ロバの鳴き声とはどんなものなのだろうか、とスヘルデは間抜けなロバのぬいぐるみを眺めながら思った。
 ロバとは、哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属のアレだ。馬より小さく短足でとぼけた顔の、あのロバだ。小さい頃からスヘルデはあの動物が好きだったが、生憎と地球生まれでもなかったし近場にロバがいるような環境でもなかった。
 ロバは、どんな鳴き声をしているのだろうか。

 企業スパイによってベイラムが手に入れた第8世代型強化人間手術が始まるまさのその瞬間、全身麻酔で意識がなくなるその瞬間まで、スヘルデはそのことを考えていた。





 志願者の内、第8世代型強化人間となれたのは半数程だった。
 スヘルデは術後の回復がもっとも遅かったが、最終的には志願者の中でもっとも安定した成功例として、ベイラム殊功勲章が授与された。死亡した半数にも最も高潔な献身を記念して同じものが授与された。
 志願者の中でスヘルデは1番小柄だった。身長は153㎝しかない。とても色白で、血のように赤い髪とエメラルドグリーンの目がいつも遠くを見ている。誰も彼女を兵士だとは思わない。
 それでも彼女は徒手格闘訓練や射撃訓練では、他の隊員より常に頭一つ抜きんでていた。特に禅の領域に達するほどのその集中力と射撃能力は特出するもので、術後もその技能を変わらず保持していた。
 彼女の適応能力と集中力の高さに目を付けたベイラム教導兵団がまず初めにやらせたのは、木星戦争でのファーロンの戦術と文化的シミュレート、それによるアグレッサー課程の構築というものだった。彼女はまずファーロンの文化背景を調べ上げてそれを再現して順応することから始め、その次に運用兵器に見られる設計思想を確認し、最後に戦術面での考察を開始した。それによって出来上がった対ファーロン用のアグレッサー課程は細部が修正されベイラム教導兵団に取り入れられた。その結果のほどは元ファーロンのミシガンがそれを一瞥して二度見した後に熟読し始めたことからも有効なものと考えられた。
 正式にベイラム教導兵団入りしたスヘルデには、2度目のベイラム殊功勲章が授与が決まった。
 授与は簡素なものだ。彼女の上官となった背の高いアジア系の筋肉男のトンレサップのオフィスで、丸眼鏡をかけ黒髪をポニーテールに纏めた女性の書記バサックが隣席する。
 彼女に勲章を授与した後、トンレサップは彼女に、


「なにか不自由していることはないか。必要なものがあるなら取り寄せる準備があるぞ」


 と言った。
 スヘルデは口の形を数度変えた後に短く返した。


「ロバが鳴いている映像が欲しいです」


 書記バサックがくすくすと笑う中、トンレサップがその発言の意味を理解するまでに5秒ほどかかった。


「ロバっていうのは、あのロバか」

「哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属のアレです」

「そうか。それが鳴いている映像が欲しいと。意図は?」

「ロバの鳴き声とはどんなものなのか知りたいんです」

「そうか……そうか。………分かった。書記バサック、用意してやれ」

「承知しました」


 書記バサックがタブレット端末を操作する中で、スヘルデは短く「あっ」と言った。
 席に着こうとしていたトンレサップは席に着こうとした態勢で止まり、スヘルデを見た。
 先ほどの発言でかなり困惑していた彼は怪訝そうな眼をしていた。


「30口径のボルトアクションライフル、箱型弾倉で10発装填のもの。それとシングルカラムのセミオートマチック45口径も欲しいです」

「支給されているものとは違うが」

「支給されているものとは違うのが良いんです」

「…………そうか、分かった。書記バサック、それも都合しておいてくれ」


 大きな体を椅子に預けて、トンレサップスヘルデを再度見た。
 姿勢がいい。目つきもいい。注目すべき点を見る。ただ、この掴みづらい態度は生まれついてのものなのか。
 さっきからずっと書記のバサックがくすくすと笑っているのも目についた。問題児なら彼女は笑わないので、それはそれでいいことなのだが。


「下がって良し」

「了解しました」


 文句の付けようのない所作で、スヘルデトンレサップのオフィスから出て行った。
 欲しいものが与えられると聞いて、スヘルデの心はうきうきとしていた。
 一方で、トンレサップは書記バサックが耐えられないとばかりに腹を抱えて笑い始めたので、溜息をつくしかなかった。




 3日後に30口径のボルトアクションライフルと、45口径の拳銃が届いた。
 早速スヘルデは社内の屋外射撃場に足を運んで50メートル刻みで1000メートルまで慣らしで撃って、次に45口径拳銃で淡々とターゲットを穴だらけにする。
 良い気分だったので売店で黒無地のベースボールキャップを買って、それにシューティンググラスを乗せ、その状態で仕事をした。仕事終わりにはまた射撃場に行って銃を慣らした。

 1週間後、トンレサップの書記バサックからメールが届いた。楽しみたかったのでその日の仕事、自分の機体のACの調整作業を終わらせてから、開封した。
 サムネイルにロバがいた。かわいい。かわいいロバだ。スヘルデは興奮しながらロバのぬいぐるみを手繰り寄せて抱きしめて、再生ボタンを押した。
 ロバが柵の中を歩いていて、止まって、すぅっと長く息を吸った。スヘルデのエメラルドグリーンの瞳がキラキラと輝いた。


 取ってつけた声帯に無理やり空気を押し通したかのような、そんな鳴き声が響いた。


 輝いていたエメラルドグリーンの瞳から急速に光が失われ、緩んでいたスヘルデの唇がスンッと真一文字になった。
 彼女は人生で一番時間を無駄にしたという確信を得てうなだれた。動画はバサックの好意でいくつものロバの動画がつなげられていて、ロバが鳴く様子が延々と映っていた。
 ロバはかわいい。ぬいぐるみなんて最高に可愛い。耳も尻尾もかわいい。うん、かわいい。けれども、鳴き声だけは、


「………汚い」


 ぼそりと彼女は言った。
 楽しみだったことが楽しくなかったときの衝撃は計り知れない。
 虚無感と無力感に苛まれるスヘルデは翌日、自分の機体の名前を登録することになり、頭の中で鳴り響くロバの鳴き声から虚ろな目で、


《Screaming Donkey》


 とタイプして、登録した。
 絶望的な虚無感と無力感を前にして、彼女は入社してからさぼっていた禅の修行を再開した。
 禅をして、仕事をして、射撃場で一心不乱に撃ちまくり、禅をして、寝る。
 その繰り返しで彼女はなんとか持ち直した。辛かったが人生なんてそんなものだ。

 ただ、ロバの鳴き声はもううんざりだ。




関連項目



  • 書記バサック
最終更新:2023年11月26日 23:20