「本当にいるんだって! 俺の彼女がウィッチなんだけどよ、見たんだって! 鋼鉄の巨兵!!」

「嘘つけよ、そんなデカイのが歩いてたら話題になるに決まってんだろ」

「それがよぉ……ネウロイ倒したらいつの間にか消えちまったらしいんだよ」

廊下から聞こえてくる同僚たちの噂話を耳にしながら俺は顎下に手を伸ばす。
泣き声が響く自室のなか窓辺に設置されたベッドに腰かける青年は状況の把握に追われていた。
すぐ真横に視線を向けると目元に手をやり大粒の涙を零しながら嗚咽を漏らして、端正な容貌を歪ませる智子の姿が視界に入る。
あれから再会を果たしたのも束の間、自分が生きていたと知るや否や泣き崩れた彼女を俺は自室へと連れて行った。
ぶつかった際の反動で床に落ちた鞄から察するに智子は割り当てられた自室へと向かう途中だったのだろう。

本来なら智子の部屋へと連れて行けば良かったのだが、突然の再会に驚いたのは俺も同じだった。
もう会うことなどないと思っていた妹との再会。
思考が追いつかず呆然とするなか泣きじゃくる智子にしがみ付かれたことで俺の動揺は更に膨れ上がった。
判断力も鈍り、気がつけばその場から一番近い自室へと彼女を連れ込んでいた。
それが正しい選択かどうかはこの際置いておこう。
問題は何故、智子がここペテルブルグ基地に来たのか……いいや、答えなど聞かずとも見当はつく。
隣で泣き声を上げる彼女こそがカウハバ基地から派遣されてきた件の補充要員なのだろう。

智子「……ひっぐ……ぐす……ねぇ、おれ?」

俺「ん、どうした?」

幾分か落ち着きを取り戻したのか。隣から聞こえる嗚咽が混じった智子の声に俺は努めて落ち着いた口調で返す。
何故、スオムスから来たのか。
とっくに上がりを迎えた筈の身であるのに、どうして未だ欧州に留まっているのか。
聞きたいことは山ほどあるものの、いまは彼女の精神を安定させることが先決だろう。

俺「(綺麗に、なったな)」

視界を占めるのは端正な頬を涙で濡らす智子の泣き顔。
整った顔立ちを泣き濡らし、歪ませながら、しゃくりあげているというのに。
呼吸すら忘れて見惚れてしまうのは彼女が生まれ持って得た美貌によるものだろう。
しばらく会わないうちに随分と美しさに磨きがかかったものだ。
既に智子の容姿から幼さは消え、代わりに備わった大人の艶が彼女の美を引き立てている。
智子がこれほどならば同じ部隊に所属していた“彼女たち”もさぞ美しい女性として成長していることだろう。

智子「ねぇ? ほんとうに、あなた……なの?」

身体を何度も震わせる智子は、自身を見つめる俺の頬へと恐る恐る手を伸ばして涙で濡れて湿った細い指先を添える。
こうして隣に彼が腰掛けている今が夢でないことを確かめるように。
彼が生きているというこの今が現実であることを実感するように。
あのとき届かなかった手を、智子は伸ばす。

俺「あぁ……俺だよ。久しぶりだな、智子」

智子「ほん、とう? ほんとうに……ひっく、俺――なの?」

俺「もちろん。色々あったけど……ちゃんとこうして生きてる。ほら、手だって握れるだろう?」

口元に笑みを浮かべる俺は自身の頬に触れる智子の手を包みこむ。空いたもう片方の手は彼女の頭に。
慈しむような手つきで、嗚咽にあわせて震える智子の頭をそっと撫でる。
手の平を充たす温かく柔らかな髪が与える懐かしい感触に俺は小さく感嘆の吐息を漏らした。
まだ二人とも幼かった頃。
食事を摂るのも、風呂に入るのも、遊びに出かけるのも、何をするときも一緒だった頃。
甘えてきた彼女を、夜の暗闇に怯えすがり付いてきた彼女をこうやって撫でては落ち着かせていた記憶が彼の脳裏に蘇っていた。

智子「あ、あ…………あぁぁ……」

伸ばした指先を握る手の感触と自身の頭に乗せられた手の平の温かさに智子の唇からか細い声が零れ落ちる。
長らく忘れていた胸を満たす感覚に智子は再び目頭が熱くなっていくのを感じた。
あぁ、間違いない。
自身を包みこんでくれるこの温もりも、この安寧も。
彼を喪ったあの日から今日に至る何年もの間心の底から欲していたものばかりだ。

智子「本当に、あなた……なのね」

俺「おいおい。さっきからそう言っているじゃないか」

自身に触れる彼の手から伝わる温かさとそれがもたらす安心感に智子は目の前にいる男が――俺が生きている現実を実感した。
同時に自分の罪を思い出し、智子は俯く。そもそも俺が撃墜され海中へと沈んだ原因は他ならぬ自分である。
全身を銃弾で穿たれた上に海面に叩きつけられて無傷であるはずがない。彼を死の淵へと追い込んだ自分が再会の喜びだけを抱いて良いはずがないのだ。
その事実を改めて自覚した智子は恋慕の念とはまた別の、胸裏に秘めた思いを告げるために口を開く。
それは長い間、智子の背に圧し掛かり、彼女の心身を縛り続けていたもの。後悔、懺悔、罪悪感といった粘り気を帯びた情念。

智子「――……んなさい」

不意に俯き何かを呟いた智子に俺は訝しげに眉をひそめた。
確かに彼女が何らかの言葉を口にしたのは聞こえたのだが如何せん声が小さいせいか、何を伝えたいのかよく聞き取れない。

俺「ん? どうし――」

智子「ごめっ……なさい! ごめんな……さい! ごめんなさい! ごめんなさい!」

堰を切ったかの如く、彼女の形の良い唇から雪崩れ落ちたのは悲痛な色に染め上げられた謝罪の言葉だった。
何度も、何度も、何度も。
泣き声が混じった智子の、耳にしていて身を切られるほど悲愴な感情が込められた謝罪が俺の自室に響き渡る。
その勢いは衰えることを知らずまるで機械のように、ただその一言だけを一心に口にし続ける智子を前に俺の表情が曇った。

俺「おいおいおいおい! どうして急に謝るんだよ!?」

智子「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」

問いかけにも応えず謝罪を続ける智子の姿に自然と、曇っていた俺の表情が歪んでいく。
俯いているせいで彼女の顔を窺うことはできない。
けれども許しを乞おうと何度も謝罪の言葉を紡ぐ妹の姿は痛ましく感じられ、そんな彼女を俺は直視することができなかった。
第一に彼女から謝罪の言葉をぶつけられる謂れが、俺には無い。
何が原因で謝られるかも分からない上に妹の慟哭が混じった謝罪に耐えられない彼の手は自然と彼女の両肩に伸びていた。

俺「智子…………ッ!?」

両肩に手を乗せられ、身体を強張らせた智子が顔を上げる。
溜め込んでいた涙を零す一対の黒い双眸に漂う光に俺は息を呑んだ。
少しでも触れようものなら容易く壊れてしまう脆さがいまの智子を包みこんでいた。
本当にこの女はあの智子なのか。常に自信に満ち溢れた笑みを絶やすことのなかったあの穴拭智子なのか。

智子「だって! 私のせいで俺が!」

それは自らの手で愛する人間を死の淵に追い込んだ者の悲痛な叫びだった。

「私さえ前に出なければ! あなたが私を庇うこともなかった!!」

友人たちの静止も聞かず。
彼が傍にいることへの安心感に身を任せ増長した結果、自分は想いを寄せるその彼を死に追いやった。

「あのとき、もう少し様子を見ていれば敵に撃たれることもなかった!!」

扉の向こうに繋がる廊下に届く勢いで智子は想いの丈を吐き出していく。
脳裏に蘇っていたのは目の前で大切な人の身体が銃弾で穿たれる光景だった。
頭上に広がる清々しい青空とは反対に色鮮やかな真紅の血飛沫が眼前で飛び散る光景だった。
糸が切れた操り人形のように彼の身体が重力に引かれて海面へと落下を始めた光景だった。
一瞬で、たった一瞬で、大切な物を傷つけられた挙句喪ってしまった光景だった。
何度も悪夢として自分を苛み続けた光景だった。

「私のせいで俺が撃墜された! 私が、あなたから軍人としての人生を奪った!!」

海へと落ちた俺の捜索を扶桑皇国陸軍は早々に打ち切った。
それは陸軍上層部が、俺が戦死したと判断したことに他ならない。たとえ彼が扶桑に戻ろうともその決定は覆らないだろう。
あの時、慢心しなければ彼はまだ扶桑皇国陸軍の軍人として空を飛べていたのではないか。
だとすれば自分が彼の人生を捻じ曲げてしまったのだ。

俺「あぁ……」

吐き出された智子の感情を受け止め、俺は得心がいった表情で、声音で呟いた。
――なるほど。そういうことか
――つまり、こいつは。あのとき俺が撃墜された原因は自分にあって、そのことを謝っているのか

俺「馬鹿だな……」

小さく笑みを零して両の手を彼女の肩に回すなり抱き寄せる。
温かく、柔らかく、肉付きのよくなった智子の身体を。
甘い薫香を放ち柔らかな感触を持つ女のそれとなった妹分の身体を、俺は昔と変わらぬ要領で抱き寄せた。

智子「……え?」

突然の抱擁に涙を浮かべる目を丸くした智子が腕のなかで自分を見上げてくる。
涙で潤んだ黒い瞳には笑みを浮かべる自分の姿が映りこんでいた。

俺「智子。お前が気にすることも、ましてや悔やむこともないんだよ」

片方の手で智子の背を撫でながら俺は本心を口にする。
恨んでいるわけがない。
憎んでいるわけがない。
あのとき死ぬことになったとしても自分はそれでもよかった。
そう言外に含まれた俺の言葉に智子が声を震わせながら口を開いた。

智子「……う、嘘よ。だって……だって」

俺「なぁ、智子? こうしてお前と話している俺は……お前のことを恨んでいるように見えるか? 憎んでいるように見えるか?」

智子「……それ、は」

言葉を詰まらせ、智子は自身を抱き寄せる男の表情に視線を注ぐ。
黒い瞳に漂うのは憤怒や怨嗟のような鋭さとは程遠い柔らかさを帯びた光。
少年だった頃と比べて引き締まった頬は優しく綻んでいた。
自らを死に追いやった相手に見せるにはあまりにも穏やかで優しげな微笑みに智子は、ふるふると頭を振った。

俺「だろう? それにな。たとえあのとき死ぬことになってもお前を守ることが出来たなら、俺は別にそれで良かったんだよ」

それは紛れも無く嘘偽りの無い本心だった。
そもそも俺が軍に入ったのも幼い頃から可愛がってきた妹分である智子をたった一人で陸軍に入れさせたくなかったからに他ならない。
あのまま軍に入らなければ自分は戦場を飛び交うこともない平凡な人生を送っていただろう。智子を庇い、生死の境を漂うことも無かっただろう。
それでも彼が陸軍の航空歩兵を志願したのは全て妹分であった智子を守りたいから。
だからこそ、

俺「後悔なんかしていない……いいや、しているわけがないんだよ。智子」

――お前を守ることが出来たんだからな。
そう彼女の耳元に口を近づけ囁くなり抱擁の力を強める。
起伏がはっきりと浮き出るまでに成長した智子の身体が大きく強張った。

俺「長い間、寂しい思いさせちまったな。ごめんよ」

後頭部に手の平を添える俺の口から謝罪の言葉が零れ落ちる。
もしかしたら智子だけではなく武子や圭子、綾香。姉代わりであった江藤敏子にも同じく寂しい思いをさせてしまったのかもしれない。
そうであって欲しいと願いながら俺は智子の髪を撫で続ける。
彼女らが今も自分のことを大切に思っていてくれているのならば、もしも再び巡り会えたときにはこうして謝らなければいけなくなるだろう。
そう胸裏で零しながら俺はそれと、と一度言葉を区切り、

俺「生きていてくれて、ありがとう」

同時に今日まで無事に五体満足で生きていてくれた彼女に感謝の言葉を捧げた。

智子「どうして……よぉ。ぜんぶ……わたしが、わるいのにぃ……」

自分を庇ったばかりに彼は若い身でありながら全身を穿たれ、撃墜された。
恨まれていると思っていた。憎まれていると思っていた。
だというのに彼は笑って否定し、自分の身を案じてくれた。自分が生きていることを喜んでくれた。
そのことがどうしようもなく嬉しくて、智子は再び目頭が熱を帯びる感覚を抱いた。

俺「言っただろう。俺はお前のことなんか、これっぽっちも恨んじゃいない」

言うなり俺は腕のなかで震え始めた智子の身体を強く抱きしめる。
抱擁を通して自分の思いを伝えるかのように、抱き殺す勢いで彼女の身体を掻き抱く。

俺「だからもうこれ以上、自分を責めるのはやめろ。せっかく会えたのに泣き顔ばっかり見せられたら堪らないんだ」

温かい手の平が頭を撫でる。柔らかな声音がゆっくりと降り注ぐ。
治まっていたはずの嗚咽が再び込み上げてくる。
目頭が熱くなり視界がまた滲み出す。

智子「う、ぁ……あぁ……うぁぁ……」

俺「ただいま……智子」

その一言を皮切りに智子は再び声を張り上げて涙を零した。
せめて、これ以上みっともない泣き顔を見せまいと愛おしい男の胸元に顔を埋めながら。
背中と頭を撫でる手の平の優しい温もりを感じながら。
涙を流し続けた。
凍てつく風が吹くその日、穴拭智子は長い歳月を経て自責の念から解放された。


―――
――


マグカップから立ち昇る白い湯気と甘いカカオの香りに頬を綻ばせながら、智子は隣に腰掛ける男の体躯に身を預けた。
肩と頬から伝わってくる想い人の体温。
それは手の平にあるカップから発せられる熱とは違い、優しくてどこか力強さを帯びていた。
再びこうして彼の体に身を預けることを何度夢見たことか。
全身を充たし、温める幸福に浸っていると不意に肩に手を回されて抱き寄せられた。
自然と智子の笑みが深いものになっていく。

智子「……ねぇ。一つ聞いても良い?」

マグカップに注がれたココアの味を堪能し終え、智子は口を開く。
聞きたいことはただ一つ。
恐らく彼も自分が何を知りたいか既に検討がついているはず。

俺「何で生きていることを黙っていた、か?」

智子「えぇ。どうして? どうして何も……教えてくれなかったの?」

問いかけに対し返答はすぐには返ってこなかった。
続く沈黙から智子は彼が返答に迷っていることを察した。何らかの事情があっての沈黙なのだろう。
それでも知りたい。
どうして生きていることを黙っていたのか。
生きているなら何故、連絡の一つも入れてくれなかったのか。

智子「無理にとは言わないわ。けど」

俺「いいや、話すよ。お前には言っておかないといけないことだったな」

言うなり俺は語り始めた。
話によると自分を庇った彼は海へと墜落した後、とある漁師に拾われたようで何でも漁に用いる網にかかっていたらしい。
献身的な治療もあり拾われてから半年後に意識を取り戻し、それからリハビリを続けようやく自分の意思で歩けるようになったときには既に事変は終結していた。
彼が己の戦死を知ったのもそのときだった。
情報が届かぬ田舎だったことも重なり、彼を助けた漁師も網の中で意識を失っていた少年が撃墜されていた航空歩兵と気づくことが出来なかったようだ。
潮流で戦闘脚が流されたことも不運の一つだろう。

智子「……」

俺「驚いたよ。お前を庇ってから目を覚ますまでかなりの時間が経っていたんだな。っははは……まるで浦島太郎みたいな気分だった」

自分はたしかに生きている。意識を取り戻すのに半年もの時間を要したがそれでも死の淵から這い上がった。
にも拘らず世間は、陸軍は自分を死者として処理していた。
撃墜され海に落下した航空歩兵が半年もの間消息不明になっていたのだから陸軍上層部が捜索を打ち切り、戦死と判断するのも無理は無い。

――それでも俺は生きている! 死んでなんかいない!――

そう胸裏で叫んでも世界から摘み出された疎外感と孤独が常に付き纏っていた。
もうこの扶桑に自分が暮らす場所はない。
自分が眠ると言われている真新しい墓石の前で確信した俺は自身の生存を誰にも告げず、故郷を捨て去った。

俺「除け者にされた感じがしたよ。だから怖くて、逃げたかったのかも知れないな……自分を死んだ人間として処理した扶桑から」

もしかしたら大切に思っていた家族も自分のことを死人だと思っているのではないか。本音を言うと、この目で確かめたかった。
軍に属している智子たちに会うことは叶わずとも退役後に喫茶店を営み始めたらしい江藤になら会えるはず。
そう思った矢先に一縷の不安が彼の胸裏に芽生えた。
もしも、もしも彼女らが、自分が死んだと思っていたら?
遺体が発見されていないにも関わらず生存の可能性を信じていなかったら?
自分が死んだことを受け入れ、日々の生活を謳歌していたら?

いいや、軍が自分の捜索を打ち切り戦死と判断してから半年もの月日が経っているのだ。自分の生存を諦めていても何ら可笑しくは無い。
だからだろうか。大切な家族が自分のことなど忘れ、過去の人物として記憶の片隅に留めている姿を目にしたくないと思ったのは。
そんな光景を目にするぐらいなら誰にも知られず、故郷を飛び出すほうが良かった。

智子「……ごめんなさい。あなたにとっては辛い話だったわよね……軽率だったわ」

迂闊に尋ねた自身の軽率さに智子は唇を歪める。
知りたいと思っていたこととはいえ、彼にとっては苦痛に満ちた出来事でしかない。
少し頭を働かせれば分かることだというのに、智子は自身の身勝手さを恥じた。

俺「良いさ。もう何年も前の話だ」

智子「ね、ねぇ……みんなに会いたい? 武子や圭子、綾香に江藤隊長に」

返って来た予想外の答えに智子は目を丸くした。
問いかけに対し俺は目を伏せ、静かにかぶりを振ったのだ。

智子「会いたく、ないの?」

俺「会いたくないって言えば嘘になる。だけど、あいつらにとって俺はもう死人で過去の人間だ」

自惚れかもしれない。
しかし自分の存在が彼女らに影響を及ぼすほど小さかったとは言い切れない。
それでも撃墜されたあの日から五年以上もの歳月が経っている。
自分が死んだと発表されてから五年以上もの時間が経過している。
今更彼女らの前に現れて何になるというのか。

俺「今更出てきて平穏な生活に水差すわけにもいかないだろう」

心優しい彼女らのことだ。
もしも自分が現れたら色々と気を遣ってくれるかもしれない。
しかし俺は自分のことなど構わずに各々の幸せを追い求めて欲しい。
ただ幸せに。ただ平穏に生きていて欲しい。
故に自分から彼女らの前に姿を見せることは、ないだろう。
もう死んだことになっているから。きっと彼女らも自分のことは思い出の片隅程度に留めているはずだから。

智子「そんなこと……そんなことない!!」

穏やかな笑みの裏に潜む諦観を、その声色と横顔から察した智子は反射的に声を荒げた。
目の前の俺が目を丸くして自分を見つめているのにも気づかずに智子は沸き上がる感情を吐き出さんと口を開く。
確かに、彼の言うとおり親友の武子をはじめ残る彼女らがいつまでも未練を引きずっているとは思えない。
しかし彼がこうして生きていると知れば必ず会いたいと思うはずであることを智子は確信していた。
それは、彼女らと幾度も彼の心を奪い合った経験から生まれる確信だった。
今すぐ声に出して言いたかった。自分も含めた四人全員、あなたに惹かれていたのだと。

智子「あなたは過去の人間なんかじゃない!! ちゃんと……今を生きているじゃない!」

自分にとっては今この時間を生きている人間だ。
決して死者でもなければ、思い出のなかに生きている人間でもない。

俺「ありがとうな、智子。だけど死人は死人のままでいいさ。これでも結構、食っていけてるんだ」

智子「どうしてよ……そんなこと、言わないで……」

陸軍時代よりも遥かに逞しくなった彼の胸板に顔を埋め、智子は胸を切る感情を言葉に変えて、弱々しく零した。
こうしてまた巡り会えたというのに。
こうして彼の温もりを再びこの身で感じられるというのに。
こんなにも自分の言葉は、想いは届かなくなってしまったのか。
こんなにも彼と自分の心には深く広い隔たりが生まれてしまっているのか。
胸を抉る想いに、智子は歪ませた容貌を彼の胸元に押し付けた。


―――
――




それは書類仕事が終わりつつある時のこと。
気を利かせたロスマンが運んできたマグカップを満たすコーヒーを飲み終わる頃のこと。
最後の書類に目を通している最中、前触れも無く執務室の扉が乾いた音を立てた。
執務室に近づく足音から、扉を叩く音から相手が誰かを察したラルは視線を動かすことなく唇を開き、相手を招き入れる。
統合戦闘航空団の司令としては無用心な対応かもしれないが、扉を叩く力強い音から彼女は訪ねてきた人物が誰なのか瞬時に理解した。
彼がここペテルブルグを拠点とする第502統合戦闘航空団にやって来てから、大した時間も経っていないというのに。
知らぬ内に彼のことを詳しくなっていることを自覚したラルは苦味を含んだ笑みを口元に零し、音を立てて開いた扉へ視線を上げる。

「よっ、お疲れさん。今時間空いてるか?」

快活な笑みを湛えて軽く手を挙げる青年。
相手の心に自然と入り込んでくるその笑みを前にラルの口元も自然と綻んでいく。

ラル「私に何か用か? まぁ、大体は想像がつくが」

書類に走らせていたペンを置き、手元に置いてあったマグカップに手をかけるなり中身を飲み干すラル。
ふぅ、と艶を帯びた吐息を零した彼女が真っ直ぐに自分へと、その青い瞳を向ける。
澄んだ碧眼に浮かぶ光から言葉通り彼女は自分がここへ足を運んだ理由を察しているのだろう。それなら話は早い。

俺「知っていたんだろう? 智子がここに来ること」

司令官である筈の彼女が、前触れも無く智子の来訪を知ったとは考えられない。
ましてや502と507の相互連携という重要な戦略的意図があるのだ。今日になって唐突に知らされるわけがない。
いつに無く生真面目な声音と表情にラルは自分でも知らぬ内に綻ばせていた口元を強張らせる。
戦闘時以外では珍しく見せる、彼のその態度に。

ラル「……あぁ、そうだよ。黙っていて、すまなかった」

しばし瞑目し、ラルは静かに首肯した。

俺「お前さんにも事情があったんだろう? ならそれを俺がとやかく言う権利はないさ」

ラル「そう言ってもらえると助かる……なぁ、一つ訊いても良いか?」

俺「ん?」

返すなり俺は静かに目を見開いた。
彼女の青い双眸に、微かに浮かぶ不安げな光を目の当たりにして。

ラル「私がお前に、穴拭大尉が来ることを教えていたら。お前は……ここを、502を出て行ったか?」

俺「俺が? ここを? どうして?」

ラル「それ、は……だな」

どうして智子の派遣と、自分がペテルブルグを出て行くことが結びついているのか。
暫しの黙考の後、俺は答えを導き出した。
撃墜され、戦死として処理された俺は誰にも自身の生存を告げずに故郷を去った。
だからこそ己の生存を妹分である智子に知られることが分かれば自分はここを出て行くと彼女は考えていたのだろう。

俺「……ここでの仕事はまだ残っているし、お前たちを置いてどこかへ行くつもりはないよ」

仕事、という言葉にラルは形の良い眉を顰めた。
彼が口にする仕事とは、ここペテルブルグ近隣に散在する反動勢力の撃滅を意味する。
航空歩兵でありながら裏では不穏分子の消去に暗躍している。
怪異を撃滅するために、人々を守るために銃を取る手で邪魔な存在を屠殺する。
それがこの男の真の目的であり、本性。
俺の話によればブリタニアをはじめ連合軍の主要拠点がある地区には同様の仕事を持つ人物がいるようだ。
そして、俺は以前こうも言った。ブリタニアには仲間がいると。
しかしアドルフィーネ・ガランド少将直轄の兵は彼のみ。
だとすれば、彼とその仕事仲間とやらを操る人物が別にいるのではないか
それは、きっとガランドのような表舞台に立つ権力者ではなく。
社会や歴史の闇、いいや。
超常の域に住まう人知を超えた“何か“なのではないか。
何一つ根拠の無い、直感のみの憶測も彼の言葉がもたらした安堵感によって掻き消えていた。

ラル「そ、そうか……」

何故かその言葉に安心し、小さく溜息を吐いている自分に気がつきラルは頬を赤らめながらコーヒーカップの残りを飲み干した。
まったく。これでは、まるで彼に出て行って欲しくないと思っているようではないか。

俺「何だ? もしかして心配してくれたのか?」

ラル「う、うるさい」

頬が熱を帯びていく感覚を抱きながら、顔を背けることしかできなかった。

俺「っははは! ありがとうな。大丈夫だよ」

俺「いつか此処を離れるときは必ず来る。それがネウロイとの戦いが終わるまでなのかはわからない」

だけどな、と一度言葉を区切って。

俺「今まで渡り歩いてきた基地に比べると、結構気に入ってるんだよ。ここ」

ラル「前線基地なのにか? 満足な食事も取れない時もあっただろう?」

俺「設備や食事の問題じゃない。空気だよ、空気。ブリタニアも賑やかで楽しかったんだけど……こっちの方が俺には合っているみたいだ」

残って欲しい。行かないで。置いてかないで。傍にいて。
何度も彼女にぶつけられた言葉が脳裏を過ぎる。それでも、やはり自分はまだ502(ここ)にいたかった。
もちろん、ブリタニアの彼女らよりも少ない人員で欧州激戦区の前線で戦う此処の少女らのことを放っておけなかったという気持ちもある。
しかし、やはりペテルブルグでの生活の方が自分には合っている気がしてならず、その気持ちはブリタニアでの短い日々を過ごしていく中で強まっていった。
だからこそ……

俺「さよならを言わずにお前たちの前から消えることはしないよ」

ラル「……本当だな?」

俺「信じろよ」

―――
――



その後、夕食の席で502の面々による顔合わせを兼ねた智子の歓迎会も恙無く終わりを迎え、俺は一足先に自室へと戻っていた。
歓迎会の会場である談話室を後にする際、どこか寂しげな光を浮かべた智子であったがすぐさま502のウィッチたちとの交流を優先する姿は流石現役の軍人といえよう。
特に同郷の下原、菅野の二人に挟まれ質問攻めを受ける彼女の姿はどこか微笑ましく映った。
瞳を輝かせる下原と菅野。
陸軍と海軍。所属こそ違えど扶桑海の閃光と謳われ、銀幕の主役を務めたエースを前に彼女らが興奮するのも無理はない。
再会して改めて思い知った妹分の高名さ。
可愛がっていた彼女との広がった差を感じ取り、寂しさに似た感情を抱きながら俺は談話室の扉を閉めた。

俺「ん?」

月明かりに照らされる一通の封筒が目に入ったのは部屋に入り、ベッドに身を投げようとした矢先のことだ。
古びたテーブルの上に鎮座する真新しい白の封筒。
検閲はおろか人の手すら触れられていないことが、その表面の純白から察することが出来る。
明らかにこの部屋を出るときにはなかったものだ。
何者かがこの部屋に潜り込んで置き去ったか、否。部屋を出る際は鍵をかけた。
では外部からの侵入者か、それも否。
連合軍、それも統合戦闘航空団の基地である。安易に入り込める警備体制ではない。
現に自分がこの基地を訪れてから行った最初の仕事以降、基地の警備はより厳重なものとなった。
それ以降、侵入者が現れた騒ぎも無い。自分宛の郵便が送られた話も、今日は聞いていない。
つまりこの手紙は十中八九自分が所属する“部隊“から送られたものだ。
真新しい白い封筒を摘むなり裏返せば案の定、幾重にも薔薇が絡み付いた十字の刻印が施されていた。
こうしてわざわざ手紙を寄越すということは恐らく世界各地に散らばる幹部の面々にも、この召集状が行き届いていると判断して間違いない。

俺「久しぶりの登館、か。何年ぶりだ?」

現し世と常世の狭間に位置するローゼンクロイツの牙城。其処は伝説に名を刻んだ魔女や術師の魂が眠る殿堂。
彼女に認められた者だけが異界に繋がる回廊に足を踏み入れ登館を許される。
しかし薔薇十字に認められ誉ある殿堂に入ることを許された者皆全て、強さを求めた挙句人間であることを辞めた魔人どもだ。
彼女の傀儡と成り果てても尚、力を求める怪物どもだ。
辿る末路も恐れずに。
無論、自分も含めて。

俺「あの救いようの無い塵どもの相手をまたせにゃならんのか……恨むぞ、仲間A」

今は亡き主宰の代行を務め、彼ら幹部を統括する身としては欠席するわけにはいかないだろう。
近況報告はもちろん、ブリタニアにて残る余生を送っているクロウリーから回収した魔具、“銀の星”も薔薇十字に差し出す必要がある。
我が強い幹部陣と顔を合わせたくはないが、主宰代行という立場が欠席という選択肢を自然と消去していた。
諦観が混じった溜息を吐くなりテーブルの上に置いてあった万年筆を手に取った。
封を開け、白封筒に納められていた召集状の上にペン先を走らせ出席の意を書き記す。
インクを纏った切っ先が紙上から離れた途端に召集状は紅い薔薇の花弁を思わせる燐光を発し、瞬く間にその姿を消した。

俺「またあの緑の石版みたいなもん回収してこいとか……言われないよな?」

以前、歴史の闇に埋没した遺物の回収に奔走した苦い記憶を思い出す男の口から愚痴が零れる。
部屋の扉が何者かによって叩かれたのは、そんな苦味を帯びた言葉が彼の口から零れ落ちるのとほぼ同時だった。
間髪入れずに聞こえて来るのは今日、劇的な再会を果たした妹分の声。
俺は開いてるよ、とだけ返して彼女に入室を促した。

智子「こんばんは」

優美な黒髪を靡かせ、歩み寄る智子。
感情の発露によって泣き腫れた目は歓迎会の前には元に戻り、涙で濡れていない彼女の容貌を改めて目の当たりにした俺は静かに嘆息した。
端正な顔立ちに艶やかな黒髪。
最後に彼女の姿を視界に捉えていた頃はまだ少女のそれだったというのに。
今ではその身体は陸軍服の上からでもはっきりと視認できるほど肉付きの良いものへと変わっていた。
未だ薬指に指輪が嵌められていないのが不思議なほど見目麗しく成長した彼女の容姿を前に俺は顔を逸らした。
熱を帯び始めた頬を掻きながら気を紛らわせようと言葉を捜す。
このままでは妹分にあらぬ劣情を抱いてしまいそうになる。

俺「そ、そうだ。歓迎会どうだった? 中々楽しい連中だろう?」

智子「えぇ、とても楽しい時間を過ごせたわ。ただ……一人だけ近くに似たような人がいたから何だか不思議な気分だったわ」

視界の端に入る智子が淡い笑みを浮かべた瞬間、俺は心臓が一際激しい鼓動を放つ感覚を抱いた。

俺「あ、あぁ。まぁ、楽しめたようで何よりだよ……それで? こんな時間に何の用だ?」

左胸から発せられる脈動に息苦しさすら覚える。
どうして自分はこんなにも取り乱しているのか。
どうして彼女の形のよい唇に意識を奪われているのか。
胸裏に生じた動揺を悟られないよう努めて冷静に返すも、不意に視界に入り込み、覗き込むように自身を見上げてくる智子の容貌に思わず後ずさった。

智子「ど、どうしたの? 顔が赤いように見えるけど……」

俺「あ……あ、これはだな。さっきの歓迎会で飲んだ……酒のせい、だと思う」

眉を顰め、自身を案じる智子に俺はとっさに思いついた言い訳を返した。
度数の低い酒とはいえ飲んだことには変わりない。嘘は、ついていない。

智子「それなら……良いんだけど。今日は色々と話したいことがあって来たの」

俺「話したいこと?」

えぇ、と頷く智子は一呼吸置き手を胸元に添えて一歩、歩み寄る。

智子「良かったら、聞かせてくれない? 扶桑を去ったあなたが……今日まで、どんなことをしてきたのか」

射抜くような目で自分を見上げる智子の双眸に俺は少しだけ、それこそ彼女に悟られないほどに表情を曇らせた。

俺「…………どんなこと、か」

独り世界を渡り歩き、目の当たりにした光景も。
自身に生きる道を教え説いた男との出会いも。
彼と一緒に非正規の遊撃部隊を結成したことも。
中世の時代から連綿とその存在を保ち続けている正真正銘の魔女との邂逅も。
その魔女から規格外の強さを授かったことも。
話すことなら、それこそ山ほどある。
しかし、もしも彼女が自分の本性を知ったらどう思うだろうか。
人を守るはずの航空歩兵でありながら、人を殺める自身の本性を。
手にかけてきた百をも越える命たちを、枯れ落ちた木葉と同等に扱っている今の自分を知ったら。
怪しげな邪教集団を虐殺した。
上がりを迎えた航空歩兵に卑しい劣情をぶつけようとした将校とその一派を家族諸共首を撥ねた。
世間の枠組みに当て嵌めれば、自身の重ねてきた業は間違いなく悪行、なのだろう。
陸軍人としての自分が死してから今日に至るまで七年に近い歳月が経過していた。
きっと、今の智子にとって自分はまだあの頃のままの自分なのだろう。
そんな彼女は、現実を知ったとき、どんな感情を抱くのだろうか。

智子「あと……今日までの私の話も、聞いて……くれる?」

俺「……あぁ、いいよ」

尤も話す必要の無い出来事を自ら話すこともあるまい。
そう割り切った俺は静かにベッドに腰を下ろした。
すぐ真横に花が咲いたかのような笑みを浮かべた智子が腰掛ける。
その艶やかな黒髪から漂う女性特有のどこか甘みを帯びた香りに俺はぎこちない仕草で身じろいだ。
さて何から話すべきか、何から聞くべきか。
決めあぐねているとそれまで視界の片隅で妙に小さく身体を揺らしていた智子が意を決したかのような表情を浮かべて口を開いた。

智子「それで、ね。今日は……このまま同じ布団で、寝ても良いかしら……?」

俺「同じ布団で寝るって……はぁ!?」

真横から放たれた言葉に思わず落としかけていた視線を持ち上げるなり、隣に腰掛ける彼女に向ける。

智子「駄目……かしら?」

俺「いやいやいや、いくら何でもそればっかりは流石に……」

智子「子どもの頃は同じ布団で寝たじゃない」

俺「それは……そうだけど。そうなんだけど」

たしかに、子どもの頃は寝る前に色々と話しこんでいたし、眠くなったらそのまま同じ布団で寝たこともあった。
しかし、それはまだ二人とも本当の意味で子どもだった頃の話だ。
軍の学校に通うよりも前の頃の出来事だ。
昔と今とでは状況が全く違う。
今の智子は誰が見ても大人の女だ。もう少女と呼べる年齢でもなければ身体でもない。
すらりと伸びた手足をはじめ陸軍服に包まれる肢体。年相応に膨らんだ乳房と尻。
いくら妹分とはいえ、自分は男だ。
ましてや智子の寝間着姿を知っているからこそ俺は慌てて首を横に振った。

俺「やっぱり。だ、駄目だ」

あんな裸の上に半纏を羽織るような格好で密着されたら理性など保つわけがない。

智子「そ、そんな……」

思いがけない拒絶に智子は悲しげに表情を曇らせる。

俺「悪い。話には付き合うけど……同じ布団で寝るのだけは、勘弁してくれ」

智子「…………わかったわ。変なこと言って、ごめんなさい……」

俯く智子の姿を尻目に俺は背けた顔を顰める。
一体何を考えているのだ。あいつは、智子は妹分だろう。
ならば、ここは兄貴分として快く受け入れてやるべきだろう。
だというのに、何故自分は下心など抱いているのだ。
胸裏でそう己を叱咤する俺であったが、その答えはすぐに導き出された。


自分は、美しく成長を遂げた智子を女として意識してしまっている……


続く
最終更新:2014年10月19日 10:53