冷気に包まれた廊下を進むラルの口から白い吐息が零れ落ちた。
吐き出される息の白さが、寒さが厳しい季節へ移り変わったことを実感させる。
両の手を擦り合せながら手を温めているうちに目的の部屋の前へと辿り着き、息を飲み込んだ。
ラル「……はぁぁ」
心臓の部分に手を当て、大きく息を吐き出す。
手の平には力強く脈を打つ心臓の鼓動が伝わってきた。
ほんの数日前ならば足を運ぶことに大した抵抗感も感じなかったというのに。
こうして恋心を自覚したあとでは緊張し、胸の高鳴りを抑えることもできない。
ラル「ッ!!」
この扉の向こうに俺がいるのだと考えた途端にラルがそわそわと辺りを伺い始めた。
部隊内で自分が彼に恋慕の感情を抱いていることを知っている人間は今のところクルピンスキーだけである。
それでも、もしこのことを他の隊員たちが知ったら一体どんな顔をするだろうか。
統合戦闘航空団を束ねる隊長たる自分が一人の男に恋焦がれていることを知ったら彼女たちは、どんな目で自分を見るのだろう。
ラル「しょうがないだろ……好きに、なったんだから……」
どこか上擦った声を洩らし、身を捩る。
たとえ、どのような眼差しを注がれようとも今更この想いを捻じ曲げるつもりなど毛頭ない。どれだけ勇猛果敢な魔女と称されようと自分もまた一人の女なのである。
彼を愛し、彼に愛されたいというこの感情も願いも変えようがないのだ。
ラル「……よし」
このまま足踏みをしても何も始まらない。
彼を我が物にするためには猛攻をかけなければならないのだ。
意を決し、手の甲を扉に打ち付ける。
乾いた音が早朝の静まり返る廊下に木霊した。
ラル「……俺?」
返事が返って来ないところをみると、まだ眠っているのだろう。
起床時刻前なのだから当然かと思いつつ念のため、再度ノックをする。
やはり返事は返って来なかった。
それどころか、物音すら聞こえてこない。
恐る恐るドアノブに手をかけ、回す。
意外にも鍵は掛かっておらず、扉は易々と彼女を室内へと招き入れた。
ラル「……俺? 入るぞ?」
寝ている人間が返事などするわけがないだろうと思いながらも室内へと身を潜り込ませる。
目の前に広がる殺風景な部屋に自然と苦笑いを浮かべるラルが窓際に設置されているベッドへと近づき、布団に包まる部屋主の寝顔を覗き込んだ。
ラル「寝顔は……可愛いんだな」
本人が聞いたら顔をしかめそうな言葉を口にし、更に顔を近づける。
快活な笑みが良く似合う引き締まった容貌は安らかに緩み、意思の強さが伺える黒い双眸も瞼に覆われていた。
決して美青年と言えるほどの端正さは無いものの、彼の寝顔を前にラルは自然と心が安らいでいく感覚を覚えた。
ラル「(それでも私は、そんなおまえのことが……好きになったんだ)」
俺の瞼にかかる黒髪を、そっと手で払うラルが口許を綻ばせた。
見てくれで選んだわけではない。
頼もしくて。
優しくて。
平気で他人の心に入り込んでくるくせに不快感を抱かせない人柄に惹かれたのだ。
ラル「いつか……お前に伝えないとな。私の想いを……」
ふと、壁に立て掛けてある時計に目線を移す。
針はあと数分で起床時刻の時間を指すところであった。
起こそうとも思ったが、このまま愛しい男の寝顔を見つめていたい欲求の方が勝ったようである。
布団に伸ばしかけた手の行き先を近くの椅子へと変え、ベッドのすぐ真横に置くと、その上に腰掛けた。
ラル「……」
それまで俺の寝顔を見つめていたラルは何を思ったのか不意に彼の頬を指でつつき始めた。
余分な肉はないものの、白魚を思わせる彼女の指先はすぐに沈んでいった。
そのまま、ぷにぷにとした感触を指先で楽しむラルの口角が次第に吊り上がっていく。
俺「んっ……んぅ」
ラル「くくっ……ここはやわらかいなぁ」
突く度に俺の口からは苦しげな声が吐息と共に零れ落ちた。
空いた片方の手で口許を抑えるも、指の隙間からは弾んだ笑い声が漏れ出す。
まるで新しい玩具を与えられた子供のように無垢な笑みを湛えるラルは俺が顔をしかめる度に浮かべる笑みを濃くし、指の動きを徐々に激しいものへと変えていった。
統合戦闘航空団の隊長ではなく意中の男性に悪戯をする十八歳の少女の姿が、そこにはあった。
ラル「なぁ、俺。おまえは……どんな夢を見ているんだ? おまえの夢の中に私はいるのか?」
俺「んっ……ぅぅん」
ラル「……」
無防備な寝顔を前にラルが何かに気付いたように喉を鳴らして生唾を飲み込み、背後へと振り返る。
扉は閉められており、その向こうの廊下からは足音一つ聞こえてこない。
再び俺へと視線を戻す。
安らかな寝顔から目を覚ますのは、まだ先のはずだろう。
この部屋にいるのは自分と彼の二人だけであり、加えて起床時刻前だけあって今なら誰の邪魔も入ってこない。
直後、ごくり――と生々しい音がラルの白い喉から発せられた。
ただ寝顔を見つめているだけで、どうしてこんなにも胸の奥が熱くなってきてしまうのだろう。
どうにかして肉体の火照りを押さえようと身を捩るも、身体の心から生み出される熱は冷めるどころか上昇し、少女の全身を蝕んでいく。
ラル「おれ……わた、わたしは……」
切なげな喘ぎがラルの形の良い唇から洩れた。
欲しい。俺の何もかもが。
純粋な欲求に支配されたラルが突き動かされるように、ゆっくりと顔を近づけ始めた。
俺の寝息がかかり、自身の荒くなりつつある呼吸も彼へとかかる距離まで近づき、瞼をきつく閉じる。
ラル「んっ……お、れぇ……」
か細い儚げな声が熱の篭った吐息とともに零れ落ちる。
唇まであと数センチと迫ったところで、彼女の目論見は空しくも起床時刻を告げる管楽器の合奏によって遮られてしまった。
ラル「……ぅぁッ!?」
完全に意識を俺へと集中させていたせいか。
突如として基地全体に鳴り響いた楽器の大音量の音色に全身を強張らせた際に彼女の瑞々しい唇の狙いが反れ、俺の鼻の頭にぶつかった。
ちゅっ――という音が室内に響く。
唇ではなかったとしても、自分から彼にキスをしたという事実にラルの顔が一気に紅潮していった。
歓喜、羞恥、興奮。
様々な感情が入り乱れた彼女の青い瞳を潤んだ輝きが覆っていた。
心臓がそれまでとは比にならないほどの速さで脈を打ち、満足に呼吸をすることも儘ならない。
ラル「いつか……もう一度」
次は寝ているときではなく起きているときに、恋人として唇を重ねたい。
そんな思いを巡らせていると意識を取り戻したのか俺が頬を強張らせ、ゆっくりと瞼を開くのだった。
肌の上を這うような寒気に俺が目を覚ました。
横たわる身体と布団との間に生じる僅かな隙間から侵入する冷気に思わず身震いしてしまう。
すっかり寒さが厳しい季節になったなとしみじみ思いつつ手足を伸ばすと、ぱきぱきという音が奏でられた。
俺「ふぁぁぁぁぁぁぁっぁぁあああああああ」
自分でも随分と長い欠伸だと思いつつ、上体を起こした俺がベッドから降りようと腰を捻った途端、全身と思考を硬直させた。
ラル「お、おはよう……」
自分に向かって真っ直ぐに注がれる眼差し。
その澄んだ青の双眸に俺が息を呑み込む。
ベッドのすぐ真横に置かれた椅子に座り、ほんのりと頬を染めたラルが自分を見つめる状況に、停止した俺の思考が今度は錯乱状態に陥った。
何故、彼女が目の前に居るのだろうか。
一瞬、部屋を間違えたか――とも思ったが、彼女の後ろにあるテーブルの上には確かに自分の唯一の私物であるバッグがあった。
俺「って……何でここに!?」
そのバッグから今自分がいるこの空間が自室であると気付き、安堵の溜息を吐いたのも束の間、すぐに我を取り戻した俺が金切り声を上げる。
意識している女性が自分の寝床にいるという状況が俺の理性に揺さぶりをかけていた。
ラル「あ、いや……そのっ」
俺の問いかけにラルが言葉を詰まらせる。
心なしか顔色が赤いように見えるのだが、気のせいだろうか。
俺「顔が赤いけど……どうした? どこか具合でも悪いのか?」
ラル「いや! そんなことはないぞ!?」
椅子に座るラルが問いかけに対し、身を捩って視線を逸らした。
それにしても、やたらと鼻の頭がむず痒いのは何故だろう。
俺「そうか? なら良いんだけど……」
ラル「それよりも、俺。髪が跳ねてるぞ?」
俺「えっ? あ……本当だ」
ラルの指摘を受け、頭を触っていくと手の平に自己主張する髪の先端部が当たった。
梳かそうと俺がサイドテーブルの上に置いてあった安物のブラシに手を伸ばすと、白くしなやかな指が俺の手よりも先にブラシを奪い取った。
ラル「私が梳こう」
ブラシを奪った犯人はふふんと鼻を鳴らし、俺へと身を寄せてきた。
その際に漂ってくる甘い色香が俺の鼻の奥をくすぐった。
同じ人間なのに性別が違うとこうも違うものなのかと思いつつ、彼女が持つブラシに手を伸ばす。
二十歳をとっくに過ぎた男が六つも年下の少女に髪を梳いてもらうなど小っ恥ずかしくてたまらなかった。ましてや相手が意識している少女ならなお更である。
俺「返してくれ。それくらい自分で出来る」
ラル「だめだ。私がしてやるんだ」
顔をニヤつかせながらラルが俺の魔手からブラシを持つ手を遠ざけた。
何がそんなに楽しいのだろうかと疑問を抱きつつ、観念した俺が大人しく動きを止めた。
ラル「よしよし。素直になったな」
笑みを深くしたラルが頭に手を乗せ、丁寧に俺の髪の毛を撫で付け始めた。
その優しげな手つきに、俺は瞼が自然と閉じていくのを感じた。
何故だろう。
つい今しがた起きたというのに、再び眠気が込み上げてきた。
始めの内に感じていた羞恥心も消えうせ、今では温もりに満ちた安寧が全身を満たしている。
俺「(落ち着く、な……)」
ただ髪を梳かれているだけだというのに、ここまで心を落ち着かせていられるのは、きっと相手がラルだからなのだろうと薄れゆく意識の中で実感した。
俺「(やっぱり、俺は……ラルのこと)」
殆ど閉じかかっていた瞼を僅かに持ち上げた俺が、今度こそ意識を落とした。
すぐ目の前で自分の黒髪を整え、朝日に照らされた優しげな微笑を浮かべるラルに自分の全てを委ねるかのように。
彼女が傍にいるだけで絶大な安心感を覚えた俺は再び、小さな寝息を立て始めた。
ラル「よし。終わったぞ……俺?」
返事の代わりに返ってきた寝息にラルが眉を顰めた。
俯く俺の顔を覗くと再び瞼を閉じて眠りこける俺の寝顔に思わず吹き出してしまった。
ラル「まったく、人がせっかく梳いてやったのに。こいつめ……」
また寝癖がついたらどうするんだといいたげに俺の頬を指でつつく。
呆れた口調とは裏腹に彼女の表情はいつになく弾んだものへと変わっていた。
このまま一日中、眺めていたいところだが生憎と時間は限られている。
後ろ髪を引かれる思いを覚えつつも、俺の肩に手を乗せ、揺らした。
ラル「俺、起きろ。早く起きないとお前の分の朝食を管野に根こそぎ持っていかれるぞ?」
俺「う?」
寝ぼけた返事にラルは必死の思いで笑いを堪えた。
自分よりも年上のくせに時折、こんな声や顔を見せて自分を楽しませてくれるのだ。
やはり、この男と一緒だと飽きないなと感じつつブラシをサイドテーブルの上に戻す。
ラル「……髪はもう梳き終わったぞ。ほら、早く起きる」
俺「あぁ……寝ちまったのか。悪い、着替えるから先に行ってくれ」
ベッドから立ち上がった俺が備え付けのクローゼットに収納されているシャツとジャケットを取り出すのを尻目にドアノブに這わせた手を止め、
ラル「早くしないと本当に食い尽くされるぞ?」
俺「そりゃ困る。すぐ行くよ」
悪戯めいた笑みを浮かべて見せると、シャツのボタンを留める俺が苦笑いを浮かべて返した。
ラル「……はぅ」
廊下に出ると一気に全身から力が抜けていくのを感じ、壁に背を預けてそのまま座り込んでしまった。
自分でも気付かぬ内に緊張していたらしく頬に手を添えると冷え込む廊下の空気とは正反対にまだ火照っている。
鼻の頭にキスをし、彼の髪を梳いた。
今までの自分からは想像もできないほどの進歩である。
ラル「これからも……俺と一緒に」
空を飛び、共に生きたい――そう思った矢先、ラルの全身が唐突に強張った。
魔力減衰を迎えた俺はシールドを失っている。
ネウロイの攻撃から身を守る術を持たぬ彼が敵の攻撃を受ければ、それはそのまま致命傷となり最悪の場合、命を落とすことにもなる。
消えてしまうのか。
あの笑顔も、あの温もりも、あの声も。
全て喪ってしまうのか。
ラル「い、やだ……」
喪いたくない。
初めて心の底から愛情を注ぐことができた、あの男を死なせたくない。
だが自分たちは攻勢部隊である。今後の作戦は更に熾烈なものへと変化していくだろう。
そのような状況の中で彼を戦場に出せば、自分たちより先に撃墜されてしまう。
どうすれば良いかとしばしの間黙考する。
そして、何かに気付いたかのように立ち上がった。
ラル「そうか……」
簡単なことではないか。
喪いたくないのならば、安全な場所に置いておけばいい。
ざわめく胸騒ぎを無理やり押さえ込み、食堂へと向かい始めた。
つづく
最終更新:2013年02月04日 14:33