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更新日:2026/04/22 Wed 02:55:07
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本記事では『陰陽道』およびそれに関連する内容について記載する。
【☯陰陽道とは】
古代中国で生まれた自然哲学思想、陰陽五行思想を起源として、天文学や暦の知識を駆使し、日時や方角、人事全般の吉凶を占う技術の総称。
日本で独自の発展を遂げた呪術や占術の技術体系である。
陰陽道に携わる者を「陰陽師」と呼んでいたが、後に陰陽寮に属し六壬神課を使って占いをし、除災のために祓をする者全てを陰陽師と呼ぶようになった。
フィクション作品ではド派手な術や結界、式神を用いるため魔法使いや霊能力者、
超能力者のような扱いを受けるが、
実際のところ陰陽道は「学問」であり、それらを扱う陰陽師は「学者」「研究者」に近い。
【☯陰陽道と陰陽師の歴史】
陰陽道の前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに朝鮮半島(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。
●日本への伝来○
日本への伝来後は陰陽五行説と密接な関係を持つ天文・暦数・時刻・易といった自然の観察に関わる学問、占術と融合して自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として日本社会に受け入れられた。
そんな陰陽道は学問の知識も要したことから当初は漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶が担っていたが、やがて朝廷に奉仕する必要から俗人が行うことが必要となり、7世紀後半頃は時の天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻を取って占いを行ほど天文や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、676年に陰陽寮や日本初の占星台を設け、685年には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んになった。
そして7世紀後半〜8世紀初頭に律令制が敷かれると、陰陽道は中務省内局である小寮として設置された陰陽寮へ組織化された。
陰陽寮は配下に陰陽道、天文道、暦道を置き、それぞれに吉凶の判断や天文の観察、暦の作成の管理を行わせた。
また、令では僧侶が天文や災異瑞祥を説くことを禁じ、陰陽師の国家管理への独占が図られた。
●平安時代○
我々が陰陽師で思い浮かべるのが平安時代だが、当時は律令制の弛緩と藤原氏の台頭につれて宮廷社会は形式化しており、政争を繰り返していた貴族たちは菅原道真や平将門など恨みを持って敗死した貴族たちが怨霊になったと恐れ、怨霊・悪霊に対する御霊信仰が高まりつつあった。
それらに対し、陰陽道は占術と呪術を用いて災異を回避する方法を示し、天皇や公家の私的生活に影響を与える指針となり、これにより陰陽道は宮廷社会から日本社会全体へと広がり、法師陰陽師などの手を通じて民間へと浸透して日本独自の展開を強めていった。
なお、陰陽師とは朝廷に仕える身分を指すため、民間にて陰陽師と同じ力をふるう者は一般に「法師」と呼ばれていた。
後に安倍晴明と勝負をしたという記録もある播磨の法師・蘆屋道満がその代表例。
そもそも日本の陰陽道は…
- 陰陽道と同時に伝わってきた道教の方術に由来する方違、物忌、反閇などの呪術
- 泰山府君祭などの道教的な神に対する祭礼
- 土地の吉凶に関する風水説
- 当時の医術の一種であった呪禁道
…などを取り入れ、かねてより存在していた日本の神道と相互影響を受け合いながら独自の発展を遂げ、8世紀末からは密教の呪法や密教とともに新しく伝わった占星術(宿曜道)や占術の影響も受けていた。
また平安時代前期より国家祭祀への関与を志向して、本来国家祭祀を管轄していた神祇官が行ってきた
神道の影響も受け始めようになる。
神道は死や穢れを忌むことを重要視したため、伝来当時には含まれていた死霊祭祀や病気対策のような人の生死に直接関わる案件は陰陽寮からは排除された。
なお、神祇祭祀を司るのは神祇官のため陰陽寮の管轄下にはなかったが、疫神祭、鎮花祭、風神祭、大祓、宮城四隅疫神祭、防解火災祭、螢惑星祭など様々な祭祀が行われていたとされ、陰陽道が平安貴族社会を基盤にして呪術的に展開されており、律令制の神祇祭祀の中にも陰陽要素を含んでいた。
更に陰陽師は京内を結界で覆い、京城四隅疫神祭(都)、宮城四隅疫神祭(内裏)など、四角四境の祭祀を行い世の安泰を願っていた。
この頃の陰陽師として特筆すべき人物とされた滋岳川人は陰陽博士や陰陽権允、陰陽権助を兼務して陰陽寮の実務官僚として活躍し、それまで貴族官僚が占める地位であった陰陽頭に就任した。
また、『世要動静経』『指掌宿曜経』『滋川新術遁甲書』『金匱新注』などの著作があり、それらの実物は現存しないものの、後代の陰陽師が川人の著作の説を多く引用していることが知られている。
●安倍氏・賀茂氏○
そんな中、陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた
賀茂忠行と
賀茂保憲父子が登場。
さらにこの二人の弟子から、陰陽道の占術に卓越した才能を示し、宮廷社会から非常に信頼を受けた、
安倍晴明が台頭した。
そして忠行と保憲は晴明に天文道、保憲の子・
賀茂光栄に暦道を伝えたことで平安末期から中世の陰陽道は天文道・暦道をも完全に取り込み、
『天文道の安倍氏』と
『暦道の賀茂氏』が二大宗家となって独占的に支配するようになった。
そして宮廷社会における陰陽道の需要が高まるにつれて陰陽寮も充実したが、いつの時代も大きな組織に付き物なのが派閥争いである。
これまでは陰陽道・天文道・暦道に関する業務を一族として請け負っていたが、陰陽寮充実に伴い安倍氏・賀茂氏内部においてもそれぞれの嫡流や陰陽寮の地位を巡る争いを激化させ、複数の流に分立した。
●鎌倉時代〜安土桃山時代○
鎌倉時代初期になると
賀茂在憲・在宣父子や
賀茂家栄、
安倍泰親・安倍晴道・安倍広基などが活躍し、摂関家や
鎌倉幕府と繋がりを持ち、中には幕府に直接奉仕する人々(関東陰陽道/鎌倉陰陽師)も現れるようになった。
そして
室町時代に入ると下級貴族の家柄しかなかった安倍氏嫡流は公卿に列することのできる家柄へと昇格していった。
この頃になると陰陽寮トップにあたる
陰陽頭を安倍氏が世襲し、賀茂氏は次官の
陰陽助としてその下風に立った。
戦国時代には賀茂氏本家が断絶したことで暦道の支配権も安倍氏に移り、実質安倍氏が陰陽道全てを支配するようになるが、安倍氏嫡流の
土御門家も戦乱の続くなか衰退していった。
一方民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間陰陽師が活躍した。
しかし安土桃山時代になると祈祷や占いを生業とする陰陽師は
豊臣秀吉によって地方に追いやられ、当時陰陽寮所属の正式な陰陽師の数をはるかに超える自称・陰陽師が全国に流れ、陰陽道筆頭の土御門家も陰陽道の相伝や法具などが焼失した。
これにより陰陽道で最も重要とされた「大法」の
泰山府君祭の祭壇も喪失し、京都吉田神社から法具を借用して御所の地鎮祭を行ったが、その影響で宮中祭祀は神道色が色濃くなり、陰陽道も幕府からの認可を受けて
土御門泰福が天社神道として神道化させた。
●江戸時代〜明治時代○
江戸時代になると
幕府は陰陽師を統制するため、土御門家と賀茂氏の分家にあたる
幸徳井家を再興させて諸国陰陽師の支配を計画した。
やがて土御門家が幸徳井家を圧し、17世紀末に土御門家は民間陰陽師に免状を与える権利を獲得して全国の陰陽道の支配権を確立した。
武家社会の江戸時代では陰陽道はかつてのように政治に影響を及ぼすことはなくなったが、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として日本社会へと定着したが、当然悪用する者も現れ始め、だましものと扱われた陰陽師も非常に多く、そうした輩は
声聞師と呼ばれ、士農工商に該当しない身分の低い賎民として扱われた。
大政奉還がなされ明治時代になると維新の混乱に乗じた陰陽頭・土御門晴雄が陰陽寮への旧幕府天文方接収を叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。
明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)導入を計画していることを知った晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を主張したものの、晴雄本人の薨去により頓挫。
これを期とした明治政府が明治3年(1870年)に陰陽寮を廃止したことで、約1000年間続いた陰陽師という役職は終わりを迎え、陰陽寮の職掌であった天文・暦算を大学校天文暦道局や海軍水路局、文部省天文局、天文台に移管し、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。
同年のうちには天社禁止令が発せられたことで民間にも陰陽道は迷信であるとして流布が禁止され、天皇の代替りの度に行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」も明治天皇に対しては行われなかった。
陰陽諸道を司る官職を失った土御門家は土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。
●戦後〜現代○
太平洋戦争後にこれまでの大日本帝国憲法廃止に伴い、陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されたことで、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである
「六輝(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)」が十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっており、現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道または陰陽師の術式に頼る人はほとんど見らなくなった。
【☯陰陽五行思想】
中国の
春秋戦国時代頃に誕生した
「陰陽説」と
「五行説」が結合した思想。
陰陽説と五行説はもともと無関係に生まれた考え方だったのだが、後に陰陽思想と五行思想との組み合わせにより複雑な事象の説明がなされるようになった。
陰陽道などにおいては占術などに用いられる事もあった。
日本においては
仏教や
儒教と同じく5〜6世紀頃に、暦法などとともに伝わり、律令により
陰陽寮という役所が設置された。
その後、
道教の道術を取り入れることで日本独自の
陰陽道へと発展した。
●陰陽五行思想の倫理○
陰陽五行説の基本は木・火・土・金・水の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配したものとなる。
陰陽は語尾の「え」が陽、「と」が陰となる。
語源は「え」が兄、「と」が弟であり、「干支」の呼び名はここに由来する。
一例として「甲」は「木の陽」という意味。
| 五行 |
陰陽(音読み/訓読み) |
特徴 |
| 木 |
甲、乙 |
草木のように伸びる姿から、成長や上昇といった性質 |
| 火 |
丙、丁 |
炎のように燃え上がることから上昇や情熱といった性質 |
| 土 |
戊、己 |
土は生物や植物を育み、豊かさをもたらすといった性質 |
| 金 |
庚、辛 |
鉱石や鉱物といったかたいものが変化するといった性質 |
| 水 |
壬、癸 |
全てのものを潤し水に流す性質 |
○陰陽説●
「陰陽説」は古代中国神話に登場する帝王「伏羲」が作り出したものであるとされ、春秋戦国時代の諸子百家の一つである陰陽家によって説かれた。
「全ての事象はそれが単独で存在するのではなく、「陰」と「陽」という相反する形で存在し、それぞれが消長をくりかえす」という思想である。
積極的・動的性質の「陰」と消極的・静的性質な「陽」は必ずしもバランスが均等ではなく環境や状況によってバランスが崩れることもあり、どちらかに偏るのではなく、互いにバランスの取れた状態が理想であると考えられている。
陰陽のバランスを表しているのが項目冒頭にもある陰陽太極図で、白は陽、黒は陰を表している。
そんな陰陽の関係が成り立つには、大きく分けて4つの性質が存在する。
「月」と「太陽」などのように、自然界に存在する全てのものは対立した2つの面が存在している。
ただし、「陰」と「陽」は常に割合を変えながら絶えず変化を繰り返している。
「陰陽」は互いに依存しており、「陰」がなければ「陽」が存在しないようにどちらか一方だけで存在することは出来ない。
陰陽のバランスは常に均等なのではなく、その時々で陰陽バランスが変化している。
どちらかが盛んになるともう一方は衰えていくといった関係を絶えず繰り返している。
消長とは異なり、量ではなく質(性質)の変化を表している。
転化は陰から陽へ、陽から陰へと要素が変わると考えられている。
○五行説●
「五行説」は陰陽家の一人である鄒衍によって説かれた。
万物が五行(木・火・土・金・水)の五つの元素から成り立っているという考え方で、これらの元素は互いに影響を及ぼし合い、調和を保つとされている。
五行説の特徴として、それぞれの要素が互いに影響を与え合う「相生」と「相剋」という考え方がある。
相手の要素を補い、その性質を強める影響を与えるものを「相生」、相手の要素を抑制し、その性質を弱める影響を与えるものを「相剋」という。
五行相生
「木は火を生じ、火は土を生じ、土は金を生じ、金は水を生じ、水は木を生ず」という関係。
木は燃えて火になり、火が燃えたあとには灰(=土)が生じ、土が集まって山となった場所からは鉱物(金)が産出し、金は腐食することで水に帰り、水は木を生長させる…という具合に木→火→土→金→水→木…の順で相手を強める影響をもたらす。
五行相剋
「木は土に勝(剋)ち、土は水に勝ち、水は火に勝ち、火は金に勝ち、金は木に勝つ」という関係。
木は土から養分を吸い取り押しのけて生長し、土は水の流れをせき止め、水は火を消し、火は金を熔かし、金でできた刃物は木を切り倒める、という具合に、木→土→水→火→金→木…の順で相手弱める影響をもたらす。
●十二支、季節との関わり○
十二支にも五行が配されており、季節に対応する五行は
春が
木、
夏が
火、
秋が
金、
冬は
水となる。
土は四季それぞれの最後の約18日(土用)となり、
ウナギを食べることで有名な
「土用の丑の日」は夏の最後の時期(土用)の丑の日(丑は土の五行)ということである。
この思想は年中行事にも強い影響を与えているとする説もあり、正月は
寅、盆は
申となっており、それぞれ
春と
秋の始めを示す。
正月は
木気、
火気の始めでもあり、門松を飾ったりとんど祭りが行われ、盆は水祭りとして燈籠流しなどが行われる。
以下各季節に十二支を配した表
| 季節 |
十二支 |
五行 |
| 春 |
寅(一月)、卯(二月)、辰(三月) |
木、木、土 |
| 夏 |
巳(四月)、午(五月)、未(六月) |
火、火、土 |
| 秋 |
申(七月)、酉(八月)、戌(九月) |
金、金、土 |
| 冬 |
亥(十月)、子(十一月)、丑(十二月) |
水、水、土 |
【☯陰陽寮】
養老2年(718年)の養老律令にて、中務省に属する機関のひとつとして設置され、明治3年(1870年)に廃止されるまでの約1000年間機能していた。
方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜と並んで公的に式占を司ることとなった。
陰陽寮は四等官制が敷かれ、トップである陰陽頭と事務方である行政官と、技官として方技の各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命されたが、実は官人の子弟にとどまらず当時としては珍しく民間人からの登用も可能であった。
成立当初の方技は純粋に占筮、地相、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、やることと言えばもっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけで、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術はほとんど行わなかった。
しかし宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などには重要な役割を果たした。
陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。
また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。
陰陽寮における主要な役職は以下の通り
陰陽寮を統括するトップ(現代でいう省庁の大臣・長官)。
天文、暦、風雲、気色のすべてを監督し、異常発生時には外部に漏れることなく記録密封し極秘に上奏し(天文密奏)、暦博士が作成した新年の暦を毎年11月1日までに調進(御暦奏)、また都度占筮及び地相の結果を上奏する職務。
陰陽頭の補佐役(現代でいう次官)。
陰陽寮のNo.3に位置する判官。
寮内の書類審査など事務全般の管理を担当していた。
後に大允と少允の2名が追加された。
- 陰陽大属、陰陽少属
主典(第4等官)。
大属は公文書の記載・読上げなどの記録実務、少属は大属の補佐実務を担当していた。
我々が広く認知している役職。
陰陽寮では吉凶を占う占筮、方位を観る地相の専門職。
陰陽道の主担当者。
修習生である陰陽生の指導役。
天文道の主担当者。
「天文の気色を観測して異変があれば部外に漏れぬようこれを密封する」とともに、修習生である天文生の指導役。
陰陽諸道の中では天文道が最も難しいとされたため、位は他の博士よりも高かったとされる。
暦道の主担当者。
暦の作成・編纂・管理を担当し、修習生である暦生の指導役。
時間管理の主担当者。
漏刻(水時計)の設計・管理を指導し、実際に守辰丁を率いて漏刻を稼動させ、その目盛りを読み時刻を管理する職務。
- 陰陽生、天文生、暦生
博士の下で各道を修める学生(修習生)。
天文、陰陽、暦の3道それぞれに各10名が配され、また博士を目指す得業生も2〜3名置かれた。
漏刻博士の管理下で漏刻を測り、毎時ごとに鳴り物(太鼓、鐘鼓)を打ち鳴らして時報を知らせる実務担当者。
陰陽寮以外の各省・寮に共通に配置された庶務職。
【☯陰陽道の道具・呪法】
陰陽師が使役する使役神。
人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるもの。
創作の中では平時には式札と呼ばれる和紙札の状態にあるものが陰陽師の術法によって使用される際に使役意図に適った能力を具える鳥獣や異形の者へと自在に変身するものとして描かれている。
種々の紋様や呪文を記載した護符。
「セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星・ペンタフラマ・ペンタゴン)」や「ドーマン(九字格子)」と呼ばれる図形を記すものが多く、「鎮宅七十二霊符」「×」「篭目」「渦巻」「六芒星」「急急如律令」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符がある。
紙や木材・草葉・藁などで人の形を作り、患部にあたる部分を撫でることによって自分の穢れを移しつけて祓うのに使われるもの。
一方でこの原理を悪用して人形に相手の名前等を記して人形を傷つけることで相手に事故や病などの災いをひき起こす呪いとして用いたり、男女二体の人形を一つにし祈祷することで恋愛成就を祈るなど様々な祈祷儀礼に広く見られる。
藁人形に釘を打ち付ける丑の刻参りもこれに該当する。
陰陽道で用いられたとされる呪文の一種。
一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の九字を言い、結印したり四縦五横に切る所作を伴う。
六壬によって吉凶を判断するための道具。
地を表す「輿」と呼ばれる方形の台座と天を表す「堪」と呼ばれる円形の天盤で作られている。
輿には二十八宿、十干、十二支、四隅の八卦が記載されており、堪には十二月将等が記載されている。
天文上の変異を知るために天文観測に用いた道具。
指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測していた。
占術系の呪術儀法。
陰陽五行思想を下敷きにした木・火・土・金・水の五気にあやかって行われた。
【☯フィクションにおける陰陽師】
前述の通り、フィクション作品ではド派手な術や結界、式神を用いるため魔法使いや召喚術師、霊能力者、
超能力者のような扱いを受ける。
以下、陰陽師や五行思想を題材にしたり、陰陽師が登場する作品
…等々
【☯余談】
徳川家康の宗教政策担当だった天台僧・
南光坊天海は天文、遁甲、方術などの陰陽道の知識を持ち合わせていたとされ、天海はそれらを駆使して伊豆から下総までの土地の地相を調査し、江戸を幕府の本拠地と定めたとされる。
天海が判断の基準としたのは古代中国の陰陽五行説に基づく「
四神相応」という考え方で、江戸は東に平川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったため、幕府の本拠地として相応しいと考えられた
という都市伝説がある。
そして掘割の際にも江戸城を中心に螺旋状の「の」の字型に掘り進めることで、城を中心に時計回りで町が拡大していき、江戸の人口は外縁に広がっていくに従って人口も爆発的に増えていった。
追記・修正は陰陽師になってからお願いします。
- 超オムツしろよ! -- 名無しさん (2026-01-09 22:05:47)
- ぷよぷよするな! -- 名無しさん (2026-01-10 11:59:24)
- 力作の記事だぁ。滋岳とか幸徳井とか東京レイヴンズで見たことある苗字があって微妙に親近感湧くな。あと安部有世が好きなのでちょっと追記あったら嬉しい -- 名無しさん (2026-01-11 20:50:42)
- 陰陽師系キャラは、麻倉葉王(ハオ)の他にも道 蓮(タオ レン)もその一人です -- アシュラマンⅡ世 (2026-04-22 02:16:20)
- ていうか十二支(干支)も陰陽道と深~い関係があったんだ!そのことに非常に驚きました。まあ、十二支も同じく中国生まれだしね -- アシュラマンⅡ世 (2026-04-22 02:21:09)
- 晴明が操る式神って、普段は鬼に似た姿で、晴明の呪術によって人間の子供に近い姿にもなるんでしたよね。それはともかく、双星もきめば(鬼滅の刃)とかみたいに依估贔屓されたら良かったのに~憤 何でもかんでも鬼滅と呪廻(呪術廻戦)ばっかりチヤホヤするんじゃないよ!!たまには双星もリスペクトしなさい!!!!怒 -- アシュラマンⅡ世 (2026-04-22 02:27:19)
- 似たようなジャンルの別作品に例えれば、双星が5期鬼太郎で鬼滅が6期鬼太郎って感じだね -- アシュラマンⅡ世 (2026-04-22 02:37:11)
- 鬼滅オタは鬼スポットにいくな。Twitterで、双星ファンが鬼滅信者に絡まれる案件が続出してませんよーに -- アシュラマンⅡ世 (2026-04-22 02:55:07)
最終更新:2026年04月22日 02:55