厨房内を満たすカカオの香りを肺いっぱいに吸い込んだガランドが口元を綻ばせた。
腰まで届く自慢の黒髪を後頭部の辺りで一つに結い上げてボウルの中で溶け切ったチョコを箆で丁寧に掻き混ぜる。
更にシャツの上から恋人が好む色合いのエプロンを身につけるといった姿は新妻と称しても何ら差し支えないほど家庭的な空気を漂わせた。
ガランド「……ふふっ」
微笑とともに瞼を閉じる。
暗闇に浮かぶ愛しい男の笑顔を燃料に再び瞼を開いて瞑目の間、休めていた手を動かした。
こうして厨房で料理を行っているからといって今日が何らかの特別な日というわけではない。
日頃から世話になっている俺に対して何か報いてやりたいと考えていたガランドは手作りのチョコレートを作ることで彼に感謝の意を伝えることに決めた。
当初はクリスマスのときのように豪勢な食事を振舞いたかったのだが立場柄、そう手の込んだ料理を作るための時間は取れず、仕方なく手軽に作れる菓子に変更したのである。
幾分かスケールは小さくなったが、それでも恋人に贈る大切なものに変わりは無い。
進めていく内に段々とチョコレート作りにのめり込んでいったせいか厨房の扉が開いたことに気がつかなかった。
ウィッチA「が……ガランド少将?」
ガランド「ん? やぁ。こんにちは」
手を止めて声が聞こえた方へ身体を向けると黒のカールスラント軍服に身を包む小柄な少女が独り厨房の入り口に佇んで自分のことを見つめていた。
肩まで届く上質な絹糸を思わせる蜜色の髪に乳白色の肌。両の目に象嵌された碧色の宝玉。
黙って椅子に座れば一流の職人が手がけた高級なビスクドールと見紛うほどの可憐さを身に纏った少女の愛らしい瞳に宿る疑念の光を見つけ、静かに苦笑いを零す。
少将ともあろう高位の立場に籍を置く人間がミントグリーンの可愛らしいエプロンで身を包み、ボウルの中身をかき混ぜる姿は幼い航空魔女にとってさぞ不可思議に映ったに違いない。
ウィッチA「ガランド少将……ですよね?」
ガランド「そうだけど……あぁ」
恐る恐るといった少女の問いかけに納得したような声を上げる。
普段は下ろしている黒髪を一つに束ねあげている所為で彼女は自身が放った呼びかけに確証を持てずにいたのだ。
別段髪を下ろしたままでもよかったのだが、以前に俺からこの髪型を褒められ更には好きだという言葉を受けてから料理を作る際は決まって髪を結い上げることにしていた。
理由は彼にもっと自分を好きになって欲しいからという単純なもの。
あんなにも愛されているというのに、まだ彼からの愛情を欲する自分の強欲ぶりに呆れるガランドであったが胸に宿るこの欲求だけはどうしても捨てることが出来なかった。
もっと愛したい。そして、もっと愛されたいという欲は人間ならば誰しも持っている当たり前なものであり自分もまた例外ではないのだ。
だから捨てないし、捨てることも出来ない。彼に対するこの愛情は永久不変なのだから。
ガランド「髪を結った姿はそんなにも珍しかったかな?」
ボウルを押さえていたほうの手を一つに纏まった黒髪に這わせ、持ち上げてみせる。
ウィッチA「はい。あ、いえ! 決して変というわけではなく!!」
ガランド「良いよ。こうすると動きやすいんだ。それに」
ウィッチA「俺さんが喜ぶ?」
ガランド「おや、よく分かっているじゃないか」
察しが良いウィッチAの言葉にまたも頬を綻ばせた。
彼女とは普段から然程話したことはないが、こうも自分と彼の仲を見抜いてもらえると自然と心が弾んでしまう。
まるで自分と彼が基地にいるウィッチたち公認の恋仲のように思えてくるからだ。
もっとも最近は執務が多忙であったため彼との時間が取れず、独り寂しい時を何度も過ごした。
顔を合わすときがあるとすれば廊下ですれ違うくらいか雑用を頼むといったことぐらいだろう。
それ以外は常に秘書官を伴っては会議に出向き、書類の整理を行う毎日である。
秘書官からは俺の名を呟く回数が増えたと言われ、気がつけばメモ用紙の端に彼の名前を書く始末だ。
視察でペテルブルク基地を訪れていた頃は毎日のように、それこそ当たり前のように過ごしていたというのに今では彼と過ごせない日々が日常と化してしまっていた。
日増しに寂しさが募り耐えられずに執務室を抜け出そうかとも考えたが、そんな衝動を押さえ込んだのは僅かに残ったウィッチとしての理性であった。
執務を放り出すなど軍人として失格の行為であることは自覚しているが、それほどまでに俺の存在はガランドにとっては無視できないものだったのだ。
だが、寂しさに身を切られる思いを味わっていたのは自分だけではない。
軽い雑談を終えて別れるときに見せた俺の寂しげな表情。
辛さを押し殺した瞳を目にした途端に胸が痛んだ記憶は今でも残っている。
彼もまた同じように自分と会うことも満足に話すことも出来ない日々に寂しさと不安を募らせていたのだ。
故に今回のチョコレート作りには碌に相手をしてやることができなかった彼への謝罪と感謝の気持ちを伝えると同時に、また以前のように仲睦まじく過ごす切欠になればという願いも込めていた。
ウィッチA「では……そのチョコレートも俺さんのために?」
ガランド「妻たるもの夫に食べさせるお菓子の一つや二つは作れないと、ね?」
隠すことなくこの場にいない男への愛を曝け出してみせたガランドの姿に純情を刺激されたのか、恥ずかしげも無く放たれた妻という言葉に少女が頬を紅潮させる。
彼女の真っ直ぐな愛情は色恋を知らぬ年頃の乙女を揺さぶるには充分すぎる衝撃を与えたのだ。
少女もまさか他人の惚気を聞かされただけで身体が熱くなるなど夢にも思わなかっただろう。
ガランド「最近は仕事が忙しくてね。恋人同士の睦言も出来ないんだ」
ウィッチA「少将はそんなに好き……なんですか? 俺さんのことを」
ガランド「あぁ。世界中の誰よりも彼を愛しているよ」
その言葉に含まれる愛は決して自分に向けられたわけではないというのにウィッチAはあたかも自分が口説かれているような錯覚を覚え、慌てて首を振った。
勘違いするな。この人が好きなのは俺さんであって私じゃない。
何度も言い聞かせるも激しくなった心臓の鼓動と同じくらい胸の内に生じた動揺は治まる気配を見せない。
大きく深呼吸を繰り返すことで冷静さを取り戻し、素直な感想を告げた。
ウィッチA「……何だか、羨ましいです」
ガランド「どうして?」
ウィッチA「私も。少将のように……だ、誰かを……」
ガランド「好きになりたい?」
小さく頷く幼い少女の姿にガランドの唇が自然と吊り上がっていく。
戦えぬ者たちの為に矢面に立つウィッチといえど少女であることには変わらず、彼女もまた例に洩れない。
身を焦がすような燃える恋を、優しく包み込まれるような柔らかな愛を感じたいという望みは全世界の女性が抱く万国共通のものだ。
いや。いつ命を落とすかどうかも分からない場所に立っているウィッチからこそ、そのような淡い希望に対して人一倍強く思いを馳せるのである。
ガランド「大丈夫。君ならきっと出来るよ」
ウィッチA「本当ですか?」
ガランド「あぁ、こんなに可愛いんだ。きっと大人になれば大変なことになるよ」
安心させるように微笑みかける。
自分にも言い寄って来る男はいたが、そのどれもが肩書きを利用とする者ばかりであった。
もしも俺と再会することがなければどうなっていたのか考えただけでも恐ろしい。
だからこそ彼女には政略とは無縁な恋を味わって欲しいのだ。
ウィッチA「ありがとうございます! 少将!」
ガランド「どういたしまして。そういえば君はどうしてここに来たんだ?」
ウィッチA「あ、あの。そ……それは」
ガランド「おやおや。いけない子だなぁ……つまみ食いだなんて」
ウィッチA「あ、あぅ。すみません……」
おそらくは無意識のうちの行動なのだろう。
俯いて腹部をさする姿から空腹に耐え切れず何かつまみ食いをしようとやって来たのだと察したガランドの言葉にウィッチAが力なく項垂れた。
夕食の時刻にはまだ余裕があるが、あまり食べ過ぎると生活のリズムが乱れてしまう恐れもある。
かといって何も与えずに返すのも忍びない。
どうすれば良いかと頭を悩ませていると不意に視界の片隅に入ったものに視線を転じた。
ガランド「そうだ。君に頼みがある」
ウィッチA「ご命令ですか?」
ガランド「そう受け取ってもらっても構わないよ」
肯定とも取れる言葉にウィッチAの表情が強張る。
末端の立場にいる自分に対して命令を下すのは全てのウィッチの中でも最高位の階級に就く者だ。
どのような命令が下されるのかと唾を飲み込んでいると一本のスプーンが差し出された。
突然のことに目を丸くしながらも黙って受け取ることが出来たのは軍人として培った順応力によるものか。
手に握り締めるスプーンとガランドを交互に見比べ、
ウィッチA「あの。このスプーンは?」
ガランド「今回君に頼むのは……まぁ、味見なんだ」
ウィッチA「味見、ですか?」
ガランド「そうだよ。苦かったり甘かったり……何でも良い。感じたことを正直に伝えて欲しいんだ」
差し出されたボウルに詰まる液状化したチョコレートを前にしたウィッチAの喉が音を立てた。
鼻腔をくすぐる甘い匂いに我慢が出来なくなり、スプーンで中身を掬って口許に運ぶ。
唾液と混ざり合い口中に広がるチョコレートの甘い味。
だが、ウィッチAはそれ以外のものを感じ取った。
舌を動かすたびに食道を通って全身に染み込んでいくそれはきっとガランドが込めた優しさ――俺に対する無限の愛情なのだと納得する。
そんな愛情で満ち溢れた手作りチョコレートを食べることが出来る彼が羨ましくなった。
ウィッチA「美味しいです……甘くて。食べていて温かくなります」
ガランド「ありがとう。これで俺くんにも胸を張って渡すことが出来るよ」
ウィッチA「むね……」
安心したように、そして満足したようなガランドの言葉に視線が彼女の胸に引き寄せられた。
シャツとその上から身に着けているミントグリーンのエプロンを下から押し上げる豊かな双球。
断崖絶壁である自分のそれとは異なるそれには完成された母性と相手を包み込む慈愛が詰め込まれているように見える。
自分もいつかガランドのような立派なものを手に入れることは出来るだろうかと、彼女緒双丘から視線を外すと彼女のそれとぶつかった。
青い瞳に湛えられた穏やかな光に自分が胸ばかりを凝視していたことに遅れて気がつき、少女は頬に熱が灯っていくのを感じながら視線を逸らす。
ガランド「君はまだまだこれからなんだ。そう焦ることはないよ」
ウィッチA「……あの。聞いてもいいですか?」
何とか羞恥の感情を濁らせようと口を開く。
ガランド「何かな?」
ウィッチA「少将は俺さんの……ど、どういうところに惹かれたんですか?」
気付かれていたことへの気恥ずかしさを感じつつ、ウィッチAは今まで胸に抱いてきた素朴な疑問を思い切ってぶつけてみることにした。
一体どうしてガランドのような美女が彼のような平凡な男性の虜となったのか。
あの男のどこにガランドの心を射止めるものがあるというのか。
ガランド「そうだね……色々あるけど。何といっても可愛いところかな」
ウィッチA「かわ……いい?」
自慢げに告げられた返事に少女は言葉を失った。
可愛い? この人はいま、可愛いと言ったのか? 二十歳をとうに過ぎた男のことを?
半信半疑の視線を投げかけると頬を赤らめたガランドが小さく頷いて口を開く。
曰く、からかうと顔を赤らめて視線を逸らすところが可愛い。
曰く、寝顔が可愛い。
曰く、首筋を舐めたときや不意打ちのキスをしたときの驚いた表情が可愛い。
問いかけに返されたものは答え――というよりは惚気に近い。
感慨を込めて次々と放たれる俺に対する想いは問いかけた少女が気恥ずかしさを覚えるほどであり、その他にも抱きしめられたときの腕の感触や胸板の逞しさなど。
羞恥心という感情などこの世に生れ落ちたときから備わっていないのでは思わせるほど思い人をべた褒めし続ける。
いつしかカールスラント空軍ウィッチ隊総監の姿は鳴りを潜め、厨房には一人の女性が作業そっちのけで最愛の男について語っていた。
ウィッチA「(本当に好きなんだ……あの人のこと)」
愛する人間をあたかも自分のことのように嬉々として話し続ける姿に少女はアドルフィーネ・ガランドという人間の本質に一歩近づけたような感覚を覚えた。
ガランド「可愛けど……本当はとても寂しがり屋なんだよ……」
それまでの弾んだ声音が一転して消沈したものへと変わる。綻んでいた笑顔にも暗い影が落ちていた。
脳裏に浮かぶ、別れ際に見せたあの寂しげな表情。思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。
自分の立場を考慮し、大丈夫だと気丈に振舞っていた彼がほんの一瞬だけ見せた素顔。
目には見えない何かが自分たちを切り離そうとしている現実。
どうしてこんなにも、すれ違いが続いてしまうのだろうと視線を床に落としたガランドが胸中で洩らす。
ペテルブルク基地にいたときは毎日のように会っていたというのに。
去年の年末は別荘に二人きりで過ごしていたというのに。
何万里もの距離を隔てているわけではない。
広大な基地とはいえ同じ屋根の下で暮らし、それこそ会いに行こうと思えば会いにいけるのに。
会いたくても会いにいけない。
立場がそれを許さないのだ。
ガランド「おれくん……」
ウィッチA「少将! そのチョコレートを早く完成させましょう!!」
ガランド「……!?」
ウィッチA「せっかく俺さんのために作っているんですから早く渡さないと駄目です!!」
ガランド「ぐすっ……あぁ、そうだね。君の言う通りだ」
いつのまにか込み上げてきた涙を拭ったガランドが微笑みを見せた。
こんな小さなウィッチに諭されてしまうとは。どうやら、寂しさのあまり自分を見失っていたようだ。
ウィッチA「私にも何か出来ることはありますか?」
ガランド「いや、大丈夫だ。これだけは……せめて、これだけは私一人の手で作り上げたいんだ」
話に夢中になっている間止まっていた作業を再開する。
これさえ渡すことが出来れば元通りとはいかないまでも、少しは離れてしまった彼との距離を縮められることが出来るはず。
再び彼と過ごす日々を取り戻すために完成するまでガランドは手を動かし続けた。
ガランドが厨房で少女相手に惚気話を始めたのと同じ頃。
欧州のとある場所に位置する広大な土地を要した前線基地――彼女が作業を続ける厨房から十数分の距離を隔てた中庭に俺は寝そべっていた。
休憩時間らしくラウンジからは基地に所属するウィッチたちの姦しい話し声が聞こえてくるも寒空の下で芝生の上に独り寝転がる物好きな人間は彼しかいない。
寂しいと胸の中で零す俺の視線の先には、元が大きな塊であったものを千切ってばら撒いたかのように小さな雲の数々が青空に散在している。
しばし、それらが視界を徐行で通り過ぎていくのを眺めていた俺が不意に息を吐き出した。
黒い瞳には何かを諦めるような弱々しい光。
寂しいと今度は口に出して呟く。胸に大きな穴が空き、そこを通して自分を包み込む冷えた空気が通っていく錯覚を覚えた俺が身震いをする。
自分をここまで追い詰める最たる原因がここ最近ガランドとの満足な時間を取れていないことだと分かっていた俺は胸裏に溜まる鬱憤をどう吐き出せば良いか分からず、ただ溜息を吐くことしか出来なかった。
少将ともなれば仕事が増えるのは当然のことである。前線基地にいる以上はペテルブルク基地で過ごしていた頃のように手伝えることも少ない。
このままずっと会えないばかりか話すことも出来ない日が続くのだろうかと胸中で零したときだ。
芝生を踏みしめて何者かが寝そべる自分に歩み寄ってきたのは。
一瞬ガランドかと期待してしまったが激務に追われる彼女がそう簡単に執務室から出てこられるわけがないことに気付き、すぐさま淡い希望を切り捨てる。
のそのそと上体を起こして、近づいてくる足音に目線を飛ばした俺が眉を顰めた。
歩を進めてきた人物はカーキ色のカールスラント軍服を身にまとう少女。
肩の辺りまで届いた茶髪を北風に弄ばれながらも芝生の上へと座り込む自分に向かって視線を注いで来た少女は何かを言おうと口を開き、すぐに噤む。
ウィッチB「あ、その……えっと……」
よく目を凝らせば凛々しい印象を見る者に抱かせる切れ長の目には焦りとも困惑とも受け取れる複雑な光が浮かんでいた。
彼女の名はウィッチB。この前線基地に所属する航空魔女で階級は大尉。
全てのウィッチとも一定の友好関係を結んでいた俺は彼女とも何度か話したことがあり、共に出撃した経験もある。
だからといって取り分け仲が良いかと問われれば素直に首肯することは出来なかった。
どちらかといえば口数の少ない彼女は廊下ですれ違った際に話しかけても、すぐに脱兎の如く走り去ってしまうからだ。
むしろ嫌われているのではないかと思っていただけに突然の来訪は俺に少なからず衝撃を覚えた。
ウィッチB「良い……お天気ですね」
震えた声音で投げかけられる社交辞令。
どこか体調でも悪いのかと考えたがコートも身に着けなければマフラーも首元には巻いておらず声が震えてもおかしくない。
特に今日は太陽が雲によって隠されることが度々あるので温かい日差しには期待出来そうになかった。
俺「そうだな。寒いけど」
ウィッチB「あ……はい」
俺「……」
ウィッチB「……」
俺「あー。それで……俺に何か用かな?」
彼女が何かを自分に伝えたいということは先ほどの行動から察することが出来た。
いつまでもこの寒空の下で足踏みをしていては身体を壊す恐れもある。
彼女の体調を気遣い、また広がりつつあった沈黙を堰き止めるように俺が口を開く。
すると胸の内を見透かされたことに気付いたのか、
ウィッチB「えっ! あ、いや!」
俺「とりあえず落ち着こうか。ちゃんと聞くから」
ウィッチB「で、でも!!」
俺「はい、まずは深呼吸から。すってー」
ウィッチB「え……すぅぅぅぅ」
俺「はい。はいてー」
ウィッチB「はぁぁぁぁぁ」
俺「……落ち着いた?」
ウィッチB「はい……みっともないところを見せてしまって申し訳ありません」
俺「良いさ。で? 用は?」
ごくりという生々しい音が鳴った。
頬を赤らめたウィッチBが喉を動かしたことによるものだった。
ウィッチB「あの! これ! 受け取ってもらえませんか!?」
もじもじと身を捩る動作を繰り返すこと数回、意を決したような面持ちで後ろ手に隠す何かを差し出した。
俺「……これは?」
差し出された物に手を伸ばさず、訝しげに見つめる俺が視線を逸らさずに問いかける。
彼女のたおやかな繊手に握られていたのは桃色の包装紙に包み込まれた球状の物体。
北風に乗って微かな甘い香りが鼻の中へ届けられていることから、物体の中身が何らかの洋菓子であることが窺える。
俺「…………どうして俺に?」
ウィッチB「あの……前にしゅしゅ、出撃したときに!」
俺「ん?」
ウィッチB「助けて! いただいて!!」
俺「助けてって……あぁ、あの時か」
随分と前の話になる。
この前線基地を訪れてから何度か出撃したことがあった。
ちょうど二回目の出撃だっただろうか。
初めて彼女とロッテを組んだときに彼女を敵の攻撃から庇ったことがある。
聞こえは言いかもしれないが勢い良く前に飛び出してシールドを防ぐような勇敢な真似はしていない。
彼女の無防備な後姿を突こうとした大型に高威力の衝撃波を叩き込むことで先手を打っただけだった。
俺にとっては魔法力が減退していくなかでどれだけ高い威力の衝撃波を撃てるかのテストのつもりでの行動だったため守ったという意識は当時も今も希薄のままだ。
俺「別に気にしないでくれ。一緒に戦う仲なんだから助け合うのは当たり前だろう?」
ウィッチB「……はい。それで、これは……そのときのお礼、です。受け取って……貰えませんか?」
俺「お礼って……俺たちウィッチは互いに背中を合わせて戦うんだ。庇っただけでこんな……」
ウィッチB「ですが! それでは私の気が治まりません!!」
俺「(困ったなぁ……)」
頭を掻きながら立ち上がる。
彼女の目には自分が窮地に駆けつけた騎士か何かに映っているのかもしれないが、俺は差し出された物を素直に受け取ることが出来なかった。
心に決めた人間がいる手前、他の女性から物を受け取ることに躊躇いを感じたからだ。
たしかにここ最近は満足に二人だけの時間を取れることは出来なかったが、かといって彼女への愛が消え失せたわけではない。
だからこそ、俺は静かに少女の肩へと手を乗せて首を横に振る。
俺「ごめんよ。それは……受け取れない」
ウィッチB「ガランド少将……ですか?」
無言で頷くと少女の端正な顔立ちが悲しげに歪んだ。
それでも、こうなることを予期していたのか。すぐに穏やかな笑みを貼り付け、俺の手を除けた。
本当は辛いけど、我慢します。
双眸が告げる言葉に俺はぎこちない笑顔を浮かべながら、彼女の頭をそっと撫でることしか出来なかった。
そのときである。
俺「……ッ!?」
不意に視線をウィッチBから外した瞬間、俺の目が見開かれた。
遥か前方に立つ見慣れた人物に目が奪われる。
風によって靡く腰まで届いた黒髪。白い肌に象嵌された青い宝玉。
見間違えるはずがない。そこにいたのは恋人であるアドルフィーネ・ガランドその人であった。
俺「フィー……ネ?」
ガランド「っ!!!」
が、呼びかけた途端に彼女は踵を返して基地の方へと走り去ってしまう。
何だ?
一体どうなってる?
何で彼女は急に走り出したんだ?
あれではまるで……
自分から逃げ出したみたいではないか
俺「ッ!!!」
さながら銃口から射出された弾丸の如く。
逃げ去るガランドの背中目掛けて俺は疾走を開始していた。
ウィッチB「あっ!! 俺さん!!」
後ろで叫ぶ少女をその場に残し、ひたすらに両脚を動かす。
大方自分とウィッチBとの会話を遠くから見て誤解でもしたのだろう。
俺「待ってくれ!!!」
呼びかけに応えるどころか速度を上げたガランドの後姿に俺の顔が引き攣った。
俺「フィーネ!!」
会えない日が続いた中で目撃した自分と少女が二人きりで話す光景。
誤解するなというほうが無理である。
仮に自分が彼女と同じ立場だったとしたら、きっと勘違いするに違いない。
しかし激務で多忙の日々を送る彼女が中庭に来たということは自分に会いに来てくれたということではないのか?
だとすれば、せっかくの機会を逃すわけにはいかなかった。
俺「なっ!?」
意気込んで角を曲がると前を走るはずのガランドの姿が見事に消えていた。
あまりにも唐突な消失に本当に自分は彼女を追いかけていたのかと思ってしまう。
辺りを見回すもガランドの姿を見つけることが出来ず次第に苛立ちが募ってくる。
ただでさえすれ違いの毎日が続いていたというのに、どうしてこんなにも悪い方向へ事が転がっていくのだろうか。
俺「くそっ!!」
壁に叩きつける拳を寸前の所で引き止める。
このまま立ち止まっていても、ましてや壁に当たっても埒が明かない。
気を切り変えて廊下を駆け抜け、出会った職員やウィッチにガランドを見かけたかどうか手当たり次第に訊ねるが、自分の望む情報は入ってこない。
秘書官「俺さん?」
俺「なぁ!? フィーネを見なかったか!?」
悔しさに歯軋りをしていると、後ろからかけられた聞き覚えのある声に縋りつく。
丸いレンズ越しに見える瞳に浮かぶ困惑の色はすぐに温厚なものへと変わっていった。
秘書官「閣下がどうかされたんですか?」
俺「いや……なんでもない。自分で探してみるよ」
秘書官「……俺さん?」
俺「?」
秘書官「もしかすると閣下は……世界で一番行きたい場所に行ったと思いますよ」
俺「どういう……?」
秘書官「それは……言えません。俺さんが見つけてあげてくれませんか?」
言い残して去っていく小柄な背中。
その言葉から彼女はガランドがどこへ行ったのか大よその見当はついており、分かった上で明言を避けたのだろう。
彼女が残していった言葉の意味を察し、溜め込んでいた苛立ちと焦りを吐き出した。
自分の女を自分の手で探し当てることができないで何が恋人か。
俺「よしっ」
気を入れ替えるように再び息を吐き出した次の瞬間、痕が残る勢いで両の手を頬に叩きつける。
傍から見れば不審な行動に映ったに違いないが、これで良い。気合は充分に入った。
自身に鞭を打った俺が再び走り出す。
その黒瞳に迷いは無く、必ず彼女を迎えにいくという強い決意の光が輝きを放っていた。
あれから自室へと引き返した俺がドアノブを見下ろした。
ガランドを捜すことを諦めたわけでもなければ休憩を取りに来たわけでもない。
彼女が一番行きたい場所――それは、すなわち自分の隣だ。
それでいて人目を気にする必要がない場所など基地内では限られている。
真っ先に向かった執務室で姿を見つけることが出来なかったとなれば残る選択肢は自室以外に無い。
もしかすると自惚れかも知れない。とんだ検討違いかもしれない。
それでも俺が迷わずにここへ足を運んだのは前に彼女が自分に対して告げた言葉を思い出したからだ。
君の隣は落ち着くと彼女は確かにそう言っていた。
もしも自分に対するガランドの想いが消えていなければ彼女はこの扉の先にいるはずなのだ。
俺「……っ!?」
意を決したかのような面持ちで扉を開けた俺が息を呑んだ。
窓際に設置されたベッドの上でブーツを床に脱ぎ捨てたガランドが頭からシーツに包まった上体で膝を抱え込んでいた。
久しぶりに会え、邪魔をする者は誰一人と室内にいないにも拘わらず、俺は彼女に向かって歩みだすことが出来なかった。
硝子を通して差し込む茜色の光によって照らされるガランドの白い美貌。
憂いに満ちた表情はどこか人間離れしており、さながら天界から舞い降りた女神であった。
身に纏う純白のシーツが更にその美しさを引き立てている。
俺「あ……」
ガランド「やぁ……とうとう見つかってしまったね」
力ない笑みを伴った呼びかけに、それまで恋人の美しさに魅了されていた俺が我を取り戻した。
向き合う覚悟を決めたのか。
袋小路に追い詰められたことでこれ以上の逃走は不可能だと悟ったのか。
どちらにせよ、久しぶりに会えたというのに彼女の顔に落ちる影は晴れなかった。
ガランド「よく私がここにいると分かったね」
俺「……苦労したよ」
悔しいが自分一人では彼女を見つけるのに苦労していただろう。
そのことが俺に自己嫌悪の種を植え付ける。
人の助言を受けなければ自分の恋人すら見つけられないのだ。
ガランド「ここに居れば……きっと君に会えると思っていたよ」
俺「…………待たせたか?」
ガランド「俺くん……少し聞いて欲しいことがあるんだ。良かったら――」
俺「あぁ、聞くよ。何だって」
小言でも愚痴でも。
それこそ恨み言でも。
それで気が紛れるなら好きなだけ俺にぶつけてくれ。
胸の内で語りかける俺が隣に座ったことを確認し、ガランドは思いの丈を零し始める。
渡したいものがあって、ずっと俺のことを捜していたこと。
その際に偶然にも俺が基地に所属するウィッチと二人きりで話をしている場面に出くわしたこと。
彼女の頭を撫でて柔らかな笑みを零した瞬間に自分の中で何かが生まれたこと。
それが俺に対する疑念だと分かったときに少しでも疑ってしまった自分が怖くなり、どんな顔で渡せばいいか分からなくなって逃げ出してしまったこと。
ガランド「自分でも驚いているんだ。私は……こんなにも嫉妬深かったんだね」
その言葉で締めくくったガランドが自嘲めいた笑みを作ったかと思えば青い瞳から大粒の涙が何度も零れ落ち、夕焼けに照らされる頬を濡らし始める。
ガランド「俺くん……ごめんよ。本当にごめん……疑ったりして、逃げ出したりして……!!」
静かに涙を流し続けるガランドを前に俺は何を言えば彼女の心を静められるのか悩んだ。
元来気の効いた台詞を吐けるほどの感性を持ち合わせていない俺は泣きじゃくりながらも必死に嗚咽を堪えようとするガランドの身体を胸元に抱き寄せることしか出来なかった。
ガランド「俺……くん?」
俺「なぁ……フィーネ。疑ったってことは、ひょっとして……ヤキモチを妬いたってことか?」
宥めるような口調で彼女の耳元に語りかけた。
吐息が耳たぶに当たったのか一瞬だけ身体を強張らせながらも素直に胸元に顔を埋めていたガランドが見上げてくる。
その涙を溜め込んだ青い瞳が向ける上目遣いの眼差しに心臓を掴まれたような感覚を覚えた俺が気を紛らわせるように、徐に彼女の頭を撫で回した。
ガランド「そっ、それは……」
俺「正直に答えてくれ……あのとき、フィーネは何を思った?」
ガランド「…………妬いた、よ」
ぽつりと蚊が鳴くような声でガランドが返した。
同時に抱擁を解いて両手を俺の頬に這わせる。
もう逃げない、もう離さない、君は私のものだと言わんばかりに柔らかな手つきで引き締まった肌を撫でていく。
ガランド「それと、君のこと……取られてしまうんじゃないかって。君も……若い子の方に行ってしまうんじゃないかと思って。すごく怖かった」
俺「……そんなに俺のこと好きでいてくれたのか。何だか……嬉しいな」
ガランド「当たり前じゃないかっ! 私には……君しかいないんだよ? それに! いてくれたじゃなくて、今も好きでいるんだ。勝手に過去形にしないで欲しいな」
唇を尖らせるガランドが瞼を半開きにして睨みつける。
俺「そりゃ悪かったよ。ごめんな」
ガランド「まったく……もう良いよ。これ……受け取って貰えるかな?」
差し出されたのは薄緑色の包装紙に包まれた箱。
受け取って蓋を開くと中にはハートの形を模した小さなチョコレートが詰め込まれていた。
これが先ほど彼女の話に出てきた“渡したいもの”なのだろう。
俺「俺に……?」
ガランド「もちろん。日頃の感謝と……また前みたいに過ごせる切欠になれば、いいかなと思ってね……」
俺「……嬉しいよ、ありがとう。これ手作りだよな?」
ガランド「そう……だけど?」
俺「恋人からの手作りチョコレートか……俺もまだまだ捨てたものじゃないな」
喜びを隠そうともしない俺の言葉にガランドが恥ずかしげに視線を逸らした。
彼のために作ったとはいえ、こうも喜んでもらえると嬉しさのあまり身体が熱くなってきてしまう。
ガランド「(まぁ……いいか)」
紆余曲折はあったものの、こうして渡すことが出来たのだからこれ以上考えるのはやめにしよう。
今は二人だけの時間を満喫するとしよう。
いつもと変わらない、俺を悩ませるあの挑発めいた笑みを取り戻したガランドがチョコレートを一つ摘んだ。
ガランド「俺くん」
俺「ん? どうし……たっ!?」
ガランド「んー」
チョコレートの端を器用に咥えたガランドが顔を差し出してきた。
瞼は切なげに伏せられ、夕日の光とはまた別の赤みを帯びる頬に思わず生唾を飲み込んだ。
いくら俺とて手で摘むような野暮な真似をするつもりはないが、サイズが小さいだけに咥えたら確実に唇が接触してしまう。
無論、彼女もそれを見越して行動に出たのだろう。
ふと、ガランドが瞼を開く。青い瞳からは早くしろといった催促の視線が飛ばされてきた。
俺「……良いんだな?」
ガランドが満足げに瞼を閉じて笑顔を作った。
再び生唾を飲み込み、ゆっくりと彼女が加えるチョコに口を近づける。
チョコが割れる乾いた音のすぐあとに、唇同士が触れ合う音が室内に木霊した。
ガランド「お味のほうはどうかな?」
俺「あ、あぁ……甘いな」
ガランド「それはよかったよ。さて、俺くん。チョコレートはまだ沢山あるんだ……わかっているね?」
箱の中に詰め込まれた残りのチョコレートをこれ見よがしに見せ付けてくるガランドの微笑みに黙って首を縦に振った。
まだ夕食前だというのにこんなに沢山食べたら、きっと今日は何も入らないだろうなと思いながら俺はまたもチョコを咥えたガランドの唇に顔を近づけていった。
おしまい
最終更新:2013年02月04日 14:31