人世の事も亦た猶お是くのごとし
―――『枕中記』沈既済
たまに忘れそうになるというか、事実忘れていることが多々あるのだが、白毛の身体には追跡装置がついている。
埋め込まれている、ではない。ついている。白毛の身体で生まれたままの箇所は、数えるほどしかない。他は機械か、あるいは遺伝子組替養殖豚由来の有機部品だ。
なぜそんな忘れていたことを思い出したかと言えば、出社時間をぶっちぎって完璧に寝坊したというのに、目の前には褐色のたわわな南半球がぽろりしていたからだった。追跡装置などなかったらこのまま文字通りぶっちぎって昨日の夜の続きを楽しむのだが、生憎と追跡装置は頭と胸と腰の骨の内側に設置されており、これらはどれか一つでも健在なら白毛の現在位置が分かるという優れモノだった。戦場でバラバラになっても回収ができるので安心しろと言われている気がしたので、白毛ははっきり言ってこの追跡装置と付き合い始めからこのかた、この装置を一度も好きになったことがなかった。
「いかんのう……いくらここがゴミゴミしてても、相手が大豊じゃからなぁ」
とりあえずシャツを羽織ってズボンを手元に手繰り寄せ、ショルダーバックから煙草を取り出してそれを咥えライターを探していると、褐色の南半球がぷるぷる身じろぎしてうーんと背伸びをした。
白毛が早くも急速に忘れつつある昨夜のことを思い出しながら、えがったなぁ、とによによしていると、咥えていた煙草がすぽっと捕られた。褐色肌の美麗な女性は、うっとりするような仕草で細い指をくねらせ煙草を咥え、悪戯っぽく微笑んだ。
ええなぁ、とによによしながら白毛は年季の入ったライターを取り出して、彼女の咥える煙草に火を点ける。彼女は煙草に火が付くのを確かめると、一口だけ吸ってそれを白毛の口に咥えさせた。
「吸ってもえがったのに。ええんか?」
「煙草の臭いが嫌って人も結構いるのよ、お爺ちゃん」
「あー……吸わんほうが良かったかのう」
「その分だけ奮発してくれる?」
「フーちゃん強かじゃのう。でもお爺ちゃん、そういうところ好きじゃよ」
「アタシも金払いの良い爺ちゃんは好きよ」
「うんでも正直すぎるとちょっと儂傷つくんじゃよ?」
うふふ、と微笑みながらしゅるしゅると衣服を手繰り寄せて出る準備を始める
フーリーヤを眺めながら、白毛はお支払いの準備をする。
馴染みの娘で知った仲のフーリーヤだから支払いは端末を使ってコーム払いだ。朧げな幼少期の記憶から、白毛は貧しい者に対しての支払いに色を付ける。付けすぎて、こいつはやばそうと相手にされなくなったことも何度かある。
人並みの金銭感覚が、白毛にはよく理解できないのだ。彼は貨幣制度よりも物々交換が主流の生まれであり、地区ごと記録から破棄された時以降、そもそも人並みの人権を享受することができなかった。
事実として、白毛は長い間、箱入りだった。物理的に。そんな御仁が未だに人並みの金銭感覚どころか、貨幣制度に疎いのは当然と言えた。
「こんなもんでどうじゃろ」
この前、別の娘にこんなもんでと言ってBASYOフレームのコアくらいの値段を支払ったら会社から警告されたので、白毛なりにやや低めに出した。それでも五万を支払ったので大分払い過ぎだった。もう少し奮発したら自社製の天槍の頭部が新品で買える値段だった。
服を着終えてその黒髪をさらっと手で撫で、自分の端末で入金額を確認したフーリーヤはくすっと笑い、白毛にしなだれかかった。白毛が頑張って倒れないようにしていると、フーリーヤは彼の白い髪をかき上げて細い首を露にし、そこにちゅっと口づけを落とした。
「またね、お爺ちゃん」
ひらひらと手を振りながらフーリーヤは足早に部屋を出て行った。
によによとしている白毛は気づかなかったしこの先気づきもしなかったが、バックにあった煙草はスラれて消えていた。
追跡装置にはある種のラグがあることを白毛はなんとなく知っていた。どうやら追跡装置はだいたい十分ごとに現在位置を送信するものらしかった。なので、ある程度の速度で移動し続ければある程度は持つ。
とはいえ、白毛の仙人模型改五型甲は速力五〇メートルで約十一秒、一〇〇メートルで約二十五秒とかいう女子小学生に捕まるレベルのゴミフィジカルだ。自力で何とかしようとするのは不可能だ。なので、頭を使う。
白毛は古き良き三輪タクシーのトゥクトゥクを拾って、その後ろに乗りながら次はどこでなにをするかとぼんやり考えた。まあ一日くらいサボってもええじゃろ、と、遅刻が確定された時点でこの男はもう、そう決めていた。
とりあえず小腹が空いたので十分以内に食い終えることを想定し、屋台のそばに止めてもらう。大豊の文化圏は商売と食、それを中心に回っている。ルビコン3のグリッド施設修繕が進むにつれ、こんな最前線にも文化圏が広がりつつあった。中には古びた強襲揚陸艇に自前の畑から文化圏のどこにでもあるがないと困るであろう漢方や香草、それらの種や畑そのものを移植して満載して商売をしにルビコン3に突っ込んでくる者もいる。まあ、商売のためならなんでもする浅ましさが大豊文化圏の悪いところでもあり、良いところでもある。白毛は特にどうとも思わないが。
「豆浆と油条頼むわい」
「へいよ。ってあら、白大人、こんな時間に朝飯っすか」
屋台は馴染みの顔がやっている店だ。白毛と愛機、正黄旗GII、そしてその機付き整備隊がルビコン入りすることになった際、一緒に乗り込んだ奴だった。
もともと正黄旗GIIの機付き整備隊、その火器担当の班長だったこの男は、作業中の事故で片足を潰して隊を離れ軍属になった。今では稼業の屋台を継いで、ルビコンなんぞで商いをやっている。
「ねーちゃんとえーことしとったら寝坊したんじゃ」
「そいつぁ、さぞ寝心地良かったでしょうな」
「目覚めはいつもの通りじゃけどな。もう慣れっこじゃが目が覚める時に眼の中がパチパチ弾けるのがむずがゆくって困るわい」
「ま、持病みたいなもんじゃないっすか、そりゃもう」
「こんなメカメカしい持病嫌じゃよ、儂」
「俺の脚だって歩くたびに骨が軋んでるような感触するんで同類っすよ」
「じゃあから、それが嫌なんじゃって」
ぶーぶー、と軒先でぶーたれている白毛を見ながら、店主は豪快に笑い、器にたっぷりと仄かに湯気のたつ豆乳を注いで、そこに辣油を入れて掻き回してから一つまみのネギを散らした。
あとは後ろから揚げて保温しておいた細い揚げパンを皿に三つほど乗せて、その二つを白毛の前にどんっと置いた。豆浆と油条、飾り気がなく安くて食える良い朝飯だ。
端末でさっさと支払いをすませると、白毛はまず初めにレンゲで豆浆を飲む。毎回、この男はたっぷりと入れるのでまずはこうして量を減らす。冷まさずとも火傷せず、しかし確かに温かい絶妙な温度加減で、大豆の味と塩味と辣油が混じり合って身体が温まる。
「しかし隊長、俺前から思ってるんですがね」
「ん、なんじゃ?」
「義体なのに飯食うんすね」
「義体言うても内臓は一部生ものじゃからなぁ」
「はへぇ」
そこそこ減らした豆浆に、油条をちゃぷちゃぷと浸して、それをはむっと白毛は口にする。
美味い。美味い朝食はいい。少しばかり残っていた気だるげな気持ちと、背中にへばりついていた眠気が徐々に消えていく。
のほほんとして飯を食う白毛を、店主は口端を釣り上げて笑い、腕を組む。馴染みの男の作る料理は美味かった。
白毛は二つ目の油条を食べ終え、店主がなにかを考え込むような顔をしているのを見た。
「なんじゃ、儂の中身について聞きたいか」
「隊長、まさか飯屋で内臓の話をする気か?」
「………せん方がええじゃろなぁ」
「しないでくれりゃあ、追い出さずにすむな」
「ほじゃろうなぁ。んじゃなんじゃその顔は」
「聞いて良いか悩んでんだよ。あそこの娘、ずっと隊長見てんだよ。隊長の孫か?」
「孫なんておらんわ馬鹿もんが」
むっすーと頬を膨らませ、そこに油条をぱくっと丸ごと頬張りつつ、白毛は店主が指さした方に顔を向ける。
油条をもぐもぐとしながら白毛が見つけたのは、なんというか自分の孫だと言われてもそうかもしれんと思ってしまいそうな女であった。色素が吹っ飛んだような毛髪が特に。いやでも白毛の孫と評するには少しと言うかかなり背丈が立派なので、やはり違うか。
女は数の足りない指でなにかの機械をぽちぽちと操作し、こっちを見た。こっちを見て、またぽちぽちと機械になにかしらを打ち込んでいた。
「あちゃぁ」
「まさか……、サボりか!?」
「サボっておらんわい。出社日なのを忘れておったんじゃ」
「それサボってんだよ生臭道士」
「小灰に見つかってもうたからこれ以上、忘れとったって言い訳は出来んじゃろなぁ」
「おいこっち見てなんか言ったらどうだ似非仙人おいこら」
「老人が!! 余生楽しんでるんじゃから!! すべこべ言うない!! このすかぽんたん!!」
「堂々とサボって昼前に朝飯食いに来た爺が逆切れすんなボケェ!!」
がるる、と効果音が付きそうな睨みあいを一〇秒ほど。
二人はほぼ同時になんて無駄な感情の発露だろうかと溜息をつきながら肩を落とす。
「坊主、叉燒包二つとパック売りの豆漿」
「豆漿も二つ?」
「二つじゃ。明日もここで開けてるかの?」
「ずっとここで開けてるんだよ、忘れてんだろ? 隊長、場所変えると分からなくなっちまうからな」
「……その通りじゃからなんも言えんわ」
してやったりという顔で店主は叉燒包二つを包んで、飲み口の付いたパックの豆漿を出した。
白毛が端末で支払いを済ませると、店主はにぃっと笑いながら、
「また食いに来てくれよな、隊長」
と言った。
なんかむかついたので手をひらひらさせて白毛は出て行った。
一応、また逃走するためにと待たせておいたトゥクトゥクのオヤジにも料金を支払って、白毛はこっちをじぃっと見つめている女のところに行った。
「小灰、食うかの?」
白毛がぐっと見上げながら無自覚に優しげな声でそう言うと、
灰烬はこくこくと二度首を縦に振って答えとした。
白毛は灰烬の持っている機械を持ってやって、数の足りない指でしっかりと叉燒包を持たせてやった。
もぐもぐと叉燒包を食べ始める灰烬を横目に、機械の画面を見てみると、
『スージー』『みつけた』『ここ』『こっちみた』
と位置情報付の会話ログが並んでいた。
これ絶対怒られるやつじゃ、と白毛が全力で渋い顔をしている横では、灰烬が黙々ときらきらと叉燒包を順調に小さくしていた。
それを遠目に見ていた店主は、老人が子供に餌付けするのはあの見た目になっても変わらねえんだな、というか爺やっぱ小せえな、と鼻で笑った。
叉燒包もまた、美味かった。
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最終更新:2023年11月26日 23:18