火燵の中へと潜り込ませた下半身がじわじわと温まっていく感覚を覚えながら、俺は両の手で包み込む湯のみを口元へと運んだ。
淹れてから少しの間放置しておいたためか、飲み易い温度まで下っている緑茶を胃の中に流し込むと身体が芯から熱を発しているのが分かる。
やはり扶桑の冬といえば火燵だろう。
湯飲みを戻し、手にした蜜柑の皮を剥きながら胸中で零していると不意に窓の外へと視線を投げる。
昨晩から早朝にかけて降り続いていた雪は止み、雲の切れ間から差し込む陽光が大地に広がる白い絨毯を照らしていた。
柔らかな日の光を浴び、どこか優しげな光を帯びる雪景色の美しさに頬を綻ばせつつ、蜜柑を口の中に放り投げるなり程よい甘酸っぱさが豊富な水分と共に舌を覆った。
俺「んっあぁ……」
背を伸ばすと身体から力が抜けていった。
畳の上に敷いた絨毯へと身体を横たわらせて火燵布団を首元までかけ、無造作に放置されていた座布団を枕よろしくとばかりに折りたたむ。
やや固いが、そこは妥協するとしよう。
今は一時の休暇を満喫するべきだと枕の固さに文句を言う自分に言い聞かせる。
俺「そういえば……今日は節分か……」
ふと、壁に立て掛けてある日捲りのカレンダーが視界に入る。
今日の日付は二月三日――節分である。
古くから扶桑では季節の変わり目には鬼が現れると信じられており、節分とはその邪悪な鬼を追い払う日だそうな。
役を払うために豆を撒き、幸福を呼び込むために太巻きを食べるなどと腹の虫を満足させる行事が多い日。
それが節分に対する俺の見解であった。
俺「今年は豆撒きとかや――」
言葉は最後まで語られることはなかった。
自分で言っておきながら、後に続く疑問が解消されたからである。
今年の豆まきはやるのか。それとも否か。
答えは九割の確率で前者だろう。
となれば、装備の用意を進めておく必要がある。
後ろ髪を引かれる思いを味わいつつ、火燵から抜け出した俺は温もりから切り離されたことで寒さに身を震わせながら談話室を後にし、食堂へと向かう。
おそらく、智子たちもそこにいるはずだ。
俺「あぁ……でも。今年も鬼役は俺だよなぁ……きっと」
この時期になると豆をぶつけられる鬼役が無条件で押し付けられてしまうのだ。
もっとも彼女らに豆をぶつける位ならまだマシなほうかと納得させるも、やはり悲しみだけは消えそうにない。
せめて一言ぐらい言って貰えれば引き受けるのだが、何も言わずに追い掛け回されると肝が押し潰されそうになるのだ。
特に廊下で鉢合わせした際にいきなり豆を叩きつけられた時は新手の嫌がらせか何かだと勘違いしたほどである。
俺「おーい。みんないるか?」
食堂へと続く扉を開けると案の定、そこには智子を始めとする陸軍飛行第一戦隊に所属する魔女たちが勢ぞろいしていた。
手に豆が詰め込まれた正方形状の箱が握っていることから、やはり今年も行うのだろう。
智子「俺……今日は何の日か分かるわよね?」
悪戯めいた笑みを浮かべる智子がほっそりとした指で豆を一粒つまんで見せた。
ふふんと鼻を鳴らしながらにじり寄ってくる彼女の後ろには申し訳なさそうな表情を浮かべる武子たち三人の姿がある。
謝るくらいなら手加減してくれという言葉を飲み込むなり、俺が食堂を飛び出した。
武子「智子? 本当にやるの?」
脱兎の如く逃げ出した俺を追跡せんと扉に向かおうとする智子の腕を掴んだ武子が尋ねる。
今までなし崩し的に参加してきたものの、やはり俺に鬼役を押し付けることへの後ろめたさがあるようだ。
瞳に宿る弱々しい光がそのことを証明していた。
幸い俺自身も不服はあるものの、それで怒るようなことはしないため良好な関係を築けているが、武子としてはあまり気乗りがしなかった。
智子「だって豆撒きよ? 撒かないと福が来ないじゃない!!」
圭子「あのねぇ……あんまり度が過ぎると俺から嫌われちゃうわよ?」
一年に一度のイベントに瞳を子供のように輝かせる智子の頭に手を乗せる圭子がやんわりと釘をさした。
幼い時から俺と共に育ってきた智子にとって彼に対する感情は単なる兄への信頼ではなく、一人の男性に向けられる特別なものである。
それ故に俺から嫌われるかもしれないという圭子の言葉は智子を黙らせるには充分な威力を秘めていた。
智子「……うぅ」
黒江「大丈夫だろ。これぐらいで怒る俺じゃないのは武子も圭子もわかっているはずだ」
武子「でも……」
黒江「たしかに俺から嫌われるというのは怖いが……それでもだ。こんなことで機嫌を損ねるほど、あいつの器は小さくない」
圭子「そうだけど……」
黒江「えぇい! こんな辛気臭い空気はやめだ! あいつも鬼役を承知でここを飛び出していったんだ! なら私たちは追う側としてあいつの気持ちに応える義務がある!」
それでも食い下がる二人に業を煮やした黒江が乱暴に髪を掻き毟り、声を張り上げた。
有無を言わさぬ口調に初めは息を呑み込んでいた二人であったが、彼女の言葉に納得したのか徐に薄い笑みを口元に作る。
武子「わかったわ。でも」
圭子「あんまり痛くさせちゃ駄目よ?」
悪戯っぽく微笑むと先陣を切って部屋を出て行った。
俺「チッ! もう追いついてきやがった」
基地内の廊下を疾走する俺が背後から徐々に近づいてくる四人分の足音を耳にし、顔をしかめた。
部屋を出てから誰も追いかけてこないことに疑問を抱き、廊下を出た最初の曲がり角のところで待機していたのが徒となったようだ。
こんなことになるなら遠くへ逃げるなり、どこかに身を隠すなりするべきだったと考えていると後ろから飛んできた豆粒が後頭部に直撃した。
痺れるような痛みに俺の表情が歪む。
智子「おにはー!」
武子「そとー!」
圭子「ふくはー!」
黒江「うちー!」
俺「いってぇ! お前らぁ! せめて手加減くらいしろよぉ!!!」
智子「鬼は外ぉ!! 福は内ぃ!!」
懇願を切り捨てた智子が無邪気な笑顔と共に豆をぶつけ、彼女に倣い残りの三人も同様に豆を投げつけてきた。
俺「ちくしょう……ちくしょう!」
悪態を吐いたところで豆鉄砲は相も変わらず止む気配を見せない。
清掃員たちに余計な仕事を与えないよう一定のルートを何度も回り続けているわけなのだが、一体いつまでこの不毛なやり取りを続けなければならないのだろう。
鬼役を引き受けたのは確かに自分だが、もうそろそろ終わりにしてもいいではないか。
途方に暮れつつも階段を二段飛ばしで駆け上がった時である。
敏子「あら?」
踊り場から部隊長の敏子が現れた。
必死の形相で階段を駆け上がる自分の姿に目を丸くする。
丁度良い。彼女の言葉なら智子たちも豆撒きを止めるはずだ。
俺「敏ねぇ! たす――」
敏子「おにさんめっけ!」
俺「ぶべら!!」
形の良い唇を吊り上げて、茶目っ気たっぷりの笑顔を顔中に浮かべる敏子が至近距離から豆を叩きつけてきた。
顔面にぶちまけられる弾丸の数々に奇怪な悲鳴が踊り場に響く。
手加減という概念を排除した冷酷な一撃に少年の動きが止まった。
文字通り鳩が豆鉄砲を食らったかのように停止する獲物に追いついてきた智子たちが一斉に豆を握り締める手を振り上げる。
四人「鬼は外ぉ! 福は内ぃ!!」
その日。
四人の魔女の弾んだ声が基地内に木霊した。
俺「……ほぅ」
屋根の上に乗り、積もった雪をスコップで地面に落とす作業を続けていた俺が不意に手を止めて、額に浮かぶ汗を拭った。
頭上を見上げれば所々に雲が漂っているものの全体的に青い空が広がり、降り注ぐ柔らかな陽光が冷え切った空気を僅かだが温めてくれた。
しばしの間流れていく雲を見送り、再び雪下ろしを開始する。
止んでいる今の内に作業を終えなければ、今自分が立っている小屋が雪で潰れてしまう。
敏子曰くこの中にはストライカーの整備に使用される工具の予備が保管されているらしい。
予備とはいえ自分たちの機体を調整するためには必要不可欠なものであり、決して手を抜くことは許されない。
俺「……っしょ……っしょ」
身を屈めて腕を動かす俺の口から白い息が吐き出される。
敏子の一撃により逃走劇はあっけなく幕を閉じたが、
――基地内を走り回る体力が有り余っているならば倉庫の雪下ろしでもしなさい――
と言われてしまい、こうして休暇を返上して雪下ろしに従事しているのだが……
智子「なによぉ……こんなの!! ふんふん!!」
同じく屋根の上でスコップを振り回す智子が乱暴に積もった雪を落としていく。
彼女もまた有り余る体力を有効活用せよと言われ、雪下ろしの役を押し付けられていた。
ちなみに武子たち三人は敏子の仕事を手伝うために彼女について行き、今この場には自分と智子の二人しかいない。
俺「……」
残った雪にスコップの先端を突き刺した俺がゆっくりとその場に腰を降ろした。
心なしかその表情はどこか赤らんでいるようにも見える。
思えば智子と二人きりで過ごすのはいつかの旅行とクリスマス以来だろうか。
もっとも後者はほんの一時であったが。
俺「智子。少し休憩するぞ」
最近の智子は少女から女性に向けての成長段階に入ったらしく、少しずつではあるが身体の起伏が目立ちつつあった。
たとえば胸。
同年代の女子と比べると大きいほうに部類する胸ではあるが、ただ大きいのではなく形とのバランスも取られている。
次に彼女最大のチャームポイントでもあるヒップ。
ズボンに覆われた白桃を連想させるほどの優美さを誇る桃尻は思わず撫でたくなるといった衝動を見る者全てに与えるほどのものである。
妹と思っていた少女が着々と色気を纏う女性へと成長していく様に俺は戸惑うことしか出来なかった。
智子「わかったわ……って、ひゃぅん!?」
慣れない雪下ろしに悪戦苦闘を続けていた智子がスコップを手に持って近づき、足場を確認して屋根の斜面へと腰を降ろした途端に甲高い悲鳴を上げて立ち上がった。
両手で形の良いヒップを押さえ、顔を赤らめる姿は唇から迸った嬌声以上に艶かしい。
何事かと思ったが疑問は彼女が腰掛けた場所に視線を移したことで解消された。
自分たちが来るまで屋根には雪が積もり、それに加えて外気により冷やされていたのだ。
そんな場所に腰を降ろせば、急激な温度の落差に驚きもするだろう。
俺「おい。大丈夫か?」
智子「……っく。平気、よ……」
小刻みに震える智子。
俺の前でみっともない悲鳴を上げてしまったことへの羞恥心が頬を紅潮させていく。
俺「っぅ……あ……これは、応える、な」
そんなに冷たいのだろうか。
思わず座ってしまい俺は後悔した。
冷たいどころじゃない。冷えすぎて尻が痛くなってくる。
立ち上がりたい衝動を堪えた俺がまだ顔を赤らめる智子に手招きをした。
俺「ほら、智子。ここ空いてるぞ?」
そう言うなり自分の膝の上を指差した。
冷たくて座ることが出来ないなら、自分が椅子代わりになればいい。
座り心地は保障できないが少なくとも立ち続けるよりはましだろう。
それに智子が上に座れば寒さも和らぐはずである。
智子「え、あ……いい、の?」
俺「立ちっぱなしは疲れるだろ? ほら」
智子「そ、それじゃあ……遠慮なく」
若干の躊躇いを抱きつつも智子が膝の上に腰掛けた。
サイズ、形、柔らかさが絶妙なバランスを保っており、尻だけなら部隊一を誇る智子のそれから伝わってくる人肌の温もりに改めて俺は反射的に生唾を飲みこんだ。
初めの内は緊張していた智子であったが徐々に肩の荷を降ろしていき遂には上体を預けるまでにくつろぎ始めた。
胸板を通して伝播する智子の温かさと柔らかさ。
黒髪から漂うシャンプーの甘い香りが鼻の中に入ってきた瞬間に俺は本能に付き従って、彼女の黒い長髪の匂いを嗅ぐことにした。
俺「くんかくんか」
智子「ちょっ!? 俺ぇ!?」
俺「どうした?」
智子「どうしたじゃないわよぉ! 何してるのよ!!」
荒くなった鼻息を耳にした智子が自分の目論見を察し抗おうと、もぞもぞと身体を動かし始める。
彼女が僅かに動く度に揺れる黒髪からは甘い香りが発散し、柔らかな尻肉が押し付けられてくる。
俺「あんまり動くな。落っこちるぞ?」
智子「俺が私の髪の匂いを……そのっ……か、嗅ぐからでしょう!!」
俺「嗅いじゃ駄目なのか? こんなに良い匂いなのに」
智子「……っ!?」
上質な絹糸のような手触りを誇る長髪を手の平で梳くって玩ぶ俺の言葉に智子が視線を落とした。
世辞でないことは口調から察することが出来る。
それ故に智子の胸の中では歓喜と羞恥が渦を巻いたのだ。
前者は想いを寄せる男から純粋な褒め言葉を貰ったことで。後者はその彼に髪の毛の匂いを嗅がれ、弄くられることで。
智子「うっぅぅぅうう」
俺「悪かったよ。少し女の子相手に無神経すぎたな」
乾いた笑い声を上げながら頭を撫でる俺の手の平。
温かくてゴツゴツとした感触に自然と智子の瞼が閉じていく。
これくらいのことで喜んでいるのだから、まだまだ自分が子供であることを自覚した。
智子「ねぇ、俺は寒くないの?」
俺「智子が座ってくれるからな。まぁ……それでも寒いな。うん、寒い」
朝から火燵の中で過ごしていた俺が、この寒さに耐えられるわけなど無かった。
俺「そんなわけで智子」
智子「なに?」
俺「抱かせてくれないか?」
智子「……えっ。はぁ!?」
突如として投下された爆弾発言。
包み隠すということをしないストレートの投球に智子は裏返った声を上げてしまった。
確かに年頃の男女が一つ屋根の下で寝食を共にしているとはいえ、まだ早いのではないか。
自分も彼も未青年であるし、ちゃんとした恋人ですらない。
それにここは屋外である。
せめて
初めてはベッドか布団の中でするべきではないか。
それとも俺は外でするほうが好きなのか。
頭の中で様々な言葉が湧き出たかと思えばぐるぐると回って、溶け合っていく。
俺「すまん、間違えた。抱きしめさせてくれ……正直もう寒くて耐えられんのだ」
智子「あ……そう、よね。ははは……はぁ」
俺「……それで、いいのか?」
智子「……うん」
消沈する智子であるが、それでも彼から求めてきたという事実には変わりない。
喜びを抑えながら小さく頷くと、ゆっくりと回される腕の感触に身を任せ、瞼を閉じる。
抱きしめられるだけで、どうしてここまで安らげるのか。
きっと相手が俺だからだと納得する。
例え吹雪や豪雨の中、それこそ戦場であっても彼に抱きしめられるのであれば、きっと自分は安心してしまうだろう。
俺「あぁ……温い温い」
頭に顎を乗せた俺のうっとりとした声が降って来る。
徐に彼の頬へと手を伸ばしてみれば、まるで氷にでも触れているかのような冷たさが手の平に伝わってきた。
智子「そんなに……良いの?」
俺「抱き枕として毎晩来て欲しいくらいだ」
智子「抱き枕って……」
あまりの物言いに形の良い柳眉がぴくりと吊り上る。
もう少し別の例えはなかったのだろうか。
いくらなんでも抱き枕はあんまりではないか。
智子「……ばか」
それでも他の三人に比べると大きなアドバンテージである。
突拍子の無い彼の言動も行動も自分が相手だからこそのものなのだと言い聞かせることで込み上げてきた憤りを抑え込んだ。
俺「……」
智子「俺? どうしたの?」
俺「あぁ、いや。なんでもない。それより、そろそろ始めるか」
智子「そうね。あんまり遅くなると隊長にどやされるし……ってひゃあぁあ!?」
返しながら立ち上がった時である。
足を滑らせた智子が悲鳴を上げて斜面を滑り落ち始めた。
智子「やだ! やだやだ! 止まらない! 止まって! 止まってよぉ!!!」
悲痛な叫び声とは裏腹に速度は確実に上昇していく。
このままでは屋根の上から放り投げられ、地面に身体を叩きつける結果となってしまう。
軽い怪我で済めばいいが、二度と空に飛べなくなるほどの怪我を負う可能性もある。
打ち所によっては命を落とすこともあり得るのだ。
智子「ひっ……や、やだ。こんなところで……」
俺「智子っ!!!」
屋根の上から放り出された智子に飛びついて抱きとめた俺が、雪の上に落ちる寸前に自分の身体の位置を彼女の下敷きとなるように入れ替えた。
そのすぐあとで硬い物体が頭に激突する。
激痛に苛まれながら胸の中で震える智子に怪我がないことに安堵し、俺は意識を手放した。
智子「……あれ?」
雪の冷たさがいつまで経っても伝わってこない。
そればかりか、温もりに満ちた逞しい体躯の感触が頬に触れる。
そのとき智子は彼が足を滑らせて屋根の上から転げ落ちた自分を庇ってクッションとなってくれたことに気がついた。
智子「あ、ありがとう……って、俺?」
返事がないことに眉を顰めた智子が身体を起こし、自分の下敷きとなっている俺の顔を覗きこむ。
瞼は力無く閉ざされ、身体を揺さぶってみれば彼の身体から力が抜け落ちていることがわかった。
次の瞬間、智子は全身を冷たいもので覆われていく感覚を覚えた。
恐る恐る彼の後頭部に伸ばした手の平に生暖かい液体が付着する。
直後、喉から短い悲鳴が迸る。
嫌だ。
見たくない。認めたくない。
だが、このまま放置するわけにもいかない。
胸騒ぎが膨れ上がり、片方の手の平は脂汗にまみれ、恐怖のあまり歯と歯がぶつかり合って音を出し始める。
ゆっくりと手の平を目の前に持ち上げ、智子は張り詰めていた緊張の糸がぷつんと切れる音を耳にした。
智子「あ、あ、あ」
上手く声が出せない。
手が、身体が震える。
寒さによるものではない。
恐怖と焦燥が智子の身を雁字搦めにしていたのだ。
辺り一面に降り積もった雪のように白い肌にこびりついた真紅の液体。
それが放つ鉄錆にも似た生臭さを吸い込んだ瞬間、智子を拘束する二本の鎖が千切れ飛んだ。
智子「いや……いや……やぁ、いやぁぁぁぁぁあああああああっっっっっ!!!!」
甲高い悲鳴が智子の喉を割って出た。
次いで黒真珠を思わせる瞳からは大粒の涙が零れ落ちる。
如何なる逆境も見事乗り越えてきた智子であったが家族の、それも自らが恋い慕う男の窮地を前に航空魔女としての冷静さを失いつつあった。
その流れる涙の量、容貌の青ざめ具合から彼女が如何に俺という存在を精神的な支えとしていることが垣間見える。
敏子「智子ぉ!!」
武子「何があったの!?」
悲鳴を聞きつけ、敏子を戦闘に武子たちが雪を踏みしめながら駆け寄ってきた。
更にその後ろからは休憩中の整備兵や基地職員らが慌てた様子で続いてくる。
誰よりも速く二人の傍に辿りついた敏子は仰向けの体勢で雪の上に倒れる俺と寄り添う智子の手の平に付着した血液から事の成り行きを察し、彼を抱き起こした。
敏子「……チッ! 担架を! 早く!!」
叱咤にも似た指示に状況を察した職員たちが急いで踵を返していくのを尻目に、敏子の端正な顔つきが舌打ちとともに苦々しく歪む。
不幸なことに彼が頭を打った場所は凍った部分であった。
脈と呼吸を確認すると両者とも僅かにだが残っており、急げば間に合うかもしれない。
敏子「俺! 聞こえる!?」
俺「ぅ……あ」
微かに返ってきた呻き声に胸を撫で下ろしたのも束の間、俺が担架に乗せられ運ばれていく。
医務室で待機する医師へ怪我の状態を伝え終えた敏子が溜め込んでいた緊迫感を息に変えて大きく吐き出した。
不意に視線を落とせば、項垂れたままの智子が武子に背中を摩られていた。
何があったか大体は察することが出来たが、一歩間違えれば命を失いかねない事態であったのだ。
だらこそ、やはり当事者の口から聞いておかなければならない。
それが智子の胸の内に生じた傷を深くすることになっても、だ。
敏子「智子は落ち着いたら執務室に来るように。解散」
圭子「待ってください!! 俺は……彼は無事なんですか!?」
基地へと身を翻すなり血相を変えた圭子が詰め寄ってくる。
同じような面持ちの黒江も弱々しく軍服を掴んできた。
普段の二人からは想像もつかないほどの消沈ぶりだが、それだけ俺の存在が二人にとって強いという証明でもあった。
敏子「大丈夫よ。あとは専門家に任せるとして……早いところ仕上げないと、あいつが目を覚ましたとき腹を空かせるわよ」
怯えたような光を瞳に湛える二人の頭を乱暴に撫で回す敏子が口元を緩めた。
まったく。
我が弟分ながら罪な男である。
いつの間に他人を惹きつける術を覚えたのだろうか。
それとも男っ気が少ないからなのか。
どちらにせよ、もう後には引けないところまで来てしまっているのだ。
愚弟が誰を選ぶのか、姉として見届ける義務がある。決して弟離れが出来ないわけではないことはあらかじめ言っておこう。
敏子「智子も。泣いてないで立ちなさい」
智子「……はい」
両の瞼を擦りながら立ち上がる。
自分の所為で俺に怪我を負わせたことへの罪悪感に、今にも押し潰されそうな姿に敏子が徐に頬をかいた。
別段、彼女だけを責めている訳ではない。
自分が二人に雪かきを押し付けたことが、そもそもの発端なのだ。
敏子「少しでも負い目を感じるなら手伝いなさい」
智子「……手伝い? 何をです?」
敏子「来れば分かるわ。お前たちも目当ての男を物にしたいなら、まずはそいつの胃袋を掴まないと話にならないわよ!」
たきつけるかのような敏子の言葉に四人の少女が一斉に頬を赤らめた。
彼女らの反応を見るに、どうやら図星のようである。
戦場ではどのウィッチたちにも遅れを取らない彼女たちだが、こうした何も無い日には年相応の可愛らしい少女に戻るのだから何と愛らしいことか。
敏子「ほら! 早くしないと間に合わなくなるわ!」
手を打ち鳴らす。
それでは一つ、姉らしく怪我をした愚弟に良い夢でも見させてやるとしよう。
夢を見ていた。しかも、とびきりの悪夢だ。
美女が出てキャッキャウフフとかそういう思春期の少年が見る要素など一切無い。
むしろこんな夢を見るのは全世界を探しても自分だけなのではないだろうかと思えてしまう。
その内容とは真っ白い空間の中で巨大な鷹が鋭い嘴を向けて追いかけてくるというものなのだが。
どういうわけだか、自分の尻目掛けて飛んでくるのである。
――あぁ~、あぁ~、どうだ、少年! これが私の……幕引きの一撃!!――
荒い息遣いと共に男とも女ともつかない声が直接頭の中に響いてくる。
おそらく。
何の根拠もないのだが、それが自分を追いかける怪鳥が放った声なのだと確信した。
そして、その鷹の鋭利な嘴が尻の谷間に潜り込む寸前、
俺「あぁ~、あぁ~……すごく、一撃必殺です……アッー!!」
奇声を上げ、弾かれるようにベッドから跳ね起きる。
真っ先に鼻の中へと入る薬品臭。
見下ろせば軍服ではなく白の滅菌衣が着せられていた。
そして、自分を包み込む染み一つ無い清潔な純白のシーツ。
俺「医務室……? あぁ」
思い出した。
確か屋根の上から足を滑らせて転落した智子の下敷きとなり、頭をぶつけて意識を失ったのだ。
打ち付けた後頭部に手を回すとガーゼのようなものが貼られているのが分かる。
どうやら、怪我はこの程度の処置で済むほどのものだったらしい。
智子「俺!!!」
目覚めと共に放った叫び声が原因なのだろう。
血相を変えた智子が医務室の扉を蹴破ってベッドに駆け寄って来るや否や、俺が何かを言う前に胸元に飛びついてきた。
突然の抱擁に目を丸くする俺であったが、顔を埋めてくる智子の小柄な身体が小刻みに震えていること。
そして、彼女の顔と自身の身体との間から洩れてくる嗚咽から俺は彼女に心配をかけさせたことを悟った。
俺「……ごめんな」
両の腕を彼女の背中に回し、包み込むように抱きしめる。
彼女だけではない。
医務室に運んでくれた基地の職員たちや自分の手当てをしてくれた医師。
多くの人たちに迷惑をかけてしまった。
智子「……ん、さい」
俺「うん?」
智子「ごめんな、さい……ごめん……ごめんなさい……うぁぁぁああああ」
俺「あぁ、もう。いい加減泣き止んでくれよ……」
泣きじゃくる智子をあやすように頭を撫でていると再び医務室の扉が開いた。
盆のようなものを両手で抱え持つ敏子が智子を抱きしめる自分を見つけるなり、唇を吊り上げて近づいてくる。
敏子「よかったわね。髪の毛剃らなくて」
俺「第一声がそれかい」
髪の毛を摘んで引っ張る敏子の手を払いのけ、ぶっきらぼうな口調で返す。
少しでも心配してくれるのではと思った自分が間抜けだったようだ。
敏子「まぁまぁ。あんたがお腹空かせてると思って作ってきたのよ?」
近くの椅子に腰を降ろし、サイドテーブルに置いた盆を指差す。
俺「……それは?」
敏子「恵方巻き。あの子たちと……あれから智子も頑張って作ったんだから」
俺「あの子たち?」
敏子「……ん」
顎で医務室の入り口を示され、視線をそちらに移す。
そこには同じように盆を抱え持った武子、黒江、圭子の三人が気遣うような表情で自分を見つめていた。
安心させるために笑顔を作ってみせると安堵の吐息を吐いて、こちらへと小走りでやって来る。
黒江「心臓が止まるかと思ったぞ」
俺「心配かけたな」
武子「傷は大丈夫なの?」
俺「見ての通りで」
圭子「あぁ……良かった……」
俺「心配してくれてありがとう」
智子「本当に……ごめんなさい」
俺「もういいよ。それより、智子は怪我ないか?」
小さく頷く智子の頭をまた撫で回すと、腹の虫が豪快に泣き声を上げた。
意識を失ってどれだけ眠っていたかは知らないが、とりあえず今は腹に何か入れたくなった。
俺「その、恵方巻き? 貰ってもいいのか?」
敏子「もちろん。みんなあんたの為に作ったんだから、残さず食べなさいよ」
俺「俺のためって……そうなのか?」
初めに腕の中の智子に。
次にベッドの周りを囲む圭子たちに視線を注ぐと三人とも頬を赤らめて、こくんと頷いた。
同じようにこくこくと首を縦に振る智子の頭に乗せた手をサイドテーブルの盆に盛られた恵方巻きへと伸ばす。
すると、遮るように一本の太巻きが手渡された。
俺「ん?」
敏子「一番初めにこの子が作ったのを食べてあげなさい」
智子「あの。よかったら、食べて?」
滅菌衣の胸の辺りを両手で掴む智子がか細い声で洩らした。
自分を見上げる黒い大きめの瞳に気付かぬ内に見惚れていたことに気がつき、俺は瞼を擦る。
俺「……よしっ。じゃあ智子のから食べさせてもらおうか」
そう答えるなり大口を上げて、かぶりつく。
程よく冷やされた酢飯と具の比率が良く、特に甘く煮込まれた椎茸の食感が舌の上に広がっていった。
眠っている間に失われた栄養を取り戻そうと身体の奥底から食欲が湧き上がってくる感覚を覚えつつ、あっという間に丸々一本平らげてしまった。
智子「どう……?」
俺「うん。美味い!!」
智子「よかったぁ……」
俺「ありがとな、智子。本当に美味いぞ」
敏子「ほら。智子だけじゃなくて、今度は武子たちのも食べてあげないと」
俺「良いのか? みんなは食べないのか?」
武子「わ、私たちの分もちゃんと作ってあるから」
黒江「とりあえず、今はお前に食べてもらわないと話にならないな」
俺「……そうなのか?」
圭子「え、えぇ……」
そういうことなら遠慮せずに頂くとしよう。
両手に彼女らが作ってくれた恵方巻きを手に取り、交互にかぶりつく。
うん、やはり美味い。
これならどこへ嫁に出しても問題はないのではないか。
俺「うん。どれもこれも美味いな……ってみんなも食べてくれよ。そんなに見つめられたら食べにくいんだが……」
圭子「そ、そうね。私たちもいただこうかしら」
武子「美味しいって……言って貰えたし」
黒江「あぁ。では、いただきます」
手を合わせ智子たちが手にした恵方巻きを食べ始める。
太巻きだけあってか、彼女らは出来る限り口を大きく開いて食べるのだが……
智子「ふぁぁ」
武子「ひゃめ」
圭子「おっ……おっきぃ」
黒江「ふぁぐ……こんな……入ら、ない」
両手で握る太巻きを苦しげに頬張っていく様はどこかエロティックに見えてしまうのは何故だろう。
彼女たちの食べ方に問題があるのか。
はたまた自分が思春期の少年だから、官能的に映ってしまうのか。
目覚め始めた愚息は幸いなことにシーツによって隠されているからいいものの、胸の中に生まれた動揺を悟られないよう顔を逸らすと視線が敏子のそれとぶつかった。
敏子「……」
俺「な、なんだよ……」
敏子「……べっつにぃ。よかったわねぇ?」
意地悪く唇を吊り上げる敏子の瞳に宿る嗜虐めいた光を捉え、俺はすぐに彼女を視界から追い出した。
彼女の眼差しが自分の股座に注がれていることに気付き、妙な居心地の悪さを感じながら俺は気を紛らわせるかのように太巻きにかじりついた。
おしまい
※一部分が抜けていたので追記・修正しました(2012,5,14)
最終更新:2013年02月04日 14:43