福永祐一

登録日:2023/07/23 Sun 03:09:44
更新日:2025/04/21 Mon 22:50:09
所要時間:約 29 分で読めます





福永(ふくなが)祐一(ゆういち)は日本中央競馬会(JRA)・栗東所属の元騎手・現調教師。
天才騎手の子として競馬界に飛び込み、数々の苦難・挫折を経験。
それでも努力を重ねてトップジョッキーにまで上り詰めた、平成から令和時代の中央競馬を代表する名手の一人。
妻は元フジテレビ所属のフリーアナウンサー・松尾翠。



【来歴】


1976年12月9日生まれ、滋賀県栗太郡栗東町(現:栗東市)出身。父はかつて「天才」と呼ばれ一世を風靡した元騎手の福永洋一
以下、区別のため父の方を「洋一」、本人の方を「祐一」と表記する。

故郷は茨城県美浦村と同じJRAのトレーニングセンター所在地。
実家の向かいには洋一と鎬を削ったライバルにして親友の「ターフの魔術師」武邦彦*1*2の家もあり、多数のホースマンに囲まれた環境で育った。

もっとも、祐一本人は当初騎手になるつもりはなく、中学校時代はサッカーをやっていた*3という。
しかし2年生時に様々なきっかけ*4を得て騎手になることを決意。後述の事情で母には猛反対されるもこれを説得し、JRA競馬学校騎手課程に第12期生として入学した。
実は第11期も受験していたのだが、実技テスト前に骨折して辞退する羽目になってしまい、高校進学後に改めて受験している。

この競馬学校騎手課程第12期は祐一以外にも注目株が多く、洋一が多くの名手*5を輩出した馬事公苑第15期長期騎手講習(通称「馬事公苑花の15期生」)の出身者だったことに準え、
「競馬学校花の12期生」と呼ばれるようになる。
具体的なメンバーとしては、
  • 「世紀末覇王」テイエムオペラオーの唯一無二のパートナーにして競馬界屈指のお笑い芸人タフガイ・和田竜二
  • JRA初の双子騎手として話題となった柴田大知柴田末崎(現:調教助手)兄弟
  • JRA初の女性騎手の一人で、引退後は競馬評論家・競馬解説者として下ネタを連発するけど活躍中のトリガミ子細江純子
  • 落馬事故によって引退を余儀なくされるも、引退後は文筆業の傍ら障碍者馬術選手として活動している常石勝義
などがいる。閑話休題。
騎手課程を卒業後、1996年に栗東・北橋修二厩舎所属の新人騎手としてデビュー。様々な苦難を乗り越えながら成長し、日本競馬を代表するトップジョッキーにまで上り詰めた。

2022年12月に調教師試験に合格。2023年2月末を以って騎手を引退し、調教師へと転身した。
1年間技術調教師として勉強したのち、2024年3月より厩舎を開業。同年4月に厩舎初勝利を挙げた。

【騎乗スタイル】


最大の魅力は抜群の安定感
スタートに関しては「1から10まで理論的に説明できる」というほどに自信を持っており、好発から無理なくレースを進めて馬の力を引き出す技術は天下一品。
彼のゲートを出す技術は神業とも呼べる代物であり、スタート難な馬を何頭もスムーズに導いてきた。

こうした手腕は特に平場のレースで活かされ、13年連続の年間100勝は他の追随を許さないJRA記録。
若駒に競馬を仕込む「教育騎乗」の技術も確かなものを持っており、2歳G1通算7勝は歴代トップの好成績。

また、頭の良さ競馬に対する姿勢も高く評価されている。
抜きんでた才能を持っていたわけではないが、たゆまぬ努力と研究によってトップジョッキーの地位に上ったというのは各所で言及されるところである。
競馬番組等でレースの展開を予想し、見事に的中させることも多い。

他方、デビュー以来ずっと指摘されているのがここ一番での勝負弱さであり、「重賞の予想はまず祐一の乗る馬を外すところから」という時期もそれなりに長かった。
重賞では皆が思い切った騎乗をしてくるので、「無理をせず無難に乗る」スタイルでは不覚をとることも多いのである。
それでも現役後半は大レースでの好騎乗が目に見えて増え、一流騎手としての評価を完全に確立するに至った。

総じて池添の裏返しと思えばだいたいあってる

【-天才騎手の子に生まれて- 福永祐一の物語】


競馬騎手・福永祐一を語るうえで、絶対に切り離すことのできない存在。
それが彼の実父、福永洋一である。

関西の名門、武田文吾厩舎からデビューし、僅か3年でリーディングを獲得。
時に追い込み馬を華麗に逃げ切らせ、時に逃げ馬で鮮烈な追い込みを決めてみせる。
数々の関係者をして「言葉や理屈で説明できるものではない」と言わしめた騎乗センスは、「天才」の称号を冠するにふさわしいものであった。*6
……だが、そんな洋一を悲劇が襲う。

1979年3月4日、他馬の落馬事故に巻き込まれ、騎乗馬が前のめりに転倒。
地面に頭を強打し、意識不明の危篤状態に追い込まれてしまう。*7
幸いにして意識は戻ったものの……彼の身体はもはや元のようには動かなかった。
年単位のリハビリも実らず、騎手としてレースに復帰することはついに叶わなかったのである。

言うまでもないことだが、騎手という仕事は常に命の危険が付き纏う。
JRA主催のものに限っても、レース中の事故による「殉職者」は実に20人。*8地方競馬や調教中の事故も含めれば、犠牲となった者の数はさらに膨れ上がる。
ゆえに、祐一が競馬学校への入学を希望した時―――彼の母親は猛烈に反対した。
死と隣り合わせの世界に我が子を送り込みたくはない、夫のような目に遭わせたくはないという親心を考えれば、無理からぬところではあるだろう。
実際、1998年には母親の実弟(祐一視点では叔父にあたる)である北村卓士騎手が落馬事故に見舞われ、後遺症を克服できずに引退している。
祐一本人も引退式において「母親に対しては(中略)本当にずっと辛い思いをさせ続けてきた」「27年、こんな親不孝はないなと思いながら続けてきました」と語ったほどで、
尋常ならざる苦悩があったことは想像に難くない。

しかし、そんな母親の反対を押し切る形で祐一は競馬界へと飛び込む。
「天才」として名を馳せた父親*9の威光は競馬界の隅々にまで行き届いており、多数の関係者が「天才の子」の未来に期待を馳せた。
当時の状況が窺い知れるエピソードとしては、「競馬学校の合格発表日に栗東トレセン事務所で記者会見がセッティングされ、金屏風を背景に合格を報告した」というものがある。
入学試験の時点でこのお祭り騒ぎなのだから、もはや異様の一言である。
無事にデビューを果たした祐一はデビュー戦から2連勝という鮮烈な活躍を見せ、父の才能を継ぐ次世代のスターとして華々しく報道される。
祐一自身もこうした周囲の期待によく応え、多数の関係者によるバックアップのもとで順調に勝ち星を積み上げていった。

そして2年目の秋、祐一のもとにキングヘイローの手綱が回ってくる。
「天才騎手の息子が超のつく良血馬*10に乗ってクラシックに挑む」というストーリーは注目を集め、メディアにも大きく取り上げられた。
ダービー前にはなんと密着取材*11までついていたそうで、祐一に対する期待のほどがうかがえる。
こうして周囲の今思い返せば過剰なきらいがあったが多大な期待を背負ったコンビは、デビュー4戦で3勝(うちGⅢ1勝、2着1回)という優秀な成績を残し、意気揚々とクラシック戦線に駒を進めた。

……しかし、祐一は父親のような天才ではなかった。

皐月賞では横山典弘騎手の手綱の下で軽快に逃げたセイウンスカイを捉えられず2着。
引退したての元騎手・田原成貴調教師*12*13から「今のレースは勝ててたぞ(=お前の騎乗で負けた)」と酷評される*14
ダービーでは坂口正大調教師が「パドックで顔が真っ白だった」と回想するほどの極度の緊張状態に陥り、馬を抑えきれずオーバーペースで暴走。
武豊スペシャルウィークで悲願のダービー制覇を成し遂げた裏で、直線沈没の14着という大敗を喫する。
今でこそ半分笑い話になっているが、レース当時は本人も「頭が真っ白になった」と漏らした失敗騎乗は散々に批判され、騎手としての評価を大きく下げてしまった。
最終的にキングヘイローはベテランの柴田善臣騎手に乗り替わり*15となり、苦難の末にG1高松宮記念を制覇。
このレースで2着に敗退したディヴァインライトには他ならぬ祐一が騎乗していたという嬉しくないおまけつきであった。ここから祐一による脳破壊が始まった
この時祐一は「一番いて欲しくない馬が前にいた」、後年には「なんで自分は勝たせてやれなかったという思いとやっとタイトル取れてよかったなという気持ちで複雑だった」と語っている。
もっとも、キングヘイローと祐一の相性自体は良かったらしく、古馬になってからも三度騎乗して2着1回3着2回とそれなりの結果は残していた。
中でもマイルCSはレコードタイという激走だったのだが……それをさらに上回るレコードを叩き出したエアジハードに敗北するという不運であった。

1999年にはプリモディーネで桜花賞を制覇しG1ジョッキーとなるも、翌週行われた小倉大賞典の返し馬で落馬。
馬に踏まれて左腎臓を摘出するほどの重傷を負ってしまう。まさに天国から地獄への急転直下であった。
この事態を一番危惧していた母親からはたいそう心配されたものの、入院中は「久しぶりに親子で過ごせる」と安堵の顔も見せていたそうな。
親心というのは複雑である。

……そして、この頃にはもう「父親ほどの才能はない」との評価が大勢を占めており、有力馬を多数任されながらも結果がついてこないと見られる時期*16が長らく続いた。
2010年以降牡馬での活躍が増えてはきたものの、日本ダービーは18回騎乗してなお未勝利。
特に2013年エピファネイアと臨んだダービーで2着に敗れた際は、「悔しいとか軽い感じのものではなかった」「自身に対する無力感を感じ、進退を考えるほどだった」としている。

その間武豊には上記含めて5回もの勝利を許し、池添謙一(2011年オルフェーヴル)や川田将雅(2016年マカヒキ)といった後輩だけでなく、
内田博幸(2010年エイシンフラッシュ)や岩田康誠(2012年ディープブリランテ)といった地方競馬出身の騎手にも先を越される。
さらに海外から度々短期免許で遠征していたミルコ・デムーロとクリストフ・ルメールがJRA通年免許を取得したことで馬質自体も落ちてしまい、「福永にダービーを勝つのは無理」と断じる競馬ファンも少なくなかった。

しかし2018年。


福永祐一ついにやった!悲願のダービー制覇!


祐一の駆るワグネリアンが日本ダービーに出走し、栄光のゴール板を先頭で駆け抜けた。
自ら「福永家の悲願」と語ったダービー制覇は多くのファンの涙を誘い、SNSのトレンドにはかつての愛馬、キングヘイローの名前が躍った。

その翌年、祐一の成長を見届けるかのようにキングヘイローは他界。
5日後に開催された第49回高松宮記念では、ミスターメロディを駆った祐一が見事な好騎乗を決め、キングヘイローへのはなむけとなる勝利を飾った。
本人も心に期するものがあったようで、レース後のインタビューでは「キングヘイローが背中を押してくれた」と語った。
当時は分不相応とも言われたコンビであったが、今となってみればやはりキングヘイローは運命の相手だったということなのだろう。

【-たとえ天才ではなくとも- 福永祐一の今】


前述のように、祐一は父親ほどの天才ではなかった。
だが、父親の威光に縋るだけの凡夫でもなかった。

若き日の祐一の騎乗スタイルは、良くも悪くも「堅実」「無難」といった言葉がぴったりくるものであった。
馬質の良さもあって平場*17での成績は上々だったのだが、重賞戦線では他の騎手の策略に屈するシーンがしばしば見られ、
結果的に「勝負弱い」「平場でしか買えない」というイメージが定着。
落馬事故の影響もあって、2000年代は馬質に見合った結果を残せないと見られる*18日々が続いた。
2006年には所属先の北橋厩舎、続く2007年には第二の所属先とも言われた瀬戸口厩舎が解散となり、有力な後ろ盾を一気に失ってしまう。
勝ち数自体はそこまで落とさなかったものの、1999年以来続いていたG1の連続勝利記録は7年で途絶えることとなった。

しかし2010年、祐一は騎手としての転機を迎える。
きっかけは憧れでもあった武豊の故障離脱で、かねてより交友のあった工藤公康*19から「かわいがってもらっているうちは超えられない」「ここで自分が一番になるくらいの気概がなくてどうする」と
叱咤を受けたことで意識が変わったとインタビューで語っている。
障害馬術日本代表アドバイザーの小野雄次氏を専属コーチとし、三十台半ばにしてフォームの改造を行うなど、自己研鑽にも意欲的に取り組んだ。

そうした地道な努力が実を結んだか、2010年には二度目の年間100勝を達成。徐々に大舞台で活躍するシーンが増え始める。
2011年にはJRA史上初となる親子でのリーディング獲得を成し遂げ、以降は毎年のように大レースを制覇。
2000勝達成までのスピードはあの武豊に次ぐ2番手であり、史上11人目のクラシック競走完全制覇、史上5人目のJRA通算2400勝を成し遂げる等、一流と呼ぶに相応しい実績を残した。
そして、ここから祐一はさらなる飛躍を遂げる。
2020年にはコントレイルを無敗のクラシック三冠に導き、年間でもキャリアハイとなる134勝を挙げた。
そして2021年の日本ダービーではシャフリヤールに騎乗。
戦後最年少でのダービー制覇が懸かった気鋭の若手・横山武史*20が騎乗する大本命の皐月賞馬エフフォーリアをハナ差で差し切り、武豊・四位洋文に次ぐ史上3人目のダービー連覇を達成。
武豊以来のダービー3勝ジョッキーとなった。
なお武史騎手はこれが相当なトラウマになった模様。*21
しかしここで負かされたことで三冠の目がなくなったエフフォーリア陣営は菊花賞ではなく天皇賞(秋)を選択。
祐一騎乗のコントレイルはこの秋天で武史騎乗のエフフォーリアの二着に敗れきっちり雪辱を果たされてしまったのだった。
祐一はともかくコントレイルにとってはとんだとばっちりである

そして同年のスプリンターズステークスではあのキングヘイローの孫にあたる期待馬、ピクシーナイト*22に騎乗。
先行策から直線力強く抜け出し、キングヘイローで果たせなかったスプリントG1勝利を見事成し遂げた
この勝利は2007年のアストンマーチャン以来14年ぶりとなる3歳馬のスプリンターズS制覇であり、
更には日本調教馬として史上初となる父子直系4代*23によるG1勝利という歴史的快挙であった。
かつては祐一に厳しい評価を下していた田原成貴氏も、「馬の重心と支点を瞬時に合わせることができ、そこからほとんど動かない」「もともと頭がいいところに、一番大事な馬乗りが追いついた」
「自分の理想とする騎手像(=福永洋一)に最も近い」と評するまでに至っている。

そして2022年12月8日、祐一が調教師試験に合格したことがJRAより発表された。
騎手と調教師の兼務は規則によって禁じられている*24ため、騎手免許が失効する2023年2月末をもって騎手・福永祐一は現役を退くこととなった。
ラストランとなったのは遠く中東・サウジアラビアで行われたリヤドダートスプリント。リメイクに騎乗して3着となり、足掛け28年の騎手生活にピリオドを打った。

騎手から調教師への転向自体は珍しくないが、大概のケースでは体力的な限界、あるいは乗鞍の減少といった騎手としての衰えが要因となっている。
しかし祐一の場合は2010年~2022年まで年間100勝を続けており、2022年もG1を2勝しているなど*25衰えるどころか今がピークではないかというほどだった。
そもそも調教師試験は合格率5%~10%程度という超難関*26であるため、何の前触れもなく試験合格が判明した……すなわち一線級の騎乗数を保ったまま一発合格したこと自体も相当の快挙だったりする。
前々から「調教師・福永祐一を見たい」との主張は少なくなかったものの、ファンサイドからは祝福とともに嘆きの声が木霊することとなった。
また、この時点で史上3人しか達成騎手*27がいない「八大競走完全制覇」にリーチをかけており、最後の1つとなる有馬記念についても2022年に惜しくも2着という所まできていた*28ので、そうした視点からも惜しむ声が挙がった*29

余談ながら、後輩で公私ともに仲の良かった*30この世全てに不満のあるような顔つきと言われた*31川田将雅騎手だけは、祐一本人から調教師試験の受験を打ち明けられていたのだという。
川田騎手は競馬に対して非常にストイックな姿勢で臨むことで知られる人物で*32、感情をあまり出さず*33冷静沈着に振る舞うシーンが多いのだが、
そんな彼も祐一の引退式では終始涙を浮かべていた。

厩舎開業は2024年3月*34
そして開業前から掛かった馬主たちによるご祝儀代わりの高額良血馬入厩宣言*35が発生しており、早速とんでもないプレッシャーが襲い掛かっている。25年前にも見たねこれ
2024年3月9日に武豊騎乗のレオノーレで初戦を迎えるも2着、そこから3戦目まで2着を3回連続という珍記録を達成する。3戦目に騎乗した川田騎手は初勝利のために必死に追っていた
そこから馬券内を繰り返すなどなかなか勝利できなかったが4月7日についに阪神で川田騎手で初勝利…する1時間半に福島で小沢大仁騎手騎乗のマルカブリッツが厩舎初勝利。
川田騎手騎乗のエーデルブレーメの勝利は2勝目となったが福永自身は阪神にいたことから初お立ち台は阪神となった。
なお今までの癖がまだ抜けていないのか、騎手の台に立とうとして川田騎手に怒られていた。なお表彰式は割と笑顔多めだった
2024年8月18日、CBC賞にて幸英明騎手騎乗のドロップオブライトが勝ったことで調教師として初の重賞制覇を果たした。
尚、CBC賞は中京1200m。偶然にもキングヘイローが唯一勝利したG1、高松宮記念と同じ舞台と距離というものであった。

「騎手・福永祐一」から「調教師・福永祐一」へ。彼の第二の人生に期待したい。

【福永祐一の相棒】


キングヘイローと祐一の縁については上で語ったが、それはそれとして長らく議論されている話題がある。
福永祐一の相棒と呼べる馬は誰か、というものである。

たとえば和田竜二はテイエムオペラオー、武豊はスーパークリーク*36、岡部幸雄はシンボリルドルフ、的場均はグラスワンダー(orライスシャワー)、横山典弘はメジロライアン*37……
といった具合に、一流の騎手には相棒と呼べる代表的お手馬がいる。
祐一と組んで実績を残した、あるいは彼から高評価だった競走馬としては、

  • 1戦を除き主戦騎手を務め、共に日米オークスを制し、後年には「僕が乗った中でも群を抜く最強牝馬」と称したシーザリオ
  • 所属していた北橋厩舎の管理馬であり、若き福永が32戦全戦に騎乗、GIを4勝したシャティン大好き「香港魔王」エイシンプレストン
  • 素質を非常に高く評価され(コントレイルが無敗の三冠取った後でもなお「エンジンは別格だった」と述べている)るも、故障で無念の引退となったシルバーステート
  • 共にクラシック三冠を獲得してその後の苦楽も共にし、「僕にとってはスーパーヒーロー」「(騎手として)日本競馬でやれることはやった」と調教師転身を決意させたコントレイル

あたりがまず挙がるが、他にも

  • キングヘイローの孫で、若き日の無念を見事に晴らしたピクシーナイト
  • ドバイデューティーフリーをレコードタイムで制覇し、レーティング世界1位となったジャスタウェイ
  • 祐一に初めての牡馬クラシックタイトルとなる菊花賞の勝利を授け、「経験したことのないパワーと口の重さを持っていた」「彼を乗りこなせないなら騎手を続ける意味がないと思った」と言わしめたエピファネイア
  • シーザリオと同期の牝馬で桜花賞・NHKマイルカップを制するも病気で急死したラインクラフト
  • 主戦騎手を務め福永家悲願の日本ダービー勝利を手にするも、以後喉鳴りに苦しんで連敗を重ね、最後は奇病*38で現役のまま夭逝したワグネリアン

などがおり、まさに群雄割拠状態である。

しかし、当の祐一はこうした質問に即キングヘイローの名前を出してしまう程度には今でもご執心である。
他の騎手たちが乗ってみたい競走馬として軒並みテイエムオペラオーを挙げる中、ただ1人キングヘイローの名を出したこともあるほど。
そのためファンからは「キングは初恋の相手」などと言われることがある。
このあたりは競馬ファン的にも外せない話題のようで、週刊Gallop(2022年9月16日発売号)による「相性バッチリな福永騎手のお手馬と言えばベスト10」という趣旨の企画に対し、
企画趣旨とちょっと外れるけど福永と言えばキングヘイロー」という投書が送られて採用された結果、ランキング3位にキングヘイローが食い込んだ。

結局相棒は誰かは決められないままである

【余談】


  • 歴史が好きで騎手を志す前は歴史の教師になりたかったという。
    騎手時代にもレースの合間に『信長の野望』をプレイしていたり、競馬芸人のミサイルマン岩部*39を歴史好きと思い込んでいたりと歴史絡みのエピソードがいくつか知られている。
  • ゲーマーであり、幼少期から前述の『信長の野望』や同社の『三国志』にハマっていた。イメージトレーニングとして『ジーワンジョッキー』もプレイし、アドバイザーとして開発に関わったこともある。
    ウマ娘』についても「競馬好きの人が作ったゲームでよくできている」と評している。
  • 師匠の北橋修二(元騎手・元調教師)は幼少期から懇意にしていたホースマンのひとりで、幼い頃は「修ちゃん」と呼んでいたり動物園に連れていって貰ったりと、家族同然の付き合いをしていた。
  • 重賞初勝利がエンプレス杯のシルクフェニックス、小倉オープン特別のフェニックス賞を通算7勝、マルカフェニックスで重賞2勝など、やたらとフェニックスに縁があるため、『Mr.フェニックス』の異名を持つ。
  • かつては『祇園のプリンス』と呼ばれるほど遊び歩いていた独身貴族であり、「猛烈に誰かに会いたいと思ったこともない」「家に帰ったら他人がいるというのが気持ち悪い」とキレッキレの発言を残していた。
    同期の和田竜二騎手夫妻*40に向かって「結婚は人生の墓場」とうっかり口走ってしまい、結果和田家を出禁にされたという逸話もある。
    しかし妻の松尾翠と出会ってからは「一緒にいて飽きない。こんな楽しいと感じた人はいない」と愛妻家に激変し、周囲を驚かせた*41
  • トップジョッキーになってからの結婚であったため披露宴は盛大に行われ、京都のホテルに騎手、厩舎関係者、馬主関係者など300人以上が集う大パーティーとなった。
    関東の所属で出席できない関係者も多かったため、次週には関東でのパーティーも開催されたという。なお、そちらに出席した柴田善臣は祐一そっちのけで洋一と握手していたとか。


キングヘイロー「落ち着いていけよ」

ワールドエース「人気でも気負うなよ」

エピファネイア「仕掛けは早まるなよ」

リアルスティール「距離不安でも前につけろよ」

ワグネリアン「自信を持て」

コントレイル「きみは三冠ジョッキーなんだ」

シャフリヤール「焦ることなく一歩ずつ、だよ」


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最終更新:2025年04月21日 22:50

*1 名字から察する通り、武豊・武幸四郎(現調教師)兄弟の父でもある。

*2 ちなみに洋一と邦彦は10歳近い年齢差(邦彦の方が年上)だったにもかかわらず親友同士で、若い頃は一緒に車を乗り回して高速道路を暴走したり、騎乗馬の乗り替わりがあった時には情報交換もしていたという。その友情は洋一が事故により騎手引退を強いられた後も続き、祐一が初GⅠ制覇を成し遂げた時は「洋一の倅が良くやってくれた」とコメントした。

*3 乗馬も一応習ったのだが、すぐに飽きてやめてしまったとのこと。

*4 「何かの世界で一番になりたいと思い、騎手としてなら実現できる可能性が最も高いと確信した」「当時早くも天才ジョッキーとして活躍していた武豊が、後の結婚相手である佐野量子と共にポルシェで実家に帰ってきたのを目撃した」等、本人から複数のきっかけが語られている。

*5 同期には「皇帝」シンボリルドルフの主戦騎手として有名な岡部幸雄、数々の大レースを制した名手・柴田政人(ちなみに彼の甥が大ベテランの柴田善臣騎手)などがおり、日本ダービー優勝騎手を3人輩出するなど優秀な人材が多かった。一方で洋一を含め決して少なくない人々が、落馬事故で殉職したり騎手を引退せざるを得なくなったりしている。

*6 1971年第32回菊花賞や1977年第37回皐月賞などが主に上げられる

*7 この事故は当初関係者たちは重く見ていなかったが、実際は救急車で病院に救急搬送しないといけなかったレベルの重症を負っており、以後事故発生直後でも救急搬送ができる体制が取られた。

*8 2024年4月現在。記憶に新しいのは2023年第40回マイルチャンピオンシップをナミュールで制した藤岡康太騎手の急逝だろう

*9 洋一の才能は後に天才と呼ばれた多くの騎手たちからも賞賛されており、中でも1977年の皐月賞をハードバージで制したレースはファンはおろか関係者ですらも驚愕の騎乗をしており、洋一騎手の代表的なレースの一つに数えられる。息子である祐一も、このレースについて「父が騎乗したレースで一番好き」と口にしている。

*10 詳細は実馬の項目を参照してほしいが、端的に言えば「父は凱旋門賞馬(それもレコード勝ち)、母はアメリカでケンタッキーオークスを含むGⅠ7勝を挙げた実力馬」という、正直なぜ日本で走っているのか不思議なほどの良血の持ち主だった。

*11 万が一勝ったら「最年少ダービージョッキー」の称号がかかっていたため取材が余計過熱した。

*12 1993年の有馬記念で奇跡の復活を遂げた際のトウカイテイオーの主戦騎手や、変幻自在の脚質でGⅠを4勝したマヤノトップガンの主戦騎手を務めた人物。この後薬物所持などの不祥事によって競馬界から引退を余儀なくされたが、現役時代は数々の名騎乗を見せた感覚型の名手であり、「天才(同じく天才と呼ばれた武豊のデビュー後は「元祖天才」)」とも呼ばれた。現在は競馬評論家として活動。

*13 余談だが、田原は感覚型の騎手である一方で理論家でもあり、時々インタビューやエッセイで騎乗についての解説を行っていた。そんな田原でも、祐一騎手の父・福永洋一騎手だけは「どうしてあんなに勝つのか理屈で説明できない唯一の騎手」「『説明しろ』と言われても説明できないレベルのものを一つ持っていた」と評している。

*14 田原は騎手としての現役末期、自身の著書で祐一騎手について「(武豊や横山典弘(メジロライアンセイウンスカイの主戦騎手で、後に2021年日本ダービーで祐一騎手と対決した横山武史騎手の父)と比べて)騎手としての素質をさほど持ち合わせていない」と評した。一方で田原は祐一騎手に対して、細かい扶助から馬の動かし方に至るまで、マンツーマン指導を行っている

*15 一応、柴田善臣騎手は「自分はあくまで付録で、キングヘイローは福永の馬」とフォローしている。

*16 毎年のようにG1勝利も機会もあり、2004-06にはJRA優秀騎手賞を3年連続(04:賞金獲得部門5位、05:勝利数部門5位・勝率部門5位、06:賞金獲得部門4位)受賞するほどだったのに「いい馬に乗っているんだから勝って当たり前」「馬質から考えたらむしろもっと勝ってなきゃおかしい」という、半ば難癖のような批判の声も多く聞かれた。

*17 いわゆる条件戦で、基本的に同じ勝ち数の馬どうしで争う。無理して勝ち上がるより無難に走って2~3着を繰り返す方が結果的に稼げる場合も多い。

*18 この時期に前述の通り2004-06の3年連続JRA優秀騎手賞受賞や、2005年アメリカンオークスをシーザリオ号で制し、日本生産・調教馬のアメリカG1初勝利という偉業を達成している。それを踏まえても当時の競馬ファンの評価は大体このようなものであった。

*19 元プロ野球選手で、NPB史上23人目の200勝達成者となった大投手。若い頃は不摂生な生活を送っており生命の危機に立たされたこともあったが、そこから奮起して肉体改造を図り大成した。

*20 先述した横山典弘騎手の息子の一人で、タイトルホルダーやウシュバテソーロで有名な横山和生騎手の弟。2020年に史上最年少で関東騎手リーディングを獲得するなど、今注目されている若手騎手の一人。

*21 このダービーから2年後の2023年のインタビューでは、未だ21年日本ダービーの映像を見返すことができないこと、日常生活でもふとした瞬間に21年ダービーがフラッシュバックしてくることを語っている。

*22 父父父にはグラスワンダー、母母父にはサクラバクシンオー

*23 グラスワンダー→スクリーンヒーロー→モーリス→ピクシーナイト。日本は「父系の墓場」と揶揄されるほど父系が繋がらない環境であったため4代でも初の偉業となった。

*24 これを「調騎分離」という。なお戦前は1930年代まで調教師と騎手の兼務というのはそれほど珍しいことではなく、戦後の一時期も可能となっていたが、結局1948年に調騎分離の厳格な適用が行われるようになり、現在もこの状況は続いている。

*25 しかも2022年は前年の香港で落馬事故に巻き込まれ2カ月近く怪我で離脱していた時期があったにもかかわらずである

*26 例えば祐一の晩年の代表騎乗馬であるコントレイルの管理調教師・矢作芳人調教師は、合格するまで延べ13回に渡って不合格となった。矢作師は開成高校卒というエリートであり、海外遠征で非常に多くの実績を残して今や「世界の矢作」とも呼ばれるようになった名伯楽だが、そんな彼ですらここまで落ち続けてきたことからも、その難関ぶりがうかがえる。ちなみにそんなエリートな矢作師が何故競馬の世界に足を踏み入れたのかについては様々なエピソードがあるため、詳細は各自で調べてほしい。

*27 保田隆芳、武豊、クリストフ・ルメール。

*28 皮肉なことに、この時の勝ち馬は母父にキングヘイローが入っており、ある意味2000年スプリンターズS同様キングヘイローに阻まれた形となる。

*29 ちなみに福永騎手と同じ「八大競争の内一つだけ制覇出来なかった騎手」も2023年時点で福永氏以外では騎手引退者で6人(加賀武見・柴田政人・河内洋・岡部幸雄・安藤勝己・蛯名正義)、これから叶うかもしれない現役騎手でも2人(横山典弘・ミルコ・デムーロ)だけのため、それでも十分凄い事なのだが…。

*30 川田騎手によると、祐一とは自身が新人騎手時代からの付き合いで、エージェント(騎乗依頼仲介者)が同じだったことで知り合ったという。川田騎手曰く「僕をこの世界に生き残らせてくれた恩人」とのこと。

*31 安田翔伍調教師(トウカイテイオーの初代主戦騎手で、ロードカナロアカレンチャンなどを手掛けた安田隆行調教師の次男。代表管理馬は東京大賞典4連覇などダート戦線で活躍したオメガパフュームなど)の談。実際写真を見てもらえば分かるが川田騎手は凛々しいが結構目つきがきつく、ともすれば悪人顔とも捉えられる印象を受ける。

*32 一方で曲がったことが嫌いな激情家でもあり、よく後輩に対して叱ったり時には先輩騎手にも躊躇なく意見しに行くことでも有名。その様子は同じく九州出身の四位洋文調教師(元騎手)がビビったり、祐一騎手にも「人ってこんな簡単に怒るんだなって」とまで言われた。なお現在は丸くなったとのこと。

*33 これは学生時代講師として来ていた的場均調教師に「馬を降りればいくらでも喜ぶが馬に乗っていたらやらない」という言葉に感銘を受けたこと、キャプテントゥーレでG1初勝利した時にガッツポーズをしたもののレース後怪我をしていたことが発覚、これを恥じて以後封印していることにも由来している。

*34 調教師試験の合格者はすぐに開業するのではなく、厩舎を持たない「技術調教師」として1年間修行する慣例がある。

*35 2023年セレクトセール購買馬7頭で宣言があり、総額14億5200万。最高額は「コンヴィクションIIの23(父コントレイル)」が5億2000万、セレクトセール歴代第4位の高額というとんでもない高額馬。

*36 ただし武豊は現在でも素質の高さとその早すぎる死を悼み、そっくりな馬とのツーショットを撮るなど思い入れが深いサイレンススズカ、あるいは無敗で三冠を勝ち取って最強の名をほしいままにしたディープインパクトが候補になることもある

*37 ライアンとの出会いは、当時デビュー4年目で素行不良の問題児だった典弘騎手が自身を見つめ直すきっかけとなった。実際典弘騎手のライアンへの思い入れは相当なものであり、ライアンが亡くなった際は自ら資金を提供して墓を建立した他、納骨式にも出席してコメントを述べている。

*38 胆石症を原因とした多臓器不全。胆石症の症例はJRAで史上初、世界的にも極めて稀

*39 武将様キャラが芸風。

*40 2000年結婚。当時の和田騎手はテイエムオペラオーの主戦騎手としてGⅠ連勝街道を歩みつつもそのプレッシャーからメンタルをボロボロに磨り減らしていた時期でもあり、奥さんは大変な時期の和田騎手をよく支えてくれたのもあって夫婦仲は非常に良い。その2人に向かってこの畜生発言である。

*41 もちろんこの発言を聞いた和田騎手から不評を買ったのは言うまでもない。