独自の思想。
かつての星野仙一の監督としての指揮スタイル(通称「星野イズム」)を継承するという意気込みを語っており、星野やそれを受け継ぐと自負する己の思想をこのように表現した。
立浪は星野との思い出について「負けは許されなかった。理由など関係なしに」「負けたら傷口に塩じゃないが、自分が怒られることが分かっていて、憂鬱でしょうがなかった」と振り返っており、結果として「星野に怒られたくないから勝ちに行く」というチーム体制になってしまった一方、その恐怖心を持ちながらも勝利に必死だった姿勢は大事としている。
ただし、立浪は星野についてはネガティブな感情だけ抱いていた訳でもないようで、「もう使わない」と選手を罵倒しながら次の日には普通に起用する星野の行動を「激しさや厳しさの中にふと愛情を感じてる」とも評していた。

  • こっちも気を使って何とかさせようとやってはいたが、もう戦う顔をしていないんで外した
2022年の5月4日の対横浜DeNAベイスターズ戦において、当時中日に所属していた京田陽太に対する感想。
このシーズンの京田は打撃と守備の両面で深刻な不振に陥っており、この試合でも致命的なミスを犯したことで途中交代と試合中の二軍送りを命じたことをこのように説明。
元々は京田が攻守に精彩を欠いている旨を指摘したコメントで、その指摘自体も当時の京田の状態を考えると至極真っ当なものではあったのだが、言葉のインパクトが強すぎたためか「戦う顔」の部分のみがネタにされがちである。
後に一か月後に再昇格した際に京田自らがネタにしたことを機に柳裕也などもこの発言をネタとして乱発するようになり、翌年に京田が「戦う顔」発言がなされた試合の対戦相手・DeNAに移籍するとDeNAの選手にもこの発言が茶化されるようになり、23年4月30日の中日戦で、京田がチームメイト*5に「バトルフェイス京田」と呼ばれるようになるなど大きな影響を残した。

  • ずっと頑固やったな。なんでそんなに頑固なんや? 去年の秋から言ってきたけど、お前変わらんかったな
2023年にDeNAへのトレードが決まった京田に対する別れの言葉。
この発言に対して京田は「ありがとうございます」と一礼して監督室を出たとされる。
ネット上では一瞬だけ成績を残すも結局その後は成績が低迷する若手~中堅選手(通称「確変」)などに対する皮肉として使われる語録と化している。また変化形として成績が上昇した選手に対する「お前変わったな」という言葉もある。

【余談】

  • 立浪のニックネームとしては「タツ」や「タっさん」と呼ばれている。
    ネット上では「素晴らしい先輩」「タッツ」と呼ばれることが多い。

  • プロ野球関係者が多く出演する番組『有吉ゼミ』の大食い企画に出演したこともある。
    4.2kg超ギガ盛りカレーうどんの大食いに挑んだが出演陣の中でも特に苦戦し、700gの消費に終わって敗北した。

  • 現役時代チームメイトだった、タイロン・ウッズとは生年月日が同日であり、一緒にバースデイケーキを食べたこともあった。
  • 燃えよドラゴンズ」の作詞作曲者である山本正之は立浪の大ファンであることを公言しており、「2007」と「2007 日本一記念盤」では立浪を歌う歌詞のみ2行使っている。企画もの以外で一人の選手に歌詞の複数行を割くのはかなりの特別扱いであり、複数回この扱いを受けたのは現在でも立浪のみである。




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最終更新:2025年04月10日 23:24

*1 なお、「ももの花」は現在も販売されている。

*2 阿部寿樹-涌井秀章京田陽太-砂田毅樹など。

*3 中田翔らの加入や高橋周平・田中晴也の復調が要因と思われる。

*4 元チームメイト・井端弘和と同じ身長。但し野球選手にも赤星憲広(170cm)、美馬学(169cm)など、立浪よりも小柄な選手は少なくはない。

*5 声の主は大田泰示と柴田竜拓ではないかと推測されている。