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更新日:2025/10/21 Tue 11:47:29
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佐川官兵衛(1831〜1877年)
幼名は勝、通称は官兵衛、諱は直清、号は残月。
概説
江戸時代末期の会津武士。
戊辰戦争では敵味方から「鬼官兵衛」と呼ばれた。戊辰戦争後、失業士族を救うべく、彼らを率いて新設された東京警視庁に奉職。
新選組の斎藤一は頭の上がらない人物として尊敬している。
誕生
天保2年(1831)9月5日、陸奥国会津若松城下五軒町の屋敷に父親が会津松平家家臣・佐川幸右衛門直道(役職は物頭、禄高300石)、母が妻・俊子の間に長男として生まれる。弟に又三郎、又四郎、正といる。
佐川家は会津松平家では士中と呼ばれる上級武士の家柄で、学問所・日新館への入学義務がある為、当然の如く、会津武士の心得を叩き込まれた。
家訓
第一に家訓である。会津松平家開祖・保科正之が定めた会津松平家の憲法と呼ばれるモノ。
- 大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、 則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。
- 武備は怠るべからず。士を選ぶを本とすべし。上下の分を乱すべからず。
- 兄を敬い弟を愛すべし。
- 婦人女子の言、一切聞くべからず。
- 主を重んじ法を畏るべし。
- 家中風義を励むべし。
- 賄を行い媚を求むべからず。
- 面々、依怙贔屓すべからず。
- 士を選ぶに便辟便侫の者を取るべからず。
- 政事は利害を以って道理を枉ぐべからず。僉議は私意を挟みて人言を拒むべらず。思う所を蔵せず、以てこれを争そうべし。 甚だ相争うと雖も我意を介すべからず。
- 法を犯す者は宥すべからず。
- 社倉は民のためこれを置き、永く利せんとするものなり。 歳餓うれば則ち発出してこれをすくうべし。 これを他用すべからず。法を犯す者は宥すべからず。
- 若し志を失い、遊楽を好み、馳奢を致し、土民をしてその所を失わしめば、則ち何の面目あって封印を戴き、 土地を領せんや。必ず上表蟄居すべし。
右十五件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり、という代物で守らない当主に忠節を尽くす義務は無いと断言している。
元々、
南北朝時代の保科党を始まりとする会津松平家は会津に領地を賜るまで各地の武士をかき集めた烏合の衆であった。初代・保科正之の人望で何とか一つになっているが、彼の死後、元の木阿弥になっては困ると皆でルールを守ろうという形をとった。
正之的に、島津家、毛利家、伊達家、佐竹家みたく戦国大名としての歴史を持たない成り上がりの
俄大名が集団として保つ為の策だった。
掟
第二は掟である。掟は、会津松平家の子弟が、6歳になると「什」と呼ばれるグループに入る。
什とは、町内の6歳~9歳の子供たちが、 9歳の什長を中心に10人前後集まって構成される集団。
什は毎日午後から当番の家に集まり集団で活動、最後に什長が「什の掟」を話しながら 「ならぬことはならぬものです」で締めくくる。
- 年長者の言うことに背いてはなりませぬ
- 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
- ウソをいう事はなりませぬ
- 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
- 弱い者をいぢめてはなりませぬ
- 戸外で物を食べてはなりませぬ
- 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ
ならぬことはならぬものです
とルールを守る為に遵法意識をこの頃から叩き込まれた。
心得
第三は、心得である。
会津松平家の士中と呼ばれる上級武士の子弟は10歳になると「日新館」と呼ばれる学問所に入学。
日新館は会津松平家の学問所で、授業は朝の8時から始まり、論語、大学などの四書五経、孝経、小学を加えた計11冊の中国の古典を教科書とした。
入学した子弟たちは、これらの教科書を素読するのが日課。
各家庭で入学する前の6歳頃から寺子屋に通わせて、これらの古典を素読させていた。
因みに出来なければ、出来るまで上級生が家に乗り込んでマンツーマンで教える徹底ぶり。
引きこもりも落ちこぼれも認めない、会津武士の徹底ぶりが垣間見える。
日新館では、低学年のときに「日新館の心得」を勉強させるが、この心得をしっかり学習することで、会津武士としての心構えや誇りを植え付けていた。
陸奥会津松平家の上級武士の長男だと35歳までに学問所の
日新館で
儒学を勉強し、弓・馬・剣・槍の何れで免許皆伝を収めないと家督相続が許されなかった。
次男以下は21歳までに長男と同じ科目を達成しないと、会津松平家から養子先を斡旋して貰えず、部屋住みとして生涯を過ごさないと行けない。
- 毎朝、早く起きて顔や手を洗い、歯を磨き、髪の毛を整え、衣服を正しく着て、父母に朝のご挨拶をしなさい。そして、年齢に応じて部屋の掃除をし、いつお客様がお出でになってもよいようにしなさい。
- 父母や目上の方へ食事の世話、それからお茶や煙草の準備をしてあげなさい。父母が揃って食事をする時は、両親が箸を取らないうちは子供が先に食事をしてはいけません。理由があって、どうしても早く食べなければならない時は、 その理由を言って許しを得てから食事をしなさい。
- 父母が家の玄関を出入りなさったり、あるいは目上の方がお客様として玄関にみえられた時、お帰りになる時は、 送り迎えをしなければいけません。
- 外出するときは、父母に行き先を告げ、家に帰ったならば只今戻りましたと、挨拶をしなさい。すべて何事もまず父母にお伺いをし、自分勝手なことをすることは許されません。
- 父母、目上の方と話をする場合は、立ちながらものを言ったり、聞いたりしてはなりません。また、いくら寒いからといって自分のふところの中に手を入れたり、暑いからといって扇を使ったり、衣服を脱いだり、衣服の裾をたぐり上げたり、そのほか汚れたものを父母の目につく所に置くようなことをしてはいけません。
- 父母、目上の方々から用事を言いつけられた時は、つつしんでその用件をうけたまわり、そのことを怠らないでやりなさい。自分を呼んでおられる時は、速やかに返事をしてかけつけなさい。どのようなことがあっても、その命令に背いたり、親を親とも思わないような返事をしてはいけません。
- 父母が寒さを心配して、衣服を着るようにおすすめになったら、自分では寒くないと思っても衣服を身につけなさい。なお、新たに衣服を用意してくださった時は、自分では気に入らないと思っても、つつしんでいただきなさい。
- 父母が常におられる畳の上には、ほんのちょっとしたことでも上がってはいけません。また、道の真ん中は偉い人が通るところですから、子どもは道の端を歩きなさい。そして、門の敷居は踏んではいけないし、中央を通ってもいけません。ましてや、殿様や家老がお通りになる門はなおさらのことです。
- 先生または父母と付き合いがある人と途中で出会った時は、道の端に控えて礼をしなさい。 決して軽々しく行き先などを聞いてはいけません。もし、一緒に歩かなければならない時は、後ろについて歩きなさい。
- 他人の悪口を言ったり、他人を理由もないのに笑ったりしてはいけません。あるいはふざけて高い所に登ったり、川や池の水の深い所で危険なことをして遊んではいけません。
- すべて、まず学ぶことから始めなさい。そして、学習に際しては姿勢を正し、素直な気持ちになり、相手を心から尊敬して教わりなさい。
- 服装や姿かたちというものは、その人となりを示すものであるから、武士であるか、町人であるかがすぐわかるように、武士は武士らしく衣服を正しく整えなさい。決して他人から非難されるようなことのないようにしなさい。もちろん、どのように親しい間柄であっても、言葉づかいを崩してはいけません。また、他の武家の人たちに通じないような、下品な言葉づかいをしてはいけません。
- 自分が人に贈り物をする時でも、父がよろしく申しておりました、と言いそえ、また、贈り物をいただいた場合は、丁寧にお礼を述べながら父母もさぞかし喜びますと言いそえるようにしなければなりません。すべてに対して父母をまず表に立てて、子が勝手に処理するのではないことを、相手にわかってもらえるようにしなければなりません。
- もしも、父母の手伝いをする時は、少しでも力を出すのを惜しんではいけません。まめに働きなさい。
- 身分の高い人や目上の人が来た場合には、席を立って出迎え、帰る時も見送りをしなければなりません。それにお客様の前では、身分の低い人はもとより、犬猫にいたるまで決してしかり飛ばしてはいけません。また、目上の人の前で、ものを吐いたり、しゃっくりやげっぷ、くしゃみやあくび、わき見、背伸び、物に寄りかかるなど、失礼な態度に見えるような仕草をしてはいけません。
- 年上の人から何かを聞かれたならば、自分から先に答えないで、その場におられる方を見回して、どなたか適当な方がお出でになっていたら、その方に答えてもらいなさい。自分から先に、知ったかぶりをして答えてはいけません。
- みんなで集まってわいわいお酒を飲んだり、仕事もしないで、女の人と遊ぶいかがわしい場所に出かけるのを楽しみにしてはいけません。特に男子は、年が若い頃は女子と二人だけで遊びたい本能をおさえることは、なかなか難しいとされています。だからといってそのような遊びを経験し、癖ともなれば、それこそ一生を誤り、大変不名誉な人生を送ることになりかねません。だから、幼い頃から男と女の区別をしっかりし、女子と遊ぶ話などしないことが大切です。あるいは、下品な言葉を発して回りの人を笑わせたり、軽はずみな行いをしてはいけません。なお、喧嘩は自分で我慢ができないから起こるものであって、何事も辛抱強く我慢して喧嘩をしないように、いつも心掛けなさい。
見方を変えれば、偏見や固定観念とも言うが…
佐川は武士の嗜みとして武芸を修めている。
会津松平家は槍で勇名を馳せたが、本人は槍より剣術派で一刀流溝口派免許皆伝、長沼流軍学を学んでいる。
出仕
佐川は順当に日新館を優秀な成績で卒業し、元服、父親から家督を相続し、江戸詰を命じられ、物頭・定火消を拝命する。
世間は江戸で発生した安政の大地震(1855)とその前後に発生した嘉永7年/安政元年(1854)の伊賀上野地震、安政東海地震、安政南海地震および豊予海峡地震といった連鎖地震にコレラの蔓延、13代将軍・
徳川家定の後継者問題、外国との通商条約締結問題で沸騰しており、家定から事態の収拾を託された大老で近江彦根井伊家当主・
井伊直弼(35万石)が安政6年(1859)、過激な尊皇攘夷論を唱える長州毛利家家臣・
吉田松陰、松陰と親交のあった小浜酒井家家臣・
梅田雲浜、将軍後継争いで暗躍した越前福井松平家家臣・
橋本左内を処刑する安政の大獄が起こる。
この安政年間(1854〜60)に佐川は江戸の災害派遣で勤務した際、旗本の定火消といざこざを起こし、旗本を斬り殺してしまう。非は旗本側にあるのだが、そこは江戸時代、身分の低い側にも何らかのペナルティが付くのである。
佐川は家禄100石を減知され、国許に戻り謹慎処分を受けた。
後に会津松平家は幕末期、蝦夷地の開拓・幕府からの預かり地警備と京都守護職を拝命するが、佐川は蚊帳の外であった。
佐川は学問と武芸を鍛えながら、再登板に備えて準備したが、再登板は予想以上に長い間、待つ事になった。
佐川家では当主の官兵衛が謹慎処分の為、変わりに弟達が京都に派遣されたが、又四郎が慶応3年(1867)12月11日、慙死とある。
佐川は慶応2年(1866)に謹慎処分を解かれ、物頭に復帰、家禄も元の300石に戻る。たちまち京都に派遣され、京都にある学問所「日新館」の責任者・学校奉行と別選組の隊長を拝命する。
別選組は京都日新館の成績優秀者で編成された。後に江戸の学問所で成績優秀者を加えて人数が70人になる。
戊辰戦争
孝明天皇の住まいに砲弾をブチ込んだ長州毛利家と同盟相手の薩摩島津家へ徳川幕府打倒の口実として討幕の密勅を慶応3年(1867)10月13日に薩摩島津家へ、翌14日には長州毛利家へそれぞれ下した。慶応3年(1867)10月14日の大政奉還、同年12月9日、「王政復古の大号令」が薩摩島津家、土佐山内家、越前福井松平家、安芸広島浅野家、尾張徳川家と
岩倉具視らにより実施され、幕府、摂関政治の廃止、総裁・
議定・参与の三職を置き、諸事神武創業の始めに基づき、至当の公議をつくすことが宣言されたが、実際は徳川慶喜が日本国大君として外交権、土地、金は徳川宗家が握ったままだった。
当日夜の小御所会議にて薩摩の
大久保利通は慶喜の辞官納地を主張し、会津と桑名を京都守護職、京都所司代を廃止した上で帰国させる勅命を出し、言う事を聞かなければ、朝敵として討つという提案を岩倉具視に提出している。
御所を守備していた京都守護職の会津松平家(28万石)は禁門の変の再現になる事を恐れて撤退した。この時、会津の資料は王政復古の大号令の後、太政官が接収し、二束三文で売却。家財道具と共に現在も京都の骨董品屋の土蔵の中に眠っていて、研究する人が少ない為、ホコリを被っているとの事。理由としては幕末に関して太政官から大日本帝国という何やっても負け知らずなチートどものせいで謎も考察も何もないから書くことないという。
会津松平家は同月14日、将軍では無くなった徳川慶喜が大坂に下るのてそれに従う。
慶応4年(1868)1月3日から始まった鳥羽伏見の戦いは、武器の差より指揮官の差が如実に表れた戦いだった。
伏見の市街地は
新選組が駐屯する伏見奉行所を警戒する薩摩島津家と長州毛利家の洋式軍隊が東と北から布陣して睨みを効かせていた為に、その甲斐あって京都への最短ルートである竹田街道がガラ空きだった。
会津武士の一団が竹田街道を進んだが、この方面の徳川陸軍の総司令官・竹中重固は会津武士を呼び戻し、伏見の市街地に陣取る薩摩・長州の陣地へ新選組や会津武士に斬り込みを指示、無残にも敗退した。
徳川方の下手な戦いぶりを見て諸大名も保身に入る裏切りなどもあって、薩摩島津家、長州毛利家の洋式軍隊に完膚なきまでに敗れた会津松平家。
大坂城にいた徳川宗家当主・徳川慶喜が会津松平家当主・松平容保、桑名松平家当主・松平定敬、備中松山板倉家当主・板倉勝静ら僅かの供を連れて軍艦・開陽に乗り込み、大坂天保山沖から江戸に夜逃げした。
佐川たち残りの会津武士たちは、陸路、紀州徳川家の和歌山城下に辿り着き、そこから海路江戸に向かった。
無事な者は江戸和田倉門の会津松平家上屋敷に、負傷者は芝新銭座の中屋敷に収容され、佐川も負傷していた為、中屋敷にいた。
慶應4年(1868)1月20日、徳川慶喜は負傷者が収容されている会津松平家中屋敷に来訪して夜逃げの顛末を話し、夜逃げを謝罪したのだが、高津仲三郎という負傷した武士が
「どの面下げてここに来た?」
「夜逃げの言い訳なんか要らないんだよ!」
「降参するなら、なんで大坂城で降参しなかった?」
「なんで大坂城の大広間でオレ達の戦意を煽る発言をした?」
「そもそも何の為の謝罪だ?」
「負けた事?夜逃げした事?」
「要するに謝罪している姿勢を見せているだけでしょう?
心が籠もっていないの、ミエミエだから!
要らないよ、そんな謝罪!カエレ!カエレ!」
と言いたい放題。
また、徳川慶喜も全てやらかした後なので、ぐうの音も出ない、しかも、高津は戦場で命を賭けて戦い死にかけた後で、憤懣やる方ないといった様子。
一応、会津松平家には徳川宗家当主に忠節を尽くせ!という家訓はあるのだが、すでにリミッターは解除されている模様である。
高津が徳川慶喜を公開処刑した後、会津武士たちから
「カエレ!」
の大合唱、慶喜は逃げ出した。
家訓に基づき忠節を尽くすなら慶喜の夜逃げを赦して、認めなければならないが、会津松平家は宗家当主・慶喜に罵声を浴びせて退散させ、徳川宗家への忠節を切り捨てた。
家臣団に対して、慶喜に夜逃げを説いたとして軍事奉行添役・
神保修理に詰め腹を切らせ、容保が夜逃げの一件で
不倫がバレた有責配偶者の様に土下座謝罪をする事で家臣団も
「次はないからな!覚悟しとけよ!」
と憤懣を収めてくれた。
※ちなみに神保が慶喜に説いたのは、『
戦闘を停止し、大坂城まで全軍撤退させ、恭順の方針を全軍に伝えてから、大坂城を退いて江戸に戻る』という策だったのだが、現実に慶喜がしたのは
煽りと夜逃げなので、神保もあ然としていた。
当主が夜逃げ、戦場にいる部下を見捨てるという前代未聞の事態をやらかした
松平容保は家臣団に頭が上がらなくなってしまい、神保修理も当時から隔離して冷却期間を設け、時期を見て
西郷隆盛や
木戸孝允みたく
変名ないし改名で社会復帰させる予定だったが、家臣団は非難轟々。神保と付き合いのある徳川宗家の
勝海舟が神保の身柄を引き取りますよ、と秘密裡に提案してきたので、移籍させようとするも、話が漏れて家臣団は非難轟々、移籍話は消滅。
こうした非難轟々の声の主は佐川や高津らと言われる。佐川らが神保を批判するのは、京都守護職として領民や家臣の生活を犠牲にしてまで、孝明天皇の正義に全財産を注ぎ込んできた、その事まで神保が否定してくるからである。領民や家臣が苦しい生活をする中、神保は長崎で情報収集という名目で遊学し、御家の金で
坂本龍馬や伊藤博文らと美味い酒や食事を楽しんでいる、そういうのが許せない、しかも、神保は家老の息子という上級国民である。
佐川も充分上級国民だが、その上をいくのである。妬みややっかみもあるかも知れない。
しかも軍事奉行添役という作戦参謀的な立ち位置にいる人物が職務を放り投げ、撤退を進言し、しかも、神保は慶喜が夜逃げした後、撤退を留まる様に引き止めようとするも叶わず、慶喜を追いかけて大坂城から江戸まで馬で駆け抜けた。それが敵前逃亡に佐川達には映る。
神保も佐川や高津の声高な振る舞いに反論したい、対決を求める、と松平容保に訴えたが、逆に頭を冷やせと三田にある会津松平家下屋敷に移された。公式記録に脱走する気があれば、脱走出来たくらいのガバ警備であった、と記す。
神保は「私は無実だよ。殿は私を助けたい為、脱走出来る様にとワザとガバ警備にしたが、それだと残る殿に迷惑が掛かるから腹切るわ」と周りの役人に話した後、慶応4年(1868)2月13日、三田の下屋敷にて自刃した。享年28歳。
前日、
勝海舟に送った手紙に「奸邪どもが蔓延り、忠良が虐げられるのが、この会津だ。岳飛を見るがいい。私は無実の罪で亡くなるが、岳飛の如くである事を、あなたなら分かりますよね」と記している。
佐川や高津が読んだらブチギレる手紙である。
会津戦争
佐川はその後、会津に帰国し、
軍制改革により朱雀士中4番隊の隊長として越後口に配置となった。
付け焼き刃ながら会津にいる徳川陸軍の指揮官から洋式兵学を学び、会津や庄内酒井家を救済する為に結成された奥羽越列藩同盟の中にあり、大いに奮戦した、とある。
とは言うものの、佐川指揮の朱雀隊は会津の中ではミニエー銃装備の優良部隊だが、西洋式の戦いになると、越後に於いては薩摩・長州・信濃松代真田家などは装備が同じで指揮官、兵隊が西洋式の戦いに熟練しており、これらと対峙すると、駆け引きで分が悪く、白兵戦に持ち込むのが常套手段だった。
しかし、同年7月29日、同盟の補給基地である新潟港、越後口の同盟を支える軍事拠点・長岡城、白河口の同盟を支える軍事拠点・二本松城がまとめて陥落、同盟の士気が折れてしまった。
佐川は殿を務めながら奮戦していた。同年8月1日、400石加増の700石となり若年寄に任命される。会津鶴ヶ城の本営から、「白河口の指揮官に欠員が出たので、そちらに移動して」と手紙が届き、同年8月9日、部隊を小隊長の町野源之助に引き継ぎ、道中の同年8月11日、300石加増で家老に就任と通達を受け、鶴ヶ城に到着したのが同年8月14日。
佐川は同年8月22日、臨時編成の部隊700人の内、250人を率いて戸ノ口原に到着した。日橋川に掛かる十六橋を破壊して、時間を稼ぐ事、可能ならば敵の攻撃を防ぐのが役割だった。
この計画は薩摩軍の指揮官・川村純義によって妨げられた。部下の川村景明によると、「川村隊長は会津攻略RTA始まるよ!と叫んで猪苗代から雨の中を走り出し、敵が橋を壊し始めた処に辿り着き、要所を抑えて、敵を撃破した。帝国陸軍と違い、戦闘序列が無いから、先陣を薩長土で争い、先陣をくじ引きで決めていたが、皆、くじに納得せず、味方を出し抜いて、抜け駆けするのが日常茶飯事だった」と話している。
今回はこれが功を奏し、同年8月23日には会津城下に雪崩込む事になった。
佐川指揮の臨時部隊は橋は壊せず、時間は稼げずと良いところ無く大敗、命からから鶴ヶ城に入城。各地に散開した主力部隊も城にある程度入城し、軍を再編した会津軍は、城下に取り付いた太政官軍を排除すべく、精鋭部隊千人を選抜し、総司令官に佐川を任命した。
作戦の言い出しっぺは佐川で「城の外にいる部隊との連携など必要ない。今までの戦いで会津の精鋭を多数集めて決戦した事はない。宜しく我が技倆を試み、敵と雌雄を決すべきである」とし、その案が採用された。
作戦案では同年8月29日払暁に進軍を開始し、軍を3つに分けて分進合撃を取る段取りだった。会津軍にとってこの日の出撃は決戦であり、将兵一丸討死の決心であり、多数の者は懐に8月29日討死、何の某と書かれた紙片を携えていた。アメリカ南北戦争の1864年6月3日に行われたコールドハーパーの戦いに際して、北軍将兵が決戦前に死を覚悟して、日記や紙片に「6月3日、コールドハーパー、僕は戦死した」というのに、通じるだろう。
だが佐川は前夜の訣別の宴で酒を飲み過ぎ、払暁の出発時に遅刻し、辛うじて午前7時頃に集合し、続いて出発したから、もはや払暁攻撃にはならなかった。
攻撃をあきらめた佐川は、城内から駆けつけた増援部隊に負傷者を託して城に運ばせ、自ら残存戦力を率いて、城の外で遊撃戦を会津戦争が終わるまで続けた。
終戦
会津松平家は明治元年(1868)9月22日に太政官に降伏。佐川隊と家老・
萱野権兵衛指揮の部隊は9月24日に降伏。如来堂の戦いで行方不明とされていた
新選組・
斎藤一は佐川隊に在籍し、ここで降伏。佐川隊に在籍していた水戸徳川脱走軍だけは降伏を潔しとせず、水戸へ向かった。中には
池田七三郎など
新選組の生き残りがいた。
城で籠城していた人は猪苗代の謹慎所、城の外で戦っていた人は塩川の謹慎所に収容された。
明治二年(1869)に再編され、東京と越後高田藩に分けて送られた。
朝敵藩には叛逆首謀者を調べて届け出る様に下令された。この場合、当主の身代わりに責任を取る為、処刑されるのだが、会津松平家だと本来、慶応2年(1866)から主席家老の地位にいた梶原平馬(諱は景武)や公用局創設時の生き残り・小森久太郎が対象になるのだが、最終的に戦死した田中土佐・神保内蔵助を申し上げ、生き残りの家老で萱野権兵衛が処刑された。
佐川は自ら戦犯を名乗り出たが、萱野から「生き残って、薩長の作る世の中を見届けてから、死んでよ」と釘を差された。
会津松平家の民衆は戦後、孝明天皇の正義の為に働いた武士階級にヤーヤー一揆という形でしっぺ返しをしたが、太政官の戦後行政は民衆が望んだ形にならなかった。
会津に非協力的→敵とみなして会津武士が焼き討ち→報復で太政官に協力→戊辰戦争後、会津武士が人誅でお返し。周りの人たちも襲われた農民が恩賞で贅沢な暮らしをしやがってと妬みの眼差しで見ているから、意外と人誅に協力的だった。恩賞を貰った農民も人誅の対象から外れるべく、質素な生活を振舞う事で逃げようとしたが、会津武士に嗅ぎ付けられ、人誅を達成した。
明治へ
明治3年(1870)1月3日、会津松平家は下北半島に斗南藩として復活し、佐川もそこに移住した。因みに家族は父親、又三郎、正は戊辰戦争で戦死している。
妻は前妻に町野家から嫁いたふさがいたが、価値観が合わなくて1年で離縁。次にかつという女性と京都で結婚した。佐川は結婚式当日に客人と酒盛りをして酔い潰れ、結婚式をすっぽかし、弟達から説教されている。明治2年(1869)に結核で病死。
佐川は母親と今の青森県三戸郡五戸町に移り住む。生活は厳しく、廃藩置県後に会津喜多方に戻り、2番目の妻・かつの墓がある長福寺の一室を借りて秩禄を元手に農業で生計を建てていた。佐川が会津に戻ると聞くと、戊辰戦争で戦った部下達が集まり、学問や武芸を行いながら身を寄せ合っていた。
そこに明治6年の政変で
西郷隆盛派の軍人や官僚が辞職し、彼らの穴を補うべく太政官は人材をスカウトした。そこで採用されたのが、
山川浩、佐川官兵衛(旧斗南藩)、
立見尚文(旧桑名藩)、
三間正弘(旧長岡藩)、
千坂高雅(旧米沢藩)などの反太政官陣営の戦上手たち。佐川は彼らと同じ戦場で戦った戦友である。
明治7年(1874)1月15日、内務省管轄の東京警視庁が設置される。建物は鍛冶橋内旧津山藩江戸藩邸に設置され、鹿児島藩の
川路利良が初代大警視(後の警視総監)に任じられた。川路は人員を集めるに辺り、太政官に批判的な士族層を取り込み、彼らに治安維持や不平士族の対応をさせれば、毒をもって毒を制すという考え方から、戊辰戦争で敗れた地域にスカウティングを掛けた。
佐川にも「
太政官と契約して、警察官になってよ!」と川路自ら勧誘の手紙が届いた。佐川は「
働きたくないでござる」と断ったが、川路から「あなたはそれでも良いが、若い衆を生活苦で田舎に埋もれさせるのかいかがなものか?」と返信が来ると、佐川もかつての部下達を食わせる為、明治7年(1874)2月、川路の募集に応じ300人の士族を引き連れて東京警視庁に奉職した。
佐川は明治7年(1874)3月17日、かつての部下・藤田五郎こと斎藤一が元会津松平家大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚したので、その仲人を務めた。細かく言えば、松平容保が上仲人、佐川と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人である。佐川は元上官、山川は斗南藩の最高責任者、倉沢は斗南藩時代、身寄りのない斎藤一を引き取り、一緒に生活した仲で、時尾と斎藤を引き合わせた人物。藤田五郎の藤田は高木小十郎の妻・克子の旧姓が藤田である事から来ている。斎藤は佐川より約半年遅れで東京警視庁に奉職、諜報活動をした後、明治10年(1877)2月20日、警部補に昇任。
佐川は一等大警部、月給50円の収入を得たが、3割程を松平容保に送金していた。同様の行為は元公用人の手代木直右衛門も太政官に出仕した際、松平容保に挨拶して許可を貰い、月給の半分を松平容保に送金していた話がある。
佐川の勤務態度は優良で、明治10年(1877)には東京麹町の警察署長を務めていた。その間、3度目の結婚をしている。跡取り息子を授かり、平和な家庭を築いて行く筈だったのだが…
西南戦争
明治10年(1877)2月14日に発生した西南戦争。
東京警視庁から東京警視隊9500人が別動第3旅団(旅団長・川路利良。陸軍少将兼任)として派遣される事になり、佐川は豊後口第一号警視隊一番小隊長兼副指揮長として巡査200人を率いて、小倉→豊後竹田→熊本県阿蘇と進軍し、二重峠を抑えた西郷軍を迎え撃つべく、白水村に布陣した。
当時の阿蘇地方は世直し一揆の真っ只中で、貧農、小作人が村役人や高利貸しを襲い、それを西郷軍が後押しして、村は無秩序状態。村役人たちは佐川達にすがった。佐川隊は一揆勢を撃退し、村役人達に略奪暴行、報復行為の禁止を命じた。
佐川にしてみれば、戊辰戦争で会津、太政官共に同じ事をしていたから、頭の痛い話ではあるが、分かっていれば、即座に対処するだけの手腕が佐川にはあった。
この処置は見事で、白水村の住人は佐川が戊辰戦争で「鬼官兵衛」と呼ばれていたのを知ると、「お鬼さま」、「お鬼ちゃん」と親しみを込めて呼んだ。
佐川が敵情を視察すると、隣の坂梨峠や黒川集落に西郷軍が進出しているとの事。指揮長の檜垣直枝に即時攻撃を申し出たが、檜垣は攻撃リスクを取ることを恐れ、旅団長の川路に許可を求めた。川路から「何のための現場指揮官だ…そのくらい、自分で判断しろ」と失望され、仕方なく佐川の申し出を受け入れた。
しかし、その間、西郷軍は野戦築城を完成させて増援を加えていた。
佐川はそれでも攻撃をあきらめず、佐川に協力を願い出た地元住民の義勇軍が200人加勢したので、檜垣と義勇軍を囮にして敵を引き付け、その間に佐川が斬り込みを掛ける作戦案を実行した。
佐川は出陣前に「君がため 都の空を打ちいでて 阿蘇山麓に身は露となる」と辞世の句を読み上げている。更に、戊辰戦争で亡くなった会津武士の名前を記した肌着を身に着けて、戦闘に臨んだ。
明治10年(1877)3月18日払暁、佐川隊は予定通りに作戦案を実施したが、手の内を読まれて、西郷軍が待ち構える中に突っ込んでいった。7時間の激闘の最中、この地を守る西郷軍指揮官・鎌田雄一郎と一騎打ちになっていたが、長野唀という人物から2発の銃弾を浴びて戦死した。
後日談としては、佐川が戦死すると、警視隊は総崩れになり退却、檜垣と義勇軍も撃退された。坂梨峠や黒川集落の西郷軍は豊後竹田まで侵攻し、この地を守る豊後口第二号警視隊と交戦し、敗退した。鎌田はこの戦いで重傷を負い、鹿児島に運ばれ戦傷死している。警視隊の小隊長に佐川の元部下・杉浦佐伯が、斎藤が半隊長に配置となり、結果として佐川の仇討ちになった。斎藤は斬り込みの際に敵弾で負傷するも、敵の大砲二門を奪う活躍を見せて奮戦し、東京日日新聞に報道される。
長野は佐川を斃した事を自慢していたが、一騎打ちの背後から討った事でKYな奴と村から村八分状態にされ、寂しい末路を辿った。
死後
佐川は死後、靖国神社に祀られた。この立ち位置も複雑だった。戊辰戦争で亡くなった会津武士は当時朝敵であるため、靖国神社へ祀られる対象外だが、禁門の変で孝明天皇を守って亡くなった会津武士は、靖国神社には祀られていない。孝明天皇の御所に砲弾をぶち込んだ朝敵であるはずの真木和泉、久坂玄瑞、来島又兵衛、寺島忠三郎らは殉国の志士として靖国神社に祀られている。
このダブスタは明治の帝国議会で問題視され、島田三郎という旧幕臣あがりの代議士が、御所に砲弾ブチ込んだテロリストが靖国神社に埋葬され、孝明天皇を守護して戦死した会津武士が埋葬されないのはどうして?教えて山縣さん?と訊ねた。結局、禁門の変で亡くなった会津武士31名は大正4年(1915)靖国神社に埋葬された。
佐川家は残された直諒(なおまさ、なおあき)が一時金などを元手に陸軍幼年学校から陸軍士官学校第9期生として明治30年(1897)11月29日卒業、明治31年(1898)6月27日、650人が任官し、その中に含まれる。斎藤一の息子・藤田勉とは同期生であった。明治37年(1904)の日露戦争時、帝国陸軍大尉・近衛歩兵第2連隊第3中隊長として8月30日、遼陽攻撃中に孟家房にて戦死した。享年29歳。
評価
山川浩が佐川を「佐川は薩摩の西郷隆盛のような人だった」と評している。人望があり、馬鹿な弟子に頭を下げられたら、彼らの為に命を投げ出す覚悟をする、という意味だろう。
佐川の墓は喜多方の長福寺と大分県松栄山護国神社境内警視局墓地の2つあり、1968年「佐川官兵衛殉難之碑」という顕彰碑が戦死した阿蘇の地に建てられたが、建設されたのは会津側の有志団体と義勇軍の末裔が共同で作ったモノだった。
それまでは第二次世界大戦で日本が敗れると戦後はマルクス・レーニン主義により農民一揆は善、支配者は悪という歴史観の下、佐川は徳川幕府、太政官で農民を押さえつけてきた二重の意味で悪の扱いを受けた。戦前は皇国史観で王政復古を妨げる会津武士として悪の扱いを受け、地元民の、ムラ社会の人間関係がこれに輪を掛けてややこしくして、顕彰碑を建立するのでさえ、対立していた。
当事者世代が亡くなり、世代交代により、話が進んだ。
佐川官兵衛が登場する作品
- 『八重の桜』(2013年、演:中村獅童 (2代目))
その他のTVドラマ
- 『白虎隊』(1986年、日本テレビ、演:本田博太郎)
- 『田原坂』(1987年、日本テレビ、演:本田博太郎)
- 『山田風太郎 からくり事件帖-警視庁草紙より-』(2001年、NHK、演:大橋吾郎)
- 『河井継之助〜駆け抜けた蒼龍〜』(2005年、日本テレビ、演:六平直政)
- 『白虎隊〜敗れざる者たち』(2013年、テレビ東京、演:RIKIYA)
追記、修正、お願いします。
- すまないが忌憚のない意見を言うと読みにくい。この人が何をやった人なのかがわかりにくい。もっとまとめてほしい。 -- 名無しさん (2025-10-02 17:42:59)
- 家訓に婦人女子の意見を一切聞くなって書いてあんの時代を感じるな -- 名無しさん (2025-10-02 18:29:04)
- ↑正妻が嫉妬に狂って側室の娘を毒殺しようとしたら、間違って自分の娘を毒殺。それが婚礼の儀で行われたから、正之がブチギレた。 -- 名無しさん (2025-10-03 17:49:57)
- 佐川官兵衛は高橋ツトムの漫画『SIDOOH/士道』で主要キャラの1人であり、主人公兄弟が慕う文武・人格優れた師匠として描かれてる。ただあの漫画、坂本龍馬については「自分が金儲けできれば日本なんてどうでもいい」と考えてる悪人に描いているので幕末ファンにはなかなか薦めづらい -- 名無しさん (2025-10-03 17:55:32)
- ↑まあ幕末人自体が日本史上類がないほど腕っぷしだけでのし上がろうとしたチート蛮族共の群れだからな… -- 名無しさん (2025-10-04 22:09:58)
- 本人は忸怩たる思いがあるが、武田金次郎と比べたら上手く順応した方なんだよな。負けた側の人間で警察署長まで出世する人など中々いない。 -- rokudenashi37564 (2025-10-21 11:47:29)
最終更新:2025年10月21日 11:47