廊下に面する数多くの扉の中で一際怪しげ且つ陰鬱な空気を放出するものを見つける。
他の扉とは異質な雰囲気を発散するそれを一言で表現するならば――何か出そう。
そのとき、ふと子供の時に聞かされた怖い話の一つに異界の入り口というものがあったことを思い出す。
別世界へと繋がる部屋に足を踏み入れた人間が二度と出ることが出来ないという悲惨な結末で終わる話だ。
震え上がってしがみつく智子の頭を撫でながらも背筋に寒気を感じたときの記憶は今でも脳裏に焼きついている。
俺「(あのときの智子。可愛かったなぁ……)」
もしかするとこの部屋が……などと思ってしまうのは幼少期に聞かされた怪談が未だに自分の記憶の中にあるからなのだろう。
俺「(そんなわけない、か……)」
独り胸のなかでごちり、ドアノブへと手を伸ばして回す。
事前にここへ足を運ぶことを知らされていた所為か、鍵は掛かっておらず室内へと身を投じると部屋中に蔓延する埃から手厚い歓迎を受けた。
鼻腔に突き刺さるむず痒さに顔をしかめながら手探りで壁に設置されている照明のスイッチを探し当てる。
灯りによって照らされた目の前に広がる部屋に俺は目を丸くした。棚やロッカーから溢れ出し部屋中を埋め尽くすガラクタの数々。
なるほど。たしかにこの散らかりぶりは異界と呼んでも可笑しくはない。
もちろん霊的な意味ではないが。
俺「(エーリカの部屋もたしかこんな感じだったな)」
床の上にまで転がっている誰かの私物を踏み潰さないよう慎重な足取りで部屋の奥へと進む俺は眼前の光景が501統合戦闘航空団に所属するエーリカ・ハルトマンの自室に被って見えた。
基地の外見及び内装が絢爛優美であっただけに部屋に招かれた俺は一瞬、彼女の自室を物置か何かと勘違いしてしまったほどである。
余談だがあの部屋で彼女の固有魔法――シュトゥルムを発動したら一体どうなるのだろうか。
俺「倉庫の掃除っていうから何だと思ったら……ただ私物を押し込んでいるだけじゃないか」
やや呆れた口調は後ろに続くガランドにあてたもの。
改めて室内を眺め回す。室内の広さも、埃もペテルブルク基地の資料室以上だ。
聞こえは言いかもしれないが、実際のところはウィッチたちの私物を押し込んだ物置部屋だ。
それこそ黒い悪魔の根城に匹敵するほどの散らかり具合である。
このガラクタが積み上げられた山の中から此度の会議で必要な資料を引っ張り出さなければいけないというのだから、雑用も楽ではない。
俺「というよりも。どうして資料をこんなところに詰め込んでおくんだ?」
普通ならば正式な資料室に厳重に保管されているはず。
何故こんなガラクタ部屋にしまい込んでいるのだろうか。
ガランド「まぁまぁ、そう言わずに。ん……俺くん。これは?」
俺「……あぁ、羽子板と羽子じゃないか。懐かしいな」
足元に転がっている箱からガランドが取り出してみせた扶桑産のそれに目を丸くする。
まさか一年に一度しか使うことの無い羽子板と羽子を遠く離れた欧州の前線基地の倉庫で出会うとは。
ガランド「はごいた……? いったい何に使うんだい?」
東洋の小さな島国に伝わる遊具にガランドが瞳を輝かせた。
初めて目にするものへの好奇心。
そして、それ以上に恋人が昔使っていた羽子板というものに彼女は心を躍らせていた。
埃を被る古びた羽子板を握り、自分が知らない愛しい男の過去に近づこうとするガランドがテニスラケットの容量で振り始める。
俺「扶桑で正月……新年になると、この板を使って互いに羽子を打ち合うんだよ。それで、落としたほうが負け」
ノスタルジックな感覚を胸の内に抱きながら羽子板を使ってガランドの前で羽子をついてみせる。
カン――と乾いた音が室内に響く。
扶桑を去ってから長らく握っていなかったが、勘は鈍っていないようだ。
そのまま危なげない手つきでリフティングを続けていると、白い指を自らの顎に這わせたガランドが口元を歪ませるのを見て、落ちてくる羽を手の平で受け止めた。
何か良からぬことを企んでいるのが妖しげな笑顔から伺える。
ガランド「ほぉ……何だか面白そうじゃないか。勝負事というからには……負けた時は何か罰ゲームでもあるのかな?」
俺「……」
ガランド「その様子だとあるみたいだね。言ってごらん」
俺「俺がいたところだと……落としたら顔に墨で落書きをされた……」
気落ちした口調で返す俺が羽子板の持ち手を握る拳に力を込めた。
あの日の出来事は今でも忘れもしない。まだ自分が扶桑にいた頃に智子たちと羽子板勝負をしたことがあるが、彼女らはよりにもよって四人がかりで自分を潰しにきたのだ。
当然のことながら数の暴力に勝てるはずも無く結果、息の合った連携プレーに成す術なく敗れ、顔中に墨で落書きされてしまった。
ガランド「顔に落書きか……面白い。さっそくやってみようじゃないか!」
俺「いや、いい」
ふんすと鼻を鳴らして燃え上がるガランドを置いて辺りを物色し始める。
というよりも今は資料を探しに来たのではないのか。
ガランド「むっ。少しだけだよ……ね?」
俺の前に身を躍らせたガランドが腰を折って上目遣いを送ってくる。
こんな何気ない仕草ですら胸を掻き乱されてしまう。
まるで子供のおねだりのようだと思いつつ、
俺「フィーネの顔を汚したくないんだよ」
ガランド「…………まるで自分が勝つみたいな口ぶりじゃないか」
途端にガランドが頬を膨らませた。
互いにもういい歳だというのに彼女が見せる子供じみた姿を目の当たりにする度に心臓を掴まれたような圧迫感を覚えるのは何故だろう。
おそらく日頃の凛々しい姿とのギャップからくるものなのだと納得し、頭を掻く。
俺「だってフィーネ、経験ないだろ?」
ガランド「経験が無くとも、この手の遊戯は得意さ。それとも……俺くんは私に負けるのが怖いのかな?」
俺「怖いわけじゃない。ただ……フィーネの綺麗な顔を汚したくないのは本当だぞ?」
キザっぽい台詞だとは思う。
言っておいて何だか凡庸な自分が口にすると違和感しか感じ取れないが、言葉に含めたものは事実である。
魅力的な彼女の白い肌に墨で落書きをするというのは些か気が引けるのだ。
ガランド「ッ!? ……いきなり、そういうことを言うのは……反則、じゃないか?」
俺「て、照れるなよ……こっちまで照れてくるだろ」
目を見開いたガランドが慌てて視線を泳がせた。
心なしか色白の頬はほんのりと紅潮しつつある。
日頃は大人びた彼女が見せるこうした純情な一面を前にすると、俺はどうしても胸の高鳴りを抑えることが出来なかった。
時たま見せるこういった姿もまた彼女の魅力であり、それが自分を惹きつけたのだ。
ガランド「こほん! とにかく! 勝負を受けるのか、受けないのか。どっち?」
俺「まぁ……食後の運動にはもってこいだな。よし、やるか!」
箱の中から取り出したもう一枚の羽子板を突きつけてくるガランドに頷いてみせる。
思えば彼女とこうして身体を動かす遊びをしたことなど一度もなかった。
たまには子供の遊びに興じるのも悪くない。
ガランド「そうでなくては面白くないな」
俺「でも、フィーネの顔を汚すのはやっぱり気が引けるんだよな」
ガランド「ふむ。だったら、こうしよう。私がミスをしたら……顔に墨を塗る代わりに服を一枚脱ごう」
俺「なん……だと……!?」
ガランドの言葉に俺が目を見開いた。
ブランクがあるとはいえ先ほどのリフティングで容量と感覚は取り戻した。
対してガランドは今日初めて羽子板を握った初心者である。
これはあれか。
私の服を剥いでくださいと遠まわしに誘っているのだろうか。
ガランド「その代わり俺くんが負けたら、私は……えっと、あったあった。この墨と筆を使って君の顔に落書きをする。ただし、俺くんは三回ミスをしたら負けということでいいかな?」
俺「構わないけど……俺だけミスできる回数が少ないのはどうしてだ?」
ガランド「こんな……朝から、裸になるなんて……恥ずかしいじゃないかっっ」
恥ずかしげに頬を染め、目を伏せる艶やかな仕草に俺の視界がぐらついた。
頭の中で一糸纏わぬガランドの姿が投影される。
今まで見えそうで見えなかったところが手で隠されている以外は何も身に着けておらず、くびれた腰はもちろんのこと。
なだらかな肩口。
きゅっと引き締まった首筋も、浮き出た鎖骨。
程よく実った乳房。普段はズボンにぴっちりと包まれる桃のようなヒップ。
それら全てが露わになるのだ。興奮するなというほうが不可能というものである。
俺「はだか……フィーネの裸……全裸……すっぽんぽん……」
怪しげに口元を半開きにする俺が何者かに取り憑かれたように、欲望全開の言葉を唱える。
黒い瞳からは理性の光が消え失せ、焦点もどこか定まっていない。
完全に煩悩に呑まれた恋人の姿に苦笑いを浮かべたガランドが腕を組む。
彼の戦意を昂ぶらせるために言ったつもりなのだが、思った以上の効果があったようだ。
それだけ自分の身体に興奮しているのだから、女としては喜ぶべきことだろう。
ガランド「俺くん? 妄想が口から溢れ出しているよ?」
俺「おっと悪い」
我に返り口元を濡らす生暖かい液体を手の甲で拭う。
いつの間にか妄想どころか涎まで洩れていたようだ。
恋人の前でみっともない姿を晒してしまったことへの不甲斐なさを感じつつ身構える。
俺「それじゃ、始めるか!」
ガランド「望むところだよ」
不敵な笑みを口元に湛え一定の距離を空けるガランドが羽子板を構えた。
どうやら先手は自分に譲るようである。
余程の自信があるのか。それとも初手を譲ることでゲームの流れを覚えるつもりなのか。
どちらにせよ、そう易々と勝ちを譲るつもりは無い。
意気込む俺が羽子を宙に浮かせた瞬間、強烈な打撃を叩きつけた。
ガランド「ぅわっ!?」
風切り音を奏でながら飛来する羽の速度に追いつけずガランドが振った羽子板は空しく宙を切り、彼女の真横を通過した羽子が壁にぶつかり床の上へと落ちる。
本来ならば放物線を描く羽子は床と平行した直線の飛跡を視界に入らぬ速度で描いたのだ。
それでも高速で飛来する羽子の存在を察知して反応できたのは彼女がベテランの航空魔女だからだろう。
常人ならば、通過した羽子の存在に気付かぬまま立ち尽くしていたに違いない。
ガランド「くっ……」
俺「……それじゃあッッッ!! 脱いでもらおうかッッッ!!」
ガランド「……ッ」
空気を震わせるかのように俺が咆えた。
悔しさに身を震わせるガランドがジャケットのジッパーに手を伸ばして下げると傍に置かれてある椅子の背もたれにかける。
その際にシャツの下から自己主張する双丘が身体の動きに合わせて揺れたわむのを俺は見逃さなかった。
俺「まずはジャケットから来たか……次はどこからだ?」
ガランド「そう何度も……負けてたまるかっ!!」
俺「よっと!」
余裕に満ちた微笑を口元に湛える俺に向かって、そう何度も勝たせはしないと言わんばかりにガランドが宙に浮かせた羽に渾身の一撃を叩き込む。
弾丸と称しても何ら差し支えないほどの速度で迫る羽子を前に俺は僅かに身をずらし、軽い口調を維持したまま打ち返した。
ガランド「ちっ!」
俺「結構、粘るんだな?」
ガランド「俺くんこそ!」
俺「慣れてきたみたいだけど……破ッ!!」
初めの内は直感だけを頼りに羽子板を振り続けていたガランドであったがラリーを続けていく間に、目が羽の早さを捉えるほどまで慣れていた。
しかし経験の差だけはどう足掻いても埋めることが出来ず、またしても羽子は彼女の横を駆け抜けて壁にぶつかり地に落ちてしまう。
ガランド「くぅっ!!」
俺「さぁ……早く脱いでくれ」
ガランド「……」
瞳を輝かせて見つめる俺に少しでも一矢報いようとガランドが首から提げる照準眼鏡を取って、椅子の上に置く。
途端にそれまで自信に満ち溢れていた俺の笑みが悲しげなものへと変わった。
まるで捨てられた仔犬のような彼の姿に思わず手を口元に伸ばしてしまう。
俺「え……スコープなの?」
ガランド「これも身に着けているものだからね」
得意げに鼻を鳴らすと俺が腰を折り曲げて大きく項垂れた。
余程下着を見られなかったことが残念だったらしい。
いつか必ず見せてあげるよと優しく胸の中で語りかけながら、意気消沈する俺に気付かれないよう羽子をそっと宙へ放る。
俺「ちくしょう」
ガランド「隙ありっ!!」
俺「あ! しまっ!?」
カン――という乾いた音を耳にしたときには既に羽子は真横を通り過ぎた後だった。
迂闊だったと唇を噛む。
ブラジャーを見たいという目先の欲望に囚われたばかりに彼女の裸体を拝むという最終的な目標をいつの間にか見失ってしまっていた己に内心で叱咤する。
そのまま音を立てて床に落ちて転がる羽子を呆然と見下ろしていると前から足音が聞こえてきた。
振り向けば勝ち誇った笑みを浮かべるガランドが先端を墨で濡らした筆を片手にすぐ目の前まで迫っていた。
双眸に浮かぶ得意げな光を捉えた瞬間、俺はどうしようもないほどの後悔に陥った。
ガランド「……さぁ、今度は君が大人しくする番だよ」
俺「ぐぬぬ」
悔しさのあまり歯軋りをする俺の顔にガランドが筆を走らせた。
まずは右頬から丁寧な手つきで書き付けていく。
肌をなぞる筆の感触にむず痒さを覚えた俺が時たま身体を強張らせるも、空いた片手で彼の肩を掴んで震えを抑えた。
くすぐるように皮膚の上を行き交う筆のせいなのか、それとも単なる痛恨の念なのかは定かでないが顔を赤らめる俺の表情を前にガランドは胸がキュンと締め付けられる感覚を覚えた。
ガランド「(……かわいい)」
唇を噛んで拘束に抗うかのように全身を小刻みに震わせながら必死に罰を耐える恋人の悩ましげな姿にガランドの嗜虐心が燃え上がる。
初めは純粋に俺との羽根突きを楽しむはずだったのだが、いつしか彼女の目的は勝負よりも如何に彼を辱め屈服させるかというものに摩り替わっていた。
乾燥した空気によって乾いた唇を舌で湿らせる姿は獲物を前にした肉食獣のそれであった。
俺「書かれるのは構わないんだが。なんかっ……くすぐったい、なっ……もう少し、なんとかならないかっ?」
ガランド「すぐ終わるから、じっとして……」
俺「あ、あぁっ」
ガランド「よしっ、いいよ」
数珠繋ぎになりながらも必死に言葉を搾り出そうとする俺を間近で捉えたガランドは背筋に走る喜悦混じりの寒気を感じつつ押し倒して唇を奪いたい衝動を寸前のところで押さえ込んだ。
続きは夜にいくらでも出来ると言い聞かせ、最後の一文字を書き終える。
満足げに離れていくガランドの真っ直ぐな眼差しを浴びて頬に熱が帯びていくのを感じた俺は気分を紛らわせるかのように頬を掻いた。
俺「……なんて書いたんだ?」
ガランド「それは内緒だよ。さぁ、続きを始めようじゃないか」
挑発めいた微笑を問いかけの返事としたガランドが筆を脇に置いて羽子板を振った。
これからが逆転劇だと物語る青い瞳を目にした俺も拾った羽子を宙へと放る。
先ほどは思わぬ失態を犯してしまったが、同じ徹を踏むほど愚かではない。
その笑顔を先ほど自分が浮かべていた悔しさと羞恥に満ちた表情に塗り替えてやる。
手元まで落下してきた羽子に板をぶつけながら意気込んだ。
俺「上はブラで下はズボン一枚、か……いい具合になってきたな」
ガランド「そういう俺くんこそ。もうリーチじゃないか。あとは私がチェックメイトを打つだけだよ?」
左右の頬にそれぞれ墨で文字を描かれた俺は自分の姿を棚に上げたかのように眼前で艶かしい姿を晒すガランドを見つめる。
対するガランドも僅かに頬を紅潮させるだけで瞳には未だ戦意の光を湛えており勝負を捨てはいなかった。
あられもない下着姿となってもなお気丈に振舞う彼女の強さを内包した美貌を目の当たりにした瞬間、俺は自分の心臓が一際大きな脈動を放った感覚をたしかに味わった。
俺「出来るかな?」
ガランド「出来るさ。それに、そろそろ時間だから……これで終わらせてもらうよっ!!!」
返事と共に繰り出される今日一番の猛烈な一撃。
空間に穴を空けるが如き鋭さで羽子が飛翔する。
勝負開始時こそは経験の差に物を言わせていた俺であったが相手は撃墜数100機超を誇るエースである。
そのガランドが羽根突きの容量を飲み込むまでにそう大した時間は要さず、徐々にラリーが続き互いの実力は五分の辺りまで持ち直されていた。
俺「こっちこそ!」
ガランド「そこっ!」
俺「(馬鹿め。そんなに高く飛ばせばどうなるか……)」
天井付近まで舞い上がる羽子を見上げた俺が唇を歪に吊り上げた。
長く続いた接戦の所為で疲労が溜まり返す際に判断を見誤ったのか、ゆっくりと落下してくる羽子板に狙いを定めてほくそ笑む。
これで自分の勝利は約束され、晴れて恋人の裸身を拝むことが出来るのだ。
ガランド「俺くん、俺くん」
俺「んあ?」
ガランド「こういうのは好きかな?」
呼びかけに答えた俺が視線をガランドへ戻して絶句した。
黒いブラジャーに包まれる盛り上がった乳房を両の手で見せ付けるかのように谷間を寄せる彼女の姿に完全に目が奪われた俺の口から感嘆の吐息が漏れ出す。
玉のような柔肌は透き通ったように白く肩を跨いで谷間へ潜り込む黒髪がその白さに拍車をかけていた。
俺「(た、谷間を寄せた……!? あぁ……柔らかそうだな……きっと、揉んだら指が吸い付くんだろうなぁ……)」
まだ一度も触れたことが無い母性の象徴に思いを馳せる。
触ったときの揉み心地を想像させる豊かな双丘を見つめている最中、視界の端で何かが上から落ちてきた。
俺「え?」
ガランド「どうやら、私の勝ちみたいだね」
勝ち誇ったガランドの笑み。視線を落とせば足元に転がる羽子の姿があった。
彼女の色仕掛けにまんまと篭絡された俺は絶好の機をみすみす逃したのだ。
俺「な……な、ななぁ!?」
ガランド「さぁ。敗者の烙印を押してあげよう」
俺「ちくしょう……」
悔しさの余り地団太を踏み始める俺に微笑ましい眼差しを注ぎつつ、下着姿のガランドが筆を手にして歩み寄る。
ガランド「ふふっ……ここを、こうしてっと……よし、できたよ」
俺「はぁ……負けちまったか」
ガランド「俺くん。今日一日はその顔に書いたものを消しては駄目だよ?」
刑の執行を終えて脱いだ衣服を身に着けるガランドの弾んだ声音に力なく頷く。
当分はこの基地に笑いを提供する羽目になりそうだ。
俺「ところで……なんて書いたんだ?」
ガランド「そ、それは……私の口からは言えないなっ」
ほんのりと頬を赤らめて視線を泳がせるガランド。
何を書いたかは自分で確認しろということらしい。
俺「……まっ、そういう決まりだしな。楽しかったよ……ありがとう、フィーネ」
ガランド「うん……私も楽しかったよ。俺くん」
俺「それじゃ。そろそろ仕事を始めるとしますかな」
もしこの部屋に鏡か何かあればすぐにでも確認ができるのだが生憎とそのようなものは見当たらない。
彼女が自分の顔に一体何を書いたのかは気になるところだがそのうち分かるだろうと自分を納得させ、出入り口へと身を翻す。
ガランド「あぁ、そうだ。俺くん!」
俺「どうし――ッ!?」
ガランド「んっ……」
振り向きざまの返事はガランドからの不意打ちによって途絶えた。
背中へと手を回し自分の身体に押し付けるかのような抱擁と共に行われる口付けに俺の目が見開かれる。
いくら二人だけとはいえ白昼堂々と行うキスに幾分か恥じらいを抱いたのだろう。頬はやや桃色に染まっていた。
ガランド「敢闘賞だよ。それじゃあ……!!」
目当ての資料が収められたファイルを軽く掲げ持って見せたガランドが部屋を出て行く。
背を見せる際に青い瞳に浮かぶ、今度は君が奪ってよ、という言葉を捉え俺は苦笑いを浮かべた。
そう無言で語っておきながら足取りはまるでその場から逃げるようなものであったからだ。
俺「……いつも不意打ちしやがって」
こういう時こそ男の甲斐性が試されるのだろう。
流れに身を任せるだけではなく流れを創り相手を引きずり込むこともまた恋愛における駆け引きの手段なのかもしれない。
そんなことを考えながら部屋を出るとすぐ近くの角から見知った人物が姿を見せた。
秘書官「俺さん? その顔は……?」
俺「まぁ色々あってね」
秘書官「ふふっ……書いたのは少将閣下ですね?」
俺「そうだけど……どうしてわかったんだ?」
秘書官「先ほど閣下がその部屋から出て行く姿を見かけましたし。なにより、俺さんの顔にそんなことを書くのは少将閣下しかいませんよ」
俺「どういうことだよ?」
秘書官「くすくす……閣下のことよろしくお願いしますね?」
俺「あ、ちょっと……まぁ、大切にするけどさ」
ノックの音が室内に響く。
返事と同時に扉が開き、丸縁の眼鏡を身に着けた小柄な女性が姿を見せた。
秘書官「おはようございます、閣下」
眼鏡のブリッジを人差し指で持ち上げた女性は恭しく頭を下げ、ガランドが座る執務用のデスクへと歩を進めた。
ガランド「おはよう……ふふっ」
秘書官「ご機嫌ですね」
ガランド「そう?」
秘書官「えぇ。それから、さきほど……俺さんとすれ違いましたよ」
ガランド「そ、そう……」
彼の名前を出された途端に心臓の鼓動が速まった。
それはつまり彼女は自分が俺に書き付けたものを読んだということになる。
秘書官「正直、意外です。閣下は素直に言葉で伝える方だと思っていましたから」
ガランド「私だって、たまにはあぁいう風に伝えるさ」
常に真正面から愛を囁くがたまには趣向を凝らしてみるもの面白いはずだ。
秘書官「そうですか……」
ガランド「む? どうしたのかな?」
秘書官「いいえ。今の閣下が……とても可愛らしいものですから」
ガランド「か、可愛いっ!?」
予想を反した言葉に思わずチェアから立ち上がる。
そんなガランドの狼狽振りに秘書官が笑みを深くした。そういう態度が可愛らしいんですよ、と無言で告げてくる瞳に、
秘書官「はいっ。俺さんに夢中になっていて……まるで、女の子みたいです」
ガランド「むぅ……そ、そうなのか」
頬杖を突いて視線を逸らす。
可愛いなどという言葉を久しぶりに聞いたガランドは込み上げてきた熱を下げようと手元にあった水差しの中身をカップに注ぎ喉を潤した。
秘書官「でも悪くないでしょう?」
ガランド「そうだね……悪くはない、かな……」
はにかむように微笑む。
彼にあの言葉を知られると思うと恥ずかしさが込み上げて来るが、見て欲しいという真逆の感情もあった。
自らの頬に書かれたものを見つけたとき彼はどんな顔をするだろうか。
驚くのか。恥ずかしがるのか。
また今日の夜に会えるのだから、そのときに答えを聞かせてもらおうと思ったガランドは気分を切り替えて机の上に置かれた書類に目を通し始めた。
廊下を歩いていると丁寧に磨き上げられた窓硝子に歩く姿が映し出された。
頬には先ほどの勝負によって書き記された敗者の烙印が見える。
俺「窓ガラス。お、何か映っているな……どれどれ、フィーネはなんて書いたんだ? えっと文字が反転しているから……こう、か」
何が書かれているのか気になった俺が硝子へと顔を近づけ、息を飲みこんだ。
その後、すぐさま秘書官が放った言葉が頭の中に蘇る。
たしかにこんなものを書くのはガランドしかいない。
――Ich liebe dich(君を愛している)――
俺「あ、あいつ……あぁ、もう!! こんなの書かれたら、ずっと残したくなるじゃないか!!」
隠す気の無い彼女から贈られた愛の言葉に全身の血液が沸騰するような感覚を覚えた俺は逃げるように、その場から走り去った。
その日、基地に所属するウィッチたちの間で俺の顔がやけにニヤついていたことが話題になった。
おしまい
最終更新:2013年02月04日 14:32