登録日:2021/06/28 (Mon) 17:34:40
更新日:2025/04/13 Sun 13:20:44
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アルデルト・ヴァッフェントレーガー(Ardelt Waffenträger)はドイツ国防軍の兵器。
統一された名称は存在しないが、ここでは
日本語Wikipediaでも使われている(社名+車両名の)この名称を用いる。
名前は
武器運搬車でありながら、その実態は
対戦車自走砲であったという謎の代物。
ペーパープランや
試作機止まりではなく、一応は正式に量産された兵器であるのだが、非常にマイナーな部類に入る。
しかしある逸話が語り継がれていることもあり、一部で変な知名度を誇る車両でもある。
なおここではアルデルト・ヴァッフェントレーガーを指す場合にはヴァッフェントレーガーと、
車種としてのヴァッフェントレーガー全般を指す場合にはWaffenträgerと呼称する。
【名称】
そもそも
Waffenträgerとは、
ドイツ語で読んで字の如く
武器を
運ぶ者という意味である。
他の兵器で例えれば、
戦車を
駆逐する者で
駆逐戦車と表現されるのと同じことになる。
つまりカッコいい名前が付いている割に、冷静に考えれば直訳しただけの[[ドイツ語]]マジック。
そのためアルデルト・ヴァッフェントレーガーという名前は、アルデルト社が作った武器運搬車という無味乾燥な名前なのだ。
では何故このような抽象的な名前(車両区分)がそのまま本名となったのか。
これには奇妙な開発経緯が関係している。
【開発開始】
1942年から43年頃、悪化する戦況を危惧したのか、上層部は新たな兵器の開発を進めることとなった。
ここで検討対象となったのが、10.5cm leFH18 軽榴弾砲である。
この砲は戦前の開発ながらも十分な火力を有し、通常の運用に加えて自走砲ヴェスペの主砲に用いられるなど、ドイツ軍を支えた名砲であった。
しかしヴェスペは当時では旧式兵器となりつつあり、新たな形で榴弾砲を機動的に運用することが求められ始めた。
しかし天下のドイツ軍は、普通に新型自走砲を開発するのでは満足しなかった。
「10.5cmを撃ち込める自走砲は嬉しいが、ヴェスペよりは強くないとな」
「前線で降ろせると、色々便利なんですけどね」
「じゃあ車載でも地上でも撃てるようにできないか!?」
「待てよ……砲を降ろしている間、空いた車両は他の仕事ができるじゃないか!」
「自走砲を二つに分ければ、同時に仕事が出来て倍強いぜ!」
こうして上のような経緯(想像)で
稀代のウルトラCプランが誕生。
マルチウェポンというべきか、素直に変態兵器というべきか……悩ましい。
この
自走砲で分離☆合体を決めるというリアル・マゼラアタックプランを、
「ナチスの科学は世界一チイイイイ!!」ということなのか
あろうことか採用。
このような用途の支援車両として考案されたのが、
Waffenträgerなのである。
こうしてWaffenträgerという新たな車種の開発が始まった。
そうした計画の一つであったLeichter Einheitswaffenträger(小型武器運搬車)の開発は入札形式で行われ、国内の複数のメーカーがプランを提示。
そこにはクルップ社(ドイツの「大砲王」)、ラインメタル社(対戦車砲やカール自走臼砲)、シュタイアー社(銃器やトラック)といった、
当時のドイツ軍事力を支える名だたるメーカーが参加していた。
ここで異彩を放っていたのがアルデルト社である。
機械メーカーのアルデルト社は以前から国防軍の兵器開発に協力していたようだが、自ら兵器を設計するような大掛かりな事をやったことはなく、企業規模でも実績でも場違いな存在であった。
しかしアルデルト社は見事に1944年8月頃には最終試験を突破したのである。
Geschützwagen 638/18 SF PAK.43 Ardelt Waffenträgerと呼ばれた新兵器。
名実ともにアルデルト社の一大プロジェクトが結実した証であった。
区別した割には、思いっきり自走砲(Geschützwagen)って書いてありますけど……
ここにヴァッフェントレーガーは、8.8㎝対戦車砲を装備した対戦車自走砲として大地に立ったのである!
「こいつはどうだ?最高速度36km、主砲口径8.8サンチ。対戦車自走砲ヴァッフェントレーガー……いずれこいつは量産される!」
……あれ!?
【開発難航――そして自走砲へ――】
「ちょっと違うものが出来上がったのでは?」という疑問が出てくるだろう。
何故こうなったのか……事は開発中にさかのぼる。
そもそものコンセプトが「前線まで砲を運搬し、現地でそれを降ろして活動できる車両」であったのは先に述べた。
この発想は主砲を簡易トーチカに転用できたり、手の空いた車両本体が別の任務に向かえたりといった利点がある。
しかしそれ以上に大きな問題を抱えていた。
「申し上げにくいのですが総統……時間をかけた割には開発が進みません」
「……この中で『作るのはもう普通の自走砲でいいよ』と思う者だけ部屋に残れ」
「そもそも砲を取り外す機能が要らないのだよ!」
「積み降ろし用クレーンのせいで機動性も落ちるだろ!」
「しかも無駄に複雑で工場も困っている!生産ラインを乱す車両は大っ嫌いだ!」
「ちくしょーめ!!」
……と、このように総統閣下がお怒りになったかはわからないが、根本的にWaffenträgerの必要性に疑問符が付けられたのである。
よって1944年2月になると、上層部は指示を変更。
「別に主砲を降ろせなくてもいいから、8.8cm対戦車砲で敵戦車をぶっ壊せる車両を作ってくれ」
こうして開発中のWaffenträgerは大幅に路線変更。
「主砲を取り外せる車両」から「攻撃特化の対戦車自走砲」へと舵を切ったのだ。
他のWaffenträgerは計画のみで終わった物が多い中で、紆余曲折の果てにでも、ちゃんと完成したヴァッフェントレーガーは恵まれていたのだろうか……
「無茶です!Waffenträgerは本来その榴弾砲を運搬し、歩兵支援するように開発された車両です! その特性が殺されてしまって!」
こうした計画変更にはもう一つ原因がある。
当時圧倒的火力を誇った対戦車砲、8.8c PaK 43の機動力の無さが問題視されていたのである。
PaK 43は口径こそFlak18シリーズ同様に8.8cmのままだが、砲身長を56口径から71口径に延長し威力改善。また装填がしやすくなり射撃速度も向上、それでいて価格もFlak18よりは安価に……と確かに申し分のない対戦車砲だった。
しかし重さ4トン越えの代物は壊滅的な機動力という弱点を抱えており、対ソ戦で撤退できなかった砲が次々とソ連軍に奪われる、という大問題をやらかしていた。
(PaK 43に限らず対戦車砲全般の)機動力を補うために、対戦車砲を自走砲に転用する試みは何度も行われていた。
しかし適当な戦車に7.5㎝の各種対戦車砲を載せて攻撃力に全振りした
マルダーシリーズは火力に陰りが見え、
Ⅲ号/
Ⅳ号火砲搭載車に8.8㎝砲を載せた
ナースホルン(旧・ホルニッセ)は流石に高い。
ということで、間を取って
「安くて火力も出る車両が欲しいな~」という、
都合のいい開発が求められたのである。
この無理難題に奮闘する各社。
他社が提案したプランは砲を降ろせる機能も付いていたり、多少の装甲を施して対戦車自走砲らしかったりしたようである。
しかしアルデルト社は割り切って、元の車両の上半身にそのまま対戦車砲を付けただけという荒技で回答。
結果として「どこよりも軽く、小さく、安い」プランであったこれが総統閣下からも高評価を獲得。
かくしてアルデルト社が生んだヴァッフェントレーガーは、名だたるメーカーを破って採用されたのである。
【性能】
重さ 11.2トン(なお主砲の重さが1/3を占める)
乗員 4人
馬力 100馬力
幅 2.44メートル
高さ 2.4メートル
全長 5.43メートル(車体)、7.27メートル(主砲含む)
武装 8.8cm PaK 43 L/71
俯仰角 -8°~40°
水平射角 360°
弾薬32発
装甲厚 車体前面20mm 車体側面-10mm 車体背面8mm 主砲周り5mm
最高速度 舗装路にて時速36km(未舗装路での平均時速は17km)
航続距離 62km~111km(未舗装路で約50-70km、舗装路で約100-110kmとも)
「戦車のことはよくわからないよ」という人に向けて、一言で説明しておく。
恐ろしく高い攻撃力と恐ろしく低い防御力の何か。
- (Sも壊滅的な)デオキシス(アタックフォルム)
- ビームライフルを持ったオッゴ
これくらい尖った能力の持ち主である。
エンジンや装甲は第二次世界大戦が始まった頃の戦車と大差ない。
開戦時既に「訓練用」呼ばわりされていたⅡ号戦車に、エンジンも装甲も負けているのだが……
逆に主砲は第二次世界大戦最強格の戦車とほぼ同じ。
ここまでアンバランスな兵器もなかなかに珍しいだろう。
車輪などは
ヘッツァーの物をほぼ流用し、コストダウンに成功。
つまり
ヘッツァーの上半身を引っぺがして、強引に対戦車砲をポン付けしただけのゲテモノ。
主砲周りは防盾が覆っている。きちんと傾斜装甲が採用されており、実際には5mmを越える装甲として機能したようだ。
元が薄すぎて傾斜の意味が無いのでは。
評価点はその主砲。
8.8㎝対戦車砲(PaK 43シリーズ)といえば、ティーガーⅡやエレファントやヤークトパンターの主砲の系譜である。
つまりは連合国が恐れおののいたバケモノ軍団と同じ砲を、数が作れる安価な車両からボンボコ撃ち込んでくることとなるのだ。
また素っ裸上半身のおかげ(?)で、旋回砲塔の性能を最大限発揮できる。
なんと驚異の360度回転も可能な全周砲塔。無駄に攻撃範囲は広い。
そして乗組員の安全性にも最大限配慮。
余計な物を載せないシンプルな車両なので、非常事態でも一目散に走って逃げられること間違いなしである。
総評としては「不安点は多いが攻撃力は間違いなし」というところ。
この火力で戦闘支援に徹することができれば、自走砲としてかなりの戦果を挙げられただろう。
しかし攻勢の時期はとうに過ぎ去り、ドイツの落日はすぐそこに迫っていた……
+
|
性能おまけ |
実は参考にしたサイトには他にもデータが記されている。
曰く25°まで登坂可能、高さ0.7メートル、深さ40センチ、幅1.5メートルまでは突破可能な走行能力があるらしい。
|
【最期】
「僕は今、戦うべき漢としてここに来ました。そして、このコックピットに座り、本当に分かった気がします。」
「漢たちが、命を懸けた戦いを見守ること。その漢たちが、命を預けた兵器を見つめること。」
「たとえ、それがどのような兵器であっても、記憶を後世まで残したい。」
「だから、未来にそれが繋がって!漢たちが信じた、たった一つの道を……」
1945年2月。ソ連軍は首都ベルリンにまで迫りつつあった。
ここにブランデンブルクの戦いが勃発したのである。
ブランデンブルク州内のエーデルスヴァルデにあったアルデルト社。
社とヴァッフェントレーガーのその後は、実際のところはよく分からない。
しかしアルデルト社に関しては、ある話が伝わっている。
なんと社長、そして社員たちは工場で眠っていたヴァッフェントレーガーに乗り込み、
迫りくるソ連軍と交戦し戦死したというのである。
細かな事を明言するのは確証に欠けるのだが(【アルデルト博士】を参照)、日本では一般に「国防軍中尉だった社長が、社員たちと共に7両のヴァッフェントレーガーを率いて戦死」とも。
死ぬまで働く超[[ブラック企業]]ということではないと思いたい。
国防軍兵士「アルデルト社長ですか?前に出ないで!」
ソビエト兵士「なんだ!?猛獣の親玉か!?」
結果的にアルデルト社は社長が戦死、社員も戦死、当然会社は放棄、挙句現地はそのまま東ドイツ領として占領と散々な目に遭った(とされる)。
こうなっては何処かで語り継ぐ者もおらず、歴史の闇に消えていった。
このためアルデルト社とヴァッフェントレーガーに関しては殆ど情報が世に残っておらず、ソ連の影響を受けた東側諸国で何とか知られている状況である。
ちなみにこの戦闘に参加した車両以外に、数両は完成して納入済みだったらしい。
実際にそちらの方で配備中と思われるヴァッフェントレーガーの写真が残っている。
【戦後――ソ連の調査――】
ドイツを倒したソ連軍は、多くの兵器を持ち帰った。
その中にはアルデルト社の誇り、ヴァッフェントレーガーも含まれていたのである。
ソ連の人たちの第一声は「なんだこの自走砲!?」というもの。そらそうよ。
「さてこの車両は……どういう車両だ……?」
「ドイツの自走砲ですよね、多分……」
「小さいから軽自走砲に数えますか」
「いやどう見てもこの主砲は重自走砲だろう」
「そもそもこの装甲の薄さで戦闘車両に数えて大丈夫ですか」
と、ソ連の人たちを苦労させながらも検証は進んだ。
ソ連の認識は
とんでもないバケモノ。
射撃試験では
1000m離れたT-34-85はどこに当てても余裕。IS-2でも正面でなければ十分貫通可能という火力を平然と発揮。
この砲撃は毎分7.4発ペースで可能で、命中精度は
1000m離れてもほぼ誤差なく着弾させるほど。
この火力と小柄な車体のアンバランスさは注目されたようで、
「我々の知る限り、戦闘重量とショットパワーの比率では、これを越える車両を知らない」とまで言わしめたほど。
まぁ重さで考えればティーガーⅠ×1=こいつ×5になる。戦いは数だよ!
おまけというべきか、車高が低く非常に作業がしやすかったらしい。
乗組員の装填作業は、そのまま地面に立って行えたという。
こうした点では戦車と違い、通常の野戦砲を扱うように作業が可能で、労働環境がよかったとも推測されている。
先の「軽自走砲か重自走砲か論争」が響いたのか、「火力はSU-100やISU-122よりも劣る所はあるが……」という意味不明なディス評価も存在する。
向こうは全身がガチガチの装甲で覆われていて、主砲が回らないこと以外は普通の戦車と同じような連中なのだが……
そんなバケモノ自走砲と比べるな。
とはいえ前向きに考えれば、ヴァッフェントレーガーがソ連の軽自走砲では比べ物にならない破壊力を秘めていたことの証だろう。
一方で欠点も多数。
馬力の低さは致命的。軽いことを考慮しても馬力が低すぎる。
これはヘッツァーのエンジンを使わずに、別のエンジンで価格を抑えたため。
ただ速度の比較対象が装軌式の運搬用トラクターなRSOトラクターというのは、兵器としてどうなのだろう……
そのエンジンの冷却やギアシフトのやり辛さにも弱点を抱えていたことも難点。
また安さを追求したためか、通信設備も冷暖房も照明も持っていなかった。
当然戦闘室はオープントップもオープントップであり、雨風や埃をしのげないことから「乗組員の居住性を考慮していない」とのこと。
お前それ自分の国の戦車見て同じこと言えんの?
しかし総合的には「博士に十分な時間と資源が与えられていれば、大戦終盤における最良の軽自走砲になれた可能性がある」との高評価を与えられている。
皮肉にも安価で大量生産が可能、とんでもない火力の主砲、乗組員のことを考えないという点では、ソ連が好きそうな車両であった。
【現在】
鹵獲後の車両の一両は、毎度おなじみクビンカ戦車博物館に現存する。
全部で二両、あるいは三両が鹵獲されたとされるが、残りは消息不明らしい。勿体ない……
あまりにも資料が少ない車両であり、真面目に調べたければここへ行くのが唯一最善の方策であろう。
でもちょっと遠いんだよな……
【アルデルト博士】
車両自体がどマイナーなのだが、博士はそれに輪をかけて超どマイナー。
名前で検索をかけても、本人も会社も全くヒットしない有様である。
頼みの綱のロシア語ページに手を出しても、はっきり「ほとんど知られていない」と言われる始末。
そのためインターネットで手に入る情報源は、
アンサイクロペディアの博士の項目のみという訳のわからない状況が続いている。
ただページの真偽はともかく内容は面白いので、一度ご覧になってはいかがだろうか。
一応フォローしておくと、向こうのページに書かれていることはそれなりに裏付けがある模様。
- ギュンター・アルデルトという名前
- 東部戦線を目撃した
- エーベルスヴァルデでヴァッフェントレーガーと共に散った
- そのエーデルスヴァルデに工場があった
このあたりは事実のようだ。
会社と共に生き、社員と共に戦い、愛車と運命を共にしたとされるエピソードが強烈なインパクトを残し、この手の話題では「社長」と称えられることが多い。
ヴァッフェントレーガーを見る限り、社長は無駄を排した合理的な設計を好んだようで、その意味では
アメリカやソ連の方が向いていたように思えなくもない。
実際に宿敵ソ連から高い評価を受けたことは、先述の通りである。
【Waffenträgerの仲間たち】
そもそも企画倒れした兵器なので、記述できることは特にない……
と思いきや、かなりの仲間が存在する。
正直クレイジーな連中ばかり。
先輩。
Ⅳ号戦車に10.5cm軽榴弾砲を載せたもの。
この車両はきちんと砲を取り外すことが可能で、当初の発想を形にした見事な
Waffenträgerとなっている。
しかし
試作車が完成したところで
「自走砲でいいからWaffenträgerとか要らん」という路線変更によりお蔵入りに。
本当に作られたうえに
アメリカに現物も残っているためか、仲間ではこれがおそらく一番有名である。
あと一番まとも。
またホイシュレッケは
バッタを意味し、
砲を動かすクレーンを展開した姿がバッタの脚に見えたことに由来する。
それだけ特徴的な要素であったが、結局そのクレーンが邪魔になりWaffenträgerが消えていくことを考えると、なんとも皮肉な話である。
- アルデルト・ヴァッフェントレーガー(10.5cm軽榴弾砲)
ヴァッフェントレーガーの別仕様。
計画当初の主砲である軽榴弾砲にも対応していたようで、こちらを生産することも検討されていたようだ。
アルデルト社のそれが小型軽量であったため、より大型の主砲を扱えるようなWaffenträgerも検討された。
12.8cm対戦車砲、15cm榴弾砲級などを装備するつもりで検討が進んだらしい。
まぁこのくらいならドイツ軍は平気で作る。ヤークトティーガーとかフンメルとか……
- G.W. Tiger(Waffenträger Grille 17)
- G.W. Tiger(Waffenträger Grille 21)
15cm砲でも満足できないドイツ軍が考えた、さらなる大型Waffenträger。
その名はG.W. Tiger(Geshützwagen Tiger=ティーガー自走砲)という、この時点で嫌な予感がする代物。
正体はティーガーⅡの車体を改造して大型化し、その上に17cmカノン砲、21cm臼砲(榴弾砲)を載せるというとち狂った車両。
このレベルになってくると、もう戦闘車両と呼んでいいのか不安になってくる。
さすがにこれは製造される前に戦争が終わった。量産されてたまるか。
肝心のWaffenträger要素はどの程度かと疑問が湧くが、
実は砲撃の際には主砲がスライドし、射角を確保できる砲撃形態に移行するつもりだったらしい。
つまりは変形砲撃機という恐ろしいロマン兵器だった。
【アニヲタ向け】
Waffenträger軍団も参加。
自走砲のG.W. Tigerに、駆逐戦車のクルップとラインメタルの試作車に……
あれ!?社長の愛車は?
このように、一応は量産された我らのヴァッフェントレーガーが参戦する気配が一向にない。
まぁレースゲームでフェラーリとか
トヨタじゃなくて、無名の町工場の車両が参加するようなものだから仕方ないか。
出番なし。
火砕流の中とかどう見ても進めないし。
ただ生徒会の車両をひっぺがせば改造できるかもしれない。
あの世界は改造も日常茶飯事らしいので、熱心な社長ファンは自分で再現しているのかも?
どマイナーだから存在しない……こともない。
東側諸国ではそこそこ人気のようで、ロシアやウクライナのメーカーから発売されているらしい。
検索をかけると、現地のモデラーが何か語っているサイトにたどり着く。
【余談】
日本はヴァッフェントレーガーという項目で、アルデルト社のこれを紹介。
ドイツもアルデルト社を紹介しているが、項目名はLeichter Einheitswaffenträgerという初期の名前。
最有力のロシアはシンプルにWaffenträger 88 mm Pak 43/3というもの。
フランスはWaffenträgerという大枠のページ内で、ホイシュレッケと8,8-cm waffenträgerが解説されている。
ちなみに英語だとホイシュレッケのページしかない。
実は各国のWikipediaには社長と会社の話はほとんど出てこない。
せめて日本でこのように語り継がれているということは、彼らにとっては幸いなのかもしれない。
「我々の、最後の戦いの映像を送ります。記録願います!願います!」
実は単独ではなく、ラインメタル社と合同で試作車を製造していたという話もある。
しかし最終的にラインメタル社の名前が出てこなくなるので、細かいところは不明。
「うちにアルデルト社のあれの設計図とかあるよ」という話も出てこないので、このあたりの関係は謎に包まれている。
ソンネン少佐社長が量産に向けて意気揚々としていたが、実際にそれなりの注文を受けていた様子。採用時に100両ほどの依頼を受けていたとも。
ただ記述によっては、1945年の夏には月に100両、冬には月300両作る気だったともされる。
Waffenträger der Nationで
国家の武装者という意味となり、これはドイツ国防軍を指す表現であった。
また空軍は
ガンポッドを指してWaffenträgerと呼んでいたらしい。
戦後の
ドイツ陸軍が保有する車両に
ヴィーゼルというものがあり、これの
ドイツ語表記は
Waffenträger Wieselというもの。
空挺部隊での運用を想定し、様々な武装を装備したモデルが存在しており、確かにうまい名前である。
しかし日本では
ヴィーゼル空挺戦闘車として紹介されることが多く、Waffenträgerという名前の知名度向上にはなっていない。
+
|
余談の余談 |
アルデルト社とは如何なる会社だったのか?
アルデルト社の歴史は1902年、ロベルト ・アルデルト(Robert Ardelt,1847-1925)がエバースヴェルデの地に設計事務所を構えた事に始まる。
数年の後に事務所は工場へと拡張され、1913年には社名を「アルデルト工場会社(Ardelt-Werke GmbH)」とし、経営権は創業者ロベルトの息子であるマックス(1872年生)、ロベルトJr.(1874年生)、ルドルフ(1880年生) 、パウル(1882年生)の4人に移った。
アルデルト社はクレーン、掘削機、工作機械等の製造を得意とし、第一次世界大戦前にはアメリカ、スイス、カナダ、フランス、ロシア、中国等に工作機械を輸出する世界企業となっており、ドイツ国内にもベルリン、ハンブルク、デュッセルドルフ等に支店を開設していた。
第一次大戦下にあってはドイツの戦争努力に協力し、各種工作機械のほか弾薬等の軍需品の製造も行った。
第一次大戦後の数年間は経営難とそれに伴う大規模スト等の苦難にも見舞われたが、1923年ごろには経営が安定し始め、特にクレーンの製造においては世界有数のものとなっていた。アルデルト社の製造したクレーンは港湾や運河、ダム建設といった大規模事業において重用されたほか、スウェーデン、ソ連、南アメリカ諸国等に輸出され、同社が大恐慌期を乗り切る原動力となった(この他に機関車や消防用クレーンの製造も戦間期に行っている)。
1933年にNSDAPが政権を獲得し再軍備を公に開始すると、これに合わせて各種軍事基地の建設が加速し、アルデルト社にも多くの注文が舞い込んだ(例えばヴィルヘルムスハーフェンの海軍基地建設等)。また、魚雷工場や砲弾工場も建設されたほか、ロケットの関連部品の製造にも関与した。
尚、この時期会社の取締役であったロベルトJr.はNSDAPに入党(1933年)し、戦争経済指導者(Wehrwirtschaftsführer,戦争遂行上重要な企業の経営者に対し準軍事的地位を与える名誉称号)に任命されている。
第二次大戦中は先の大戦と同じく各種軍需品の製造を行い、従業員の数も最盛期には8000人を数えたが、その内3000人は強制労働に従事させられていた外国人捕虜・ユダヤ人であったとされる。
第二次大戦後、ロベルトJr.を始めとする経営陣はソ連占領地域となったエバースヴェルデを去り、同社の支店があったヴィルヘルムスハーフェン及びオスナブリュックにおいて会社を再建している。同社はその後クルップ社に買収され(1953年)、ルドルフJr.の死後、1964年にはクルップ・クレーン製造会社(Krupp Kranbau)へ社名を改め、1995年には移動式油圧クレーン大手のグローブ(Grove)社に再度買収され、現在ではオールテレーンクレーン等の製造を行っている(同社の製品は日本にもOEM調達されている)。※グローブ社自体も2002年にアメリカのクレーン大手マニトワック社に買収されている。
一方、エバースヴェルデに在った製造設備の多くは戦後賠償の一環としてソ連に移送されたが、1948年には残った設備を用いてエバースヴェルデ・クレーン製造人民公社(Kranbau Eberswalde – VEB)が発足している。同社は冷戦期を通じてソ連、南アメリカ、アフリカ、ヨーロッパ諸国にクレーンを輸出していたが、ドイツ統一後は度重なる買収と改名を経験し、2008年には63年ぶりにアルデルトの名を冠するキーロフ・アルデルト社(Kirow Ardelt GmbH)となり、現在はアルデルト・クレーン製造会社(ARDELT Kranbau)としてエバースヴェルデの地でクレーンの製造を行っている。※キーロフ社に関しても現在はテクネ・キーロフ社(TECHNE KIROW)として鉄道用クレーンの製造を行っている。
と、ここまで書いて分かるようにアルデルト社は現在まで存続しているのである。
1945年以前と以降のアルデルト社を別物と考えれば消滅したと言えなくもないが、少なくとも西側で再建されたアルデルト社(現グローブ社)は明らかに戦前・戦中からの人的・物的資源を引き継いでいるし、同社のサイトに載る社史も1902年から始まっている
ヴァッフェントレーガーの日本語版Wikipediaにあるような「アルデルト社自体も第二次世界大戦末期に社長以下主な社員が戦死したために消滅してしまい・・・」というのは不正確な記述なのである。
ギュンター・アルデルト氏とは如何なる人物だったのか
ネット上で確認できるギュンター・アルデルト氏についての情報は下記の通りである
- 1914年生まれ
- エバースヴェルデ生まれ
- 第75砲兵連隊(Artillerie-Regiment 75)に技術将校として所属(1941/12〜1942/10)
- 陸軍兵器局第4課(WaPrüf 4/Heereswaffenamt)に特別代表(Sonderbeauftragter)として所属(1944/3〜1944/11)
- 1945年2月26日付でエバースヴェルデ対戦車猟兵緊急中隊(Panzerjäger-Alarmkompanie Eberswalde)の部隊長に任命(ヴァイクセル軍集団麾下)
- 1945年4月28日没
- 埋葬地はシュピーレンベルク(Sperenberg)
まず第1の問題として、ギュンター・アルデルト氏はアルデルト社の「社長」だったのだろうか?
あくまでネット上で調べられる範囲ではあるが、今のところ同人が社長であったという記述はどの社史及びエバースヴェルデの市史においても見出すことができない。
上述のようにアルデルト社は1913年以来マックス、ロベルト、パウル、ルドルフの4氏による共同経営が敷かれており、中でもロベルト氏が主たる経営者であったようで、西側における再建も同氏によるものである。
1914年という生年を考えると、1930~40年代にあっては後継者候補の1人ぐらいの立場であったと考えるのが自然であろう。また、アンサイクロペディアには1892年という生年が記述されているが、この生年を採用した場合、アルデルト社の共同経営者としてギュンター氏の名前が挙がらないことがますます不自然となってしまう。
第2の問題として、ギュンター氏はエバースヴェルデ防衛に殉じて戦死されたのだろうか?
多くの言説において登場する「1945年2月にエバースヴェルデにおいてソ連軍と交戦して戦死」という記述は事実誤認を含んでいる。何故なら1945年2月時点でソ連軍はエバースヴェルデに到達していないからである。
エバースヴェルデに最初の対戦車警報が発令されたのは45年4月20日であり、更にベルリンへの迅速な進撃を優先したソ連軍はエバースヴェルデを迂回したため、同地では本格的な地上戦闘は生起しなかったとされる。同地に最も大きな破壊をもたらしたのは25日行われたドイツ軍による爆撃と人狼部隊による放火であるとされ、ソ連軍がエバースヴェルデに入城するのは28日の事である。
また、仮にギュンター氏が2月に戦死していたとすると、2月26日付けでエバースヴェルデ対戦車猟兵緊急中隊の部隊長に任命されている事と整合性が取りづらくなる(もちろん、3月までの数日間で戦死した可能性はあるが)。
ドイツの戦没者の埋葬地を記録したwebサイト「volksbund」に登録された埋葬地も議論の対象となる。何故ならギュンター氏が眠るシュペーレンベルクはエバースヴェルデから直線距離で80km以上離れているのである。
仮にこの記録が正しければ何故ギュンター氏は故郷のエバースヴェルデに葬られなかったのだろうか?
さて、戦後ソ連軍によって撮影されたヴァッフェントレーガーの写真の中にメルキッシュ・ブーフホルツ(Märkisch Buchholz)という場所で撮影されたものがある。過去にはヴェンディッシュ・ブーフホルツ(Wendisch Buchholz)と呼ばれたこの地は、1945年4月24日から5月1日まで行われた「ハルベの戦い」の激戦地であり、写真に収められたヴァッフェントレーガーも同戦闘に参加したものである可能性が高い。
このブーフホルツはシュペーレンベルクから直線距離で30km程度の場所に位置しており、ギュンター氏がハルベ包囲陣での戦闘に参加し、第9軍と共に西へ血路を開こうとするもシュペーレンベルク近郊で戦死...という仮説を立てる事ができる。また、実のところシュペーレンベルクはドイツ軍の兵器試験場が所在するクマースドルフと隣接する行政区画であり、V2ロケットの開発初期段階における打ち上げはクマースドルフ演習場に付属するシュペーレンベルク飛行場で行われている。ここでアルデルト社がロケットの部品を製造していた事を思い出して欲しい。また、国防軍兵器局に勤務していたギュンター氏であればクマースドルフを訪れる機会も存在したであろうし、ヴァッフェントレーガーのような車両を開発していた身としては尚更の事であろう。
このようにしてみるとギュンター氏は当初エバースヴェルデ対戦車猟兵緊急中隊の中隊長としてエバースヴェルデ防衛を任ぜられたものの、何らかの理由で第9軍の作戦地域へ移動となり、ハルベの戦いの最中に戦死したと見るのが自然ではないだろうか。
余談の余談の余談1
ラストオブカンプフグルッペの表紙にも使われてれいる、ヴァッフェントレーガーの写真についてはブランデンブルク・デア・ハーヴェルで撮影されたものである。同地はエバースヴェルデから直線距離にして100kmほど離れている。
ギュンター氏が部隊長に任命される前日、45年2月25日付でヴァイクセル軍集団司令官宛に発出された報告書では、エバースヴェルデにある7両のヴァッフェントレーガーを軍集団の予備として編成する事が進言されているほか、ヴァッフェントレーガーを突撃砲兵学校のあったブルグ(Burg bei Magdeburg)に送る可能性も示唆されている。ブルグとブランデンブルク・デア・ハーヴェルの直線距離は50km程であり、ブランデンブルクでの戦闘に加入したのは突撃砲兵学校の車両であったのかもしれない。
余談の余談の余談2
上述の「Volksbund」にはエバースヴェルデ生まれのフーベルトゥス・アルデルト(Hubertus Ardelt)という人物も登録されている。1917年生まれで、1945年1月20日に没しており、埋葬地はシュトラースブルク郡グランサウ(Gransau, Krs. Strasburg)、階級は大尉(Hauptmann)と記録されている。
※このシュトラースブルクは独仏国境のものとは別のメクレンブルク=フォアポンメルン州のもの
記録によると第207砲兵連隊(Artillerie-Regiment 207)に在籍する将校の中にフーベルトゥス・アルデルト予備役中尉(Oberleutnant d. Res. Hubertus Ardelt)を見出す事ができるので(1944年4月時点)、おそらくこの人物であろう。
よって、アルデルト家は少なくとも2人の後継者候補を戦争で失っている可能性がある。
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「アルデルト社は、もはや小さな一企業ではない」
「この戦争の一端で、確かに戦っている」
「この事実は、何人たりとも消せはしない……!」
追記・修正は歴史に消えた漢たちを想いながらお願いします。
- wotに出られないのは多分主砲が88mm、WGお得意の計画採用を使っても105mm止まりだからなんだろな・・・重ヴァッフェンの一個前が128mmのシュタールエミールだし・・・でもワンチャン課金でtier7か6あたりに来る可能性もないとは -- 名無しさん (2021-06-28 19:49:18)
最終更新:2025年04月13日 13:20