松山城
愛媛県/松山城との混同を避けるため、一般的には
備中松山城と呼ばれる
別名:高梁城
概要
備中松山城
原型は1240年に秋庭三郎重信によって築かれた。
1331年頃、高橋宗康が城を拡張、その後上野氏、庄氏、三村氏と城主が変わった
三村元親の時代に大規模に改修されたが、毛利から織田に寝返り小早川隆景に攻め落とされる
関ヶ原後の1617年、池田長幸が入城するが2代目で嫡子がなく断絶
1642年、水谷勝隆が入城し、2代勝宗が修築を行い現在の姿に。
水谷家断絶後は安藤重博、次いで石川氏、さらに板倉氏が入り明治まで続いた
戊辰戦争では朝敵とされたが山田方谷の決断で無血開城
廃城令交付後民間に売却されたが、あまりにも不便な場所にあることから山上の天守などは解体もされず放置されていた
昭和初期に中学校教諭信野友春の働きにより修復保存が開始。1941年に旧国宝指定を受ける
イラスト
牛は、松山城が存在する山が
臥牛山であることからだろう
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最終更新:2016年10月12日 17:17