車椅子から見たアリーナは、普段より広く見える。自分がちっぽけに見えると言うべきか。
見るがいい、あの究極的に公平な戦場を。炸薬と光が飛び交う舞台を。戦場での命の張り合いとはまた違う、闘志のぶつかり合い。盛り上がるのも納得がいく。
だが悦びを求めて来たわけではない。老人がそこに来たのは、クライアントがどんな戦いぶりをするのか確認するためだった。
「馬鹿者が……」
ハナから期待していなかったが、やはり機体を使いこなせているとは言い難かった。FCSは近距離戦闘用だと言ったのにも関わらず、パイロットは敵に突っ込もうとしない。装甲を厚くしたのは何のためだ?
ハンドガンは当たらないと錯覚して、闇雲にリニアライフルを撃っている。距離にあまり影響されないリニアライフルの採用は「戦い方を知らん奴でも戦えるように」という老婆心からだったが、案の定と言うべきか。
ああ、きっとこれは後で文句を言われる。甘んじて受けてやろう、度が過ぎればぶん殴ってやる。
ため息を一つ、車椅子を動かしながら帰路につく。何処となく懐かしい歓楽街を通ると、路地裏に佇む子供が一人、賑やかな街に目を向けていた。老人はふとその子供の方へ進路を変え、アリーナの観戦の際に貰った飴玉を、一つ渡す。
疑り深い子供は、手を伸ばすのを一度は躊躇った。だがすぐさま強奪するかのように飴玉を掴んで、路地裏の奥へ姿を消していった。
ああ。こんなことまで懐かしい。良い場所だ。偏屈爺でも気分は良くなるもので、歓楽街など彼からすれば単なる通り道だったのに、珍しく何か食べて帰ろうと、目についた飯店に入る。
狭い店内では、どうやら相席が基本のようだった。老人の目の前にいる白髪の子供が、手慣れたように注文して料理を頬張る。軽く一品ほど食べるつもりでいたが、実に美味そうに食べるものだから食欲が煽られ、老人の胃には重いものを合計三品は食べる羽目になった。
まあ、今日は別に仕事があるわけでもないし、冷めてもゆっくり食べるか、と思っていたら、酒を飲んだ子供がこちらに話しかけてきた。老人は酒を飲むのを止めようとするのを遮られた。
「お前さん、こっちの言葉が上手いの」
「……嫌でも覚えるさ」
「ほんなら、ここに住んで長いんか?」
「いいや」
「ほうか」
単に気になっただけだったのか、そこで会話は終わってしまった。子供がまた食べ始めたのを見て、老人はゆっくりと炒飯を咀嚼する。
こちらが一皿を食べ切ったところで、子供は既に置かれていた皿を食べ切っていた。子供は取り出した端末で支払いを済ませると、そのまま店を出ていった。結局、酒を飲んだことに注意する暇はなかった。
「……ありゃあ、また忘れてら」
近くにいた客が一人、こっちのテーブルを見て呟く。確かに、テーブルの隅にさっき触っていたであろう端末がぽつんと寂しく置かれている。
「おかみさん、白大人がまた忘れ物だぁ!」
厨房に大きな声が飛んでいく。
「ええ?今手が離せんのよ、誰か渡してきとくれ!」
すぐに返事が来た。
「なんでえ、預かってくれりゃいいのに。なあ?」
別席の酔った客が、老人に同意を求めるように絡んできた。老人は食事中だったところを突然忘れ物の話題に巻き込まれて、内容を理解できていなかった。軽く同意の相槌を打つ。
それに被せるようにして、ほろ酔い男は名案を思いついたとばかりに老人へ提案した。
「あんたが持ってきなよ。相席だったんだからさ」
「あ?一体何の────」
「店出たら見えるところにいるからよ、そこの端末持ってってやりな」
カッカッカと笑う男。老人は呆れたように端末を持つ。どうやら相席していた子供が忘れ物をしたようだ、と把握することに時間はかからない。
「おかみさん、俺が持っていく。食べかけの料理は片付けないでくれ」
「はいよ、ありがとね!」
なるべく大きな声を出せば、反応はある。まだ幼い兵士だった頃の教訓である。
なるほど、ほろ酔い男の言葉は正しかった。まだ見える位置にあの子供がいる。小柄な白髪がよく目立っていた。
車椅子を動かし、追いかける。子供は度々ふらつきながらゆっくりと歩いていたため、大した速度も出さずに追いついた。
「坊や、忘れ物だ」
「おん?……おお、こりゃ手間をかけさせたようじゃ」
「しょっちゅう忘れ物してんのか、お前」
「ん〜まあ、ほれ、歳食うと、の……」
こめかみ近くで指をくるくると回し、ふにゃ、と微笑む子供。受け取った端末を操作して、中身が無事かを確認する。うんうん、と頷いたのを見る限り、特に問題は無いと分かったようだった。
だが老人はその反応には大して興味がなかった。子供が語った内容に混乱して、状況を把握する余裕が欠けている。その話しぶりは、まるで何十年も生きているかのような。
「……まだ若いだろ」
「ん〜ん。これでも老いぼれじゃよ……いや、お前さんは知らんで当然じゃな」
これも何かの縁だとばかりに、ごそごそと懐から名刺を取り出す。端末を使えばよいのに、と思ったが、その端末を持たない者も少なくはないのだろう。あの路地裏の子供のような、貧しい人間などは特に。
老人は名刺に記載された名を見て、狼狽えた。
「白……毛」
「……どうかしたんか?」
老人は震えていた。視界が滲む。ああ、確かに、客の一人が言っていた。『白大人』。そうか。白毛。
老人にとって、それは忘れることのない名前だった。子供に物を恵んだあの時の懐かしさは、これのせいだ。
良い街だ。本当に良い街だ。
ようやく。だが。それでも。しかし。
老いてなおまだ無事に残る脳には、激化したプラスとマイナスの感情が無数にあった。
+
|
そして、混濁した記憶も、共にそこにある。 |
幼い頃の老人に家族はいなかった。親の顔を知らず、家があるのかも分からない。きっと、その生活圏で最も貧しい者の一人で、最も生きることに貪欲な一人でもあった。
彼はずっと孤独だった。子供は無邪気かつ邪悪であるが故に、気持ちの悪い孤児の彼を害しては喜ぶ。大人はそもそも見向きもしない。
かつての生活の基本は弱肉強食だった。小動物を殺し、ギラつく太陽の下に死骸を置いて、干からびたものを噛み締めて飢えをしのいだ。残飯はご馳走だ。とにかく奪い、漁ることでしか生きていられない。
だからある日の少年は、輝いて見えた。
理由は分からないが、少年にひとつ、飴玉を施された。あの記憶は今も鮮明に残っている。幼い頃に受け取った、初めての親切だった。
その少年を「兄貴」と呼んで慕い始めたのはそれからだった。当時の彼が認めてくれていたかはともかく。汚らしいなりに小綺麗にして、ついていくことさえあった。
ある日、住処の外は鉄臭さと土煙で充満していた。というより、それ以外が失われていた。知らない光景だ。太陽がいつも以上におぞましい熱を篭もらせている。
住処が巻き込まれなかったことを、彼は寂しく思った。子供ながらに、街にはお前の居場所などないと言われたように感じた。
希死念慮は誰にでも起こりうる。彼はその孤独を見て初めて、必死に生き延びることを、手放そうと考えた。どうせなら、俺も連れていってくれたらよかったのに。そんな資格もないのか。
打ちひしがれた子供に向かって、見覚えのない大人が近付いてくる。まるで死神のようだ。さも当然のように、子供の首へ。
目を覚ますと、自分は歩けなくなっていた。動けない体を大人たちが持ち上げ、機械の中に乗せる。
「───、出撃時間だ」
教え込まれた名であろうものを呼ばれて、轟音の響く世界へと押し込まれる。見るがいい、あの閑散とした地獄の再現を。絶対に子供が見て良いものではない。が、殺すことで生きてきた子供には、変わらない世界でもあった。ただ、知っているより煩いだけだ。
とはいえ、訓練もまともに受けていない新兵というのは、どれだけの才能があっても精神的には鳥の雛のようなもの。戦場の親鳥に、彼は無意識についていく。それが敬愛する兄貴だとは、その時は知らなかったのだが。
実際にその判断は正解だった。子供は生き残り、次回の作戦にも投入されることが決まった。殆どの功績は兄貴の方にあり、彼は一方的に助けられていただけだったのだが。あの時の大人の、強化人間技術を賛美する声が響く。
どうでもいい。自分が認められているわけじゃない。あのACパイロットに助けられたのだ。自分が生き残ったのは、あの人がくれた奇跡だ。彼の優先順位は、同じ戦場にいた人物にあった。あの人は今どうしているのだろう。大人なら何か知っているだろうか。
聞かなければよかった。
「彼は出られないんだ」
ACから降りたら、生きていられない。嘘ではないことは理解できた。何時ぞやに車椅子を用意してくれた、冴えないが優しい大人だ。酷く迷って、苦虫を噛み潰したような顔で教えてくれた。
奇跡を見せてくれた人物は、惨たらしい現実に置かれている。どうして?
あるいは、自分も?
後悔に終わりはない。彼を見つけた場所は。
「───────」
よく知っている。
死の恐怖よりも恐ろしいものが、世界にはあるのだと知った。
次に投入された戦場でも、その恐怖はコクピットの至るところに張り付いていた。アラートが鳴る度に必死になって回避し、感情の抑制も出来ていない精神はヤケになってマシンガンを乱射する。射程外だ、当たるはずもない。アラートの正体は大型の垂直ミサイルで、ずっと遠くの砲台から放たれていたから。センサーの表示は敵の砲台を示し続けていたが、もはや各種情報を処理できるような冷静さは消滅していた。
姿勢制御が効かないことも理解できていない。
赤い光が明滅する。
恐怖が完全な支配をもたらした時、彼のACは爆ぜた。
ACの平たい頭部を、直撃した大型垂直ミサイルが吹き飛ばし、コア上部を重い衝撃で破壊した。その圧は当然内部のパイロットにも降り掛かる。以前のように衝撃をなるべく殺すこともできず、体は揺らされ、繋げられたケーブルが無理やりに引きちぎられる。
彼の意識はとうに消えていた。きっと大人たちには戦死の報が飛んでいただろう。戦場が静寂に包まれた後も、回収は来なかった。
誰にも届かない唯一の生存証明は、機体が完全には死んでいなかったこと。
目を覚ますと、周囲は酷い有様だった。片腕は力なくぶら下がっている。肘が本来と逆の向きに曲がっていた。
こういう時にどうするかはよく知っている。モニターの破片を歯で咥え、腕を掴み、一気に元の位置へ。
「ぁ──────ッ、───────ッ!!」
激痛を和らげる為の叫びが、噛み締めていた破片の落ちた音をかき消した。破片は口に小さな切り傷を作る。戦場の苦悶に恐怖する。痛みは死ぬよりも恐ろしい。
追い詰められた精神は、唯一繋がっていたケーブルを介して恐怖を書き連ねていく。放置された今の状況は、彼の本能には好都合だった。
彼はその場から逃げた。機体反応は消えている。ACの姿勢制御は働かず、上手く動けない。武装も無い。もう死にたくない。機体が軋み、泣き声を上げる。
一抹の罪悪感がケーブル内を通過したのを、彼は見つけられなかった。彼は傲慢に、兄貴を捨てたと思い込んだのだ。
兄貴の乗機と同じACの存在がパイロット『白毛』の名声と共に広まるのを、すっかり大人になった彼は見つめていた。最初に知ったのは、傭兵の仕事を始めたばかりのACの中だった。
俺に彼を讃える権利はない。白毛、白毛の兄貴。ごめんよ。俺はこのジャンク品のACを扱う資格もないのに。ごめん。その新しい名前を、俺が口にしちゃだめだ。ごめんなさい。
すっかり古くなったケーブルを伝う情報は、更なる記録を書き連ねる。過去と今が混ざる歪な文字が、彼さえも知らない情報のスープに溶け込んでいった。
|
老人の抱いた激情にどれだけの理由があったのか、老人自身も理解できない。唐突な予定外の再会とは得てしてそういうものだが、彼の受けた衝撃は統制を決壊させ、濁流が流れ出した。
「本当に、白毛、の……兄貴なのか」
「あに……?儂に弟はおらんが……」
「あ、ぁ……分かるわけねえ、こんな爺になっちまった、俺は、逃げて、あんたを……あんたを捨てて……お、俺は─────、」
嬉し涙に悔恨が混ざる。かつての名を、もう捨てた名を漏らすほどに、老人は後悔に苛まれ、贖罪に飢えている。
自分を兄貴と呼んで震える老人。彼が摘んでいる名刺にシワができている。白毛は少し困った。
知らない名だ。
「むう……すまんが、わからん……」
「───────」
「もうちっと、」
「そうだな、そうだ、知ってるはずがッ、分かるはずがねえ……は、はは……すまん、あに……いや白大人、人違いだ……ごめん」
詳しく教えてくれんか、と伝えるつもりだったところを、老人が遮る。そのまま老人は踵を返し、車椅子を動かして去っていった。白毛は知ろうとすらできず、取り残される。
「……話は最後まで聞かんかい」
知らなくて当たり前だ。義体となって、それより昔の記憶は殆ど消えている。今も残っているのは、空からの輝きと地を進む暴力。それ以外を思い出せない。
自分を兄貴と呼ぶ知らない老人。その呼び名が下手くそな詐欺でないのなら、一つくらいは良い思い出話が聞けたかもしれないのに。
「どっかで会ったんじゃろか……」
老人は店に戻ってきた。泣き腫らした沈痛な面持ちが嫌な空気を纏ったのか、入った時、客が一瞬言葉に詰まる。
「……おかみさん、持ち帰りはできるかね」
「あ……ああ、できるよ」
注文を捌ききって客の様子を見ていた店主も、同様に言葉が詰まり、返答に遅れた。食べ残していた炒飯と餃子、八宝菜を持ち帰り用の器に入れ、密封させて老人に渡す。袋に入った品々を、老人は大事そうに抱えた。
「器、返さなくて大丈夫だからね」
「……ありがとう」
端末から精算して、老人は店を出ていった。
拠点に戻り、持ち帰った料理を食べ始める。冷めても美味い。
おかみさんの心ばかりの慰めだったのか、肉まんが一つ入っていた。帰路は長かったにも関わらず、蓋を開けると未だ出来たての状態だった。
良い街だ。本当に。
忘れられているなら、それでもいい。兄貴は、あの人は生きていたのだから。
孤独には慣れている。人の繋がりは、あの子供に飴玉を渡した時くらいで充分だ。あの子供もじきに忘れる。
時が来れば人は忘れる。当たり前のことだ。
罪の精算など、しようもないだろう。
しかし、彼は愚かな老人だ。
いくら自分に言い聞かせても、諦めきれないのだから。
関連項目
最終更新:2024年03月07日 13:46