※ギリシア語では本来母音の長短は重要な要素だが、ここでは厳密さよりも一般性を優先したので、ごく一部、慣例となっているもの以外の長音(ーであらわす)は省略した。
概要
ギリシア神話は、主に現代のギリシアにあたる地域および小アジア東部、シチリアなどの
ヨーロッパ・
アフリカ各地に存在した植民都市において、ローマ帝政よりも前の時代に都市国家で信仰され、崇拝されていた神々や英雄についての物語のこと。
ギリシア神話は、多神教の物語である。そこには絶対唯一の神は存在せず、多くの神々がさまざまな状況、時代、目的、地域、人々によって信仰され、崇拝されていた。
なかでも有力だったのは
オリュンポス12神であり、とくに天空神
ゼウスがすべての神々を支配する存在であるとして、すでに
ヘシオドスによって絶対神に近い位置にすえられていた。
最高神
ゼウスはまた、多くの王家や伝統ある家柄の祖先であるともされ、神話のなかでもその役割はつねに重要な位置を占めていて、さまざまな物語の中にその名前が見える。
しかしこうした
ゼウスの特徴は、多かれ少なかれ他の
ギリシアの神々にも共通して言えることだった。大小多くの都市国家が分立していた古代ギリシア時代の情勢においては、各地方によってさまざまな物語の異なったかたちが伝えられていたのであり、さらに移住や戦争、征服や服従によって神々の勢力関係や婚姻・家族関係は次々と統合されたり分割されたりしていた。
また、
ギリシアの文学伝統がローマ帝国を通じて
キリスト教に譲渡され、現代にまでかなりの割合で知られているというのも、神話の複雑化についての大きい要因として挙げられる。このことは、たとえば
北欧神話のように、わずかな
エッダ群と一人の学者によってまとめられた散文物語、歴史化された神話物語程度しか資料が残されていない文化や、スラヴ神話のように、そもそも物語として残っている
キリスト教時代より前の神話すら存在しない文化などと比べると、非常に恵まれているといえるだろう。
哲学が早々に発達した
ギリシア人の特徴として、神話をすでに寓話だとか物語だとか考える風潮が存在し、多少の矛盾はそれが「現実」を忠実に物語化したものではない、という考えから、そのまま複雑さが放置されたという事情もある。
そもそも、神話を含んだ
ギリシア文化全体の成立過程もまた、先住民によるミノア文明、インド・ヨーロッパ語族系のミュケナイ文明やヒッタイト、シリアのオリエント文明、などといった多数の民族や文化が幾重にも重なってきたものだった。
このような事情により、ギリシア神話には、
ユダヤ教における『
旧約聖書』や近現代の新興宗教にあるような、一直線で異伝の存在しない(実際には
聖書の中にも存在するが)物語は最後まで存在することはなかった。
それでも前7世紀に
ヘシオドスが『
神統記?』を書き上げて、
カオス(混沌)から万物が誕生し、大地や海が創造され、
ウラノスから
クロノスへ、そして
ゼウスへといたる主権の(暴力的な)委譲を体系化することができたのには、ギリシア神話全体に何らかの大きな体系的統一性があったからであろう。
ヘシオドスの伝える創造神話は
ホメロスがわずかに言及する断片とは異なるが、最終的な到達点としてゼウスに権力が受け渡されるという筋書きは、信仰としては大部分のギリシア人に受け入れられやすいものだった。また、
ヘシオドスが描いた中にほとんど人間の登場人物(英雄)が登場せず、神々と巨人、怪物たちの描写に終始していた、というのも、
ヘシオドスが現代にまで基本文献として挙げられる理由の一つに挙げられる。
今でも昔でも、もちろん古代ギリシアでも、人々のテーマに馴染み深いのは自分たちの町を創立した英雄たちであり、その英雄たちの系譜や戦場での功績、怪物たちとの戦い、知略による成功などの物語だった。
このような英雄神話の起源は、遅くともミュケナイ時代にさかのぼるものだと考えられている。
なぜなら、神話に登場する地名が
ヘシオドスや
ホメロスの時代よりはむしろミュケナイ時代のものに合致するからであり、それぞれの都市のひいきする英雄たちはミュケナイ時代の
ギリシアを舞台に活躍していたのである。
最初のほうに書いたように、このような英雄たちは直接その地方の王家や名家の伝説的な始祖であり、貴族や軍人たちは自分たちの祖先が活躍する物語を聞いては楽しんでいた。伝説上の人物、ひいては神々を現実に存在する権力者の系譜にひっぱってくるというのはどの文化でも普遍的に見られるものであり、もっとも有名なところでは、ローマの『
アイネイアス?』があげられる。
ところで、貴族や軍人階級は
ホメロスや地方伝説を楽しんでいたが、女性や一般市民たちは、もっと別の宗教を崇拝していた。
そのなかでも特徴的なのが「秘儀」(Mystery)と呼ばれる信仰形態である。一般的に広く知られているギリシア神話では秘儀は滅多に出てこないし、出てきたとしてもまったく物語化されていてその本当の意味はわからない。
秘儀とは、ある特定の信仰を持つ集団以外にはその儀礼や教義が秘密であるという宗教であり、密儀とも呼ばれる。もっとも有名なのはアッティカ地方のエレウシスで行われていた秘儀で、それは
デメテルとその娘
コレを主な神とする。秘儀の性格上、現代にまでその詳細が伝わっているわけではないが、そのベースとする神話は、有名な
ハデスによる
コレ誘拐事件である。
豊穣の女神
デメテルは、その娘コレ(
ペルセポネ)を溺愛していた。しかし神々の密約によって愛しいコレは冥界の支配者
ハデスによって地下の世界に連れ去られてしまった。
デメテルは嘆き、仕事を放棄して世界をさまよった。豊穣の女神がいなくなってしまっては世界は不作になるしかなく、
ゼウスはなんとかして
コレを
ハデスから取り戻し(1年の1/3は
ハデスにいるという条件で)、
デメテルはそれを許し、そしてエレウシスの人々に秘儀を授けた。
秘儀では、おそらく
コレの物語、つまり「死と再生」の儀式が行われ、現世からの救済が意図されていたのだと考えられている。
その他の秘儀宗教にはオルペウス教やミトラス教があり、前者は独特の創世神話が知られ、経典のような文書も存在していた。
先史時代のギリシア
ミュケナイ文明(前16~13世紀)の残した線文字Bによる資料には、すでに現在知られている神名が存在する。
- ピュロス宮殿の粘土板の13柱のリスト
- ゼウス
- ヘラ
- (ディオニュソス)
- アレス
- ペレス
- イペメディア
- ペレサ
- ディウヤ
- ヘロス(3体神)
- ポリス(双神)
- クノッソスのリスト
- ゼウス・ディクタイオス(聖山の)
- アタナ・ポトニア
- ポセダオン(ポセイドン)
- アニュアリオス(アレスのこと)
- パイアウォン(鍛治の神。未来のアポロン)
- エリニュス(デメテルのこと)
- エレウティヤ(出産の神エイレイテュイア)
- パデ
- ケラシヤ
- パサヤ
- ピピトゥナ
- マリネウス
叙事詩と悲劇のなかの神話
哲学と神話
哲学者は、神話による世界の解釈ではなく、新たな思考による世界の解釈を求めた。コロポンのクセノパネスは前6世紀に「神々は人間っぽすぎる。牛に絵が描けたなら、牛は牛の姿の神をつくっただろう」と言った。また、前316年にはエウエメロスという学者が『聖なる歴史』という書物を著し、神々の起源は、傑出していて、死後に一般の人々から崇拝されていた人間=英雄であると主張した。これが有名なエウヘメリズム説で、神話は歴史上の出来事を神々や聖なる空間に置き換えたものに過ぎない、とするものである。
プラトンは、神話を再解釈して新たな神話を創造した。
ローマとギリシア神話
ローマ人によるギリシア神話受容は、ほとんど全面的なものだった。ローマ人も神話を持っていないわけではなかったが、それは歴史時代にはすでに「歴史化」されてリウィウスやウァロによって記述され、
ロムルス?と
レムス?の建国伝説などに変化していた。
ギリシア人は、前8世紀ごろから南イタリア(大
ギリシア)やシチリアに植民都市を建設し、そこに自らの宗教体系、神話や祭礼などを持ち込んだ。イタリック語派と一まとめにされる当時のイタリア半島の先住民は、
ゼウスや
アレスなどのギリシア起源の神格を自分たちの信仰していた神々と同一視するようになった。たとえば天空神
ゼウスは同じく天空神
ユピテル?であり、戦争の神
アレスは
マルス?に、愛の女神
アプロディテは
ウェヌス?に、といった具合である。これらの神格の特徴は必ずしも双方の主要な機能が重なるものではなかったが、とにかくそれで彼らは
ギリシア文化を受け入れていった。
前3世紀後半にはリウィウスやナエウィウスがギリシア語の叙事詩や悲劇を翻訳したり翻案しはじめたが、そこにある神話はまさに以前からイタリア半島の人々が受け入れてきた神々の活躍する物語であった。ローマ人たちがその物語を事実として丸々受け入れたかどうかはともかく、ローマには、このようにしてラテン語化された形のギリシア神話が定着したのである。もっとも有名な作品として、オウィディウスの『変身物語』がある。
後にローマ帝国で
キリスト教が国教となり、ゲルマン人の侵入によって帝国が崩壊した後も、教会の聖なる言語であるラテン語で書かれたこれら「古典文学」は中世を通じて地道に伝承され、さまざまな注釈がほどこされ、
キリスト教的に解釈されたりあるいは異教的文化として無視されたりしたものの、ルネサンスの到来によって一挙に
ヨーロッパ文化の表舞台に返り咲。しかし、そこに存在したのはギリシア語で書かれたギリシア神話ではなく、ラテン語で書かれた
ローマ神話であった。
民間伝承に残るギリシア神話
現代
ギリシアの民間伝承や民話の中には、ギリシア神話由来のものがいくつか見られる。また、隣接する地域の
アルバニアにも、かなりの量のギリシア神話の名残が知られている(一つ目巨人カタラ、多頭の蛇クルシェドラなど)。
ギリシア神話に関係する有名な名前
ギリシア神話に登場する固有名詞は非常に多いので、幻想図書館のインデックスから拾ってきたもののみ並べている。
ギリシア神話を題材とした作品、影響を及ぼした作品
研究書・紹介本
書名 |
著訳者 |
価格 |
コメント |
ギリシア神話 |
呉茂一 |
¥3,990 |
ギリシア神話研究の第一人者だった著者による、わかりやすく、かつ正確なギリシア神話紹介本。今もなお、スタンダードな一冊。 |
ギリシア・ローマ神話辞典 |
高津春繁 |
¥2,940 |
ギリシア・ローマ神話の辞典。類書は多いが、上の文献と同じく、内容的に勝るものは出ていない。唯一、出典が明記されていないのが残念。 |
ギリシア神話 |
ピエール・グリマル |
¥999 |
ギリシア神話の物語そのものよりは、神話の歴史、研究や解釈、神話の受け入れられ方などに力が入っている。 |
世界神話大辞典(の各項目) |
|
¥22,050 |
大部だが、内容は学術的、かつ、濃い。先史時代のミノア文明から近世から近代にいたる文学としての神話受容などを詳細に述べている。これほどの範囲が一冊にまとまったものは他にはない。 |
ギリシア神話 |
高津春繁 |
¥632 |
新書サイズの、お手軽で信頼できるギリシア神話入門書。物語部分も多い。 |
世界宗教史〈2〉 世界宗教史〈3〉 |
ミルチア・エリアーデ |
各¥1,470 |
20世紀を代表する宗教学者による世界宗教史。先史時代のヨーロッパから地中海諸文明、そして叙事詩の神話、ギリシア哲学、さらにヘレニズムの密儀へ、とギリシア宗教を通史的に見ていく。他文化との比較も豊富で、世界全体、歴史全体から見たギリシア神話の位置づけを知るのに最適。 |
神々の構造 |
ジョルジュ・デュメジル |
¥2,625 |
比較神話学によって再構成されるインド・ヨーロッパ語族の神話群を簡潔に説明する。ただし、ギリシア神話は地中海の影響が多大なので、デュメジルもあまり手をつけていない。 |
ギリシア神話 |
フェリックス・ギラン |
¥1,890 |
資料としては古いけど、値段のわりに内容が豊富。マイナーな神々や人物についての項目もある。独特なデザインの系譜が巻末についている。出典、アルファベット表記はない。 |
文献
ギリシア神話の原典となる資料や、原典から派生した叙事詩などの文学もまたは非常に多く、そのすべてを把握することは不可能に近い。現代にはすでに失われていて、ほかの資料に存在する引用や要約のみからその内容を推定することができる文献もあれば、
ホメロスなどの高名な詩人の名をかたって書かれた作品も多い。
以下のリストでは、日本語訳が簡単に入手できる重要な文献のみを並べる。
- ギリシア語で書かれたもの
- ラテン語で書かれたもの
- 現代のもの
- トマス・ブルフィンチ『ギリシア・ローマ神話』
- カール・ケレーニイ『ギリシア神話 神々の時代、英雄の時代』
項目一覧
最終更新:2023年01月10日 18:43