古田敦也

登録日:2024/08/09 Fri 10:45:00
更新日:2024/08/28 Wed 12:20:24
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古田(ふるた) 敦也(あつや)とは日本の元プロ野球選手である。

【プロフィール】

生年月日:1965年8月6日
出身地:兵庫県川西市
身長:182cm
体重:80kg
投打:右投右打
ポジジョン:捕手
血液型:B型
選手歴:ヤクルトスワローズ/東京ヤクルトスワローズ(90~07)
監督歴:東京ヤクルトスワローズ(06~07)(2006年と2007年は選手兼任監督)
配偶者:中井美穂(元フジテレビアナウンサー)
主な獲得タイトル:MVP2回(93・97)・日本シリーズMVP2回(97・01)首位打者1回(91)・最多安打1回(93)・ベストナイン9回(91-93・95-97・99-01・04)・ゴールデングラブ10回(90-93・95-98・99-01・04)等


【概要】


日本プロ野球(NPB)のヤクルトスワローズ/東京ヤクルトスワローズ一筋で活躍した捕手で、1990年代~2000年代前半のプロ野球界を代表する名捕手である。

読売ジャイアンツ阪神タイガースと比較すると地味な球団の印象も否めないヤクルトの選手では貴重な全国区の知名度を持ち、人気と実力を兼ね備えていた選手だった。後述の球界再編問題ではプロ野球選手会の会長として奮闘し、野球に詳しくない人でも彼の顔と名前は認識しているという人も多い。

これらの実績から、『ミスター・スワローズ』と呼ばれることもある。
+ ミスター・スワローズとは?
本来はヤクルトの歴代の強打者に授けられる称号で、背番号「1」をつけるのが恒例となっている。
歴代のミスタースワローズは
  • 若松勉(1972~1989)*1
  • 池山隆寛(1992~1999)
  • 岩村明憲(2001~2006)
  • 青木宣親(2010~2011)
  • 山田哲人(2016~)
といずれ劣らぬ名選手が揃っている。
古田はポジションも背番号も異なるが、歴代5選手に匹敵する成績は勿論、チームへの貢献度を考えれば異論をはさむ者はいないだろう*2


【来歴】


  • プロ入り前

幼少期は阪急ブレーブス(現:オリックス・バファローズ)のファンであり、ファンクラブにも加入していた。本人曰く当時のエースピッチャー・山田久志とかが推しだったそうだ。
小学3年生から野球を始め、中学時代は上級生の理不尽な虐めにより一時期は野球を離れていたが、転校を機に野球を再開し強豪校ではなく県立の川西明峰高校に進学。高校時代はほぼ無名の存在で、後に日本を代表する名捕手になるとはこの頃は誰も知る由がなかった。

大学はスポーツ推薦ではなく一般入試で立命館大学と関西大学に合格。当時は立命大より関大の方が野球は強かったことから関大に進学するつもりであったが、古田に惚れ込んでいた当時の立命大の監督の存在と古田自身も立命館大学がある京都の街を気に入ったこともあり、立命大に進学を決意する。

立命大に進学した後は選手として急成長しプロからも注目を受けるまで捕手として頭角を現していく。
だが当時の球界には『眼鏡をかけた捕手は大成しない』という根拠のない固定観念が存在し、これが仇になったのか屈辱の指名漏れを余儀なくされることになる。この一件には本人も『反骨精神が芽生えた』と語っており、大卒後即プロ入りが叶わなかった事でトヨタ自動車に一般枠の新卒として入社する。

入社後は当然野球部に所属していたが、そこは社会人のためサラリーマン業も行っていた*3。1988年のソウル五輪にも出場し日本代表の銀メダル獲得に貢献するなど、着実にキャリアを積み重ねていった事で念願のドラフト指名を勝ち取り、1989年のドラフト会議でヤクルトから2位指名され入団した。

  • ヤクルト入団後

1990年に即戦力捕手としてヤクルトに入団した古田であったが、当時の監督である野村克也は当初、前出の『眼鏡をかけた捕手は大成しない』という固定観念を捨てきれなかったためか古田に対する評価は『肩は一流だが、打撃は二流、リードは三流』とあまり高くなかった。しかし実際のプレーを見て考えを改め、野村が当時の主戦捕手であった秦真司や中西親志の捕手としての能力をあまり評価してなかったこともあり古田を正捕手に抜擢する決意を固める。抜擢された古田も野村の期待に見事応えルーキーながら盗塁阻止率.527でリーグ1位、守備面でもゴールデングラブ賞を受賞するなど活躍。新人王こそ中日の与田剛に譲ったが即戦力捕手に恥じない結果を残し以降不動のレギュラーに定着する。

1991年は打撃も開眼し、落合博満との激しい首位打者争いに競り勝ち首位打者を獲得する。野村に次ぎ二人目の捕手としての首位打者獲得で最初で最後の打撃部門タイトル獲得となった。

1992年はオールスターでサイクル安打、捕手としてシーズン30本塁打を達成。

1993年はシーズンMVPを受賞し自身初の日本一も経験。この年の盗塁阻止率.644は2023年シーズン終了時点現在でも破られてない日本プロ野球記録である。

1994年は怪我の影響もあり不振に終わるが、1995年は全試合に出場し2度目の日本一を達成。MVPこそオマリーに譲ったがMVPでもおかしくない成績だった。この年のオフに当時フジテレビのアナウンサーであった中井美穂と入籍した。

1996年はやや成績を落としたが、1997年は93年以来二度目のシーズンMVPを受賞。日本シリーズでも大活躍し西武との日本シリーズを制してチームを日本一に導き日本シリーズMVPも受賞した。

1998年から日本プロ野球選手会会長に就任。後の再編問題へと関わっていくことになる。

1999年、2000年も当然の如くチームの正捕手として君臨し、2000年も盗塁阻止率6割越えを記録するなど当時30代中盤ながら強肩は健在であった。

2001年は打撃面でも松井秀喜と最後まで首位打者争いをするなど活躍し、チームの優勝に貢献。近鉄との日本シリーズを制し自身3度目の日本一を経験し97年以来2度目の日本シリーズMVPを受賞する。

2002年~2004年もヤクルトの正捕手として活躍し、2003年には4打席連続本塁打を記録。2004年は後述の球界再編問題の渦中の人物として奮闘、『戦う選手会長』として古田を取りあげないマスコミは存在しない程世論の中心人物であった。

一方選手としては当時40近かったこともあり流石の古田といえど身体能力(特に肩)に衰えが見え始めていて盗塁阻止率も全盛期と比べるとかなり落ちていた。2004年が現役最後の規定打席到達シーズンとなり、レギュラー捕手としての活躍はこの年が最後であった。

2005年は2000本安打を達成するが、加齢や後継者育成のため後輩に出場機会を譲ることも増えレギュラーからは外れることとなる。この年のオフ、勇退した若松勉の後任として選手兼任監督に就任。

選手兼任となった2006年からは『代打オレ』が話題を呼ぶ。また地域密着のプロジェクト『F-Project』を発足させ、チーム名もヤクルトスワローズから東京ヤクルトスワローズに改名するなどファンサービスにも力を入れていくことになる。監督として2006年は打撃陣の奮闘もありリーグ3位の成績を残したが、弱点の投手陣をカバーできず優勝争いに加わることは出来なかった。一方選手としてはキャリア最低の成績に終わり監督に専念する場面も増えていく。

2007年は監督としても最下位に沈んだことから成績不振の責任を取り辞任する決意を固め、この年限りで引退を表明。引退試合では同じく引退を発表し、かつて鎬を削った同期である広島・佐々岡真司との対決が話題を呼んだ。


  • 現役引退後

2015年は当然のように野球殿堂入りを果たす。監督退任から既に17年が経過しているが、今だにユニフォームに袖を通していないものの、またユニフォーム姿を見たいと思っているファンも少なくない。

その一方でテレビ朝日系列で「フルタの方程式」という冠番組を持っていたことも。現在はYoutubeチャンネルという形で復活している。
この縁があってか、テレビ朝日系列の野球中継では解説者として高頻度で登場する。
また結構身軽なのか、他局の野球中継にも時折解説者として登場する。特に侍ジャパンの試合中継への起用頻度はテレビ朝日系列以外でも高め。

勝負を分ける場面では「オッケーイ!」「いった!」「よしっ!」「チッ」など居酒屋のおっさんが解説席に座っているかのような音声が実況に紛れ込み、ある種名物解説として全国の野球ファンに親しまれている。
なおヤジはさておき解説としてのコメントは頭脳派野球らしく妥当。サードを守る村田修一を眺めながら「もう少しファウルラインに寄ったところに立って、そっちを狭めた方がいいかなぁと思ってます」→直後に村田は三塁線を抜く打球を捕れずに安打を許してしまうと言った一幕も。

このスタイルは本人のYouTubeチャンネルでも健在。辻発彦と当時をシリアス寄りの雰囲気で振り返った同じ動画内で、パワプロやりながら画面内に向かって「走れーッ!ペタジーニ走れーっ」と叫ぶ*4など双方の面を見せてくれている。

近年はキャンプで臨時コーチを務めることも多いため、もしかしたら指導者として復帰する日も来るかもしれない。


【プレースタイル】


前述の通り残した数々の結果から、平成以降に入団したプロ野球の捕手としては歴代最高と言っても過言ではない名捕手。クリーンアップを打てる打力、歴代最強クラスの強肩や卓越した捕手としての守備技術、相手の裏をかく巧みなリード等捕手に必要な要素を全て兼ね備えていた。
特に「盗塁阻止率」についてはぶっちぎりで高く、前述のように1993年にはシーズン盗塁阻止率.644というとんでもねぇ記録を残している。
現役通算での盗塁阻止率も.462もあり、つまりこれは『古田が捕手をやっていると、2回に1回は盗塁をアウトにされる』に等しいということである。古田相手に盗塁を決めることがいかに難しいかを如実に物語る数値である。
一般的にプロ野球における盗塁阻止率は三割以上で及第点、四割を超えると優秀とされる。現在ヤクルトで正捕手を務める中村悠平の2023年シーズン阻止率は.407と十分一流と言える数値であるが、古田のそれはまさに別格と言えるだろう。

鈍足が多いとされる捕手の中では足も速い方で、二桁盗塁を2回記録している。

捕手としては相手に対して強気なリードをすることが多く、死球も辞さない内角攻めを躊躇なく行うことから相手チームとトラブルになることもあった。乱闘にまで発展したケースも少なくなく、乱闘の際には相手との壮絶な殴り合いにまで発展するなど意外と武闘派な一面もある。


【選手会会長として】


2004年、近鉄のオリックスへの合併発表を皮切りに、パ・リーグ各球団の経営難が表面化。経営者側は球団合併することにより1リーグ10球団制にして状況を打開しようと試みる。

これについて経営者側が一方的に決めたことから古田をはじめとする選手会や近鉄ファンは当然猛反発。経営者側と選手会側が幾度と交渉を重ねることになるが、結局交渉は両者平行線に終わってしまう。経営者側も球団の新規参入の拒否や合併の考えを改めることはないなど強硬な姿勢を崩すことはなかった。

また、スポーツ紙記者が当時の巨人オーナーであった渡辺恒雄に対し、「古田が経営者と直に会って交渉したいと言ってる」と伝えた*5ところ、「無礼なこと言うな。分をわきまえなきゃいかんよ。たかが選手が。」との傲慢な発言*6が飛び出し、これをメディアが取り上げたことで世の中の空気も一変することになる。

近鉄の選手が球場で合併阻止の署名活動を行い多くの署名が集まったり、ファンも合併反対のデモを行うなど世論は選手会寄りへと徐々に変化していく。しかし経営者側は自身の考えを改めることは最後まで無かったため、古田をはじめとする選手会は遂に日本プロ野球史上初となるストライキを決断する。

合併騒動はペナントレースの最中であり、古田は毎試合後にカラオケボックスに泊まり込み経営関係の勉強を行い、時には深夜のスポーツニュースに生出演するなど過酷な状況に置かれていた。それでも12球団を維持したい選手会側の意志は変わらず、苦渋の決断の末ストライキを行ったことを説明し、涙を見せる場面もあった。
このストライキの一件や選手会寄りの世論には経営者側の動きも変わり、2リーグ12球団制の維持及び新規参入に譲歩する姿勢を見せることになる。

そして、選手会側も近鉄とオリックスの合併は容認し、新球団『オリックス・バファローズ』が誕生。それに合わせて楽天の新規参入が正式に承認されパ・リーグに『東北楽天ゴールデンイーグルス』が誕生することになり、球界再編問題は決着した。
近鉄の消滅を阻止することは叶わなかったが、彼を始めとする選手会の奮闘がなければ楽天イーグルスは誕生していなかったかもしれず、そういった意味ではイーグルスの生みの親の一人と言えるかもしれない。


【余談】


  • 同じ年生まれの山本昌(中日)とともに、「プロ野球昭和40年会」を結成しその幹事を務める。シーズンオフには1973年生まれの選手*7による「プロ野球昭和48年会」とともに様々な企画で対決する特別番組が放送されていた。

  • 眼鏡をかけた容姿から漫画『ドラえもん』の『野比のび太』から当初はマスコミから『のび太』と呼ばれることも多かったが、実際には高3の夏から受験勉強して立命大や関大の一般入試を突破していたり野球IQの高さから頭脳は『出木杉』で、乱闘の際には意外と武闘派で身体能力も抜群のことから、『見た目はのび太、頭脳は出木杉、身体能力はジャイアン』が正しい。

  • 前述の『眼鏡をかけた捕手は大成しない』の固定観念を根底から覆したことで、眼鏡をかけた野球少年の励みになったという。古田自身も眼鏡をかけた野球少年(特に捕手)から『古田さんに捕手としてやっていく勇気を貰った』と言われることが多々あり、本人もこの事には『非常に嬉しかった』と発言している。
    野球漫画やゲームといった媒体でも古田をモデルにしたであろう眼鏡をかけた捕手が登場するケースも増え、キャッチャー像の新たなスタンダードとなった。
    • また稀にではあるが「古田本人がモチーフの捕手キャラが登場する*8」「伝記ではないが古田本人が登場する*9」作品も見られる。

  • 生前の野村克也が晩年に古田のことを暴露しており、それによると「あいつケチなんだ。自分で食事の支払いをしたことがない。だから選手の間でも意外と慕われてなかったよ」「あれで女にも結構手が早い」そうである。

  • 古田の背番号『27』は、引き継ぐのにふさわしい捕手が現れるまで空き番号とするという「準永久欠番」とも言うべき扱いとなっていた。2021年にヤクルトが20年ぶりの日本一に輝いたことで、その原動力となった中村悠平が翌2022年から継承することとなった。*10

  • タレントの大木凡人氏は母方の従兄に当たる。


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  • 名球会
  • 1965年生まれ
  • 中井美穂
  • 強肩強打
  • 何故かなかなか立たなかった項目
  • 見た目はのび太、頭脳は出木杉、身体能力はジャイアン
  • 選手兼任監督
  • 眼鏡
  • 27
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  • 昭和40年会
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  • フルタの方程式

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最終更新:2024年08月28日 12:20

*1 ()内の年数は背番号1を着けていた期間で、実際のキャリアとは異なる。

*2 このほか、古田の後を継いで選手会会長になった内野手の宮本慎也もその貢献度から「ミスター・スワローズ」としているケースが見られる。

*3 営業マンだったとのこと。ただし古田本人曰く「ぐうたら社員だった」とも

*4 しかもこのとき古田と辻は選手交代のみの操作で、走塁どころか投打走守すべてCOM任せだった。

*5 ただし後に古田はこの発言を全面否定しており、捏造の可能性も語られている。一説には「オーナーと直接会話できる機会があれば会話してみたいか?」と言う質問に「そりゃできるならしたいですよ」と一般論として答えたものが報道伝言ゲームのうちに「直接交渉したい」にすり替わってしまったとか。

*6 ただしこの発言直後、「『たかが選手』ったって立派な選手もいるけどね。オーナーとね、対等に話する協約上の根拠が一つも無い。」と自身でフォローしているため、あまりに強烈なコメントが切り取られてしまったきらいもある。

*7 三浦大輔、中村紀洋など。

*8 『パワプロ7』日下部卓也・『パワプロ2016』出井田大輔など。ただし日下部も出井田もプライベートでも生真面目タイプ

*9 野球の神様に頼まれてメガネに宿るあれとか。実際に本人の監修が入っている。

*10 古田以前にも大矢明彦らが付けていた「正捕手」の系譜でもある。