+ 作品の前提条件が成立しなくなったため、無期限凍結とします
「Fühlt nicht durch dich!」

 早朝の格納庫の肌寒さなどなんのその。
 夜の女王のアリアが聞こえてくる。
 朝なのに夜とは、これ如何に……との疑問はさておき。


 サリエリが直前まで見ていた夢は、歌声にかき消された。
 様々な経緯を辿り何度も死ぬ夢だった。
 夢の中では決まって、部下が結婚すると言ってから死んでいたし、そうでない時は部下が先に死んでいった。
 そういう嫌な夢だったから、思わぬところで助かった事になる。

「Sarastro Todesschmerzen, So bist du meine Tochter nimmermehr!」


 昨日ちょっとした事故があったせいで、自室がしばらく使えなくなったサリエリは、後処理が終わるまでは格納庫で寝泊まりするようにしていた。
 これはこれで他の隊員達との交流がしやすいため、サリエリとしては気に入っていた。

 昔から、このアリアをしっかり歌い切れるオペラ歌手はごく僅かしかいないという。
 今まさに聞こえてくる歌声の主ならば、なるほど確かにやりきれるだろう。
 特に、この笑い声にも似た部分だ。
 非常に高い音程を、よく通る声で歌わねばならないところだが、耳に届くは本職さながらの声量だ。


 ただ……遠くでグラスの割れる音がして、流石に寝袋から跳ね起きた。

「うわぁああん、なんなんだよもぉおお! 俺が何したっていうんだよぉおお!」

 基地に駐留しているヴェリファイ部門のバーンズの悲痛極まりない叫び声がこだまする。
 サリエリは、日頃からゴライアス某などという不名誉なあだ名で呼ぶからではないか、という言葉が喉元まで出かかっていたのを呑み込んだ。


 さて、備品が壊れたとしたら、いよいよコトだ。
 辺りを一巡して状況を確認するも、どうやらバーンズのグラスくらいしか被害は見られなかった。

「もー、この暗黒破壊神ライスリンゴライアス! マジで許さねぇからなー!」

「ああん、お許しくださいまし! まさか、あんな事になるとは思いませんでしたのよ!」

「まさかもさかさもあるか! おめーシュナイダーにいた時からずっとだろーが!」

 今まで数々の備品を不慮の事故で破壊してきたライスリングとて、空間把握能力についてとか、咄嗟に手を出さないための方法論とか、そういった書籍を紹介した結果、これでも配属当初よりはかなりマシになったのだ。
 とはいえ、信賞必罰だ。サリエリは、渋々ながらライスリングの正面から歩みを進めた。

「原因の報告を求む」

 ライスリングの横に立つバーンズが、頭の後ろに手をやって風船ガムを膨らましている。

「そこの踊るルビコニアンデスゴリラが狭いところで踊りやがったせいで手がぶつかって俺のお気にのグラスがパーになりました。一応本人の名誉のために言っておきますけど、オペラのサビによる音波で割れたワケじゃないです、ハイ」

「……V.O ライスリング。被害箇所の清掃と反省文、それからバーンズのグラスを弁償だが、できるか?」

「はいぃ……」

 すっかり意気消沈の様相だ。
 人が死ぬわけではない。

「それと、V.V バーンズ。貴官も彼女への不名誉な呼称は遠慮願いたい。物によってはセクハラだ」

「風紀委員長のサリエリ殿に言われちゃあ仕方ねぇかー! りょーかい、りょーかい!」

 本当に解ってくれるのだろうか。
 所属が異なるので、正式な命令はできない。



 少しズレたが、スペースに戻り朝食を摂る。
 プロテインバーと、各種ビタミン配合ドリンク。
 ちょうど食べ終わる頃に、ヴェリファイ部門のリヒター隊長がチェス盤を持ってきた。
 端末によるオンラインチェスでないところが、いかにも彼らしい。

「一局どうだ?」

 リヒターはどこか縋るような、はにかんだ笑みを浮かべていた。
 大方、いつもの相手が忙しいか飽きてしまったのだろう。
 特にバーンズなどは、割れたグラスの片付けでチェスどころではなさそうだ。

「ヴェスパー・ヴェリファイのチャンピオンからのご指名とは光栄だ。ご期待に添えるよう精一杯足掻いてみせねば」

「こちらも退屈させないように手を尽くそう」

 おそらく、お互いに期待通りにはならないだろう、とサリエリは苦笑した。
 リヒターはとにかく頭が回る。
 彼がウェンディゴと呼んでいるイレヴン――デザインドベビーから作られた強化人間を上手く御するだけの事はある。

「サリエリ。俺達の事は、どう思っている?」

 リヒターは当然のように白い駒を選び、自陣に並べながら、さながら尋問のような質問を投げかけてきた。
 この場合の“俺達”とはヴェスパー・ヴェリファイを指しているのだろう。

「部門は異なれど、共に戦う仲間だ」

「聞きたいのは、お前個人の意見だ」

「共に戦う仲間という見解は、私個人として述べたつもりでいる」

「その割には、シュナイダーの見張りに寄越した人選は、なかなかだったぞ」

 ドラクロワの事だろう。
 サリエリとしても、まさかあれほどとは思わなかったというのが正直な感想だった。

「私は貴官ほどには顔が広くない。ツテも人材も限られてくるものでね……一番、その仕事に適した人選が私の友人しかいなかった」

 この事自体に嘘はない。もともと極度に内向的なサリエリは友人が少ない。
 今でこそ人と接する事が増えたために、必然的にサリエリの人となりを知る者も増えたが……それまでは同僚とも業務上の会話以上の関わりが無かった。

「斯く言う貴官こそ、ヴェリファイ行きの筈だったコッペリアを、わざわざバルデスに頼んでオフシュート行きへ変更したようだが、何か意図があっての事かな?」

「不満か?」

「人手は常に不足しているから増員は助かるが、本社には想定外の人選を訝しむ者もいると聞いた。仲間が疑われるのは、私としても悲しい」

「怪物の面倒は二人も見きれんというだけだ」

 リヒターは倒した駒を指で弄びながら、遠くを見た。
 怪物。
 サリエリは、胸の中に砂利が入り込んだような気分だった。
 人の言葉を解するか、人の姿をしているなら、サリエリにとってそれらは人だ。
 だからこそ先天的であれ後天的であれ、手を加えられて戦いを義務付けられた者達を放ってはおけない。

「……この惑星にいる限りは、誰もが人の形をした消耗品だ。そういう点では、彼も私達もさしたる違いは無い」

「牛か豚か」

「……宗派によっては、いずれか或いはいずれも食する事を禁じられている、という話だろうか?」

「察しがいいな、隊長殿。そうだ。宗派ごとの付き合い方ってもんがある」

「だから口出しはするな、と?」

「そう願いたいもんだが、お前の部署の女帝殿は聞き分けが悪い」

「当人の境遇とも無関係とは言い難いだろう。彼女の立場も尊重せねばなるまい。とはいえ……カウンセリングとまでは行かないが、愚痴ならいつでも聞く」

「あの予約でいっぱいの懺悔室で仕事がパンクしているのを承知の上でか?」

「当然だ。少しでも、生きて帰りたいと思える場所にできるなら」

「そうか……――チェックメイト」

 かくしてイニシアティブを握られ、数手先まで閉塞感あふれる対局を味わう羽目になった。
 状況は最初から最後まで一切の打開を許さず、それは謂わば“一方的”以外の言葉を何一つ用意させないほどの圧倒ぶりだった。

「感謝するよ、サリエリ隊長殿。少なくとも俺は退屈しなかった」

 流石にダメ押しのように煽られると憎まれ口の一つでも言いたくなるが、おそらくリヒターの狙いはそれだ。
 相手の精神をかき乱して本音を誘導する。
 そしてリヒターの恐ろしいところは、このような荒業を身内には絶対にやらない事だ。
 傘下にいる者達以外に牙を剥きながらも、上層部からの要求を完璧に満たしてみせる。
 実績を以てあらゆる反感を黙らせる。

「楽しんでもらえたなら良かった」

 とんだ食わせ者だ、という言葉を飲み込んで、サリエリは無難な返答にとどめた。

「それで、俺が勝ったぞ。本音を言ってみろよ」

「そうだな……この際だから言わせてもらうが――」

 リヒターは、頬杖をついて口元を歪ませる。
 薄目を開いたその表情は諦観とも期待とも取れたが、サリエリは敢えてその真意を探らない事にして、言葉を続けた。

「――チェスを引退したくなったのは、これが初めてだよ。あんな薄気味悪い指し方は、私には無理だ」

 リヒターはチェス盤を片付けながら、苦笑する。

「そんなに負けたのが悔しいか。悪い事をしてしまったな。で? お前はいつから冗談を言うようになったんだ?」

「ユーモアのハウトゥ本は読みかけが数冊あるが、諦めたよ」

「だろうな。俺達の知る、誠実にして実直なるサリエリ隊長殿が、慣れないトンチで無駄な抵抗とは!」

 芝居がかった仕草で大げさに天を仰ぐリヒター。
 普段はもっとおとなしい男だと記憶していたが、酒でも飲んできたのだろうか。
 それか夜勤明けで、寝る前にチェスをしないと安眠できない性質なのか。
 何にせよ、厄介な絡み方をされたものだ。
 さっさと誰かに連れ帰ってほしい一心で、本音の氷山から無難なところだけを削り出した。


「おい、リヒター。俺に仕事を振っておいて自分は呑気にチェスか」

 横から声がかかる。
 リヒターが無表情で顔を上げたのに合わせて、サリエリもその方角へ顔を向けた。
 普段のリヒターに負けず劣らずの冷徹な雰囲気を湛えた双眸は、些かの苛立ちを滲ませていた。
 すぐさまリヒターが口を開く。

「レミー。いや、すまん間違えた。ここではヘイレンだったな」

「お前にならどっちで呼ばれても構わんさ」

 二人とも表情が僅かに和らぐ。
 これにはサリエリも思わず身を乗り出した。

「それで、どうかしたか?」

「途中で気付いて切り上げるまでに6割もやらされた。あとはお前が自分でやれ」

「ありがとう。お前ならそこまでは済ませてくれると信じていた」

「さては途中で止めると確信して頼んできたな。で、チェスは俺とやるより楽しかったか?」

「なんだ、嫉妬か?」

 見つめ合う二人は、今度はにわかにピリピリとした空気を纏う。
 先程から、さながら歳の近い兄弟のようなやり取りだ。


「なあおい、知ってるか? チェスって一部の界隈ではセックスの暗喩らしいぜ」

 いつの間にか現れたバーンズが、ぼそりと呟いていく。

「なら差し詰め、俺は阿婆擦れって事か。そこの間男はユーモアのセンスも一流だな、ヘイレン」

「ああ、お前の笑えないジョークよりはマシだ」

 リヒターはほんの少し間を置いて、バーンズの肩に腕を回した。

「……バーンズ。俺に勝てたら一杯奢ってやる」

「あちゃー……バーンズさん虎の尾ふんじゃったかもだ」

 小さく縮こまるバーンズに、サリエリは苦笑しながら手を振った。
 これから受けるであろう仕打ちを思うと、少し気の毒だった。

「それじゃあ、邪魔したな」

「ああ、楽しかったよ」


 ふと、リヒターがサリエリの言葉に振り返る。
 肩越しに見せた視線は、憐憫に彩られていた。

「……サリエリ。俺は、誰かのためじゃなく自分自身を守るための怒りを一番信用している」

「私にそれが足りないと?」

「もっと身を守れるようにしておけよ」

「お心遣い、痛み入る」

「……」

 今度こそリヒターは振り向かずに帰っていく。
 背中に回した手で中指を立てたのを、サリエリは見逃さなかった。
 談笑する三人の声が遠ざかっていく。

「リヒター。やっと他部署との交流をするようになったのはいいが、あんなのは交流とは認めないからな、絶対に」

「近頃は化け物の相手ばかりだから、人間との接し方を忘てしまってな」

「はいダウトー! バーンズさんポイントマイナス60点!」

 かくして疾風怒濤のごとく騒々しい一日は、優雅とは程遠い朝から始まった。


 サリエリは想定外の来客のせいで飲むのが遅れた胃薬を、小瓶から取り出し口に含んだ。
 何故かイチゴの味がしたので驚いて小瓶を見直すと、ラベルに何か書いてあった。

“成分表は読んでるか? あれは毎日飲むものじゃない。 byヴェリファイのチャンピオン”

「……ご忠告痛み入るよ」

 大きくため息を付き、握りしめていた小瓶から指の力を抜く。
 小瓶を置く音は、いつもよりずっと大きかった。

登場人物


投稿者 冬塚おんぜ
最終更新:2024年01月28日 18:28