俺は海辺に胡坐を掻きながら、視界いっぱいに広がる青い絨毯を眺めていた。
水平線にて空と交わり、寄せては返す永久を繰り返し、組めど尽きせぬ水また水。

一陣の風が彼方より吹き流れ、潮臭さを掬って俺の顔面にぶつかる。
それは、生命の母の息吹だった。

(こんな風に、海を眺めるのは久しぶりだな)

俺がいた地球の海は、見るも痛ましく汚れ切っていた。

人間達が、デーモンやデビルマンを葬るために放った核ミサイルや、様々な化学兵器。
そして、人知及ばぬ超能力同士の激突。
海の偉大なる自浄作用さえ超えて蔓延した毒素は、海中に住んでいた無数の生物の命を、根こそぎ奪ってしまった。

ただ腐臭が漂うだけのどす黒い水溜りを、わざわざ眺めたいと思う物好きはいない。
それでも、少し高く空を飛べば、嫌でも目に入って来るのだ。
その度に、あのなつかしき日々は、もう永久に戻らないのだと思い知らされる。

「……と、焼けたか」

ひく、と俺が鼻を動かすと、潮風を受けてもなお香る、焼けた魚の匂いがした。
俺の目の前で、炎が薪を喰らって燃え盛る。
その周囲では、六尾の魚が仲良く木の枝を口に突っ込まれ、火炙りの刑を受けていた。

魚獲りなど、そう難しいことではない。
ただ少し沖まで飛んで行って、氷の槍を水面に突き刺すだけだ。

火も、例えば念動力で分子の運動を激しくしてやれば簡単に点く。
俺は火を囲んでいる枝を一本手に取ると、そこに刺さっている魚を、尾鰭から丸かじりにした。

一口で半分、二口で頭まで。
脂の旨味と、内臓のほろ苦さが口中に広がる。

前の世界で何を食べて生きていたのか、俺は思い出そうとして、できなかった。
もしかしたら、何も食べていなかったのかも知れない。
戦い以外のことは、よく覚えていなかった。

二尾、三尾、四尾と次々胃の中に収めていく。足りなければ、また獲ってくればいい。
その時、

「もう、こんな所にいたの!」

突然、背中にぶち当てられた声に、俺は驚きもしなかった。
五分も前から、ぞろぞろと大人数を引き連れて近付いてくるミーナの気配を感じ取っていたのだ。
俺は空いた枝を炎の中に放り込むと、蠅が止まりそうなほど緩慢な動きで首を後ろにねじ曲げた。
そこには、怒り心頭といった表情のミーナと、その背後に知った顔、知らない顔の群れが立っている。

その中に、数日前の夜、俺が尋問した少女がいた。
名前は確か、サーニャ・V・リトヴャクだ。

彼女は俺と目が合うと、隣に立っている灰色の髪の少女の後ろに隠れた。
俺は無感動に視線を切り、ミーナに戻す。

「何処にいようと、俺の勝手だ」

「今朝は、貴方のことをみんなに挨拶するって言ったでしょう!」

俺は顔を顰めた。
そういえば昨日、医務室でそんなことを言われた気がする。
脳の片隅に、転がっているだけだが………

「出る、とは言わなかった筈だぞ」

焚き火に向かって、魔法使いの杖のように指を振る。
燃え盛っていた炎が一瞬にして消え、焼け焦げた薪に霜が降りた。

「それに、挨拶ってのはこれから仲良くする奴らがやるもんだ。そっちは知らないが、こっちにそのつもりはない」

ざわ、と場の空気が揺れる。
ミーナが俺のことをどう説明したにせよ、ここまで突き放された態度を取られるとは思っていなかっただろう。
湧き立つ怒り、不信、不快感が、空気を伝って俺の肌を引っ掻いた。

「あ、あのっ!」

群の中から、少女が一人、前に出て来る。宮藤芳佳だ。
手は後ろに、幼さの残る顔には慙愧の念。

「えっと、俺さん……でしたよね? 昨日は、本当にすみませんでした!」

昨日に引き続き、平謝りである。
さては、俺の不機嫌の理由が、自分の失態にあると思っているのか。
粥を浴びせられたからといって、つまらない怒りを持続させる俺ではない。
問題は、まったく別の所にあるのだ。

「こんな奴に謝る必要など無いぞ、宮藤」

群の中から上がった声に、芳佳が振り返る。
肩を怒らせて現れたのは、焦げ茶の髪を短いツインテールにした女だった。
瞳に宿る輝きは強く、俺に向けて敵意を矢のように飛ばしてくる。

別段、怖くもなんともない。
兎に睨まれて、それを恐れる獅子などこの世にはいない。
のしのしと大股で歩み寄って来る女を、俺はただ眺めていた。

「貴様、サーニャを襲ったそうだな」

何か、下品な誤解を招きそうな言い方だな、と俺は思った。
今さら、誰にどう思われようと知ったことではないが。

「ミーナが何と言おうと、私は仲間に手を出した奴を許すつもりはない。痛い目を見ない内に消えろ」

ほう、と俺は心の中で感嘆の声を上げた。

ミーナの口から、俺の正体は知らされている筈である。
俺が氷を操る魔物だと、知っている筈である。

その上で……この真正面から、痛い目を見ない内に消えろ、と俺に言うのだ。
腕に覚えがあるにしろ、単なる虚勢にしろ、俺にとって好ましい真っ直ぐさだった。
人間でなければ、もっと良かったのだが。

「あんた、名前は?」

俺は立ち上がりながら尋ねた。

「……ゲルトルート・バルクホルンだ」

「安心しろ、バルクホルン。俺はもう、あんたとその仲間を襲わない」

少なくとも、借りを返すまでは、と小声で付け加える。
俺は、目だけでちらりと芳佳の方を見た。彼女もこちらを見ているが、視線に気づいた様子はない。

「基地の建物の中にも入らない。もし入った時は、俺を撃てばいい」

幸い、野宿には慣れている。
汚染され尽くした別の地球に比べれば……いや、比べるのも失礼というものだ。

「ええっ、そんな! せっかく私が部屋に案内してあげようって思ってたのに!」

芳佳が場違いな悲鳴を上げる。
隣にいた少女が、「芳佳ちゃん、今はちょっと…」っとセーラー服の裾を引っ張った。

部屋まで用意されていたことに、俺は少しく驚いたが、要は目の届く場所に置いておきたいのだろう。
ただでさえ恩という鎖を首に巻かれているのに、その上、犬小屋に押し込まれては堪らない。
第一、人のにおいと気配に囲まれて、どうやって安眠しろというのか。

「俺はあんたらには近寄らないし、その内出ていく。ここらの土地を貸してもらうかわりに、ネウロイも倒してやる。悪くない条件だろ」

俺は全員の顔を見渡して言った。
彼女達は、期間限定ではあるが強力な兵器が手に入り、俺はじっくりと休養・情報収集が出来る。
しかもこの契約で、働くのは俺だけであり、彼女達は俺の存在を黙認するだけでいいのだ。
文句が出るとすれば、それは俺の口からの筈だ。

「だが……っ!」

それでもなお言い募ろうとするバルクホルンを、ミーナが片手を上げて制した。
悲しげに眦を下げ、俺と向かい合う。

「私は、これから一緒に戦っていく仲間として、貴方を迎えたいの。……自分を撃てなんて、言わないで」

その言葉を聞いて、俺は………何故だが、妙に腹が立った。
ミーナに飛びかかって、彼女の口を引き裂く自分を幻視した。
理由は、すぐに分かった。俺は苦々しく顔を歪めた。

(嬉しい、なんて思ったのか。俺は)


――――私は、これから一緒に戦っていく仲間として、貴方を迎えたいの。


耳の中でリピートされる声に、胸が高鳴る。
甘い響き。だが、その甘さが、俺には毒だった。
溺れれば、命さえ失いかねない毒だった。

(……馬鹿め、期待なんてするな。ただの言葉だぞ)

俺は首を横に振り、ミーナの声を頭の中から追い出した。
余韻を振り切るように軽く地面を蹴り、近くに生えていた木の枝の上に乗る。
大して太くもない枝は、揺れもせず、かさりとも音を立てなかった。
対空砲のように追いかけて来る幾つもの視線を振り返ることなく、俺は再び跳んだ。
やはり、枝は少しも揺れなかった。

「この世界に、俺の仲間はいない。一人もな」



「感じ悪いなー、あの俺って奴」

廊下に、シャーロット・E・イェーガー…通称シャーリーの辺り憚らぬ声が響く。
俺本人がその場におらず、またそれが聞く者達の総意であれば、誰も気を悪くすることはないだろう。
特に、サーニャと仲の良いエイラ・イルマタル・ユーティライネンは、鼻息も荒くシャーリーに同意した。

「感じ悪いどころか! アイツ、助けに行ったサーニャに襲いかかったんだろ! 何でぶった斬ってやらなかったんだ、少佐!?」

美緒がやらないのなら、自分がやってやるとばかりに、エイラが怒鳴り声を上げる。

「斬られそうになったのはこっちだ。あいつが手負いでなかったら、今頃私は墓の下だったろうな。はっはっはっ」

首筋に寒気が貼り付きそうなことを、美緒が豪気な笑いに乗せて言う。

「少佐にまで手を出すなんて……中佐は、本気であんな奴と肩を並べて戦えとおっしゃいますの!?」

美緒を慕うペリーヌが、目の前に俺がいれば噛み付きそうな顔で吠える。
ミーナは深く溜息をついた。

「敵に回すよりは、ずっといいわ。貴方達も見たでしょう? 彼の力を」

ペリーヌもシャーリーも、閉口するしかなかった。
小型のネウロイ十四機を軽々と蹴散らし、大型のネウロイ三機をまるで蠅のように容易く撃墜した蛾男。
それがが俺の変身した姿であることは、既にミーナの口から全員に語られていた。
しかも、その時の彼は全身に火傷を負った状態だったという。
そんな俺の、全快の状態と戦う。


果たして、苦戦、で済むかどうか。


途端に、沈黙が舞い落ちる。
ネウロイとは、何度も戦った。死を覚悟したことも数知れない。
だが、俺はネウロイではない。異世界―――眉唾ものだが―――より現れた、まったく別の異形である。
口では強気を吐き出しても、心には恐怖が泥濘のように纏わりつく。
心の底では、俺が敵対を選択しなかったことを、俺が自分達から離れて暮らすと宣言したことを、誰もが喜んだのだ。


彼に食ってかかったゲルトルートも、彼が文字通り消えてくれることを望んでいた。



豪気に笑う美緒も、それは殺されかけた恐怖を隠すために。



彼を仲間と呼んだミーナでさえ、無意識に。



………小さな拳を握り固め、何事か決心した顔の宮藤芳佳を除けば、だが。
最終更新:2013年01月31日 15:11