8時だョ!全員集合

登録日:2022/01/09 Sun 21:15:50
更新日:2024/01/11 Thu 20:43:19
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8時だョ!



全員集合!!



8時だョ!全員集合』とは、1969年~1985年までTBSテレビで放送されていたバラエティ番組である。


【概要】

コミックバンドのザ・ドリフターズ(以下「ドリフ」)がゲストとともにコントや歌に挑戦する。
主なゲストはキャンディーズや沢田研二など当時の人気歌手が多かったが、普段バラエティに出ないような大物俳優やスポーツ選手、海外アーティストに果ては仮面ライダーストロンガーまで登場し、国民的人気番組の地位を築いた。
放送終了後30年以上たつ今なお高い知名度を誇り、リアタイでなくとも総集編や再放送が頻繁に行われているのでそこで視たことがある人も多いのでは。
1970年代のバラエティ番組としては珍しく収録VTRが大量に残されており、ファミリー劇場などCSでの再放送やDVD化、近年は動画配信も行われている。
また後述の「歌のコーナー」は単体で各歌手のDVDに収録されるケースが複数存在する。

番組は一部の回を除き全編生放送の公開収録で行われ、全国各地の公民館やホールから中継を実施していた。
最高視聴率は50.5%を記録。これはバラエティ番組史上最高数値で、今後恐らく破られない記録だろう。
また16年という放送期間は当時のバラエティとしては長寿の部類に入る。

また当番組からは数多くのギャグが生まれ、流行語になったものも多数。更に『ヒゲダンスのテーマ』や某動画サイトでは人類滅亡の際のBGMとして定着してしまった『盆回り』など、今なお聞く機会のある音楽も多数生み出した。

また、当時はクロスネット局も少なくなかったので、長崎県のように終了1年前に放送を開始した地域も見られた。
関西地方では1975年4月の腸捻転解消*1に伴い、放送局が毎日放送へ移行。毎日放送ではTBS系列への移行キャンペーンとして同番組を起用しており、力の入れようが窺える*2

一方人気番組の証である「子供に見せたくない番組」の上位常連に入っており、親たちからは目の敵にされる存在でもあった。

当時のTBSテレビを支えた看板番組のひとつで、土曜日は19時台の『仮面ライダーシリーズ』『まんが日本昔ばなし』『お笑い頭の体操』『クイズダービー』、21時台の『キイハンター』『Gメン'75』などに挟まれ、他局にチャンネルを合わさせない鉄板の編成が長らく組まれていた。毎年4・10月の改編期には当番組をベースに『オールスター感謝祭』の元祖と言える番組対抗特番(『4・10月だョ!全員集合』)が放送されていた。
1977年から1979年までは姉妹番組として人形劇『飛べ!孫悟空』が放送されていた。

なお、番組の著作権はTBSとともにドリフの所属事務所であるイザワオフィスが保有しているため、フジテレビの『ドリフ大爆笑』では1990年代以降、公開収録の全員コントなど本番組の復活企画が度々行われた。

生放送での公開収録を毎週実施する放送形態や大掛かりなセットを組んだコント*3は費用やセキュリティ面でのリスクが大きく、現在このような番組の制作は事実上不可能となっている


【歴史】

番組は当時同時間帯で人気を誇っていた『コント55号の世界は笑う』(フジテレビ)への対抗策として企画された。
「コント55号の即興性に対抗できるのは練り上げたコントのみ」という意向から、コントを得意としていたドリフが起用されることとなった。出演者やスタッフに緊張感を持たせるため、既にテレビ番組は事前収録が主流になり始めていた時代であったが敢えて生放送形式をとった。

開始当初から順当な滑り出しを見せ、途中からTBSのドラマ出演俳優をゲストに起用するようになり、以降人気が一気に爆発した。
その後もメンバーの交代や不祥事に伴う休演もあったが、土曜8時台の顔として長年君臨することに。当時人気を誇っていたプロ野球巨人戦による放送休止は一度もなかった*4
なお、1971年4月から9月まではスケジュールの都合で番組が休止となり、ドリフの先輩にあたるクレージーキャッツがつなぎ番組『8時だョ!出発進行』を担当した。

しかし、1981年の『オレたちひょうきん族』(フジテレビ)開始後は同番組に人気を奪われて陰りが見えだし、視聴率が次第に降下。
加えて1984年に行われた埼玉県入間市での収録の際は、開始直前に起きた停電事故で放送開始が9分遅延。原因として「会場に入れなかった客が腹いせにブレーカーを落とした」という噂も流れたため、事態を重く見た番組側は以降公民館・ホールでの収録を原則行わない方針とした。
なおこのとき会場にいた少年には後に伊集院光のラジオ番組で構成を務める渡辺雅史が居たりする。
同時期からドリフのリーダーであるいかりや長介が「番組がしんどくなってきた」と愚痴をこぼすことが増え、ナンセンスコントもやりつくしたという総合的な判断から、1985年9月で終了。

その後は三ヶ月間本番組のリクエスト再放送を実施し、翌年1月からは後継番組として志村けんと加藤茶をメインとしたコント番組の『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を開始。
こちらは全編収録だったが、カースタントなどバブル期らしい大掛かりで派手なドラマ仕立てのコント『探偵物語』や、その画期的な企画からハリウッドで表彰されることとなる『おもしろビデオコーナー』などが功を奏し、陰りが見えだしていた『ひょうきん族』を抜く人気を博し終了に追い込んだ。
これら一連の流れは「土曜8時戦争」と呼ばれ、日本における視聴率争いの代表例として取り上げられることが多い。

余談だが『全員集合』の終了後、ドリフは前述の志村を筆頭にいかりやは俳優として映画やドラマに出演するなど、メンバーはソロ活動が中心となった。グループとしての活動は『ドリフ大爆笑』に絞られたが、それもスケジュール調整が合わずいかりやと志村の共演が5年以上ない状態が続き、不仲説まで流れることになった。再度グループとしての活動が復活するのは90年代後半以降である。


【主なコーナー】

オープニング

いかりやの「8時だよ!」の合図で、「全員集合!」の掛け声とともにカラフルな法被姿のドリフが客席からステージに上がり、ゲストとともに「エンヤーコラヤット♪」こと『北海盆唄』の替え歌『チョットだけョ全員集合!!』を歌う。
なおOP含め番組のファンファーレなどはセット背後にいるバックバンド(主なバンドは「岡本章生とゲイスターズ」)が担当した。

余談だがドリフの楽曲には民謡や軍歌をカバーしたものが多く、『ドリフ大爆笑』のオープニングテーマも戦争中の相互監視協力体制を歌った「隣組」をアレンジしたものである。
オープニングと前半コントの間には提供クレジットと30秒4本のCMが流され*5、その間に前半コントの準備が大急ぎで行われる。

コント

前半と後半の2部製作され、前半ではドリフ全員でコントを行う。
いかりや*6が最初に登場し「オイッス!」と観客に向けて挨拶するのがお約束。
最後(放送時間で20時26分前後)は大ボケが炸裂する・セットが大きく崩壊する・果てはパトカーが家の二階に突っ込むなど取り返しのつかない状況になり『盆回り』が流れて終了するのが基本の流れ。
ちなみに「盆回り」とはコント終了時に舞台転換に使用するターンテーブルを業界用語で「ボン(盆)」と呼び、それを回していることから生まれた業界用語。

後半ではいかりやは「はい、次行ってみよー!」等の台詞でつなぎ役に専念し、他メンバーやゲストによる短編コントが複数展開された。

内容は決してファミリー向けとは限らず、加藤茶の「ちょっとだけよ」のストリップネタやギロチンで首を落とすもの、更にスイカなどの食べ物を粗末にするような行動も少なくなかった。
また生放送でコントを行うため、本番中にボヤ騒ぎが起きるなど危険なハプニングもあったが、ドリフのメンバーはアドリブでコントを継続しつつ安全確保に努めていた。
天井から金ダライを落とすというネタはこの番組が発祥。
頭上に落とした際の大きい衝撃音と、直撃後のリアクションの相乗効果で笑いを誘う単純ながらも優れた威力を発揮することから令和の今でもバラエティで使われる鉄板の小道具である。

前述の通り、コントは全て台本を基に練習して披露されており、志村けんが背後を狙われるコントも当然本人は分かったうえで演技をしていたのだが、幼年層の観客はそんな事情は知らず「志村~、後ろ~!後ろ~!」と本気で心配して声をあげ、本人としては「うるさくてかなわないが無碍にするわけにもいかない」とかなり複雑な心境だったことを明かしている。

コントは木曜日頃から(翌週放送分の)会議を実施し、金曜日にリハーサル、土曜日に本番の流れだったという。企画が煮詰まった際は全員で合宿を行いその間は新作の放送を休止、総集編で繋いだこともある。

コントでは楽屋落ちが禁止されていた。
これは当時のドリフの所属事務所だった渡辺プロ社長の意向が強かったとされている。
しかし、ドリフがイザワオフィス*7に移籍した番組後期や『ドリフ大爆笑』版では視聴者の嗜好の変化もあり、楽屋落ちが頻繁に登場するようになった。

裏番組でメインを張っていたビートたけしはコントの完成度の高さを評価しており、自著の中で「(内輪ネタだらけの『ひょうきん族』と違って)今見ても面白い」と絶賛している。

ヒゲダンス

1980年から放送されたコーナー。
加藤と志村の二人が付け髭・燕尾服姿でリズムに合わせて軽快な動きで入場し、大道芸に挑戦するもの。
最初は加藤が挑戦するが上手くいかず、志村が挑戦すると成功するのがお約束
志村は成功したところで退場しようとするが、加藤が志村に難易度を上げてもう一度チャレンジさせる……を数回繰り返す。
パントマイム芸ゆえ、基本的にセリフは無いが、加藤が志村を呼び止めたり、観客席を煽ったりするときには「ヘイヘイヘイ!」という言葉を発する。
お馴染みのテーマ曲はテディ・ペンダーグラスの『Do Me』をアレンジしたもので、ソウルミュージックを好んでいた志村の趣味が反映されている。
コーナーは1年ほどで終了したが、付け髭と小道具さえあれば誰でもできるコストパフォーマンスの高さもあり、パーティーグッズの定番商品となった他、『ドリフ大爆笑』や特別番組などで頻繁に復活している。

少年少女合唱隊

名物コーナーのひとつで、前半コント・ゲストの最初の歌と後半コントの間に配置された。
ドリフメンバーとゲストが合唱隊に扮し、神父に扮したいかりや指揮のもと様々な歌を歌うのが基本の流れ。
ゲストが「生麦生米生卵」などの早口言葉に挑む姿が見られた。
このコーナーから生まれたのが、志村の初期の代表作となった『東村山音頭』である。
『七つの子』の歌詞を間違って覚えるようになったのはだいたいこのコーナーのせい。

ジャンケン決闘

名物コーナーの一つ。
仲本と志村が出演し、西部劇の酒場風のセットでガチのじゃんけんを行い、負けた方がズボンの中に水やら墨汁やら入れられ、最後はアクリルケースを被せられて風船を破裂させられるのが流れ。
もともとメンバー内で使用していたに過ぎない「最初はグー」という掛け声を世に広めたのはこのコーナーだと言われている。

歌のコーナー

文字通りゲストが新曲を披露するコーナー。前半コントの次や後半コントの合間に展開された。
もっとも、当時は本番組に限らずNHKも含めたあらゆる局のバラエティで必ず同趣のコーナーが存在した。
というのも、そもそも当時はいわゆるお笑いがメインを張るバラエティ番組というものが非常に少なく、バラエティのメインはあくまでも歌手であり、お笑いはドリフターズと萩本欽一が二大巨頭でそれ以外は原則歌手の前座もしくは脇役の扱いと、今では考えられないくらい芸能界における地位が低かったのだ。

当時の有名歌手は勿論、後に俳優として活躍する人(浅野ゆう子など)も歌手として多く出演しており*8、当時テープの高価さ等から映像保存率が低かった事から本番組でしかテレビでの歌唱シーンが残っていないという者や歌も多く、貴重な資料映像として再注目されることも。

エンディング

再びゲストが全員舞台に上がり、ババンババンバンバン♪こと「いい湯だな」の替え歌を歌う。
加藤が途中「飯食ったか?」「風呂入ったか?」「宿題やったか?」「歯磨けよ!」*9と視聴者相手に掛け声を行い、また来週で幕を閉じる。

余談

  • 最多出演ゲストは男性が西城秀樹、女性は小柳ルミ子である。西城は番組を代表するハプニングである「セットのボヤ騒ぎ」回や「停電」回でも出演しており、全員集合の歴史の目撃者となっている。

  • 本作の定番コントとしていかりやが教師、残りのメンバーとゲストが生徒に扮して頓珍漢なやり取りを行う「学校コント」があった。これはセットの使い廻しが可能なことから大きなセットを作って予算オーバーした回の翌週など、調整の目的もあってよく組まれていたという。
    余談だがこのコントには当時TBS系ドラマの常連主演だった田宮二郎氏が登場した回があり、画面に向かってターイムショック!と指さす当時としてはかなりぶっ飛んだネタ*10を披露している。

  • 本番組で披露したコントの一つに、志村けんと沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンクレディーの「渚のシンドバッド」をごちゃまぜにして踊るというネタがあり、志村はこれを「勝手にシンドバッド」と名付けた。
    お気づきかと思うがサザンオールスターズのデビュー曲はこのコントから名づけたもので、後年桑田佳祐は志村死去の際「志村さんのおかげで世に出ることができました」と追悼のコメントを発表している。



続いては・・追記・修正、行ってみよう!


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最終更新:2024年01月11日 20:43

*1 資本系列に対して捻れていたネットワーク体系の解消を目的として、1975年3月31日から毎日放送がTBS系列、朝日放送がNET(現・テレビ朝日)系列にネットチェンジしたもの。

*2 後年、当時毎日放送制作の人気番組だった『アップダウンクイズ』を元にしたコントも作られた。

*3 経費削減の観点から、セットに保険をかけないというハイリスクな収録も実施していたこともあるという。

*4 ただし、プロ野球オールスターゲームを放送する関係で1977〜1979年の各3回分が休止になったことがある。

*5 CM枠1分→提供クレジット20秒→CM枠1分の順。

*6 主に母親、先生、隊長など目上の役が多かった。

*7 ドリフのマネージャーが設立した事務所で、事務所そのものは現在も渡辺プロ傘下。

*8 当時の俳優界は当人の意向に関わらず、最低1枚はレコードを出さなければいけないという不文律があった。多くは“単発の企画モノ”程度の成果で終わり、それどころか珍盤としてネタにされたものもあったが、中には梅沢富美男の『夢芝居』のような成功例もある。

*9 「風呂入ったか?」はスポンサーであったライオン油脂、「歯磨けよ!」はライオン歯磨の宣伝も兼ねていた。両社は1980年に合併し現在のライオンとなっているが、それより前から『ライオン歯磨・ライオン油脂』と一纏めでスポンサーになっていた。

*10 自身が司会を務めた「クイズタイムショック」(テレビ朝日)のパロディだが、当時他局のテレビ番組をパロディに使う事象は非常に珍しかった。