失敗的是事、絶不應是人
自分の頭の中から永遠に失われた記憶を、外部記録で眺めるというのはなんだかこそばゆい。
彼がアーマードコア以外に自分が好きにできる身体を得て、記憶のほとんどが焼けて、最初にやるのがそれだった。
自分がどんな人間であったか、どんな存在であったか、そういうのを延々と聞かされ、見せられる。
耳や目から情報が入ってくるのだが、その処理の方法が分からない。頭に直接入ってこない情報は、どうすればいいのだろう。
とりあえず、彼はベッドの上で胡坐を掻いて、ぼけっとその映像と音声を眺めて、聞いていた。
『――――――』
なんだろう、と彼は首を傾げる。
首にケーブルでもねじ込んで、これらを無理やり頭の中に流し込むのでは駄目なのだろうか。
何時もみたいに。頭の中をじわじわと焼いて、痛みと苦しみに耐えながら、理解させるのでは。
「……いつ、も?」
何時もそうしていたのだったか、自分は。
では、他はどうだっただろうか、と彼は思った。
自分は、名前は、と彼はぐらぐらと首を不安定に揺らしながら部屋を眺めて、ネームプレートを見つけた。
【C201-1行程≪三新型≫D.C.I.C.C2-033≪白毛≫】
すらすらと、目が滑る。
文字の上で視線が滑って、何が書いてあるのかが分からない。
頑張って読もうと数分、十数分、数十分経って、ようやく末尾の文字が読めた。
「白毛……」
か細い声で、男のものにしては高い声で、彼はゆっくりと言った。
喉が中でひっついたような感じがして、言葉を発音するのも難しいが、彼はその名前をずっと繰り返し発音した。
本当にそれが自分の名前かも分からずに、ずっと繰り返し、喉が慣れるまで唱え続けた。
映像が流れている。自分の過去とされている映像だが、まったく頭に入ってこない。
けれど、唱え続けているその名前らしき言葉だけは、なんだか感じが良いと思えた。
使い慣れていない喉が潰れて血が出るまで、彼はずっとそれを繰り返して唱え続けて、案の定、看護師の女性に叱られた。
説教が長いのでそっと手を伸ばして尻を撫でると、バインダーで横なぎにぶん殴られた。
――――
彼があんまりにも白毛と連呼していたせいで、看護師も医者も「白毛さん」と呼ぶようになった。
最初はしっかりと識別番号だかなんだかでいちいち呼んでいたのだが、それだと耳から抜けて耳から抜けていくのか、まともに反応しないせいでもあった。
さらに面倒なことに、入院生活が暇だろうと戦友を名乗る車椅子に乗った男か女か判別できない何者かが、映画とドラマの媒体をどっさりおいていった。
人類が地球上でまだ幾百もの国家に分かれていた時代を描く、娯楽ものだ。監視もおらず暇だったので、彼はそれをぼけっと眺めることにした。どうせ頭には入らない。
そうやって数時間、数十時間、何十時間と娯楽映画やドラマを眺めながら、慣れない身体を動かすリハビリも熟していく内に、彼の口も達者になっていく。
「なあなあ、お嬢さんや。儂、もうちっと味が濃くて甘いのが食べたいんじゃが」
看護師の女性は爺臭い喋り方をする彼を怪訝そうな顔で見て、懇切丁寧に笑顔で病院食の厳格な栄養管理について説明した。
もちろん、厳格な栄養管理など彼に理解できるわけがない。そもそも手と口と舌を使って食事するのも十数年ぶりでよく分からないのだから当然だ。
ビタミンがだとか鉄分がだとか、カロリーがだとか義体の適合率や使用された生体部品の吸収効率だとか言われると、もうちんぷんかんぷんだ。
それでも頑張って説明する看護師の顔と胸とくびれと尻を順々に眺めて、彼はへにゃっと笑いながら特に考えることもなく言った。
「それが無理ならあれじゃな、お嬢さんのその唇を味見させてはくれんかの?」
看護師は真っ赤になって、ぷるぷるとなぜか体を震わせた。
ああまたバインダーで、あるいは平手でぶん殴られるのだろうなと彼が考えていると、看護師はそのまま何も言わずに部屋を出て行ってしまった。
はて、と彼は首を傾げた。なんでこうなったんだろうか。
その後はしばらく娯楽映画をぼんやりと眺めて寝たが、深夜にその看護婦がやって来て機材をあれこれ弄った後、息を荒くしてベッドに上がってきた。
彼はちょうど娯楽映画でもドラマでもそう言うのシーンを見ていたので、なんというかそのまま許してそのままやった。
自分の知らない身体機能が未知の感覚をぞくぞくと刺激するので、彼は楽しかった。アーマードコアにはこの機能はなかった。
ぎしぎしとベッドが軋む音と、吐息と、消毒液と汗の匂い。暗がりで、そんなものを感じて、心臓は健気にドクドクと跳ねる。指と舌が絡まって、体液が混じりあう。
すべてが終わった後に、心地よい脱力感に頭がぼうっとしていると、彼はふと自分の身体のことを思い出した。今の身体ではない、鋼鉄の身体のことだ。
「なあ、看護師さん……儂の身体はどこにいったか知らぬか」
汗を拭いて髪を整えながら、看護師は不思議そうな目で彼を見た。
彼の身体は今ここにある。細くて可愛らしくて、滑らかな肌とくりりとした金色の目をした、白髪の身体が。
そのことをそのまま告げると、彼は違うんじゃと言って首をふるふると横に振った。
「儂の身体じゃ。儂のAC、正黄旗はどこにいったんじゃ?」
看護師は身だしなみを整えていた手を止めて、彼をじっと見た。
看護師の唇は閉じられてふるふると震え、眉間に皺が寄って、なんだか涙でも流しそうな顔をしているなと彼は思った。
次の瞬間、看護師は握っていたタオルを彼の顔面に思い切りぶん投げて、苛立たし気に去っていった。
顔面を直撃したタオルを手に取って、その残り香をすぅっと嗅ぎながら、彼は締まっていく扉をボケっと眺めながら、また思った。
なんでこうなったんだろうか。
―――
次の日からその女の看護師は担当から外され、男の看護師に変わっていた。
会社の人間が来て、その身体は仙人模型だのなんだのと小難しいことを言って、四桁はありそうな説明書が入った端末を置いて行った。
もちろん、彼は説明書を読まなかった。リハビリをして、娯楽映画を見て、夜は女の看護師のことや映画で見た女優のことを考えた。
車椅子なしで歩行が出来るようになった頃、彼に来客があった。会社の重役、上司も上司、あちこちで二代目と呼ばれている男が来たのだ。
スーツ姿のでっぷりと太った禿頭の年寄で、性格が悪そうな顔をしていた。彼は、この男のことは少し覚えていた。その行動原理も分かっていた。
初代の老人は、大豊核心工業集団において、彼を含む第二世代型強化人間を作り上げることに成功し、その実地運用でも功績を遺した男だった。品のいい年の取り方をした痩せぎすの老人の姿は、彼にも思い出せた。優しげだが冷酷な男で、まだ話が出来る手合いだったことも覚えていた。
二代目は、そうではない。これは初代、つまるところ父親の築き上げたものが、気に喰わないタイプの男だった。世代遅れの強化人間部隊の統括者として座に就いた彼のしたことは、徹底的に世代遅れの強化人間たちを人ならざるものとして見て、物品として扱い、尊厳や権利などというものが粒ほどにでもあればそれを洗い流し、身の程を思い知らせて嗤い、戦場に送り出すという畜生のような行為の数々だった。お飾りの七光りで統括として席に座らせてみれば、常に現場に口を出し思い込みや思い付きであーだこーだとのたまうので、特に整備班からは親の仇のように嫌われている男だった。
そんなのが、見舞いの要件で来るわけがない。
「肉袋がいい面になったじゃないか」
第一声がそれだったので、彼もすぐに諦めがついた。
これの扱い方も彼はしっかりと覚えていた。あるいは、忘れているのかもしれないが、頭のどこかに染みついているのか。
けれども、これに対する表情の扱い方は分からなかった。とりあえず、にへらっと笑ってみたら、思い切りぶん殴られた。
口の中に広がる血の味に新鮮さを感じながら、彼は病室の鍵がガチャリと閉められる音と、ベルトの金具が立てる音を聞いていた。
ぎしり、とベッドが軋み、薄い体は人形のように抑え込まれてうつ伏せにさせられ、頭を枕に押し付けられる。膝の後ろに膝がねじ込まれて、尻を突き出すような格好にされ、薄い病衣がひん剥かれている。男は尻を叩いて面白がって、何度も何度もそれを繰り返し、彼が悲鳴もあげないし嫌がりもしないのに舌打ちをして、そのまま大きく幅の広い体で、彼を押し潰すようにする。
ぎしぎしとベッドが軋む音と、吐息と、消毒液と汗の匂い。暗がりで、そんなものを感じて、心臓は健気にドクドクと跳ねる。指と身体が絡まって、体液が混じりあう。苦痛と快楽が一緒くたになって胸の中で混じりあって、大昔の自分かあるいは失われた記憶が錯乱して騒いでいるような声が、彼の脳裏をよぎっていった。厭世と刹那主義が、彼の中でじっと、その行為と音を味わっていた。
男は最初からこうしたかったのだろう、と彼は思った。世代遅れの強化人間にまともな義体など持ってくるような男ではない。これは最初から、世代遅れの強化人間たちを少年だか少女だかも分からぬ義体に閉じ込めて、嗤い、いつも通りに使い潰そうとしているのだ。この義体の開発者や協力した企業や、関わった人間はそれらを知らない。この男の腹の内は、親しい者のみにしか明かされないのだ。
ああ、本当に、と彼は思う。
なんでこうなったんだろうか。
―――
二代目が去った後、身体に不調が出始めた。
結局、三日後には破損した身体の部位を交換するという話になって、白毛はまた手術台に横たわることになった。
またとは言うが、またという気分はしないのが不思議なところだ。結局のところ、白毛自身はただ横たわって痛覚設定を切られて終わるまでじっとしているしかないわけで、麻酔もかけられていないのにばっちりと爆睡してしまったわけだが。
それから一週間、白毛はまたリハビリと娯楽映像媒体を眺める生活に戻った。つまらない生活ではあるが、それでものんびりとしてやることが決まっていて、特に考えることも必要もない、生きることに困難のない良い時間だった。
そんな時間を送っていても、白毛の関心の一部は自分の身体―――、今病床で寝転がっている身体ではなく、戦場で、格納庫で、常に自分を包み守って来たもう一つの身体のことに向き続けていた。大豊核心工業集団の自社製ACフレーム≪天槍≫の、白毛用に調整された機体、≪正黄旗≫だ。樹大枝細の社是を体現する、鋼鉄の身体。白毛たち強化人間の、生きて死ぬべき棺桶。
「……煮豆持作羹、漉鼓以為汁、萁在釜下燃、豆在釜中泣、本是同根生、相煎何太急」
娯楽映像を眺めながら、白毛はぼんやりと自覚無しに、物憂げにつぶやいた。
病床で死ぬ贅沢など白毛は望んでいなかった。どれほど安全で清潔な場所でも、ここは白毛が死にたいと思える場所ではなかった。
酒もなく女もおらず、そしてなにより≪正黄旗≫がここにはない。自分がいるべきところ、座るべきところが、ここにはない。
戻らなければ、と白毛はしんみりとそう思った。自分の居場所に、戻らなければと。
―――
それからさらに三週間が経ち、ようやく自分である程度は歩けるようになると、ついに白毛は格納庫に顔を見せに行っても良いと許可を得た。
付き添いで男の看護師がついてきて、車椅子に乗せられて移動することになったものの、自分で動かず疲れずに移動するのは、それはそれで面白かった。
敷地内を通行している無人バスに乗り込んで格納庫前まで行って、そこから車椅子を押してもらって格納庫に入っていった。
ACの格納庫はACがヒト型汎用兵器である以上、巨大なものなのだが、大豊核心工業集団の敷地内にあるそれは見事なまでに巨大なトタン小屋みたいなものだった。銃弾も砲弾も飛んでこないような大豊の影響力が大きい星系でもあるし、大豊では人力に困らない。もしこれが迫撃砲でも受けても、ACには通用しないし、ACは破壊されない。なんとでもなるだろう、という考えだ。そしてなにより、安い。安いことは良い事だ。安ければ失った時、心は痛まない。次を買えばいい。
仕事中であった整備員たちは、看護師に車椅子で押される白髪の中性的な子供を見て、一様に首を傾げつつも誰とも分からないし声を掛けられるでもないため、すぐに目を手元に戻して仕事に戻っていった。なにせ彼ら、彼女らの知る白毛の姿はACと繋いでいなければ死んでしまうという、いわば五体はあるが有機CPUとなんら変わりのない存在で、そのメンテナンスもしてやってはいたものの、彼がまさかすっかり身体を入れ替えたことなど知らされていなかったのだ。
しばらくぽけーっと工具や整備員たちの声が響く格納庫の入り口近くで、白毛はそれらを眺め、聞きいていたが、思い出したかのように振り返って、看護師に言った。
「看護師さんや、あの黄色い機体のとこまで押しとくれ」
格納庫の六番ハンガーに鎮座する、黄色が目立つ機体。その背後の格納庫の壁には白いペンキで〝六六大順〟と乱雑に文字が描かれている。
色を塗り替えてまだ出撃したことがないのか、塗装の剥げもなく綺麗な機体だった。
樹大枝細の社是の体現、純製の重量級AC《天槍》だ。その特徴的なカラーリングもあって、《天槍》の通常兵器群染みた無骨な作りは、老兵の持つ強かさのようにも感じられるようになっている。外見はまったく同じ機体が並んでいるというのに、カラーリングだけでここまで変わるものなのかと看護師は「ほう」と息を漏らす。
その機体の前には、機付の整備員たちが作業用の運搬車の上にゴム板を敷き、その上でシャンチーをやりながら白湯を飲みつつ、勝敗を巡って賭けをしているようだった。ああでもないこうでもないとギャラリーの者たちが好き勝手に口を出し、指し手が鬱陶しそうに手でどっか行けとジェスチャーを飛ばし、さんざん悩んだうえで打った手はまあまあの悪手で、そこでゲームが終わって勝者と敗者の明暗が分かれた。
「好久不见」
ふにゃっと柔らかに笑いながら、白毛はそんな整備班たちに声をかけた。
まるでやっと自宅に帰って来れた病院帰りの少年のようなその顔と声に、整備班たちは首を傾げ、しばし考え込み、一様に視線が黄色い機体と白髪の少年を行ったり来たりして、目と口を限界までおっぴろげながらシャンチーの盤と駒のことなど忘れて全員が一斉に運搬車の上から飛び降りた。一斉に飛び降りたせいで三名ほどがぶつかりあってバランスを崩して無様に落下して格納庫の冷たい床を悶絶して転げまわっていたが、他の者たちはそんなことよりもと車椅子に座る白毛を囲んで肩を組んで、笑うやら泣くやらで大変おかしなことになった。ドン引きする看護師が離れていくのとは対照的に、白毛はその輪の中で楽し気ににこにこと笑っていて、
「久しぶりじゃのう、いやまあ、儂は記憶ぶっとんどるんじゃがな」
などと言っていた。
記憶がなくともどこか別の場所がそれを記憶しているかのように、白毛の表情と口調は自宅に戻って来れたような、安らかで楽し気なものであった。
お祭り騒ぎの機付の整備員たちを、黄色い《天槍》―――正黄旗G2と、そのコアに描かれた黄龍は、なにも言わずに見下ろしていた。
最終更新:2024年12月28日 14:25