「う、ぐぉ、ゲホッゲホッ……」
喉がちぎれるような痛みと共に、今日も膝の上が吐瀉物で汚れた。
ベリウス地方の汚染市街の空気は、ひときわ喉に来る。
灰とも雪ともつかないものが、ひび割れた天井の隙間から積もってきている。
男は、錆だらけの電動車椅子に腰掛けながら、何百度目かもわからない、快適とは対極にある寝覚めを体験した。
いつもと違うのは、傍観する者が三人増えた事くらいだろう。もう一人、今のを見て真っ先に駆けつけてくれそうな人もいるが、こんな時に限って不在にしているらしい。
周辺200メートル以内に、一致する熱源反応が存在しない。
常であれば一人だった事を思えば、いくらか寂寥感も和らぐというものだ。
窓の外を眺めて、再び咳き込む。
識別名、
リビングデッド。
彼はずっとそう名乗っている。自虐のようなものだった。
元の名前は、何かの拍子に忘れてしまった。
彼の生まれ故郷はアーキバス社が統治していた。
経済格差が一向に是正される事なく、中小企業は吸収合併すれば良いだろうという、弱肉強食を絵に描いたような姿勢がまかり通っていた。
昨日まで仕事をしていた人間が、今日には路地裏で必死に残飯を探して回るなど、日常茶飯事だ。
それでいて、そういった人々への救済措置は形式上謳ってはいるが、その実態はといえば、低賃金で使い潰して食い扶持を減らしながら、中層以上の市民の福祉を担保するための生贄でしかない。
数多くの友人達が、そうして死んでいった。
大半の市民はそれを顧みようともせず、ただ「才能がなかった」などと曖昧な言い訳と共に、見捨てていくだけだった。
それをどうにかしたくて奮闘した。
その結果が、これだ。
“強化人間”とやらの技術のために使い捨てられた。
デモ活動に参列した人々も。
こうして寒さに震えている自分自身も。
もはや名前も思い出せなくなった妻も、娘も。
もう、妻子は生きてなどいないだろう。
最後に見た姿が、未だに脳裏に焼き付いている。
まずは両足から切り落とされ、次に手の指、手首、腕、肩、目と、実験を重ねるごとに少しずつレーザーで切り落とされていく様子。
本来、強化手術の実験の過程を被験者にすべて見せる必要など無い筈だが、おそらく被験者の逃げる気力を奪うためだろう。
自分だけが生き残ってしまった。
悲願たるスネイルへの復讐は、どこの誰とも知れぬ独立傭兵がスネイルを倒した事で、宙ぶらりんになってしまった。
もとより、今の自分の技術で敵う相手ではなく、さりとてこの身体では腕を磨くのも至難の業だった。
視聴中の動画が別のものに突然切り替わるような、混濁した意識は、記憶を上手く繋ぎ止められない。
両手の指は、さながら氷水に何日も浸して悴んだように動きがぎこちない。
両足の膝関節は、間にケーブルでも絡まっているのかというくらい、異物感が酷い。
全身の皮膚のうち、唇や頬、粘膜などの特に柔らかい箇所はナノマシン適合までの拒否反応で溶けていた。
絶え間なく頭痛と耳鳴りが精神を苛み、熟睡できた日などこの数年で数えるほどしかない。
スネイルという度し難い男は、
リビングデッドのような“成り損ない”を大勢生み出しながら、自らを強化手術でさらなる高みへと運んでいったという。
ならば
リビングデッドは、掃いて捨てるほどある“茶殻”のうち一摘みに過ぎないというわけだ。
勝てる道理などそもそもなかった。
それでも、せめてその独立傭兵、通称“ルビコンの解放者”が隣で戦ってくれたなら。
スネイルの断末魔を、耳にする事さえできたなら。
この手でとどめを刺す事さえ、できたなら。
今となっては叶わない願いだ。
だからこうして、燃え殻となって、本当に“生ける屍”同様の日々を過ごしていた。
つい、数日前くらいまでは、別にそれで良いと本気で思っていたのだ。
――今、三人組の独立傭兵チーム、
ソロリーヴスを、この隠れ家に連れ込んでいる。
混濁した意識の中に僅かに残された良心の呵責を、まるきり誤魔化してしまおうという自己欺瞞にほかならなかった。
グレイモンドはそんな
リビングデッドの酔狂に付き合ってくれている。
依頼主からはコックピット部分の破壊を避けろと言われていたが、パイロットを連れてこいとまでは言われていない。
であれば、せめてもの罪滅ぼしだ。
前途有望な若者達を戦場にいつまでも置いておくわけにも行くまい。
今持っているカネを渡せば、当面の間は食いつなげる。
自身の身体に使われている技術に価値はないから、渡せるのはカネだけだ。
インクラインは「打算で助けるほうがまだ傷は浅く済ませられる」と忠告していたが、
リビングデッドからすれば、余計なお世話だった。そんな合理的な判断をするのも億劫なくらい疲れ果てた今、伊達と酔狂の末に果てたところで後悔などするまい。
それで、しばらくはここに住まわせるという寸法だ。
汚染市街の住宅ビルは、水道こそ通っていないが、かつての住人達が残していった備品が大量にある。
今いる建物はエムロード様式で、停電時に解錠するタイプのものだ。随分前から、この建物の全てのドアは出入り自由になっている。
加えて電化製品はACのジェネレーターから電力を引っ張っていけば動かせる。
昨夜まずは、怪我の状態を見るために
ソロリーヴスの三人娘を着替えさせた。
(当然、プライバシーを尊重して個室もあてがった。部屋ならいくらでも余っている)
グレイモンドが「放っておけない」と言って、それなりに見栄えのする服を他所の部屋から見繕ってくれたのは、かなり助かった。
エレベーターが機能していないため、上下階の移動は困難を極めるためだ。
この守衛室と宿直室を行き来するくらいがせいぜいだ。
ソロリーヴス達の性別がわからないからと、
グレイモンドは様々な性別に対応して見繕ってくれた。
結局、サイズが合うのは女性用のデニムとブラウス、フライトジャケットだったらしく、三人揃って同じものを着ていた。
「ただいま! 市場で冷凍食品買ってきた! こいつで歓迎パーティしよう!」
今までの人生で一番のお人好し、
グレイモンドが帰ってきた。
善性の塊のような好青年だが、時々自前の携帯端末とにらめっこしながら行動を決めているような仕草を見せる。
そのうちなにかの拍子にとんでもない事をしでかしそうな予感がするが、今は静観するしかない。
「すまなイ」
きっと“壁”のほうならもう少し設備が充実していたのだろうが、生憎あの近辺は解放戦線の勢力下にあるため、居住権も解放戦線所属でなければ得られない。
一介の独立傭兵には敷居が高い。
冷凍のハンバーガーを加熱する電子レンジ程度の電力であれば、ACの指を動かすにも満たない。
電気代より、この冷凍食品のほうがむしろ高くつく。
封鎖が解除されたとはいえ、惑星外からの輸入物が実際の品質に対して奇妙なくらい高級品扱いになるのは、こうしたジャンクフードも例外ではないのだ。
製造拠点も、加工も、この惑星には無い。
味気ない栄養剤か、薬液の注入か、ミールワームか、はたまた死体の血肉から有害物質を除去したタンパク質粉末か。
かつての古巣では貧困層が半ば泥をすするような生活だった事を目の当たりにしていたが、惑星ルビコンはそれを超える劣悪さだった。
あらゆる暴力と暴虐と暴論と暴挙が土の中で静かに蠢動し、足を取られた獲物を容赦なく食い尽くしていく。
リビングデッドが、かつて危惧して声を上げてきた事すべてを放置したら、きっとその果てがこうなのだろう。
茫洋と、外を眺めた。
窓の途中までで止まっている防火シャッターから見える空は、相変わらず煤けたような灰色だった。
ピー、ピー。
電子レンジの音が、馳走の出来上がりを報せる。
出来上がったのは5個。
人数分だ。
リビングデッドは、自分の分は不要であると伝えた筈だった。
おそらく
グレイモンドは気を利かせてくれたのだろう。
「じゃあ、俺は見回りをしてくるから、ゆっくりしててな」
「ありがとウ。調べ物は任せてくレ」
「ああ、頼んだ。いつか必ずこの子達から発信機を取り出して、人間に戻そう」
……
リビングデッドの衰えた消化器官では、この両手に乗ったひとつのハンバーガーですら、食えない。
歪な三等分と一欠片にちぎって、
ソロリーヴス達の皿へ取り分け、自分は一欠片だけ口にした。
それも、唇の半壊した口で、努めて咀嚼音を立てぬように。
こんなたった一口ですら、脂が臓腑に重くのしかかるようだった。
「ウーヌス、ドゥアエ、トリア」
しわがれた声で、三人のものと思しき名を呼びかけた。
「……何?」
三人が一様に、全く同じ表情で向き直った。
まるで、一つの動作が同時並行で実行されるような。
とはいえ気味の悪い事などというものはおおよそ自身の身体で散々体験してきた。不本意極まりないが、もう慣れきっている。
それにしても、想像よりずっと低い声だ。
声変わり途中の男性が、こんな感じの声だろうか、と
リビングデッドは己の胡乱な記憶を手繰り寄せて推論した。
「しばらくここで暮らすのがイイ。何かされテ、人間ではなくなってしまった君タチが、いつか、普通の人生ヲ……」
三人は少しだけ間を置いて、順繰りに口を開いた。
「ケイト・マークソンより伝言」
「友人達は望んでこの境遇となりました」
「半端な情けをかけるくらいなら、返却の手続きを」
同じ顔、同じ表情。
同じ声、同じ平坦な調子。
原稿を読み上げているかのような無機質さだった。
それにしても返却だと。
物みたいに言ってくれる。
「こんな年端も行かぬ子供ヲ“返却”とは……随分な友人だナ」
友達付き合いは選んだほうがいい。これからは、人間扱いしてくれる人を探そう。
と言おうとしたが、直前に割り込んできたACのマニピュレーターに話を遮られた。
『メル友から座標を聞いてみれば、とんだボロアパートに連れ込んでくれたじゃん……』
腕部にも搭載されたスピーカーから聞こえてきたのは、気怠げな若い女性の声だった。
リビングデッドは、車椅子からパルスライフルを取り出して構える。
人間がACに向けて撃つので牽制にもなるかどうか怪しいところだが、何もしないよりはマシだ。
が、抵抗むなしくACのマニピュレーターに跳ね飛ばされた。
「ウゥ!?」
――ズシン。
車椅子は横転し、
リビングデッドはひび割れた床へと放り出された。
首からかけておいたペンダントがちぎれ、床に転がる。
『まーいっか! ソロぴ達、乗って! お姉さんが養ってあげゆ! そうそう、そんな感じで! いい子ね~!』
なんだろう、その“ソロぴ”などという安直にすぎるあだ名は。
だが
ソロリーヴス達は、無表情で次々とマニピュレーターに乗っていく。
予定調和だったかのように。
見上げれば、桃色のACはこちらを捕捉している。
もう、完全に“詰み”だ。この身体では逃げられない。
……コックピットが開き、
ソロリーヴス達が乗り込んでいく。
代わりに、ACのパイロットが出てきた。
ソロリーヴスの一人、ウーヌスにヘルメットを「ちょっとこれ持っててね。シャワーは今朝浴びたけど、匂いは大丈夫?」と手渡した。
つまり、パイロットの女性は素顔でこちらへ来た。
一体、何のつもりだろうと
リビングデッドは訝しむ。
こちらへ拳銃を構えながら、悠然と歩み寄ってくる。
「写真と全然違うじゃん。ふざっけんなよケイトのやつ……」
「オま、エは……?」
「どーも、
リビングデッドさん。バツイチのイケオジも悪くないって思って立ち寄っただけの清純派独立傭兵です」
襲撃者の女性は露骨に眉根を寄せて、目を逸らす。
「……と~ころでさぁ~。リビおじ、その様子だとあと半年以内には死んじゃうけど大丈夫そ?」
“リビおじ”などというあだ名がしっくり来るかどうかは、さておこう。
「構わなイ、いつ死んでも。ただ、こんな身体じゃあ、自殺もできなイ」
「奥さんと娘さんがまだ生きていて、この惑星(ほし)に来ているとしても?」
「――ッ!?」
そんな馬鹿な。
ありえない。
あってはならない事だ。
だいたい、何のためにそんな情報を?
リビングデッドの錆びついた脳髄は、悲鳴を上げていた。
眼の前の、ふざけた女は、今何を!?
「ウソだと思ってるんでしょ。そんなコトないからね? 座標データ送るから、会ってあげなよ。ま、行き方は好きにしたらいいと思うよ。さっき会ったイケメンに免じてサービス」
「!?」
網膜デバイスの端に、地図と座標データがポップした。
ノイズが多く、あまり長い間見続けると目が疲れそうだ。
「それでリビおじには悪いんだケド、あのAC、ちょっと壊しちゃうね? こっちは楽に勝てて、リビおじは生き残る。Win-winな取引ってワケ。じゃ、決定! アデュー!」
言い終えるやいなや、乗り込んだコックピットからハッチを閉じる。
リビングデッドが手を伸ばし、口を開く前に、小さな爆発音と、金属のひしゃげる音が辺りに響いた。
おそらく乗機デッドストックのコックピットは、黒焦げになっているのだろう。
鈍くなった頭でも、これが被害を最小限にしつつ、一応の名目の通りに依頼を達成する方法である事くらいは理解できた。
――家族が、生きていた。
それは……迎えに行けなかった己の臆病さと自らの選択の結果を、否応なしに直視せねばならなかった。
飛び上がりたいほどに嬉しい筈なのに、死にかけの汗腺がなけなしの脂汗を精一杯絞り出していた。
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最終更新:2023年12月10日 14:23