覚えのある声が聞こえる。懐かしく、耳に快い声だ。
これは……。そうか、あの小娘らの声だな。どれ、また腹に飛び乗られんうちに起きるとしようか。
いや、このまま狸寝入りを決め込んでやるのも面白いな。たまには驚かす側に回るのも悪くはなかろう。
「おい早くやれよ醇子。オッサン起きちゃうだろ」
少し荒い言葉使い、これは若の声か。また良からぬ企みでもしておるのだろうな。
「やっぱり駄目だよ……。だって肝油より不味いんでしょ?」
若よりも高いこの声は竹井だろう。どうやら、若が竹井に悪さを仕込んでいるようだ。
昨日も勝手に機関室に忍び込んでいたようだし、その前には夜更けに食堂から乾肉をくすねていたと北郷から聞かされた。まったく、恐れを知らん奴だ。
若本「そう言ったのは美緒だろ?もしかしたらオッサンの口には合うかもしれないじゃないか」
寝ているとはいえ、仮にも中将のワシをオッサン呼ばわりとはな。もはや痛快さすら感じる。
竹井「でも、美緒ちゃんは目を回し倒れちゃったじゃない……」
むむ、そんなに不味い物をワシの口に放り込もうとしておるのか?よし、今こそ目を開け二人を驚愕させてくれるわ!
男「くおらああ、何をやっておるかあああ!!」
若本「げっ!」
竹井「きゃあああああ!!」
はっはっは、どうだこの慌てよう。少しは日頃の借りが返せたか。
竹井「あっ」
男「……ん?」
何か口に違和感が……、と思った時には遅かった。
口内に広がるえもいわれぬ独特の風味がワシの意識を彼方へ飛ばした。
男「ぐうっ」
なんという強烈な味だ……。若達の声が小さくなってゆく。
若本「おおー、白目むいてら」
竹井「た、大変!お水お水ー!」
若本「なんだよ醇子、やればできるじゃん」
竹井「あわわ、男さんごめんなさーい!」
若本「って、お前全部口に入れちゃったのか!?やばい、泡ふいてる!」
竹井「――、――!!」
若本「――!―――!?」
声が遠ざかる。ワシの心を癒す鈴の音のような声が。
ああ、もう暫くその音を聴かせてくれ。一度は枯れたワシの心を潤すその音を……。
徐々に覚醒する意識。体中から伝わる針で刺すような痛みがそれを加速させる。
そうか、今のは夢か。そういえば、若には何も言わずに来てしまったな。
事の顛末を坂本や竹井から話されたら酷く怒られそうだ。
何かの気配を感じた。視線の端に赤い髪が揺れた。
男「ほう、斯様な美人に会えるとは。死後の世界も悪くはない」
ミーナ「中将。いつお目覚めに?」
男「今しがただ。どうやら、ワシは約束を守れたらしいな」
ミーナ「ええ、けど本当に危ないところでしたよ?」
ミーナは、ちらっと男の顔の隣を見る。
男の両端に体を寄せ、気持ち良さそうに眠る二人の女性。
男「やれやれ、怪我人の寝床に潜り込むやつがあるか」
坂本「すう……すう……」
竹井「……んむ……すう」
ミーナ「二人が、貴方に血を分けたんです。宮藤さんの魔法を使って……」
ミーナが坂本の前髪を撫でる。その様子を、男は目を細めながら眺める。
男「ワシらの血液型は異なった筈だが……。いやはや、治癒魔法には驚かされる」
ミーナ「二人の輸血が無かったら、本当に危険だったと医師が言っていました。魔力の通った血液が治癒魔法の力を増進させたとか……」
男「……そうか、ワシはこの子らに救われたのか。助けようと思った者に救われる、これは幾度目なのだろうな」
男は目を閉じる。
瞼に浮かぶのは今はいない戦友の顔。翼を得る遥か昔、まだ自身が刀を手に焼けた地を駆けずりまわっていた頃。
がむしゃらに、目の前の敵を切ることだけを考えていた頃。
ある時出会い、妙に意気が合い、共に死線を越えてきた仲間。
その友はその身を囮にして散っていった。
敵の列に向けて駆けていく彼の後ろ姿を、男は今でもはっきり覚えている。
男を真似てミーナも目を閉じてみる。そこには自身の未来を捨ててでも守りたかった大切な人がいた。
守りたくて、しかし自分には力が足りなくて。
優しく微笑む青年との最期の会話が思い浮かび、ミーナの涙腺は少し緩む。
ミーナ「助けたい人に助けられる、助けたい人を助けられない。思い通りにいかないことばかりです……」
男「人の世は、あるいはそういうものなのかもしれんな。失いたくない物ほどぽろぽろ掌からこぼれていく」
男は壁に掛けられた血と焦げで赤黒くなった軍服を見る。それのポケットには遥か昔に己の腕の中からこぼれ落ちた一人の女性の写真が、大切にしまわれていた。
今、ポケットがあった箇所には大きな穴があいている。気に入っていた一枚だったのだがな、と思い小さくため息をこぼす。男は再び瞼を閉じた。
今度浮かんできたものは、目に涙を貯めた二人の女性。自惚れではなく、自身が死んだら心の底から悲しむであろう二人。
男「残された者の悲しみ、骨の髄まで染みているはずだったのだがな……。ワシは自分勝手だったようだ」
男の静かな呟きに、ミーナは冗談っぽく答える。
ミーナ「そうです、作戦内容を伏せられたまま振り回される部下の身にもなっていただきたいです」
腰に手をあてわざとらしく怒ったような顔をする。その仕草に、男は思わず吹き出した。
男はミーナに対して、歳に合わず落ち着きがあり大人びている、という印象を持っていた。
そんな彼女にも歳相応の茶目っ気があったことを、男は少し嬉しく思った。
男「はっはっは、すまなかったな。いや、真に申し訳なかった。貴女には感謝してもしきれぬよ」
ミーナ「私だけではなく、お隣の二人とドッリオ少佐にもその言葉をお願いしますね。それと……」
ミーナの背筋がピンと伸び、表情は凛々しく整う。
右手を挙げ、敬礼をする。
突然の行動に男は少し驚いた。
ミーナ「男中将、私もまた中将に伝えきれない程の感謝の念と返しきれない程のご恩を感じています。そしてそれは、私だけではなく幾千、幾万の人々が感じていることでしょう」
その言葉に目を見張り、一呼吸置いて男はゆっくり目を閉じた。
男の目尻から涙がこぼれ落ち、それらは坂本の頬と竹井の額を濡らした。
若い頃、上官に「人の型をした爆弾」などと揶揄された。
台に乗せられ横たわる案山子のように身を縛られ、研究という名目で数ヶ月間血を搾り採られたりもした。
しかし戦場で武功を挙げるにつれ、周りの扱いが変わってきた。
昨日罵詈を浴びせてきた人間が、次の日機嫌取りに菓子を差し入れてきた事もあった。
そして男が気付いた、ある一つの真理。
『己の価値を示せる場は戦場の他に在らず』
それからは、我武者羅に働いた。「的」が何であろうと、決して手を脚を止めることは無かった。
獅子の身を染める赤は、己の血のみでは無かった。
いつしか、心の底から男を尊敬し、慕う者も多くなった。彼らの期待を背に受け止め、男は必死に剣を振るった。
そんな日々の中で、ある日出会った一人の少女。男を「先生」と呼び、気がつくと後ろに着いて回ってきた。
彼女は利発で剣も立ち、目まぐるしい早さで一人前の魔女となった。
しばらくして、彼女は三人の少女を連れてきた。
荒々しく、勇猛果敢で時折肝を冷やす少女。
知り合いの娘で、気弱だが心根の優しい少女。
自信を持てず、その大きな可能性を活かしきれずにいた少女。
この三人と出会い、男は一つの決意をした。
『いつ潰えるか分からぬこの身を、次の世代の為に使う』
男はこの娘達の為に死ぬることが叶うなら、それこそ本望と思った。
己の価値は戦場でしか示されない、故に男が三人の少女達の為に出来ることは戦うことだけだった。
己の愛した娘達の為に戦い、死ぬ。それが男の後悔の無い生き方だった。
一国の全ての民からの感謝の思い。それは、そんな男の為に娘達が贈ったプレゼントだったのかもしれない。
男「獅子の死に場所は戦場の他に在らずと思っていた。死線の先にこれ程の喜びが待っておるとは知らなかった。ワシは、ワシは生きて帰れて本当に良かった……」
涙をこぼしながらも笑う男を見て、ミーナもまた微笑んだ。
ミーナ「我々は死ぬために戦うのではありません。平和な世界で眠りに着く為に戦うのではないでしょうか」
男「はっはっは、違いない」
目を閉じたまま、男は静かに、静かに呟く。
男「すまんな、『――』。ワシはまだ其方には往けぬようだ。我慢強かったお前だ、もう暫らく待っていてくれような……」
男は、再び眠りに着いた。その両腕に、幸せの重みを感じながら。
若本「おーい坂本ー、醇子ー、って。こんなとこで寝てたのかよ……」
北郷「若ー?二人とも見つかった?」
若本「先生ー、こっちこっち。なんかおっさんと川の字で寝ちゃってますー」
北郷「川の字って……。あはは、なるほど。これはまたずいぶん真ん中が長い川の字だね」
若本「おっさんすげー笑ってらあ」
北郷「ははは。起こすのも悪いし、二人でお昼食べちゃおうか」
若本「はーい。今日のおかず美味かったら坂本と醇子の分も食っちゃお」
北郷「ふふふ、幸せそうな顔だ。やっぱり、無理言って行動を共にして良かったな」
北郷「中将も最近元気無かったし、いい気分転換になってくれたかな?」
坂本「すう……」
竹井「ふにゃ……」
男「ぐごおおお、ぐがあああ」
北郷「ふふ。まるで親子みたいですよ、先生……」
扶桑憤流最終話・老いた獅子、眠る 終
世にも珍しき獅子の人、その生き様や秘めたる思いや冗談を、楽しんでいただけたのならばこれを幸いと申します。
さて、このお話はこれにて終幕。老獅子が再び皆様の前にその姿を現した時には、その雄姿をどうぞご覧になってください。
それでは皆様、御機嫌よう。
最終更新:2013年02月06日 23:36