俺の視界は暗闇に包まれていた。指一本動かすことさえままならない。
これらのことから、俺は自分が地中にテレポートしてしまったのだと思っていた。
だが、頬を微風が撫でて行き過ぎたのと、そもそも呼吸が出来ているという事実によって、暗いのは瞼が閉じられているからだということに気が付いた。
しかし、ぴったりと閉じた瞼を開くのは、地中から脱出するのと同じくらい大変だった。
最後のテレポートによって、俺の身体からは、一切の力が失われていた。今なら、生後三ヵ月のハムスターでさえ彼を殺せるだろう。
たっぷり一分かけて、瞼を開いた俺の目に飛び込んできたのは、数えきれないほどの光の槍だった。
俺はうめき声をあげた。今の身体では避け切れない。
彼は碌な抵抗もできず、光の槍に串刺しにされた………が、痛みはなかった。
当然だ。
俺が光の槍と間違えたのは、ただの木漏れ日なのだ。
風に煽られて揺らめく木の枝と、そこに生えた緑の葉っぱによって細かく切り刻まれた、日輪の照射。
痛いどころか、それは限りない優しさで、傷ついた俺の体に降り注いでいた。
「………」
目を開けて、俺は幾つかのことに気付いた。
一つ目は、自分が木の根を枕代わりにして寝転がっているということだった。
木は、それなりの太さと高さがあった。人間……デビルマンが一人くらい寄り掛かっていても、文句を言ったりはしないだろう。
木陰の薄いベールは、外敵から隠れるのに最適とは言えなかったが、動けない以上、これで我慢するしかない。
二つ目は、デビルマンとしての肉体から、変身が解け、人間の姿に戻っているということだ。
俺は目を動かし、今の自分がどんな格好をしているのか確かめた。
上には紺のパーカー、下にはベージュのズボン、そして白いスニーカー。どれも擦り切れ、埃に塗れていた。
一週間ほど前にデビルマンに変身してから、ずっと人間に戻っていなかった。鎧を剥がされた騎士のような気分だ。
実際、今の俺はそれと同じくらい、無害で無力な生き物だった。念動力や凍てつく息は使えないし、パンチやキックなど夢のまた夢だ。
もしデーモンに襲われでもしたら、彼あるいは彼女が最下級であったとしても、大人しくランチとして美味しく頂かれるしかない。
今の俺の命は、完全に神の手に委ねられていた。
神が、まだ彼を自分の息子として認知してくれていれば助かる見込みはあるが、半分悪魔になったことに腹を立てていたとしたら、希望はない。
俺は溜息をつき――それすら痛みを伴ったが――瞼を閉じた。死ぬにしろ生きるにしろ、寝て待つのが一番だ。
サーニャ・V・リトヴャクは、夜闇を切り裂いて飛んでいた。
いつも通りの夜閑哨戒。
星空の輝きを遮るものは一つとして存在せず、例えネウロイの襲撃があったとしても発見は容易いだろう。
「らららー……らららー……るらららーらー……」
サーニャしかいない世界に、柔らかな歌声が流れる。
桃色に薄く色付く唇が振動すると、星々もそれに応じて光を強めるかのようだった。
サーニャは、足にはMig60を装備し、手には武骨な連発ロケット砲・フリーガーハマーを持っていた。
戦いのために装備に身を固めていても、彼女の可憐さは少しも損なわれることがなかった。逆に、戦場に咲く花を想起させて美しい。
―――――痛い。
その時。
サーニャの頭の中に、「声」が飛び込んできた。ラジオの放送ではない。
「?」
それは、鼓膜を通さず、脳に直接響く「声」だった。
サーニャは辺りを見回した。何時かのように、緑に輝く魔導針が、何かを捉えてしまったらしい。
空には、誰もいなかった。ネウロイも、ウィッチも。
(どこにいるの?)
酷く、寂しく、悲しい声だった。まるで――あくまで印象ではあるが――親に捨てられた子供のような。
聞こえたのは、ほんの一瞬だったが、サーニャの心は北風に吹かれたかのように凍えていた。
胸がきゅうと締め付けられる。一刻も早く探し出し、救わなければならない。
そんな感情に駆られて、サーニャは目を閉じて、次の声を待った。
何故、魔導針がそれを捉えたのか、や、一体何者の声なのか、などは、些細な疑問だった。
――――――苦しい。
来た。
サーニャは目を開いた。「声」に導かれるまま、体を下に傾ける。
まだ夜明けまで時間があったが、夜閑哨戒よりもこちらを優先すべきと即断した。
サーニャが辿り着いた先は、なんと連合軍第501統合戦闘航空団の基地だった。
仲間の誰かが、怪我をして倒れているのだろうか。しかし、「声」はサーニャに馴染みのない響きを持っていた。
声の発信源は、海岸にほど近い、林の中のようだ。
考えていても始まらない。躊躇すれば、何かが手遅れになるかも知れない。
サーニャは緩やかに高度、速度を下げ、木に接触しないよう微妙な距離を置いて、低空飛行した。
林の上空は静かだった。音を出すものは、サーニャの足を包むMig60だけだ。
(……静か、すぎる?)
梟や虫の鳴き声さえ聞こえてこない。
まるで、サーニャが空を飛んでいる間に、地上の生き物がすべて死に絶えてしまったかのように。
その想像は、あまり楽しいものではなかった。ネウロイという人類の天敵が存在するこの世界では、どんな悲劇でも起こり得るからだ。
サーニャは、不吉なイメージを追い出すために頭を振り………それを見つけた。
空に雲があれば、深い夜闇に隠れてしまっていただろう。だが、今夜はまったくの快晴で、満月を隠すものはなかった。
林の中で、一際背の高い木の根元。降り注ぐ月光によって薄められた木陰の中に、少年が力なく横たわっていた。
(いた!)
サーニャでなければ、発見できなかっただろう。
あまり見慣れない服を着た少年の顔は青を通り越して白く、口からは細すぎる息を吐いていた。
瞼は固く閉じられていて、一見すると、死んでいるように思えた。朝まで放っておけば、本当にそうなるかも知れない。
素性の知れない相手である。本来ならば、まず基地に連絡し、どう対応するか相談するべきだった。
だが、時間がない、という危機感がサーニャを無謀にさせた。
最低限の警戒もせず――ウィッチだから大丈夫、という過信もあった――サーニャは少年の前に降り立った。
近くに寄ってみても、少年から生気というものが感じられない。
消えかけた蝋燭のように、サーニャが息を吹きかけただけで、失われてしまいそうな命。
「あの……大丈夫、ですか?」
兎にも角にも、サーニャは少年に声をかけた。当然というべきか、返事はない。
しかし、
「…………」
少年は、ゆっくりと目を開いた。
まるで瞼にダンベルを乗せているかのようにゆっくりと、ではあったが、そうするだけの力は残っているようだ。
サーニャはひとまず安堵した。今すぐにどうこう、という状態ではないらしい。
少年の瞳は黒かった。
(扶桑の人、なのかな)
そこで、サーニャは同僚の宮藤芳佳を思い出し、次いで基地への連絡を思い出した。
もしも彼が何か傷を負って倒れていたなら、下手に動かすよりも、回復魔法が使える芳佳に来てもらった方がいい。
サーニャは、インカムを起動しようとし………できなかった。
汗に濡れた手で、首を締め付けられる感触。背中に軽い衝撃。
気付くと、サーニャは少年が横たわっていた大きな木から、少し離れた所に生えている木に背中を押し付けられていた。
そして、よく見ると皮膚が焼け焦げている右手で彼女の首を掴んでいるのは、一瞬前まで死体も同然だった、あの少年である。
「――――っ」
魔力による身体能力の強化は、並みの力持ちなら軽く捻れるパワーを、魔女に与えてくれる。
にも関わらず……サーニャがどれほど抵抗しても、少年の腕は岩の塊であるかの如く、微動だにしなかった。
武器であるフリーガーハマーは、運ばれる途中で落としたものか、少年の後ろに転がっている。
サーニャは瞬く間にパニックに陥った。
先程までは、全てに優先して救うべきと思った少年が、今はネウロイ以上の怪物に見えた。
「……これから、あんたが動かしていいのは口だけだ。俺も余裕がない。下手な真似は、あんたのためにならないぞ」
わかったか、と念を押してくる少年に、サーニャはどうにか頷いた。
混乱しきった頭では、他にどう答えればいいかわからなかった。
「よし。じゃあ、これからする質問に答えるんだ」
サーニャはごくりと固唾を飲んだ。
「まず……ここは、どこなんだ? 何という国だ?」
返答しやすくするためか、喉を締め付ける力が僅かに緩む。
この状態から逃げ出す、という選択肢がちらりとサーニャの頭を過った。
しかし、ストライカーユニットを履いた足では走ることもままならず、離陸するにも時間がかかる。
少年に追いつかれた時、怒り狂う彼にどんな目にあわせられるか、想像しただけでも恐ろしかった。
「ブリタニアの、連合軍第501統合戦闘航空団の基地、です」
「ブリタニア? イギリスのことか?」
「イギリス……ごめんなさい、わかりません」
少年の黒瞳に、疑いの色。
「……連合軍と言ったな。今は何年だ?」
「1944年です」
「………」
少年が口を閉ざす。考えを整理しているように見えた。
サーニャも、そうする必要があるかも知れない。少年の質問の意図が、まったくわからなかった。
彼は、ウィッチのことを快く思わない者達の使者であり、何か重大な機密に対する質問をされるのだと、サーニャは思っていたのだ。
しかし、少年が問いかけて来るのは、誰でも知っている、一般常識の再確認のようなものだった。
まるで、何十年にも渡る眠りから、たった今目覚めたかのように。
少年は、自分の中で何がしかの決着をつけたらしく、再び口を開いた。
「昼間、あんたの仲間らしいのを見た。空を飛べるらしいな。何者だ?」
えっ、と、サーニャは思わず声を漏らしてしまった。
例えどんな世間知らずでも、ネウロイと戦うウィッチの存在を、知らないなんてことは絶対にありえない。
それを、この少年はわざわざ訊ねて来るのだ。
今さら、どう答えればいいのか。困惑しきったサーニャは、口をもごつかせた。
「おい。そこに隠れている奴。あんたが答えてくれるのか」
突如として、少年はサーニャに目を向けたまま、何者かに向けて声を放った。
すると、
「………気付かれていたか」
サーニャから見て、右手の木の陰から、一人の女性が姿を現した。
右手の眼帯、手には扶桑刀。坂本美緒である。
サーニャは目を見開いた。美緒の強さは、彼女もよく知っている。
きっと、少年は簡単に叩き伏せられてしまうだろう………と、思うと同時に、一抹の不安が胸に浮かんだ。
少年は何か――サーニャを片手で押さえつけているのもそうだが――得体の知れない力を秘めている。
サーニャは、助けて、と叫ぶことができなかった。もしかすると、逃げて、と言う必要があるかも知れない。
「気配は絶っていたはずだが」
美緒がゆっくりとした足取りでこちらに近づいてくる。
少年は横目で彼女を睨んだ。サーニャの首にかかった手は、外れない。
「体臭は消えてない。心臓が動く音も聞こえた。あれじゃあ、俺にとっては隠れてる内には入らない」
「……貴様、何者だ」
「その質問は、先にこっちがしたんだ。悪いが、優先してもらうぞ」
美緒の左目が、ちらりとサーニャを見る。
「答えてやってもいいが、その前にサーニャを解放してくれ。私は少佐だ、彼女よりも多くのことを答えられるぞ」
「いいだろう」
意外なことに、少年はあっさりとサーニャの首から手を離した。
それでも、まだ締め付けられているような気がして、サーニャは首を撫でた。少しだけ、少年の体温が残っている。
「これでいいか?」
「ストライカーユニットを付けたままでは、彼女は歩けない。場所を入れ替えさせてくれ」
少年は肯定を示して顎を引くと、サーニャに背を向け、歩き出した。美緒もサーニャに向かって進み始める。
危険が自ら遠ざかっているというのに、サーニャの肌は、何故か粟立っていた。
少年と美緒の距離が縮まるにつれて、空気が硬度を増していくように感じられた。
一秒が一時間にも感じられる世界で、少年と美緒が無感動にすれ違う。真正面から向かい合っていた二人が、今度は背中を向け合う。
瞬転―――美緒は振り返り、鞘に納められたままの扶桑刀の先端を、少年のうなじに向けて放った。
最終更新:2013年01月31日 15:10