年がら年中私の周囲にいる補佐官が血相を変え、大統領執務室に飛び込んできたのは、冬の寒さも厳しくなってきたときのことだった。
「大統領、第109飛行隊の、最後のフライト[(*1)]が要撃に出ました。しばらくは持つでしょうが、本日以降のH空域の制空権の存続は断言できない状況にあります」
執務机の椅子に座りながら聞く戦況は、芳しいものではなかった。
このときばかりも婉曲的な表現で自軍の劣勢さを誤魔化す補佐官に、私は多少の苛立ちを覚えたが、これが官僚組織の日常である。背広の彼は、クソ真面目にもその"プロトコル"に従ったに過ぎない。
そして彼は、その"プロトコル"に従って、最重要国家計画の発動──政府の存続について仄めかした。
「これがラストチャンスです。大統領、お逃げください」
この戦争が始まってから──いつ「始まった」と言えるのか断言できる事象がないから、もっと前からかもしれないが──瑞州政府は政府の存続について詳しい検討を重ねてきた。様々なプランが作成されてきたが、補佐官が仄めかしたのはプランE-2、つまり首都瑞京の放棄、政府中枢機能の薩鹿川内市への移動である。「政府中枢機能」には、当然のことながら、大統領たる私も含まれる。プランE-2は、第1首都軍団が司令部としての機能を失い、隷下の部隊が部隊ごとの散発的な抵抗を始めたときに発動された。
しかし、私はプランE-2の発動を途中で中止した。軍の最高指揮官は逃げるべきでないことは、歴史が証明している。現在の瑞京には、逃げる途中にある難民や、死力を尽くして敵の侵攻を食い止める軍人、そして大統領府の最小限の機能維持スタッフしかいない。プランE-2の作戦目標は、大統領府の移動ただ一つのみを残して中止された。閣僚も官僚も、既に薩鹿川内に移動している。
ただ、現在の状況では、そのような甘いことは言っていられないだろう。プランE-2では、民間人の保護・後送も並行して行うことになっていた。瑞京が危ない今、瑞京にいる難民や軍人たちを逃がすためには、プランE-2の再発動が必要になる。
「お父さん──」
補佐官が開け放しにしていた執務室のドアから、二つの小さい頭がひょっこりと飛び出る。それぞれ10歳、7歳になる、私の可愛い子供たち。弟は既に泣きじゃくって顔はくしゃくしゃだが、姉の方はそれをなだめながら、私の顔を窺っている。
「そろそろ行かなきゃいけないんだよね?」
プランE-2が発動されたときから、私はさんざん疎開を家族に対して勧めていた。時には口論になることさえあった。それでもなお、私の家族は私と共に瑞州に残る決心をしていた。しかし長女は、もうこれ以上の我がままは通じないと思ったのだろう。自ら疎開の選択を切り出したのだ。
──本来は、私から言わなければならなかった。
「……うん、そうだね。もうここは安全じゃない」
今までも安全ではなかったはずだ。ここでも嘘をつく私を、また別の私が嘲笑する。
執務室の窓にふと目をやると、黒い龍と羽虫が空を舞う。一筋の燃え盛る流星をバックに、また突き刺さって爆ぜる槍を傍役に、蒼い蒼いこの空を踊り狂う。
「パパも行くんだよね?」
泣きじゃくる弟を抱く姉は、まるで聖女のようである一方で、死刑執行人のような、刺すような視線を私に向ける。それ以外の選択を許さない目。「いいえ」と言えば、梃子でも動かなくなってしまうだろう。
だが私は、この子たちをなんとしてでも動かす必要に迫られている。たとえそれが、私の嘘一覧表にまた一つ加えられるものだとしても、後にこの子たちから恨まれる嘘だとしても。
執務室前の廊下からドタバタと足音がする。ホープヒル[(*2)]の、ファーストファミリーの生活区画から姿を消した姉弟を捜すために、母親が走り回っているのだろう。私が口を開くのと、妻が執務室に飛び込んでくるのはほぼ同時だった。
「残った仕事を片付けなきゃいけないから、同じ車には乗れないよ。でもきっとすぐ行く。みんなが乗った車のすぐ後ろに追いつくさ。必ず」
ああ、また嘘が増えた。思えば私の人生は虚飾にまみれていた──公約だって果たせなかったし、勝てると踏んだこの戦争にも勝てなかった。日常の些細な虚言から、政治上の大きな虚勢まで、その全てが嘘に過ぎない。
「あなた──」
パパの邪魔をしちゃだめでしょ、とばかりに姉弟を抱きしめながら、妻が驚いた顔で私を見つめる。彼女は聡い。いつでも私の虚像を見透かしてくれた。いつもありのままを受け入れてくれたのは彼女だった。
「大統領、要撃機が1機、落とされました」
家族の時間に割って入りたくはないが、それでもやらなければならない仕事があるのは、この場にいた補佐官の不幸だった。肩を竦めながら淡々と述べる補佐官を見て、私はそれほどまでに、家族の会話に割って入らなければならないほど、事態が切迫していることを悟った。
「聞いた通りだ。プランE-2を再発動。現時刻をもって瑞京を完全放棄、大統領府を薩鹿川内に機能移譲する。瑞京内の残存部隊は、全力を以って民間人の保護・撤退作業に当たれ」
言うが早いか、執務室内に完全武装の陸軍兵士たちがなだれ込んできた。残っていた大統領府スタッフや、大統領、そしてファーストファミリーを護衛し、薩鹿川内に連れていくのが任務の精鋭部隊、アルファフォース[(*3)]である。ホープフル・ヒルの庭には、既にオネスト・ライダーズ[(*4)]のヘリコプターが待機していた。プランE-2の再開次第、私たちをすぐさま薩鹿川内に連れていく手筈であったのだ。
「大統領閣下、ファーストファミリーの皆様、補佐官殿、以降私が誘導します。着いてきてください」
アルファフォースの指揮官の言う通りに、屈強な兵士たちに囲まれた私の家族たちは廊下へと出て行く。続いて補佐官も出て行こうとするが、私はそれに待ったを掛けた。
「残務処理だ。──世話になった。後を頼む」
こちらを振り向いた若い補佐官は、まだあどけなさの残る顔に悲しみを滲ませた。
「今からでも遅くはありません。考え直してください」
私は首を横に振った。
「やれることはまだある。大統領になってから、多くを救うことを──少数の犠牲を交えながら実行してきた。今回はたまたま、その少数が私ってことになっただけだ」
私は一拍置いた。わざとではなかった。コンマ数秒の間、続けて言うのに逡巡したのだ。大統領の責務とは、なんと重く、辛いことなのだろうか。言いたくなかった。補佐官の言う通り、考え直したかった。
「家族を頼む」
補佐官は前を振り向いた。
「命に……代えても……ッ!」
そして補佐官は走り出した。二度と振り返ることはなかった。フル装備の兵士たちがそれについていくが、手に持った資料の束とバインダー以外は身軽な彼に追いつくのがやっとの様子だ。
「「パパ!」」
「あなた!」
私を呼び止める声に目を向けた。廊下の先に、兵士たちに抱えられた長女と長男がいる。妻も振り返って、こちらを見ている。
「──ずっと一緒だよ!約束だからね!」
目に涙を溜めた長女が叫ぶ。心が締め付けられる感触がする。
私は嘘つきだ。ひどくそう思う。今から、決して撤回できない──許されざる嘘を、自らの家族に対して吐くつもりであるのだ。
「ああ、すぐ行くさ。でも早く行った方がいいぞ。危ないからね」
その言葉を合図として、ファーストファミリーの護衛グループはまた廊下を進み始めた。後ろから、補佐官たちも追いかけていく。しかし、妻だけは私に向き直ったままでいた。
突き刺すような視線が私を見る。なるほど、娘の視線も母譲りか──そんなことを思うと、少し笑えてくる。しかし彼女の視線は、私に一切の表情の変化も許さないように厳しかった。
やがて彼女は、重苦しく口を開いた。それと同時に、無意識的に私も口を開いていた。最愛の人の言うことなど、言われなくてもとうに分かっていたのだ。
「──嘘つき」
「──愛してる」
そして彼女は前を向き直って、ゆっくり歩いて行った。
私を取り囲んでいる、大統領付の護衛──ちらほらシークレットサービスの面々も混じっている──は、この光景に目を白黒させていた。なぜ大統領は動かないのかと。なぜファーストファミリーや補佐官だけが先に走り出したのか、と。
彼らには悪いが、その任務を解いて、そのまま逃げてもらわなければならない。
「大統領命令だ。君たちは今すぐに私の護衛任務を解いて、今すぐヘリに飛び乗り、薩鹿川内に逃げろ。ここには、私以外を残すな」
彼らの困惑の色がますます深まる。しかし、命令には条件反射で従わなければならない彼らは、疑問を私にぶつけることより先に、身体が動いていた。
そして執務室には誰もいなくなった。私は赤いボタンを引き出しから取り出し、椅子から立って空を眺めた。
蒼空に、流星がまた一筋。相当分が悪いようだ。やはり奴らに、近代兵器は効きにくいようだ。
「時間稼ぎくらいにはなればいいが」
そして私は赤いボタンを押した。