ああ、なにものも滅びぬのに、なにものかが嘆く。

 ―――バイロン







 メタウロのやるべきことは、たくさんある。
 朝起きて身だしなみを整えて今日被る帽子と手持ちの杖か傘を選び、五枚のプレーンクラッカーと一杯の珈琲を飲む。
 靴を履くときは右足から、自室を出る時にノブに手を掛ける手は左手で、部屋の外に出たらつま先を左右どちらも床に三度打ち付ける。
 廊下を歩く時、メタウロは踵を慣らすように歩く。手に持っている杖や傘で床を突くことはしない。走らない。早歩きは許される。
 会釈をするときは帽子を必ず軽く上げながら、会釈をする。敬礼をするときは、踵で音を鳴らして敬礼をする。
 そうして、日々の仕事に臨む。今日はマッケンジー隊が偵察に出ていて、スカマンドロス隊は即応待機。即応待機状態では各ACの格納庫を中心に行動半径が決まっている。
 更衣室でパイロットスーツに着替えている時、メタウロは更衣室でザルカと少しだけ他愛のない話をする。男の愚痴になる度に、メタウロはやんわりと話題を逸らす。
 ヒール付きのパイロットスーツに右足から足を入れ、身を包み、メタウロはつま先を左右どちらも床に三度打ち付ける。更衣室から出る時は、左手を。


「ザルカ、メタウロ」


 詰所には既にスカマンドロスが居て腕を組み椅子に座っていた。
 ベイラムの社是の体現者と謳われるトップエリートなだけあって、真面目だとメタウロはザルカより少しタイミングを遅らせて礼をする。
 そうするとスカマンドロスの視線はまずザルカに行く。二番目の小さな女は横目で十分だ。スカマンドロスは気にしないが、ザルカは気にするだろうから。


「今日の資料はそこにあるわ。上層部が偽情報を流したようだから、今日は何か起こりそうよ」

「何が起きても隊長なら対処できますよ。土着どもやアーキバスに後れを取ることはありません」

「もちろん、そのつもりよ」


 資料を手に取り、ザルカに渡す。自分の分は次に取る。
 やるべきことは、たくさんある。これもその一つ。資料を読む。
 マッケンジー隊は解放戦線側へ威力偵察に、アンコール分隊はスカマンドロス隊の四脚MT部隊と共にアーキバス側へ攻撃を。
 両手を使って左右の相手を殴っているような状況。こういう時に使われがちな大豊は地元のドーザー拠点への作戦実施中とのことで戦力供出を渋ったとか。
 結果、スカマンドロス隊が即応待機。手元にクイーンの駒があるのならと、盤面を見て上層部は餌を撒いたらしかった。


「ザルカはガドリエルと組んで。リオと私がツートップ、メタウロが支援。いつも通りよ」


 甲斐甲斐しく珈琲を淹れてきたザルカからカップを受け取り、それに息を吹きかけつつスカマンドロスが言う。
 スカマンドロスの位置から一歩引いた位置に椅子を持ってきて、ザルカも彼女に倣って珈琲をふーふーとしだす。
 いつも通り、とメタウロはぼそりと言った。いつも通りがいつも通りなのは、シチュエーションがまったく同じでなければならない。


―――いつも通りがいつも通りに感じるならエージェント向きではないな。


 左目の褐色の虹彩がそう言った。僕はどうだったでしょうか、エージェント・シナモン。
 さあ、どうだったろうなと色彩は続ける。だがお前は立派に生き残っている、とも。
 あなたの善きエージェントの条件は第一に、生き残る事でしたものね。あなたはそれを守れずに死にましたが。


「……相変わらず酷い味」


 珈琲に口を付けたザルカが零し、スカマンドロスが苦笑しながら珈琲を飲む。
 読み終えた資料を裁断機にかけ、メタウロも珈琲を淹れた。指で塩をつまんで、それを入れた。


―――僕はフラッペが一番好きですけどね。ここじゃ目立つので長らく飲んでいませんけど。


 椅子に座り珈琲を口につけると、声帯がそう言った。あなたは甘いものが好きでしたもんね、エージェント・ショコラ。
 そうですとも、と声帯の主はつつましやかな胸を精一杯張って答える。ヴァニラはおっぱい大きくていいよね、僕より背が小さいのに、とも。
 それでもあなたはその慎ましい身体で現地に溶け込む、誰にでも愛される子猫ちゃんでした。最期は声もなく静かに死期を悟った猫のように姿を消しましたが。


「メタウロは調子、どう?」


 自分の識別名を呼ばれてみれば、スカマンドロスが肩をすくめながら微笑んでいた。
 他愛のないワード。何の変哲もない言葉。部下に接する隊長としての言葉の中で、一番無難なものだ。
 控えめに微笑みながら、メタウロは声帯を震わせ言葉を発する。


「調子は良いですよ、隊長」

「そう、それなら良かったわ」

「隊長、わたくしは―――」

「ザルカも好調よね。それは私でも知ってるわ」

「隊長にそこまで気にかけてもらえているなんて、光栄です」


 調子のいい笑顔が並んでいる。ザルカは、あれが楽しいのだろう。


―――人の好き嫌いを拒絶するのは良くねえな。そいつを嫌いになってもいいが拒絶はすんな、目が鈍るぞ。


 珈琲を再度飲みながら、頭の中で声がする。あなたの目もなかなか鈍ってましたよね、エージェント・ココア。
 だよな、と声の主は口をへの字に曲げて少し不機嫌そうに腕を組む。それでもヴァニラ、お前に眼をかけたのは間違いじゃなかったぜ、とも。
 ああ、本当に。あなたは、お前は、本当に厭な人だよ。そうやって人の心の中にまで足先を伸ばして、気安い言葉と態度で振舞う。
 僕はお前が眼をかけたから生きてるんだ。生きる羽目になったんだ。お前が僕に、いろんなものを託したんだ。死ぬに死にきれないものを。
 そうして、パイロットスーツの手首から出撃を知らせるアラームが鳴る。三人分。カップを手近なところに置いて、三人は駆け出し格納庫へ続く扉を開く。詰所にいなかったガドリエルリオ・グランデが娯楽室から飛び出してくるのが見えた。


「スカマンドロス隊のACは全機出撃!!」


 そう叫びながらスーツの上に羽織っていたジャケットを、スカマンドロスは至近の整備員に投げ渡す。
 それぞれのACに走っていくパイロットたち。メタウロもまた、自分のACに走る。分裂型ミサイルをフル装備した、アフォニアン(声なき者)へと。
 コクピットに座り、接続し、起動し、動かす。
 声なき者の声は聞こえない。静かでクリアで、少し寂しい感触が身体を突き抜ける。
 けれど、と彼女は小さな体に力を入れて格納庫から機体を出す。格納庫の入り口に、見えるはずのない人影を感じる。

 メタウロは、笑う。 
 この体を構成するすべての人々が、彼女が死ぬことを許さない。
 この体を構成するすべての人々が、彼女が止まることを許さない。 
 彼女の幸せを願った人々が、彼女の生存を願った人々が、それを許してはくれないのだ。
 彼女はそれを知っている。彼女はそれを聞いている。彼女はそれを覚えている。
 だからこそ、彼女は戦う。彼女は進む。

 継ぎ接ぎの身体で、どこまでも。






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最終更新:2023年12月14日 00:30