所々に傷が走る年季の入った黒鞘を掲げ持ち、何一つ装飾が施されていない柄に手をかけて抜き払う。
鮮やかな鞘鳴りと共に丁寧に手入れされた刀身が月光を浴び、白刃が鋭利な輝きを放った。
智子が佩する “備前長船“といった銘刀ではなく、どこにでもある扶桑刀だ。
扶桑を去る時に生家の蔵から拝借したそれを再び鞘に滑り込ませる。
俺は他の扶桑の魔女とは違い、一度足りとも戦場で刀を振るったことがない。
ネウロイ相手に白兵戦を挑む力量がないのを自覚してのことだったが、刀という凶器に対する彼なりの考え方も理由の一つだった。

刀とはすなわち人を斬って捨てる為の武器。

周囲の魔女が戦場に軍刀を携えて意気込む中でそのような考えを抱き、刀を取らなかったのは彼だけだろう。
どんな物事においても本質を見誤れば、確実に身を滅ぼす。
俺にとって刀をネウロイ相手に振るうということはそれと同義なのだ。
彼が刀を携えたことがあるとすれば、それは陸軍での訓練のみ。振るう相手を挙げるならばウィッチの命を脅かす存在だろう。

俺「人殺しの腕、か」

陸軍時代に一度だけ軍神の二つ名を持つ北郷章香に稽古をつけてもらった際に放たれた言葉を口にする。
初めに言われた時は一体なんのことだと思ったが、凶手となった今では得心がいく。その慧眼は節穴どころか未来まで見通してしまうのだから。
なるほど流石は軍神だ。

俺「智子……綾香……武子……圭子……敏ねぇ」

かつての仲間に何故刀を使わないのかと何度か問い掛けられたことがある。
その時は適当にはぐらかしたが今の自分を彼女たちが見たらどう思うだろうか。
人を守るウィッチでありながら人を斬る暗殺者。
そんな自分を笑うだろうか? それとも激怒するだろうか?

左腰まで持ち上げた刀の柄に向かって俺の右手が流麗な半月を描き、その手が剣柄を掴む否や、血みどろの歴戦を潜り抜けてきた愛刀が瞬時にして姿を現す。
音叉を鳴らすかのような鞘鳴りと鋭い風切音を同時に奏でながら。
異形ではなく人間を斬って捨てるため、愚直に磨き上げた我流の太刀筋はその手の者と比べれば大きく見劣りするものの、剣速と鋭さだけなら既に人知を超えた領域に踏み込みかけていた。

次の刹那、紫電が迸る。

続け様に眩い剣光が薄暗がりが支配する部屋の中を駆け巡った。
これまで幾多の敵手を仕留めてきた者が見せる柔靭な身のこなしは鋭利でありながらも流麗で剣舞と称しても何ら差し支えない。

俺「はぁ……」

一息吐いた俺は刀を納めた鞘を壁に立て掛けた。既にクルピンスキーに見つかってしまった手前今更隠す気はない。
今後誰かに聞かれるようなことがあれば包み隠さず答え、それによって基地を出て行くようなことになったとしても素直に受け止めるつもりだ。

俺「懐かしいな」

懐から取り出したモノを眺めながら俺は目を細める。普段のそれとは異なる温かく柔らかな笑み。まだ陸軍人として扶桑にいた頃、智子から貰った大切なお守り。
握り締め、俺は瞼を閉じ、在りし日の思い出を追想した。




1936年―――扶桑


開け放たれた窓から早朝独特の涼風が入りこむ。俺は下着姿のまま仰向けの姿勢で布団の上に寝転がっていた。
部屋の引き戸が盛大に開け放たれ、寝息を立てる男に向かって何者かが足音を立てて無遠慮に近づいて来るも、夢の世界を彷徨い歩く俺が侵入者の存在に気がつくはずも無い。

???「まったく……寝顔は可愛いのにな」

侵入者である見目麗しい女性が口元を尖らせ、不満げな口ぶりで零した。
短めにカットされた黒髪に強い意志の光を宿す黒瞳の持ち主は目当ての人物の傍まで歩み寄り、ゆっくりと上げた足を彼の股座に向かって容赦無く落とした。

俺「ぃぃぃいい!?」

股座に生まれた突然の激痛は数秒後に下腹部へ、重い痛みとなって伝わった。
あまりにも惨たらしい目覚ましに俺は両手で大切な息子を包み、自身の寝込みを攻撃した相手に恨めしい視線を投げつける。

俺「くぅぅぅぅるぉぉぉぉうぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!!!」

背筋を凍らせる怨嗟を前に襲撃者―――黒江綾香は爽やかな笑みを浮かべて返した。

黒江「随分と無防備じゃないか? んぅ?」

俺「寝てるんだから……あだりまえ゛だ……あぁぁぉぉおおぉぅぅぅ!!!」

黒江「そんなに痛かったか? 力は余り入れてなかったんだがなぁ」

いやぁ……すまんな、と続ける綾香に尚も恨みの呻きを上げながら、俺は地獄の底から這い上がって来た亡者の如く全身を震わせて立ち上がった。
大の男が瞳に涙を浮かべている実にみっともない光景だが、事の原因を知らされれば少なくとも同性なら納得するだろう。
男の子のアソコは繊細なのである。
絶対に雑に扱ってはいけない。ましてや足で潰すなど言語道断だ。
どうせ足を使うなら、両足の裏でしご……ではなく優しく扱って欲しかったと内心で溜息を零しつつも目の前の少女にそんな芸当が出来るわけないか、と諦観が混じった溜息を吐いて、

俺「……でぇ? こんな朝っぱらから何の用だよ?」

黒江「うむ! 釣りに行くぞ!!!」

俺「……は?」

せっかくの休日だというのにどうして早朝から釣りに出かけなければならないのだ。
確かに釣りが趣味なだけあってか、綾香は魚の捌き方や調理も上手い。本人に言われるまで、どこかの料亭の料理だと勘違いしていたほどだ。


―――美味いなぁ……美味いぞ! 黒江!!―――

―――あ……あぁ! そう言ってもらえると……作った甲斐があったというものだ……!!―――


いつぞや出された鰈の煮付けを咀嚼しつつ料理の味に感嘆すると彼女は嬉しそうに、はにかんだ笑顔を見せた。
その綺麗さは今でも忘れようがない。
明朗快活を体現したような綾香の滅多に見せない女性的な微笑みを前に思わず胸が締め付けられてしまった。
それでも自分だけがこうも集中砲火を喰らうのかは納得が出来なかった。一人で釣りをするのが嫌なら圭子や武子、智子でも誘えばよいものを。何度も眠りを邪魔されるこちらの身にもなって欲しいものだ。


俺「はーい。いってらしゃーい。そしておやすみなさーいぃぃぃぃぃ!!??」

再び寝転がった俺の言葉の最後が悲鳴へと変貌した。
振り向けば綾香が自身の両足首を掴んで部屋の外へ引きずり出そうとしているではないか。女性が持つしなやかな細い腕が見た目を裏切る怪力を発する光景は実に恐ろしかった。

黒江「つ・り・に・い・く・ぞ!!!」

なぜ彼女が額に青筋を立て、露骨に不機嫌そうな態度を表しているのだろうか。むしろ、本来その立場に立つべきは休日を朝っぱらから粉砕された自分のはずだ。だというのに、綾香はこちらの言い分を冷徹に却下し、外へ連れ出そうと一歩また一歩と歩を進める。
これでは余りに理不尽ではないか。
というか下着姿のまま連れて行く気なのか!?

俺「いーやーだー!!」

それは不味い。ひっじょーに不味い。
このまま外に連れて行かれては間違いなく国家権力のお世話になってしまう。
陸軍人としてそれはどうしても避けなければ。
しかし、そんな考えも虚しく俺は荷馬車に乗せられ街へと連れて行かれる仔牛のように成す術なく引き摺られていく。

俺「やめてぇぇぇぇ!! 俺まだこんなあられもない姿なのぉぉぉぉ!!!」

黒江「えぇい! 騒ぐな変な声を出すな! 見つかったらどうする!?」

俺「くそっ! 離せ黒江! くろえ!! クロエェェェェェェェェェ!!!」

自分の名前を呼ばれているはずなのに何故だか綾香は俺が別人の名前を叫んでいるように聞こえてならなかった。
それと……何か声がやけに荒っぽくなっていた。
口調ではなく、声そのものが変わっているように聞こえてならない。
至近距離で怒鳴られたら鼓膜が張り裂けそうな声はすぐさま情けない悲鳴へと戻る。
このまま成す術無く連れて行かれると思ったその時である。救いの女神が降臨したのだ。

智子「おれー……って何してるのよ!?」

黒江「チッ……見つかったか」

廊下からひょっこりと顔を見せた智子が下着姿の俺を引き摺る綾香の姿を見つけるや否や形の良い柳眉を吊り上げた。綾香を睨みつけ、俺の足首を握る彼女の腕を掴み上げる美貌は兇悪な形相へと変貌していた。

智子「ちょっと! 俺は今日わたしと一緒に出かける予定だったのよ!?」

前言撤回。
救いの女神は休日の破壊を齎してきた。

俺「そんな話聞いてな―――」

黒江「お前は昨日、俺と一緒に夕日を見に行っただろう?」

俺「あれは無理やり連行さr―――」

智子「と・に・か・く! 俺はわたしたちの共有財産なのよ!? 何だったら武子と圭子も呼びましょうか?」

黒江「ふざけるな。今日はフリーの日だろう? なら早いもの勝ちだ」

智子「言ってくれるじゃない……!!!」

黒江「何度でも言ってやるさ……!!!」

相対する竜虎を目の当りにする俺は口を開くことが出来なかった。互いに睨み合って視線を外そうともしない二人の姿は抜き身の刃にも見え、水でも差してしまった日にはどうなるか想像もつかない。
少なくとも碌な結果にならないのは経験から知っていたので、ここは大人しく黙っているとしよう。
休日? そんなものはたった今終わったよ。

黒江「幼馴染という立場がいつまで続くかな……!?」

智子「心配しなくても良いわよ? 近い内にもっと深い関係になるんだから!!」


智子の綾香の腕を掴む力が強まり、綾香もまた渡すものかといわんばかりに俺の足首を握る手に強い力が込める。さて、この女の熾烈な戦いで一番の肉体的被害を被っているのは誰だろうか。

俺「いだだだだだだだだだだ!!! 痛い!! マジで痛い!!! 折れる!! 折れちゃうぅぅぅぅ!!!」

当然板挟みを喰らっている俺である。一秒経つごとに力はぐいぐいと強まっていき両足首の骨からは不気味な音が聞こえ始めてきた。このままいけば骨が砕かれても不思議ではない。両足を砕かれるかもしれない恐怖に俺の面差しから、ゆっくりと血の気が引いていく。
っていうかこいつら本当に女の子かよ!!

智子「ぎぎぎぎぎ!!!」

黒江「ぐぬぬぬぬ!!!」

ミシッ! ミシミシミシッ!!!

俺「いたいいたいいたい!!! 今ミシッて音したよぉぉぉぉぉぉ!!!」




両手に花という言葉がある。
両脇に美少女を侍らしていれば、そういった言葉をかけられるのは至当であるが、肝心の本人はというと酷く青ざめた表情のまま、近くの海へと向かっていた。
自身の両腕にしがみ付き、牙を剥いて互いを威嚇し牽制する智子と綾香の二人に挟まれ、更にその鋭い視線を左右から浴びている状況である。
分かりやすく言えば左右から刀を突きつけられているようなものなのだ。
そりゃ顔も蒼白に変色するよ。
羨ましいと零す男がいるなら是非とも代わって欲しい。そしてこの胃痛と頭痛も一緒に持っていってくれ。
せめてもの救いといえば両腕にそれぞれ押し付けられるのは柔らかな物体の存在だろう。
綾香と比べれば智子の胸は確かにつつましいが、あくまで彼女と比べればの話である。
智子のそれは同年代の少女と比較すると結構な発育を遂げていた。

俺「(智子のはぁ……まぁ、これからの成長に期待ってことで)」


次に綾香。戦場で刀を振るうウィッチだけあってか日々の鍛錬は欠かしておらず、それにより彼女の全身には一切の無駄が無かった。
特に右腕に押し付けられる乳房は立派に発育し大変素晴らしい。
大きさ、形、弾力、柔らかさ。この全てが均等に保たれている彼女の果実こそが理想的と言えよう。

俺「(実にけしからん。本当にけしからん)」

バレたら袋叩きじゃ済まされないことを妄想していると、次第に漂ってくる潮の香りが鼻腔をくすぐった。

黒江「それじゃあ私は釣れる場所を探してくる。いいか? 戻ってくるまで妙な真似だけは起こすなよ?」

俺「しないよ。そんなこと。お前も気をつけろよ」

智子「お……俺……あの……」

釣り竿と道具を抱えて去っていく綾香の姿が消えるのを見計らっていたように、智子が俺の前へと踊り出る。
視線を泳がせながら両手を後ろ手に組む彼女は何時になく挙動不審だった。

俺「……どうした?」

熱でもあるのか。
思わずそう訊ねたくなるほどに彼女の色白の端整な顔立ちが紅潮していた。
きゅっと唇を噛みながら、身体をよじる姿は思春期特有の少女らしい可憐な仕草なのだが、そんなこと知りもしない俺は純粋に彼女の身を案じる。
昨夜は風呂上がりの彼女の髪を乾かしてやったあとは自室まで送り、すぐに床に就いたはず。
まさか夜更かして、湯冷めでもしたのだろうか。

智子「えっと……はい! これ!」

俺「これ……お守りか?」

視線を合わせたくないのか、俯きながらも差し出された物は『身代御守』という文字が刺繍された鮮やかな緑色の御守りだった。
清々しい翡翠の布地に思わず見惚れてしまっていた俺に智子が詰め寄った。

智子「この前っ! 休暇で街に出たときに見つけて買ってきたの! 緑色が好きって言ってたでしょう!?」

俺「あ……あぁ」

色といい手触りといい。確かに自分好みの逸品だ。
また智子が自分のために買ってきてくれたということが心の奥を温かいもので満たしていた。

智子「あ……」

俺「ありがとうな……智子。すごく嬉しいよ」

智子「……ぅん」

自身の頭を撫でる手の平の感触を素直に受け入れる智子の頭部に使い魔である狐の耳が、同じように狐の尻尾が飛び出し、千切れんばかりに振られていた。




1944年―――ペテルブルク基地、敷地内


追想を終えた俺が瞼を開けた。

俺「智子。このお守り……凄く良く効いてるぞ……」

今になって思えば彼女から貰ったお守りのおかげで自分は今こうして生き長らえている。彼女に守ってもらったようなものだ。

俺「さってと……」

周囲に誰もいないことを確認した俺が右腕を持ち上げた。
前方に突き出した右の掌に魔法力を集中させるも衝撃波が放たれることはなかった。
五月の……偶然にもニパと同じ誕生日を境に自分の魔法力は緩やかな減衰を始め既にシールドを展開することも不可能となっている。
このままでは戦場に立てたとしても荷物になるのは目に見えていた。

“よく持ったほうだ”

ウィッチとしての寿命が尽きかけているにも拘らず俺は驚くほど冷静さを保っていた。
大抵のウィッチは二十歳を過ぎてから魔力減衰が始まるが自分にいたっては二十三まで現役の魔女と共に空を駆り、防壁を展開することだって出来た。むしろ恵まれていた方だろう。
それでも天恵は消えかかっている。少なくとも自身を守ってくれる壁はもうない。
ではどうするか。このまま身を退くか。
決まっている。
壁が無いなら作れば良い。
俺が考え抜いた結果が衝撃波を防御に転用することだった。構造は至って単純で前方に放出する衝撃波を掌に定着させシールド状に形成するだけだ。
もちろん、ただ形だけを模すのではなく、防壁としての機能を発揮しなければ何の意味もない。

俺「ッ!!!」

俺の顔が引き攣った。
本来なら任意の方向へ放つ衝撃波を自身の手元に定着させ、更に形状を変えて、ネウロイのビームを受けても防ぎ切る程の厚さにしていくには骨が折れた。だが時間は待ってはくれない。次の襲撃が分からない以上、何としてもモノにしなければならなかった。

???「こんな真夜中に訓練とは随分と精が出るな」

芝生を踏みしめ、暗がりの中から姿を見せた人物に俺は口元に薄い笑みを湛えて出迎えた。

ラル「……シールド……張れなくなったんだな」

魔法力が集束されている俺の掌に視線を落とす。セミロングの茶髪を夜風に弄ばれる彼女の青い瞳と桜色の唇から洩れる声音には言い知れぬ不安が込められていた。

俺「今までの戦闘では敵に攻撃する暇を与えなかったから張る機会もなかったが……そんなに上手く事が運び続けるとは思えない」

魔法力の集束を解除した俺が額に浮かび上がる汗を拭った。思っていたよりも汗の量が多く拭った手が濡れてしまい、ジャケットに手をなすりつける。

ラル「だろうな……私たちは攻勢部隊。奪われた領土を取り戻すのが任務だ」

俺「承知している。そのための擬似シールドだ」

ラル「引退は……しないんだろう?」

俺「完成すれば……いざとなったらお前たちの楯にはなれる。もし間に合わなければ移動砲台にでもなるさ」

どちらにしても自分に降りかかる危険は変わりない。
しかし、それで良いではないか。既に俺という人間は七年前に死した。
それから今日に至るまで頭上から足の先まで朱に染めてきた。
今更正道に戻るつもりはないが……それでも表舞台で戦う彼女たちのために死ねるなら、それもまた本望と言えよう。


ラル「スタンドプレーは禁止だと何度も言ったはずだぞ」

俺「駄目か?」

ラル「当たり前だ。お前は……もう私たちブレイブウィッチーズの一員だ。勝手に死ぬことは許さん」

俺「もう死んでいるのにか?」

ラル「いいや。お前は生きているよ」

自嘲するような薄い笑みを貼り付ける俺に向かって、芝生を踏み鳴らしながら歩み寄るラルが拳一つ分の距離で足を止め、彼を仰ぎ見た。蒼白い月華を浴びる美貌に思わず息を呑み込む俺の左胸に彼女が右の繊手を添える。大切な宝物を扱うように。慈しむ手つきで残痕が走る胸板を服の上から撫でた。

ラル「私にはお前の心臓の鼓動が聞こえる。しっかりと脈を打っているのが伝わって来ている」

俺「……」

ラル「私にはお前の身体の温もりを感じ取ることが出来る。こんなにも温かいのに……お前は自分のことを死人と言うんだな」

こんなにも温かく、触れていて安らぎを与えてくれる身体を持つ者が死者であろうはずがない。

俺「わからんさ……自分の心臓の音も……温かさも」

ラル「これでも……か?」

それまで左胸に添えられた彼女の手が俺の左手首を掴み、その先を―――彼の手の平を自身の胸に重ねた。
初めて男に胸を触れさせたという事実が彼女の頬に熱を灯し、朱色が差し込める。

俺「ラル!?」

ラル「分からないか? お前の身体も……こんな風に温かくて……ちゃんと生きている音を奏でているんだぞ」


不思議と嫌悪感は湧かなかった。
それどころかこの男にならば……といった感情が芽生えていることに気がつき、そのことが面差しを染める紅を一層濃い色へと変えていく。
おそらくこれが、この男の本性なのだ。普段は陽気なくせに、誰もいなくなると本当の自分を曝け出す。
平気だと嘯きながらも、寂しげな感情を瞳に映し出す。
だからこそ、この男を放っておくことが出来なかった。
あの夜サウナで彼の身体に刻まれた傷以上に凄惨な過去を聞かされて以来彼のことばかりを考え込むようになったが、その理由は自分でも分からなかった。
同情でも哀れみでもない。
だとしたら……この感情は一体なんだ……?
どうして自分はこんなにも俺のことを思うようになったのだ……?
いつか、この気持ちが何なのか判る時が来るのだろうか。

ラル「(寂しい……のか?)」


ガランドから送られてきた書類の文面が浮かび上がる。
そこには俺を短期間、ブリタニアの第501統合戦闘航空団へ派遣するといった内容が記載されていた。
ゆっくりと俺の手を離すラルはまじまじと彼を見据えた。
この男にもやはり連絡は来ているのだろう。自分たちですら知りえない情報を入手して、ペテルブルクへとやって来たのだ。
もうとっくに知っているはずだ。

ラル「お前にも連絡が来ているとは思うが……」

俺「あぁ。まだ仕事が終わってないのに出張とはね」

ラル「また……あれなのか?」

俺「大丈夫だ。俺はちゃんと帰ってくる」

ラル「約束できるのか?」

俺「約束するよ。俺は必ず帰ってくる。終わったら……お土産買って道草せずに戻ってくるさ」

根拠など何一つないというのに。

ラル「分かった。土産……期待しているからな?」

何故だか、その言葉に不思議な説得力を感じ取ったラルは口元を緩めていた。



501への出張の件ですが、一段落がつきましたら三話構成の番外編での投下を予定しております。
ですので、この後すぐにブリタニアへ行くという展開ではありませんのでご安心を。
最終更新:2013年02月04日 14:27