少なくともこの二十年間、眠りは、俺に安らぎをもたらしてはくれなかった。
かつて、彼に束の間の非現実を体験させてくれた夢。今は、現実にて彼が受けた傷に塩を塗り込む悪夢。
最初の内は、何度も何度も飛び起きた。

それが嫌で、俺は規則的な睡眠という習慣を捨てた。
戦って、戦って、デビルマンをして限界の疲労で気を失うように眠った。
起きた時の泥のような倦怠感も、悪夢に比べれば何のことはなかった。

今回もそうだ。治りかけだった体を無理に動かしたせいで、この様だ。
俺は暗闇の中にいた。
暗闇の中には何もない。喜びも、悲しみも、何もない。

できれば、ずっとここにいたかった。
ここなら、誰も俺を傷つけない。




――――酷い火傷……でも、どうして服の下に?




――――やはり、魔力を感じない。あの氷は何だったんだ?




――――彼が起きてから、聞くしかないわね。素直に答えてくれるといいのだけど……




まるで、深い湖の中に投げ落とされた石のように、暗闇の世界に声が沈んできた。

うるさい。起こすな。
頼むから、放っておいてくれ。

しかし、俺の願いは叶えられなかった。不意に、暗闇が光のメスに切り開かれる。
俺の意思に反して、俺の身体が覚醒しようとしているのだ。


お願いだ、やめてくれ。


俺は必死に抵抗した。果てしなく無駄な抵抗だった。
光がだんだん強くなっていく。暗闇はもう、暗くなかった。

俺は悲鳴を上げた。
釣り針に捕らわれ、水から引き上げられる魚は、こんな気分かも知れない。



ああ。



光が。



強く。



なって………



………………。





世界に光が満ちた時、俺が最初に見た物は、灰色の天井だった。
コンクリート、ではなく、石材で造られているらしい。
息を吸うと、黴や消毒液、その他の薬液の臭いが混じり合った刺激臭が鼻を刺す。

「………反吐が出そうだ」

俺は腹筋を使って、むくりと上半身を持ち上げた。下半身は、清潔なシーツの中に隠れている。
身に纏っているのは、純白の患者衣、のような物。さらさらとした肌触りだ。
俺は辺りを見回した。
周囲を囲む石造りの壁。横一列に並んだ、幾つかのパイプベッド。俺はその一番右端に寝かされていたようだ。

俺の他に―――彼は人間ではないが――誰もいない部屋は、驚くほど静かだった。

ここは、どうやら医務室らしい。研究室の類でないことに、俺は心から安堵した。
とはいえ、油断はできない。事の次第によっては、もっと酷い場所になる可能性がある。

(寝てる間に、全部終わらせてくれればいいものを)

俺はふっと苦笑した。
しかし、生きている以上、本能が生きろと命じて来る。
火傷は、軽い疼痛として残っているのみだ。全快とは言い難いものの、急に倒れることはないだろう。

見たところ、部屋の中に対超能力用のエネルギーフィールドなどが張られている様子はない。
壁を透過して逃げるか、テレポートを使うか。誰にも気づかれないようにここから逃げ出すのは簡単だ。

………そう、逃げ出すのは、簡単なのだ。

問題は、その先にある。

(変な黒い飛行機。空飛ぶ女達。青い海に空。溢れる緑。1945年。……屋根があって、壁も崩れてない建物)

何もかもが違う。何もかもがおかしい。

(いや、もしかして、おかしいのは俺だけか)

俺は、顎に手を当てて思考の海に沈んだ。
もし、俺の想像―――馬鹿げたことだが―――が正しいとしたら。
この世に、俺が帰る場所は、どこにもない。

…………どこにも。

その時、部屋の端の、扉が開かれる音。
俺は、気配がする方へゆっくりと顔を向けた。

こちらを皿のように丸くした目で見つめてくる、短い、栗色の髪の少女。
上にはセーラー服を着ているが、下にはあってしかるべきスカートはなく、紺色のスクール水着が覗いている。
昨晩の二人もそうだが、随分斬新なファッションだ。

少女が持っていた桶を落とした。
水が撒き散らされ、白いタオルが桶の淵から舌のように伸びる。
俺は何もしていない。何かしようと思えば何でもできたが、そんな気分ではなかった。
少女はくるりと反転すると、

「たたた隊長ー! 坂本さーん!」

などと叫びながら、今来た道を戻っていった。
追いかけて、捕まえて、絞める。そんな選択肢もあったが、俺はあえて放っておくことにした。
俺を生かしてここに連れて来たのなら、すぐに殺すつもりはないのだろう。
誰か人を呼ぶというのなら、それでも構わない。

聞きたいことは、山ほどあるのだ。



ややあって、医務室に入って来たのは、二人の女性だった。

一人は、やや緋色をした長い髪。
年の頃は二十代に入るかといったところだが、纏う雰囲気は不相応なまでに落ち着いている。
昼間、俺が黒い飛行機を戦っているのを見ていた一人だ。

もう一人は、顔見知り。
黒髪に眼帯、身に帯びた刀。以前、俺と戦った女だった。
彼女はのしのしと大股で俺の傍によると、顔を覗きこみ、豪快な笑い声を上げた。

「元気そうだな。まあ、三日も寝れば当たり前か。はっはっはっはっ」

「……三日も、か」

俺は片眉を下げた。
人間が近くにいるのに、よくそんなに長い間、寝ていられたものだ。

「しかし、まさか手負いに負けるとはな。いや、手負いだからこそか? とにかく、私もまだまだ精進が―――」

「美緒、個人的な話はそこまでにして」

もう一人の女性が、ぴしゃりと鋭く言い放つ。
眼帯女は、残念そうに「すまん、ミーナ」と後ろに下がった。
先程の、少女のセリフを参考にすれば、彼女の名前は坂本美緒か。知ったからといって、どうということもないが。

「偉い人らしいな、あんた」

俺はミーナと呼ばれた女性に目を向けて言った。彼女の表情は、鉄のように固かった。

「……私は連合軍第501統合戦闘航空団、通称ストライクウィッチーズ隊長、ミーナ・ディートリンデ・ヴィルケ
です」

「俺の名前は、俺だ。先に言っておくが、俺はどこかの国のスパイとか、殺し屋じゃあないぞ」

「………」

「たぶん、そういうことが聞きたかったんだろう。手間が省けたな?」

ミーナの呼吸が、僅かに乱れたのを、俺は感じた。
相手にみすみすペースを握らせるほど、俺は間抜けではない。
ただでさえ、三日間も無防備な姿を晒してしまったのだ。ここで、精神的に優位に立っておかなければならない。
ミーナは、多少の揺らぎは見せたものの、すぐに気を取り直し、俺に質問をぶつけた。

「では、なぜリトヴャク中尉を襲ったのですか? それに、ここにいる坂本少佐も」

「リトヴャク……ああ、あの時は俺も気が立ってたからな。聞きたいこともいろいろあった」

俺は美緒に目を向けた。

「そっちの方は……あのタイミングで攻撃するか、普通。俺があんたの部下を人質に取ったらどうするつもりだったんだ?」

「………まあ、私にも落ち度があったかもしれん。あまり睨まないでくれミーナ」

「お説教は後で、ね」

中尉だ少佐だと堅苦しい言葉が飛び交う割に、二人の間に漂う空気は柔らかなものだった。
階級が近いのか、それとも階級を越えた親友なのか。

和まれても、こちらがやりにくくなるだけだ。
俺は、話を一気に進めることにした。

「ところで、あんたはもう一つ、気にしなきゃいけないことがあるんじゃあないか?」

何のことだ、とミーナが首を傾げる。
俺は口端に笑みを寄せた。

「あんた、昼間、空で怪物を見ただろう」

「………ネウロイのことかしら」

「ネウロイ? それは、あの黒い飛行機か? それとも―――」

俺は瞼を閉じた。
再び開いた時、彼の目は、瞳と白目の境を無くして緑色に輝いていた。
ミーナがひっと息を呑み、美緒が反射的にか身構える。

俺の額を突き破り、櫛状の触角が一対、天井に向かって伸びる。
俺は掛けシーツを蹴飛ばし、ベッドの上に立った。
肉体の膨張に耐え切れず、患者衣が破れる。俺の皮膚は、すでにダークブルーに染まっていた。
背中から、蛾や蝶のような青い羽が生え、逆十字を描くように展開する。
両手の指先は杭の鋭さを得て、爪先は二本の鉤爪となる。
身長が二メートルに達すると、肉体の膨張が止まる。鎧のような、鋼の筋肉がゴム質の皮膚の下を走っている。

湧き上がる力を抑えきれず、俺は獣のように吠えた。
医務室の窓に張られたガラスが、悪魔の誕生に怯え、割れんばかりに震えた。

俺の複眼が、怪物を見たような顔で凍り付いたミーナと美緒を捉える。
デビルマンは見慣れていないようだ。すると、ネウロイと呼ばれたのは黒い飛行機の方か。

「―――こんな奴か?」

声帯が変化しているため、老人のようにしわがれた声。
ミーナの肩が揺れた。

「あなたは……あなたが……!」

「………やはり、そうだったか」

美緒が物知り顔で呟いた。

「私と戦った時、お前は氷の剣を使ったな。その日の昼、ネウロイと戦ってた奴も凍結の力を持っているようだったから、何か関連があるとは思っていたが……まさか、同一人物とはな」

ほう、と俺は驚きの声を上げた。どうやら、馬鹿ではないらしい。
感心はするが、気は許さない。謎の侵入者が、謎の怪物になったのだ。
今度こそ、俺を蜂の巣にする決断をするかもしれない。

「あなたは……何、なの? 魔力がないから、ウィッチでもない。ネウロイにも見えない。一体、何?」

ミーナは震える声を絞り出した。

さて、どう答えたものか。
彼女の言葉の中に、デーモンやデビルマンという単語が入っていない以上、俺のろくでもない想像は、当たっているとみて間違いない。
しかし、こんな馬鹿げたことを話して、信じてもらえるのだろうか。いや、信じてもらう必要はないが………

「ヴィルケ、だったな。あんた、パラレルワールドって信じるか?」
最終更新:2013年01月31日 15:11