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サッカーオランダ代表

登録日:2026/05/20 (水) 23:26:35
更新日:2026/08/22 Sat 14:36:03
所要時間:約 50 分で読めます





そしてゴッホは麦畑に目を向け


そしてアインシュタインは数字に


そしてレッド・ツェッペリンはツェッペリンに


そしてヨハンはボールに目を向けた



喜劇俳優トゥーン・ヘルマンスの詩より




概要



サッカーオランダ代表は、オランダサッカー協会(KNVB)によって編成されるオランダのサッカーのナショナルチームである。
愛称はオランイェオレンジ軍団
なぜ国旗にないオレンジ色をユニフォームの色にしているのかというと、オランダ建国の父「オラニエ公ウィレム」が由来。
ウィレムが16世紀に公位を引き継いだオランジュ公国*1から取られており、国旗も元々は赤い部分がオレンジ色だったのである。

ちなみに「オランダ全土の代表チーム」という訳ではなく、オランダ領の内カリブ海にある自治領の島「アルバ」は「サッカーアルバ代表」、「キュラソー」は「サッカーキュラソー代表」、「シント・マールテン」は「サッカーシント・マールテン代表」として独自のナショナルチームを所持(かつては「オランダ領アンティル」という一つのチームだった)。
内アルバとキュラソーはFIFA登録もしているのでW杯に参戦可能で、2026年にはキュラソーが初のW杯本戦出場を果たしている。

伝統的に攻撃サッカーを志向しており、複数のポジションをこなせるユーティリティ性の高い選手が多いのが特徴。
そのため、GKもフィールドプレーヤーの一人として扱っており、フォーメーション表記する際はGKの分も含めている。
(例えば、伝統の4-3-3は1-4-3-3と表記する)
「美しいサッカー」へのこだわりは非常に強く、ゴールを奪うだけでは満足せず、相手の長所を潰すような守備的サッカーを嫌悪する傾向にある。
ただそれは、ブラジル的な美しいゴールを決めるなどの個人プレーではなく、いつ・どこで・何をすべきか戦術を理解した上でのもの。そこはやはり欧州らしいと言える。

オランダはサッカーが国技なだけあって、サッカー文化が各地に強く根付いている。
協会によると、自転車で700m走ると何かしらのスポーツ施設があり、そのほとんどがサッカーグラウンド。
しかもアマチュアクラブですら人工芝2面、天然芝2面のグラウンドやクラブハウスを持っていたりする充実ぶり。
さらにプロアマ問わず男女合わせて100万人近くが協会に選手登録し、公式戦でプレーしているという。これは国民の18人に一人がサッカー選手ということになる。

育成についても、まずU-10までは平等な出場機会を目的とし、全員出場させることが義務付けられている。
「今日の勝ちにこだわるのではなく、明日の勝利をつかもう」
これは育成におけるポリシーだが、子供の内から勝負にこだわってもあまり意味はないので、ミスを恐れず、楽しく攻撃的にプレーすることに重きを置いていることを表す。
そのため、ミスを叱責するのではなく、挑戦したことを褒めたり課題に取り組むことを促したり、とにかく前向きな姿勢でプレーできるよう心掛けている。
世界的に活躍するプロ選手を目指すガチ勢はもちろん、エンジョイ勢にも優しい構造となっているのである。

また、アヤックスのスカウトだけでもボランティア含めて600人はおり、どんなに低いリーグでも毎週全ての試合に足を運んで才能の発掘にいそしんでいる。
これはドイツやフランスと違って人口が少ないため、才能の取りこぼしが致命的だからである。
逆に言えば、狭い国土にたくさんのクラブがひしめき合っているおかげで情報が入手しやすいとも言える。

しかし、今まで輩出してきたタレントの数だけ見たら何度もタイトルを取ってもおかしくないはずだが、2026年5月現在、獲得したタイトルはEURO88の1回のみ
W杯は実に準優勝3回であり、まさに絵に描いたようなシルバーコレクター的存在となっている。
以前はスペインも似たようなポジションだったのだが、2010年にオランダを破って優勝したので取り残される形に……
私を置いて行くなアアアア!!

優秀な選手たちを供給していながら勝てない理由は、主にこの3つが挙げられる。


1.勝利へのこだわりの薄さ

勝利のためならどんな犠牲も払うドイツとは対照的に、オランダは個人主義で独裁を嫌う性質。
オランダは国の規模が小さいため、常にナンバーワンが求められる大国と違い、自分たちのサッカーの美しさを示せれば満足してしまう所がある。
そればかりか横柄な一面もあり、EURO92などのように格下と見なした相手を見くびって足元をすくわれることもままある。
歴史・地理的に見ると、オランダは国土の50%以上が海面より低い国であり、堤防を作ったり海を埋め立てたりするには民主的な制度が必要だった。
さらに日本との歴史でも分かる通りオランダは商人の国であり、常に権力に頼ることなく独立心を保ちながら生きることが不可欠だった。
「平等性を重んじる一方独立心が強い国民性」ということは、次の問題にもつながってくる。

2.内紛の多さ

下記の「90年代以降のW杯・EUROでのオランダ代表」の項にも記したが、90年代ごろはとにかく内紛が多い
西ドイツW杯のメンバーの一人ウィレム・ファン・ハネヘム曰く
「オランダ人はトラブルが好きなんだ。代表チームの周辺で何も問題が起きないと、逆にどこか悪いんじゃないかと心配するんだ。問題が存在しないなら、むしろ作り出さなくちゃいけないのさ」
とのことなので筋金入りである。
ただし近年では「和」を重視するようになってきたためか、この手の話はあまり聞こえなくなっている。

3.PK戦の弱さ

伝統的にPK戦に弱く、90年代以降PK戦の戦績は2勝7敗と大きく負け越している。
オランダにとって90分以内に勝ち切ることこそが美学であり、PK戦での勝利にあまり価値を見出していないと言われる。
しかし現代の国際大会で優勝するためには、PK戦に強いことが必須である。
70年代にはヨハン・ニースケンスやロブ・レンセンブリンクなどPKを得意とする選手が多くいたのだが……
なおクライフは練習ではPKを一度も失敗したことがなかったのに、本番では絶対に蹴ろうとしなかったらしい


何とも歯がゆい話だが、その儚さ故に心に残り感情移入しやすいという側面もあると言える。


歴史



・トータルフットボール登場まで


イングランド発祥のスポーツであるサッカーは、まずスコットランドなど英国内を伝わり、その後オランダやベルギーを経てドイツやスイス、東欧、北欧へと広がっていった。
つまり歴史そのものはかなり古く、W杯では第2回大会の1934年イタリアW杯で初出場している。
しかし34年・38年といずれも1回戦で敗退しており、以降も長らく表舞台に立つことはなかった。

戦後のオランダは戦術面で世界最先端から何十年も遅れており、2-3-5という旧式のシステムを使い続けていた。
60年代初頭まで、オランダの多くのチームはDFを2人しか配置しない布陣で戦っていたのだ。
同時にこの時代は、世界各地で大きな社会変革の波が押し寄せた時代でもある。
オランダも例外でなく、50年代には陰気で時代遅れな国という扱いだったのが、社会基盤や福祉が改善されたことにより経済・文化共に大きく発展することになった。
そして時代の変化を象徴するかのように、国内最大の名門アヤックスから、サッカー界最大の改革が萌芽し始めていた。





それが後に「トータルフットボール」と呼ばれる概念であった。





当時アヤックスを率いていた───後世で20世紀はおろかサッカー史上最高の監督と呼ばれる───リヌス・ミケルス監督が考案したそれは、「全員攻撃・全員守備」という画期的なものだった。
従来と違いポジションではなくスペースの扱い・作り方を重視しており、11人全員が高い戦術理解度や技術を共有することと、どのポジションも本来ありえない動きが要求された。
まずGKは足元の技術が必須で、シュートを止めるだけでなく攻撃の起点になること。
DFは前方にスペースがあればボールを運んで中盤の数的優位を取り、場合によってはウイングのように高い位置まで上がる。
MFは流れるような配球にフィニッシュやプレッシングへの貢献、FWは相手に守りの基準を与えない激しいポジションチェンジが求められた。







当時ポジションが完全分業制だったことを考えると、極めて難易度の高い戦術だったのである。
そのため厳しいトレーニング態勢が敷かれ、アヤックスの選手たちは90分間走り続けられる体力を身につけるよう、森林公園を毎週マラソンさせられた。
さらにこれを完成させるためには、ピッチを俯瞰するような戦術眼とオールラウンドな才能、ピッチ上の監督とでも言うべき統率力を持つ特別な選手まで要求された。
ここまで来ると、当時の一般的な感覚としては「なるほど完璧な作戦っスねーっ 不可能だという点に目をつぶればよぉ~~」だっただろう。
それらが完璧にできる選手なんて都合よくいるわけ……いた
彼こそが、トータルフットボールの申し子、ヨハン・クライフである。

ミケルスとクライフのアヤックスは、ミケルスが就任した65年からクライフが退団した73年までに6度のリーグ優勝。
71年からはチャンピオンズカップ(現UEFAチャンピオンズリーグ)3連覇を成し遂げた。
そして74年西ドイツW杯、ミケルス率いるオランダはサッカー史最大のゲームチェンジャーとして名を馳せることになる。

36年ぶりにW杯に出場したオランダの前評判は決して高いものではなかった。
しかし一次リーグ、ウルグアイとの初戦で、一気に衆目を集めることになる。
7,8人が守るウルグアイに対し、オランダはクライフを中心にしてボールを回して攻め続ける。
それはまるで、全ての歯車が一斉に連動したかのようだった
終わってみればヨニー・レップの2ゴールで快勝。これが、快進撃の始まりとなった。
続くスウェーデン戦はスコアレスドローだったが、この試合はインサイドでボールを軸足の背後に通して反転するトリック「クライフターン」が生まれた試合として有名である。
クライフ曰く、このプレーは即興的なものであり、大きな印象を残すとは思っていなかったようだが、サッカー好きや選手なら思わず真似してプレーに取り入れたくなるほど美しいものだった。
ブルガリア戦は高い位置からのボール狩りを何度も披露し制圧すると、4-1で圧勝。
一次リーグが終わる頃になると、開幕当初は興味がなかったオランダ国民も盛り上がり、オランダの試合にはオレンジのシャツを着た大勢のファンが詰めかけるようになっていた。
一方で、初めてトータルフットボールを目の当たりにした相手チームの選手たちは、このように戦慄しただろう。




  |l、{   j) /,,ィ//|     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  i|:!ヾ、_ノ/ u {:)//ヘ     | あ…ありのまま 今 起こった事を話すぜ!
  |リ u' |  ,ノ _,!V,ハ |     < 『おれはボールを持ったと
  fト、_{ル{,ィ'eラ , タ人.    |  思ったらいつのまにかDF以外の選手にまで群がられていた』
 ヾ|宀| {´,)⌒`/ |<ヽトiゝ   |  催眠術だとか瞬間移動だとか
  ヽ iLレ  u' | | ヾlトハ〉.   | そんなチャチなもんじゃあ 断じてねえ
   ハ !ニ⊇ '/:)  V:::::ヽ. │ もっと恐ろしいものの片鱗を味わったぜ…
  /:::丶'T'' /u' __ /:::::::/`ヽ \____________________



二次リーグでも快進撃は止まらず、アルゼンチン戦では4-0と圧勝、東ドイツ戦も2-0で快勝。
前回優勝国のブラジルとの大一番を迎えた。
ブラジルは優勝メンバーだったペレやトスタンなどが去り、メンバーが大きく入れ替わっていた。
そのため、本来のスタイルではないフィジカルの強さを前面に押し出さざるを得ず、次第に追い詰められていく。
後半に入ると、ヨハン・ニースケンスが倒れながらもGKの頭上を越すループシュートを決め先制。
15分後のクライフによるジャンピングボレーの2点目は、サッカー史で最も美しいゴールの一つに挙げられ、彼が「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」と呼ばれるきっかけとなった。
オランダのあまりの強さに圧倒されたブラジル監督のマリオ・ザガロは、「もはや個々のテクニックで勝てる時代は終わった」と白旗を上げたのだった……
新興国が王国を圧倒したこの試合は、まさに時代の転換点そのものだった。

ところが、オランダの悪い癖はすでにこの頃から表れ始めていた。
決勝の西ドイツ戦、試合開始早々にPKを得て先制すると、気が緩んだのか2点目を狙いに行くのではなく、テクニックを見せつけるかのようにボール回しを始めたのである。
この相手をおちょくったようなプレーに西ドイツ側は発奮。前半の内に逆転され、後半に入ってもスコアは動かず準優勝に終わるのだった……
西ドイツてめーの敗因は…たったひとつだぜ…オランダ…たったひとつの単純な答えだ…「てめーはおれを怒らせた」
この敗戦はオランダ国民にとって第二次世界大戦に次ぐトラウマ*2となり、結局「最高のチームが勝つとは限らない」という教訓を残したのだった。

しかし、強さと美しさを両立させたオランダの影響力は絶大で、この大会を機にサッカーの戦術の視点は「ポジション」から「スペース」へと変わっていった。
相手が自由にプレーできるスペースを消すゾーンプレス。
相手にボールを奪われた瞬間にプレスをかけボールを奪い攻撃に転じるゲーゲンプレス。
短いパスをつないで高いボールポゼッションを維持するティキタカ。
つまり、これらの戦術はみんなトータルフットボールの子孫
革新的だったものは、研究されやがて普遍的なものへと変わっていくのである。





78年のアルゼンチンW杯では前回大会のメンバーの多くが健在だったが……肝心のクライフとミケルスがいなかった。
やはりというか、クライフのいないオランダはどこか覇気がなく、一次リーグの時点でいきなり敗退の危機を迎えていた。
加えて、一次リーグの行われたメンドーサのスタジアムのピッチは劣悪で、初戦のイランはロブ・レンセンブリンクのハットトリックで3-0で勝利したが、次のペルー戦はスコアレスドロー。
最終節のスコットランド戦では、3点差以上をつけられて負けたら敗退という状況になっていた。
その試合はレンセンブリンクが先制したが、立て続けに3失点するという嫌な流れになっていた。それでもレップのゴールにより何とか2-3に持ち込み、2次リーグ進出。
2次リーグの舞台となったコルドバはピッチ状況も天候も良好で、チームの調子は上向きに。
オーストリアに5-1で大勝すると、西ドイツ戦は常にリードを奪われながらも2-2のドロー。
イタリア戦はアーニー・ブランツがオウンゴールを献上したが後半にそのブランツのゴールで追いつく。
76分にはアリー・ハーンがセンターサークル付近から放った約40mもの超ロングシュートが決まり勝利。2大会連続で決勝にコマを進めることになった。
特にハーンのゴールは、今のように飛ばない当時のボールでこれだけの距離からゴールを決めたことを考えると、歴史的なゴラッソと言える。

決勝の相手は、初優勝のかかった地元アルゼンチン。
オランダは37分に相手エースのマリオ・ケンペスから先制を許した上、反則ギリギリの悪質なプレー、地元びいきのジャッジ、ブーイングという圧倒的アウェイの洗礼にさらされた。
それでも83分、ディック・ナニンハのゴールで追いつくと、後半終了間際に大チャンスが訪れた。
主将のルート・クロルがセンターサークル付近からロングパスを送ると、これにレンセンブリンクが反応。
GKウバルド・フィジョルと衝突しながらも放ったシュートは脇の下を通り抜けゴールに……吸い込まれなかった
ボールはゴールポストを直撃。結局試合を決めきれなかったオランダは延長戦で2失点を喫し、無念の2大会連続準優勝に終わったのだった。

とはいえ前回大会と違ってオランダ人は、レンセンブリンクのゴールが決まっても優勝できなかっただろうと捉えている。
当時のアルゼンチンは軍事独裁政権下で、八百長疑惑が取り沙汰されていたためである。
なので、何かと理由をつけてゴールが取り消されたり、ATを長くとってPKを与えたかもしれないと考えている。

当事者であるレンセンブリンクはこう語る。

終了間際に私が打ったシュートは、チャンスというほどのものじゃなかった。
逆に、よくポストに当てたと思っているくらいだよ。
ボールはゴールラインを割って外に出そうだったし、スペースもほとんどなかった。
ボールをコントロールすることも、中に切れ込んでいくこともできなかった。DFも詰めてきていたしね。
だから、すぐにシュートを打つ必要があった。GKも目の前にいて、コースはほとんどなかったんだ。
あのときのシュートが、まったく違う方向に外れていたらよかったと思う時があるよ。
そうすれば、こんなにいつまでもあれこれ言われ続けることはなかったんだ。
決定的なチャンスを逃したのなら、後悔もしただろう。
だが、あの場面でシュートを決めるのは、不可能だったんだよ。

何にせよ、この大会でオランダの勝負弱さや巡り合わせの悪さが決定づけられたと言っても過言ではないだろう……


・EURO88


70年代に世界に衝撃を与えたオランダだったが、80年代に入ってからはW杯(82年・86年)もEURO(84年)と3大会続けて予選落ちし大舞台から遠ざかっていた。
一方で、選手時代晩年のクライフと共にプレーし、監督になった彼の薫陶を受けて育った世代や、かつてオランダの植民地だった南米スリナム系*4の選手が台頭し始めていた。
テクニカルで自由を愛する南米由来のスタイルのスリナム系はオランダと相性が良く、比較的早く溶け込んでいった。
そしてEURO88でこのチームを率いたのは、再びミケルス。
なおスリナムは、アメリカ・メキシコ・カナダがホスト枠として抜けW杯初出場の大チャンスだった26年北中米W杯最終予選*5で首位に立ちながら、最終節グアテマラ戦で大敗。
プレーオフ送りとなり、結局そこでもボリビアに敗れて初出場を逃してしまった。何もそこまで宗主国と似なくても……*6

オランダの出足は悪く、グループリーグ初戦のソ連戦で0-1と敗戦。
しかし続くイングランド戦はマルコ・ファン・バステンのハットトリックで3-1の勝利。
3戦目のアイルランド戦は83分、ロナルド・クーマンの放ったミスキックをヴィム・キーフトが耳に当てたシュートが運よく決まり、1-0で勝利。2位通過を果たした。

準決勝の相手は西ドイツ。この大会が西ドイツ開催だったことを考えると、74年の因縁再来である。
さらに言うと、ファン・バステン、フリット、ライカールトがミラン所属*7だったのに対し、西ドイツはローター・マテウス、ユルゲン・クリンスマン、アンドレアス・ブレーメがインテル所属。
ミラノダービーまで勃発しており、なおさら因縁深い一戦となった。
後半互いにPKを決め1-1の中、追いつかれた西ドイツは焦りを見せていた。それとは対照的に攻撃を仕掛け続けるオランダ。
すると88分、ファン・バステンがスライディングシュートでファーサイドに逆転ゴールを決めた。オランダ、決勝進出。
いつものオランダらしくない、むしろドイツらしい粘り強い逆転劇に、オランダ国民も溜飲を下げ国内はお祭り騒ぎになったのだった。

決勝の相手は再びソ連。
32分、フリットがヘディングで先制すると、54分、ファン・バステンが角度のない位置から放ったダイレクトボレーで追加点。
特に後者のゴールは、EUROはおろかサッカー史でも最も美しいゴールの一つに数えられている
こうして2-0で勝利したオランダは、悲願の国際大会における初優勝を成し遂げた
得点王に輝いたファン・バステンは、前シーズンは足首の負傷によりピッチ外から試合を眺めることが多かった。
そのため移籍1年目で大車輪の活躍をしてミランをスクデットに導いたフリットの方が注目されていたのだが、この大会で名実ともに大ストライカーとして名を刻むことになった。


・90年代以降のW杯・EUROでのオランダ代表



1990年W杯


EURO88の優勝に加えて、オランダトリオはミランで2度の欧州制覇を果たしていた。
そのため優勝の大本命に挙げられていたのだが……
大会前、代表は監督の選考をめぐって揉めだしていた。
欧州予選を無敗で突破したものの、テイス・リブレフツ監督がフリットに人種差別的な発言をしたとされ解任。
選手たちはクライフを圧倒的に支持していたが、監督任命権を持つミケルスの鶴の一声でレオ・ベーンハッカーが指名された。
このことに選手たちの不満がくすぶりだし、チームの内情はEURO88の時が嘘のように悪化。
おまけに、ファン・バステンが不調かつフリットも怪我上がりという泣きっ面に蜂の状態に。

チーム状況の悪さはモロに成績に現れ、グループリーグは3戦3分け。
同じく3分けの成績かつ総得点と総失点で並んだアイルランドとのグループリーグ2位をかけた抽選にも敗れ、結局グループリーグ3位で通過。
そしてベスト16ではまた因縁の西ドイツ戦となったが、ライカールトはルディ・フェラーとの小競り合いの末に両者退場。しかもその際にツバを吐きかけるという大失態をやらかしていた。
攻守の要であったライカールトを前半の内に失ったことはあまりに痛く、1勝も上げられないままここで敗退。
この後味の悪すぎる試合内容に、オランダとドイツの国境では暴動が発生する事態となった。


EURO1992


グループBでスコットランドに1-0、CIS*8にスコアレスドロー、ドイツに3-1で首位通過。
準決勝は、内戦のために出場権を剥奪されたユーゴスラビアの代わりに出場したデンマーク。
PK戦にもつれ込んだが、相手全員が成功させたのに対し、オランダはよりによってファン・バステンが失敗し敗退。ファン・バステンはノーゴールに終わってしまった。
が、デニス・ベルカンプがこの大会で台頭するという明るい話題もあった。
ちなみに、勝ち上がったデンマークはそのまま優勝。本来出場権のなかったチームが代役で出場したら優勝してしまったという、欧州情勢の混沌を象徴するような大会となった。

1994年W杯


EURO1992を最後に勇退したミケルスの跡を継ぎ、ディック・アドフォカートが監督に就任。
しかし、W杯予選のイングランド戦で途中交代させられたことに腹を立てたフリットは1年以上にわたってアドフォカートと対立。
それでも本大会を目前に控えひとまず和解し、主将としてチームに復帰したはずだったが……
何と、アメリカに出発する前日にチームを去ってしまう。大会終了後にその理由を説明すると約束していたが、結局それは果たされなかった。
ファン・バステンも度重なる怪我でいよいよ体が限界を迎えており、93年CL決勝以降試合に出場できなくなっていた。

それでもライカールトやクーマンといったベテランが残り、フランク・デ・ブールやマルク・オーフェルマウスといった新鋭も育っていたオランダはグループリーグを首位通過。
アイルランドを2-0で一蹴するが、ベスト8の相手はブラジル。
53分にロマーリオに先制を許すと、10分後にベベットも決めて2点差に。
オランダはその直後にベルカンプのインサイドキックで1点差に詰めると、76分にアーロン・ヴィンターが強烈なヘディングを決めて追いついた。
が、81分にはブランコがFKからの鋭い一撃で突き放され、そのまま敗退した。


EURO1996


アドフォカートの後を引き継いだのは、後の2002年日韓W杯にて韓国をベスト4に導き、06年ドイツW杯にてオーストラリアを率いて日本に悪夢を見せるフース・ヒディンク。
しかしここで、白人選手と黒人選手たちの対立が表面化。
黒人選手たちはヒディンクが自分たちの意見を聞いてくれず、キャンプ地の食事でスリナム料理がないと不満を漏らしていた。
加えて、アヤックスが給与面で白人選手を優遇していたことが発覚し、さらに火に油を注ぐような状態に。
トドメに、エドガー・ダーヴィッツがラジオのインタビューでヒディンクを非難し、メンバーから外される事態にまでなった。

こうしてチーム内の溝は深まり、グループリーグ最終戦のイングランド戦で1-4の完敗。2位通過となる。
ベスト8のフランス戦は0-0のままPK戦にもつれ込み、4人目のクラレンス・セードルフが失敗し、最終スコア4-5で敗退
しかもこの後、パトリック・クライファート、ヴィンストン・ボハルデ、ミハエル・ライツィハーの3名が「代表を黒人だけにして戦いたかった」とまで発言。
この軋轢は、その後のW杯予選まで引きずることになった……*9

1998年W杯


グループEでベルギーとメキシコに引き分けるが、韓国に5-0と大勝しており首位通過。
決勝トーナメントに入ると、ユーゴスラビア、アルゼンチンを終了間際の得点で撃破。
中でもアルゼンチン戦の終了間際、フランク・デ・ブールのロングパスを完璧にトラップしてから決めたベルカンプのゴールは、W杯史上最も美しいゴールの一つに挙げられる
準決勝ブラジル戦も、87分にクライファートのゴールで追いつきPK戦にまでもつれ込む。
このように、オランダらしからぬ勝負強さを見せつけてここまで勝ち上がって来たわけだが……
美しいサッカーにこだわる彼らはPK戦の練習を全くしておらず、しっかり練習してきたブラジルに勝てるはずがなくPK戦は2-4で敗北
でもよく考えたら、PKの練習を1000本やらせてもストレート負けしたケースがあるので何とも言えないかも……
3位決定戦のクロアチア戦は燃え尽きてしまったのか、次々と決定機を外して締まらないままで、1-2と敗戦。

ちなみにEURO1996からの人種問題についてだが、ヒディンクがライカールトをアシスタントコーチとして入閣させたことで落ち着いた。その手腕も評価されるべきであろう。


EURO2000


オランダとベルギーとの共同開催となった本大会に向けて、ライカールトはミケルスやクライフ、ヒディンクらの推薦を受けて監督に昇格した。
全体的にハイスコアの傾向だった本大会で、オランダは3戦全勝でグループリーグ首位通過。デンマークやフランスに3得点を挙げている。
ベスト8のユーゴスラビア戦は、クライファートのハットトリックもあり6-1で大勝。
しかし準決勝のイタリア戦では、ジャンルカ・ザンブロッタの退場で数的優位に立ったが0-0のままPK戦に。結局1-3で完敗に終わるのだった……
しかもPK戦の前にもPKを2本外しており、どんだけPKが苦手なんだよという話である。


EURO2004


名将ルイス・ファン・ハールが率いながらも日韓W杯出場を逃し、本大会予選でも苦戦していたオランダは、グループDでドイツ・チェコ・ラトビアと同居。
ドイツに引き分けで始まり、次のチェコ戦は本大会でも屈指の名勝負となった。
オランダは20分足らずで、アリエン・ロッベンの2アシストで2点リード。
が、その後すぐにフィリップ・コクーのパスミスがきっかけで身長2m超えの長身FWヤン・コレルに1点を返される。
チェコは25分、ロッベンに手を焼く右SBのズデネク・グリゲラを下げアタッカーのヴラディミール・シュミツェルを投入。
つまり、前線右サイドにアタッカーを1人投入することで、サイドの勢力分布図を丸ごと書き換えてしまったのだ。
この策は見事的中しロッベンは孤立。焦ったアドフォカート監督は59分にロッベンを下げたが、これが墓穴を掘る結果に。
71分にミラン・バロシュに同点に追いつかれ、終了間際にはシュミツェルに決められ逆転負け。
その後のラトビア戦は3-0で勝利し2位通過となった。

ベスト8のスウェーデン戦は珍しくPK戦を制し突破したが、準決勝ポルトガル戦は攻撃陣がほとんど何もさせてもらえず、俊英クリスティアーノ・ロナウドとマニシェのゴールで敗れた。


2006年W杯


EURO2004を率いていたアドフォカートの後任となったのは、往年の大ストライカー、ファン・バステン。
監督実績はないに等しかったが、欧州予選のグループ1でチェコやルーマニアといった難敵と同居しながら、10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過。
グループCで同居したのはアルゼンチン、コートジボワール、セルビア・モンテネグロ。再び死の組である。
とはいえ結果自体は順当で、セルビア・モンテネグロ、コートジボワールに勝利しアルゼンチンには引き分け。得失点差で2位通過となった。

ベスト16のポルトガル戦は、ポルトガルに9枚、オランダに7枚、計16枚のイエローカードが1試合中に提示されるという、当時W杯で最も荒れた試合となった。
最終的に9対9となったこの試合は、23分にマニシェが挙げた1点を守りきったポルトガルが勝利した。
オランダの前線はロッベンら好タレントを揃えていたが、4試合で3得点と今一つ振るわなかった。


EURO2008


グループCではイタリア、フランス、ルーマニアと同居。また死の組に。
ところがグループリーグは絶好調で、イタリアとフランスという前回W杯ファイナリストをそれぞれ3-0、4-1と圧倒
消化試合となったルーマニア戦も2-0で突破。堂々の首位通過を果たした。

ベスト8の相手は、ヒディンク率いるロシア。
オランダ人監督対決となったこの試合だが、ロシアは休暇が1日短いハンデを持ちながらも技術、戦術、フィジカルの全てでオランダを圧倒。
ロシアは試合序盤から強烈なプレスを掛け試合のペースをつかみ、53分に先制。
オランダは86分にヴェスレイ・スナイデルのFKからルート・ファン・ニステルローイが決めて同点に追いついた。
が、ロシアは意気消沈するどころかさらにギアを上げオランダを圧倒。立て続けに2点を奪われ敗退。
監督として格の違いを見せつけられたファン・バステンは、この大会を最後に退任したのだった。


2010年W杯


ファン・バステンの後を継いだベルト・ファン・マルヴァイク監督は、伝統的な攻撃サッカーからリスクを取らずに効率性を重視するスタイルへと切り替えていた。
とはいえ前線のタレントの豊富さは相変わらず。戦術面はオランダらしくないのに個人に目を向ければ確かにオランダらしいという、実に不思議なチームとなっていた。
言い換えればバランスが取れていたとも言えるわけで、実際、欧州予選は全勝で勝ち上がり、グループリーグも全勝。ベスト16のスロバキアも2-1で退けた。

ベスト8のブラジル戦は、序盤からブラジルが圧倒的な優勢な展開。
直前の練習でCBのヨリス・マタイセンが負傷したオランダは、急遽アンドレ・オーイェルを起用。しかし付け焼刃なDFラインは脆さを露呈。
10分にロビーニョに先制されると、オランダはブラジルの多彩な攻撃に晒される。
ところが後半に入ると、スナイデルが右サイドから高く上げたクロスがフェリペ・メロに当たってオウンゴール(後にスナイデルの得点記録に訂正された)。
68分には右CKからカイトが頭でそらせたボールをスナイデルが頭で合わせて勝ち越し。流れが一変した。
今大会初めてリードを許したブラジルは、フェリペ・メロの一発退場もあり自滅。オランダは西ドイツ大会以来36年ぶりにブラジル相手に勝利を収めた。

準決勝の相手は、神の手セーブ事件でルイス・スアレスを欠いたウルグアイ。
18分、主将ジョバンニ・ファン・ブロンクホルストが41mもの距離のロングシュートで先制。
ウルグアイも、41分にディエゴ・フォルランが30m級のロングシュートを決め追いつく。
70分にはスナイデルのゴールで突き放し、3分後にはロッベンが頭で決めダメ押し。
試合終了間際にはウルグアイがFKの流れから1点を返し、ロングボール放り込み作戦に切り替えてきたが、何とか逃げ切る。
こうしてオランダは、実に32年ぶりの決勝進出となった。

決勝の相手は、同じく初優勝がかかったスペイン。
スペインはバルサスタイル、もっと言うならクライフの提唱したトータルフットボールの概念を受け継ぎEURO2008で優勝していた。
クライフの哲学を捨ててまで勝ち上がったタイミングで、クライフの理想を受け継いだチームが最後の相手となる。何とも数奇なものである。
試合は中盤を支配するスペインに対して、それまでの攻撃的スタイルを捨てて必死に守るオランダがロッベンを中心にカウンターを狙う展開に。
内容は荒れた展開になり、両チーム合わせてW杯決勝史上最多の14枚(スペイン5枚、オランダ9枚)のイエローカードが出されるほどだった。
後半に入ると、ロッベンが2度大チャンスを迎えるが決めきれず。
スコアレスのまま延長戦に入ると、アンドレス・イニエスタへのファウルで2枚目のイエローカードを出されたハイティンハが退場。
116分、途中出場のMFセスク・ファブレガスの出した絶妙なパスをイニエスタが右45度の角度からボレーシュート。ゴールに吸い込まれていった……
結局オランダは3度目の準優勝理想を捨てて戦った結果、理想を受け継いだ側に敗れるという皮肉な結末となった。


EURO2012


グループBで同居したのはデンマーク、ドイツ、ポルトガル。もう何度目の死の組だろうか。
それでもいつもなら何だかんだで突破することが多かったのだが、この大会はまさかの3戦全敗
実際内容も悪く、前回W杯からメンバーがほとんど変わっていなかったためかマンネリ感も強かった。


2014年W杯


マルヴァイクの後、ファン・ハールがベスト4とオランダ流の攻撃的フットボールを採用することを公約に掲げ再任。
グループBで同居したのは、何と前回決勝で敗れたスペイン。しかも初戦の相手。
スペインに対しオランダは、5バックで挑んだ。相手3トップ*10を中央の3人のDF*11がしっかりと捕まえ、前線に入ってくる縦パスをまずは寸断。
彼らDF3人が中央に引きつけられる分、サイドのスペースはサイドバックのダリル・ヤンマートとデイリー・ブリントが埋めていた。
とはいえDFは若手選手が多かったため前評判は低く、実際PKで先制されるも、ロビン・ファン・ペルシの豪快極まるダイビングヘッドで追いつくと流れが完全に変わった。
終わってみれば5-1の大勝。リベンジを果たすと勢いに乗ったオランダはグループリーグを全勝。

決勝トーナメントに入っても堅守速攻のスタイルを継続し、ベスト16でメキシコに対し終盤の2ゴールで逆転勝利。
ベスト8のコスタリカ戦は0-0のままPK戦にもつれ込むが、ここでオランダは秘策を打ち出す。
キャリアで一度もPKを止めたことのなかった正GKヤスパー・シレッセンに代わり、PK戦に滅法強いティム・クルルを投入したのである。
その秘策も的中し、クルルは2本のPKをストップ。ベスト4に勝ち上がった。
準決勝アルゼンチン戦もお互いの良さを潰しあう展開でPK戦となったが、シレッセンでPK戦に挑んだ結果、結局一人も止められず敗退
3位決定戦の相手は、地元開催ながらかつてない大惨劇に見舞われ意気消沈のブラジル。
実際、開始早々オランダはPKをゲットし先制、2点目はどフリーのブリントが決めた。試合終了間際にもジョルジニオ・ワイナルドゥムが3点目。
そしてこれまで出場機会のなかった第3GKのミシェル・フォルムを投入。こうしてオランダは初の登録選手全員出場を果たし3位入賞。
徹底的に傷口をえぐられたブラジルの心境やいかに……


EURO2020


オランダはブラジルW杯以降世代交代が進まず、EURO2016、ロシアW杯と立て続けに本戦出場を逃し続けてきた。
久々の国際大会となったこの大会、グループCでウクライナ、オーストリア、北マケドニアと同居。
ウクライナ戦は後半に入って52分にワイナルドゥム、59分ボウト・ベグホルストが決めるが、75分、79分と立て続けに決められ追いつかれる。
それでも終了間際にデンゼル・ダンフリースがヘディングを決め、何とか勝利。
その後は持ち直し、オーストリアに2-0、北マケドニアに3-0の完勝。全勝で首位通過を果たした。

ベスト16の相手はチェコ。
後半に入るとマタイス・デ・リフトがハンドの判定で退場。そこから一気にチェコに主導権を握られ2失点。ここで敗退となった。


2022年W杯


3たび代表監督にファン・ハールが就任した本大会、グループAで同居したのはセネガル、エクアドル、開催国カタール。
セネガル戦はコーディ・ガクポのヘディングで先制、終了間際にもデイヴィ・クラーセンが追加点を挙げ2-0で勝利。
エクアドル戦は再びガクポのゴールで先制するが、後半入ってすぐエネル・バレンシアに決められ1-1の引き分け。
カタール戦はすでに敗退が決まっていた相手にガクポが3たび先制点を挙げると、後半に入ってすぐフレンキー・デ・ヨングが追加点。2-0で勝利し首位通過。
ベスト16のアメリカ戦。メンフィス・デパイとブリントの得点で前半を2-0で折り返すと、試合終了間際にはダンフリースが追加点をマーク。3-1で突破した。

ベスト8の相手は、リオネル・メッシ最後の(最後とは言ってない)W杯として臨んだアルゼンチン。
ファン・ハールとメッシ、アンヘル・ディマリアの因縁に加え、主審はカード乱発でラ・リーガの名物審判扱いされているマテウ・ラオス。
それらが絡んでこの試合は両軍合わせて18枚ものイエローカードが飛び交う荒れっぷりで、オランダはドイツ大会のポルトガル戦の記録を更新してしまった。
アルゼンチンがメッシの1ゴール1アシストで2点リードするが、83分と後半ATにベグホルストが決め、土壇場で追いつく。
延長後半になるとアルゼンチンは猛攻を仕掛けたが仕留められずPK戦へ。
その結果は……2-4で敗戦。うなだれるオランダイレブンを尻目に煽りまくるアルゼンチンイレブンの姿が印象的であった。
そしてアルゼンチンはその勢いのまま勝ち進み、見事36年ぶりの世界一に輝くのであった。

EURO2024


中盤の主力フレンキーやレフティーのトゥーン・コープマイネルスを怪我で欠き、苦しい台所事情で挑んだ本大会。
グループDでポーランド、フランス、オーストリアと同居した。
事実グループリーグは苦しみ、ポーランド戦は2-1で勝利するも、フランス戦はスコアレスドロー、オーストリアに2-3で敗戦。
グループ3位だったが、各組3位チームの中で上位4位以内が確定したためグループリーグ突破。レギュレーションに救われた形となった。

決勝トーナメントに入ってからは調子を上げ、ルーマニア戦は3-0と一蹴。
ベスト8のトルコ戦は、前半はCKの流れからトルコの1点リードで折り返したが、70分、ショートコーナーからデパイが正確なクロスを送ると、デ・フライが打点の高いヘディングで合わせる。
76分には、グラウンダーのクロスにファーで反応したガクポが、ディフェンスに倒されかけながらも執念で押し込み、逆転に成功する(後に相手OGに訂正された)。
その後もトルコの猛攻を凌ぎ切ったオランダは、20年ぶりにベスト4進出を果たした。

準決勝イングランド戦は、7分にシャビ・シモンズが敵陣の高い位置でボールを奪うと、エリア外右サイドから強烈な右足シュートをゴール左上に突き刺し先制。
しかし14分にダンフリースからハリー・ケインへのファウルが確認されPKに。ケインがこれをきっちり決めて試合は振り出しに。
ハーフタイムに両チームが選手交代で動いて迎えた後半は一転お互い我慢の展開が続くが、終盤に均衡が崩れた。
イングランドは81分にケインに代えてFWオリー・ワトキンス、フォーデンに代えてFWコール・パーマーを投入したが、この采配が的中。
後半ATに交代で入ったワトキンスが決勝点を挙げ、オランダはベスト4で終わった。


2026年W杯


前回大会でグループリーグを荒らしに荒らした日本、劇的な形でプレーオフを勝ち上がったスウェーデン、アフリカ予選を無失点で勝ち上がったチュニジア。
ただでさえ実力伯仲の国々が並んだ上、突破しても1・2位は高確率でブラジルかモロッコ、3位通過だとフランスかノルウェーが来るという、本大会屈指のハズレ枠であるグループFに入る。
なおスウェーデンは、欧州予選グループリーグで0勝ながらもネーションズリーグ上位4チームに入っていたためプレーオフ枠に滑り込みなので、実力を疑問視する声もあったが
チュニジアも予選で同グループに入ったのは無名の国々だったため、こちらも同じように見る人もいた

初戦の日本戦は、51分にFKからフィルジル・ファン・ダイクのヘディングで先制するが、57分に中村敬斗が股下を通すシュートを決めスコアを振り出しに戻される。
64分にクリセンシオ・サマーヴィルに正確な左足のシュートで再び突き放すも、87分、途中交代でピッチに入っていた伊東純也からのCKに小川航基が飛び込んでヘディング。
これが鎌田大地の頭に触れたおかげで軌道が変わってゴールポストへ吸い込まれ、2-2のドローで終わった。誰が呼んだか鎌田の1㎜
監督のクーマンは守備的な交代をしながらも逃げ切れず、中でも勝ち越し点を決めたサマーヴィルを怪我明けで動けず守備もできないデパイと交代させたことで批判を浴びた。
2戦目のスウェーデン戦は、前節で控えだったブライアン・ブロビーを先発で起用。
するとそれが当たり、前半でブロビーは2得点、後半はガクポの2得点、終了間際にもサマーヴィルのダメ押し点で5-1の圧勝。
残るチュニジア戦は、大会中に監督が解任されるという崩壊しきった内情を抱えていた相手に1-3と勝利。首位通過を決めた。

ベスト32の相手は前回大会4位のモロッコ。
前半はモロッコ優勢ながらも、互いに一歩も譲らぬ展開。
72分、GKバルト・フェルブルッヘンのロングフィードからチャンスを作り、最後はゴール前のこぼれ球をガクポが右足でゴールに突き刺した。
10月に誕生予定だった息子が流産で亡くなったという悲劇を背負いながら戦っていたガクポは号泣し倒れこみ、仲間たちが駆け寄るという感動的な一幕もあった。
と、ここで終わっていれば美談だったのだが……そうは問屋が卸さない。
後半終了間際に追いつかれ、PK戦にもつれ込んだ。
互いに二人が外し、フェルブルッヘンもモロッコ二人目のケムズダイン・タルビのシュートを止めるも、ボールがかかとで押し込まれゴールラインを割るという不運に見舞われた。
そして運命の五人目。サマーヴィルのシュートは止められ、イスマエル・サイバリは左隅に決めたため、2-3で敗退した


主な選手



ヨハン・クライフ


サッカー史上最大の偉人の一人。
ピッチのどこにでも姿を現す神出鬼没さ、ポジションを超越して全てを見通すかのような知性と万能ぶり。
「未来人」「宇宙人」「天上人」などと形容されるあたり、当時プレーを見た人の衝撃がどれほどのものだったか窺えるだろう。
さらにはバルサ監督時代にはリーグ4連覇に初のCC優勝をもたらしており、指導者としても飛び抜けていた。
そしてこの美しき攻撃的サッカーは、スペインを中心にサッカー界に大きな影響を及ぼし、クライフなくして現在のフットボールの戦術は存在しないと言っても過言でないほど。

○ヨハン・ニースケンス


「もう一人のヨハン」と呼ばれた、守備から攻撃までを担うオールラウンダー。
PKのスペシャリストとしても知られ、西ドイツW杯では3本のPKを決める活躍を見せた。
他のスポーツも万能で、野球、テニス、バスケも得意としており、それが高いユーティリティ性が求められるトータルフットボールにマッチしていた。
特に野球は、プロからオファーが来るほどの実力があった。

○ルート・クロル


アヤックスとトータルフットボールのオランダの全盛期を築いた左SB。
2000年にアーロン・ヴィンターに抜かれるまでオランダ代表歴代最多出場記録を保持しており、アルゼンチンW杯では主将も務め、翌年のバロンドール投票で3位に選ばれた。
また、ナポリ加入1年目でキャプテンを務めて最終ラインを統率し、MVPに輝いた。
そのため、ナポリではディエゴ・マラドーナより古いレジェンドとして扱われている。

○ウィレム・ファン・ハネヘム


フェイエノールト史上最高のプレーヤーと言われるMF。
聡明な戦術眼を持ち中盤で司令塔としてプレー、タフさ、エレガンス、パス、ヘディング、ポジショニング共に優れていた。
フェイエノールトでは3度リーグ優勝を達成したほか、74年にはUEFAカップとの2冠を達成。

○ビム・ヤンセン


西ドイツW杯時の守備的MFまたはリベロ。
フェイエノールト時代にリーグ制覇4回、国内カップ1回、69年-1970年シーズンのCC制覇を成し遂げた。
95年には日本代表を率いたハンス・オフト監督の紹介でサンフレッチェ広島の監督に就任、二度天皇杯準優勝に導いている。

○ヤン・ヨングブルート


西ドイツW杯の時のGK。
元々第3GKだったが、第1・第2GKが負傷したのに加え、「足元の技術が優れたGK」という替えの利かない存在だったため晴れて正守護神に。
前に出るGKという、ある意味マヌエル・ノイアーの大先輩。何なら決勝では素手でゴールを守っていた
当時の代表で唯一のセミプロで、本業はタバコ屋の主人。その上自由人タイプで、アヤックスからオファーがあっても「釣りの日を犠牲にしたくない」という理由で断ったほど。
ちなみにW杯後、その店は大繁盛したとか。

○ロブ・レンセンブリンク


アルゼンチンW杯決勝で悲劇の主人公となった選手。
創造性と得点力に優れた左ウイングまたはFWで、まるできれいな字を書くかのような滑らかなプレーから「スネークマン」と呼ばれた。
オランダの選手は普通アヤックスやフェイエノールトを経由しステップアップする所、彼の場合ベルギーで活躍し、アンデルレヒトでクラブ史上最高の選手と評価された独特なキャリアを持つ。
当時オランダではベルギーの放送がなかったため無名の存在だったが、西ドイツW杯で左ウィングのレギュラーを得て、アルゼンチンW杯ではエースとなったのだから、実力は本物だった。
また、クライフと風貌がそっくりだったため、クライフが逝去した際イギリスのガーディアン紙は間違ってレンセンブリンクの写真を掲載してしまったことがある。

○マルコ・ファン・バステン


サッカー史に名を残す大ストライカー。
愛称は「聖マルコ」「ユトレヒトの白鳥」。
長身ながらボールタッチに優れ、様々なゴールパターンを持つ万能型CFだった。
ミランに渡った後はフリット、ライカールトと共にオランダトリオとして黄金期を築いた。
エールディヴィジ得点王4回、セリエA得点王2回。特にミランでスクデット3回、CC2連覇、3度のバロンドールに輝いている。
しかし輝かしい功績の一方怪我に泣かされた競技人生であり、W杯では一度も得点できず、28歳の若さで引退した。

○ルート・フリット


圧倒的な身体能力・ヘディング・運動量・個人技を誇り、ストライカーからリベロまでこなす究極のマルチプレイヤー。
愛称は「黒いチューリップ」で、ミランのオランダトリオの一人。87年にはバロンドールも獲得している。
チェルシー移籍後は選手兼監督となり、FAカップを27年ぶりにもたらした。
何なら現役時代にレゲエのバンドをやったり、2018年にはeスポーツチームを結成し、10代の少年らと共に国際大会に出場し優勝したりしている。

○フランク・ライカールト


柔らかいボールタッチ、戦術眼、正確なパスワーク、空中戦の強さなど、多彩な能力を生かしてCBや中盤底のポジションでチームを牽引したオランダトリオの一人。
フリットと幼なじみであり、愛称は「黒鳥」。
監督としては上記の代表の他にも、暗黒期のバルサを立て直しリーグ2連覇、CL制覇の実績を持つ。
そして当時若手だったイニエスタやメッシを積極的に起用するなど、後の黄金期創出のきっかけとなった。

○アーロン・ヴィンター


90年代のオランダを代表する中盤の仕事人。
抜群の技術と高度な戦術眼、そして豊富な運動量と高い守備力で、中盤を幅広く動きチームを引き締めた。
アヤックスでデビューするとクライフ監督の下でリーグを制覇。その後イタリアに渡りラツィオやインテルでいぶし銀の活躍を見せ続けた。

○ジェラルド・ファネンブルグ


小柄ながらも高度なテクニックと戦術眼を持つゲームメーカー。
その個人技の高さから「まるでブラジル人のよう」という意味合いを込めて「ジェラルジーニョ」と呼ばれた。
アヤックスのユースで育ち通算3度のリーグ優勝、PSVでは87-88シーズン、クラブ初のチャンピオンズカップ優勝をもたらしている。
選手時代晩年にはオフト監督の誘いでジュビロ磐田へと移籍。後の磐田の黄金時代に大きな影響を与えた。

○ロナルド・クーマン


クライフの率いた黄金期のバルサ「ドリームチーム」の一員。
ポジションはリベロであり、驚異的なキック技術・キック力を誇った超攻撃的DF。
特にPKやFKを得意としており、中でも91-92シーズンのCC決勝戦で決めたFKは語り草。その破壊力は「牛殺し」と呼ばれるほどだった。
キャリア通算で253ゴールを記録し、DFとしての史上最多得点とされている。つまりPKありとはいえ当たり前のようにシーズン二桁ゴールしているということで……。
兄のエルウィンも代表に選ばれており、EURO88優勝メンバーの一人である。
監督としてもあまり評判は良くないが5大リーグや国内で長く活躍しており、カタールW杯後からは代表監督を務めている。

○デニス・ベルカンプ


超絶技巧の天才的なトラップとシュートセンスで魅了する生来の10番。
「デニス」の名の由来は、父がマンチェスター・ユナイテッドの伝説の選手デニス・ローのファンだったことからつけられた*12
中でもフランスW杯でアルゼンチン相手に挙げた決勝点は語り草。
アーセナルでは97-98シーズン、01-02シーズンの二冠に加え、03-04シーズンにはリーグ無敗優勝を達成している。
「アイスマン」の愛称は、映画『トップガン』のアイスマン(演:ヴァル・キルマー)に風貌が似ていることからつけられた。
また、重度の飛行機恐怖症でどんな遠路でも一人だけ陸路や船を使わざるを得なかったため、「ノンフライングダッチマン(飛べないオランダ人)」とも呼ばれた。

○フランク・デ・ブール


双子のデ・ブール兄弟の一人。
高精度のロングパスとビルドアップ能力を持ち、守備ポジションはGK以外全て出来た。
また、世界的に見ても貴重な左利きのCBだった。
キャリアにおいては、アヤックスやバルサなど弟と共に多くのクラブでチームメイトとしてプレーした。
特に95年には、アヤックスで兄弟でのCL優勝を実現している。

○ロナルド・デ・ブール


双子のデ・ブール兄弟の一人。
「弟」とされることが多いが、実際はフランクより10分早く生まれており、本来こっちが「兄」である。
右のMFが本来のポジションだが、CF、ウイング、SBとしてもプレーすることができる選手。
非常に精度の高いクロスを武器とし、多くの得点を演出すると共に、自らゴールを挙げることもできた。

○パトリック・クライファート


90年代黄金期のアヤックス、お笑いクラブ時代のバルサのエースストライカー。
ポストプレーを得意とし、ゴール前では超絶技巧を発揮しとんでもないゴラッソを決める一方、GKとの1対1を外しまくる困った人
4人の息子が全員サッカー選手となり、中でも次男のジャスティンは欧州5大リーグ全てのリーグ戦で得点を記録する*13など活躍中で代表招集経験もある。
ちなみに、ファン・ニステルローイとは生年月日が同じだが犬猿の仲。なにせポジションもだだ被りである。

○エドガー・ダービッツ


小柄ながら無尽蔵のスタミナでピッチを駆け回り、攻守に稼働したディフェンシブハーフ。
その相手に食らいつくような激しいプレースタイルから「闘犬」と呼ばれた。
それ故素行問題などトラブルも絶えなかったが、セリエAデビュー戦で2ゴールを決めた中田英寿に「お前、本当に日本人か?中田は本物だ」と賛辞を寄せたエピソードも。
2000年に緑内障を発症し、手術に成功した後は特注の防護ゴーグルをかけてプレーすることとなり、以後それがトレードマークとなっていった。

○クラレンス・セードルフ


類まれなボディバランスとボールコントロールで中盤を支配し、創造性溢れる長短のパスで攻撃のリズムを刻む万能MF。
そのスタミナとインテリジェンスから「7つの肺と明晰な頭脳を併せ持つ男」と呼ばれた。
アヤックス、レアル・マドリー、ミランとそれぞれ異なる3チームでCL制覇を成し遂げる唯一無二の偉業を成し遂げている
ちなみにアヤックス時代、やたら決まり事にうるさく話好きだったため、若年ながら「おじいちゃん」と仲間からあだ名されていたらしい。

○エトヴィン・ファン・デル・サール


オランダ史上最高と言われるGK。
アヤックスとマンチェスター・ユナイテッドの2クラブでCL制覇を成し遂げている。
2m近い長身から「摩天楼」と呼ばれており、セービング、ハイボールへの対応、キックの精度など全てのプレーがハイレベルで安定していた。
さらに元々フィールドプレーヤーだったためか、大型選手にありがちな「キックが下手」という弱点もなかった。

○フィリップ・コクー


戦術的柔軟性に優れ、中盤から最終ラインまで高いレベルでこなす万能型。
在籍時のバルサはオランダ化政策で批判が吹き荒れていたが、彼の起用には誰一人異論を唱えないほどの評価を得ていた。
フランスW杯では、試合ごとに異なったポジションでプレーするという離れ業も見せている。
ちなみに、ファン・デル・サールとは生年月日が同じ。

○ジョヴァンニ・ファン・ブロンクホルスト


本職は左SBだが、ボランチでもプレーできるユーティリティプレーヤー。
ロナウジーニョの時代になりバルサからオランダ人が一掃される中、唯一残った選手に。
05-06シーズン、リーグ戦は19試合の出場となったが、CLは全試合にフル出場。無敗での優勝に大きく貢献するシーズンとなった。
大会後の現役引退を表明した南アフリカW杯ではキャプテンを務めた。

○ルート・ファン・ニステルローイ


オランダ、イングランド、スペインの3つのリーグで得点王を経験し、CLでも3大会で得点王となったストライカー。
優れたポジショニングセンスと相手を出し抜く動きでゴールを仕留め、「密猟者」と呼ばれた。
PSV移籍一年目にして得点王に輝き、そのまま2年連続得点王に。
マンチェスター・ユナイテッドでは5シーズンの在籍で150ゴールを記録した。
その後アレックス・ファーガソン監督と衝突し、レアル・マドリーに移籍。ここでも1シーズン目で得点王に輝いている。

○マルク・ファン・ボメル


優れた体力テクニックを備えたボックス・トゥ・ボックスタイプのプレーヤー。
また、ファウルぎりぎりのタックルを駆使し、対戦する相手のモチベーションを削りまくるヒールでもある。
バルサでは在籍期間は05-06の1シーズンだけだったが、シャビの長期離脱でレギュラーを得てCL決勝でも先発。けして小さくない貢献をしている。
その後移籍したバイエルンでは08-09シーズンからクラブ初の外国人キャプテンとなった。
ちなみに、妻はファン・マルヴァイクの娘。つまりファン・マルヴァイクとは義父の関係に当たる。

○ラファエル・ファン・デル・ファールト


攻撃のあらゆる要素を兼ね備えたファンタジスタ。
スペイン人の母親を持つためかラテンのリズムを持ち、レフティーらしい柔らかいパスも出せれば、ドリブルしながらヒールキックでスルーパスを出すこともできる。
ハンブルガーSV時代は「小さな天使」と呼ばれるほど愛されていた。
引退後、19年には何とプロダーツ選手に転身した。

○アリエン・ロッベン


サッカー界屈指の俊足を誇ったドリブラー。
得意パターンは「カットインしてPA45度角から強烈なシュートを放つ」で、明らかにそればかりを狙うありえんほどのワンパターンなプレースタイル。
だが、そのワンパターンを極めているので分かっていても止められなかった、サッカー界を代表する一本槍。
戦術にも興味が無かったようで、戦術に聞かれた際は「ピッチに入るときに今日もボールで沢山遊ぶぞ!と思っている」と発言。天然すぎる……
ブラジルW杯のスペイン戦では、完璧なトラップと鋭い切り返しからの2点目、圧倒的なスピードでぶっちぎっての決勝点と面目躍如の大活躍。
特に後者のゴールの際に出た速度は時速37km。これは100m走を10.28秒で走る計算になる。
一方で筋肉を酷使しているのか極度のスぺ体質であり、現役時代は58回も怪我で離脱。そして離脱期間は1507日。実に約4年である。

ヴェスレイ・スナイデル


小柄ながらも優れた戦術眼に、精巧なキックにパスやクロス、シュートが持ち味の司令塔で、代表の歴代最多出場記録を持つ。
長友佑都の大親友で、色々と微笑ましいエピソード満載なので個別記事を参照のこと。
09-10シーズン、ジョゼ・モウリーニョ監督からの信頼を得てすぐに不動の司令塔として定着すると、インテルでイタリア史上初の3冠を達成。
南アフリカW杯でも、日本戦での強烈ミドルシュートにブラジル相手に2得点などの大活躍で、FWでないにもかかわらず得点王に輝いた。
このように、例年通りならバロンドール確実だったはずなのだが、よりによってこのタイミングでの選出基準変更に泣かされ物議を醸した。

○ディルク・カイト


攻撃的なポジションをほぼ全てこなし、何より無尽蔵のスタミナと極めて高い戦術理解度を活かした「献身性」が売りの選手。
フェイエノールト時代は3年連続で20ゴール以上挙げるストライカーだったが、リバプール時代からこのスタイルに。
豊富な運動量を生かしたチェイシングや献身的な守備でチームのピンチを救い、攻守のバランスを取る。
一人で試合を決めるタイプではないが、いないと困る存在だった。
何ならクライフも「カイトのような選手がチームにいるのなら、それは神のご加護といって差し支えない」と絶賛するほど。
現役最後の試合ではハットトリックを決め、これ以上ない形で有終の美を飾った。

○ロビン・ファン・ペルシ


11-12・12-13シーズンと2シーズン連続で異なるクラブでプレミアリーグ得点王に輝いたストライカーで、オランダ代表の通算得点記録の歴代2位。
若手時代は問題児だったが、アーセナルのアーセン・ヴェンゲル監督の元で人間的にも大きく成長。
ストリートサッカー育ちな上両親が芸術家だったためか、そのプレースタイルはアクロバティックで独創的。
中でもブラジルW杯のスペイン戦で決めたダイビングヘッドは本大会きってのゴラッソであり、まさに「2代目フライングダッチマン」
あまりにも美しいゴールだったため「#Persieing」としてミーム化し、当時93歳の彼の祖父まで真似したエピソードも。
日本人選手とは何かと縁があり、フェイエノールト時代は小野伸二とチームメイトだった。
実際、小野のことは「オランダ代表にも彼より上手い選手はいなかった」とべた褒め。
古巣フェイエノールトで監督を務めていた時は、エールディヴィジで日本人初の得点王に輝いた上田綺世や渡辺剛のよき師となったことで話題になった。
なお、キャリア晩年の2017年にはJリーグ・サンフレッチェ広島が獲得に動いていたが、残念ながら条件面が折り合わず破談に。
同年のチーム始動日に選手の一人が「大変です!ファン・ペルシがいません!」とジョークを飛ばし、笑いを誘った。

○クラース・ヤン・フンテラール


代表の歴代得点記録3位のストライカー。
シャルケではクラブ歴代2位のゴール記録を持っており、オランダ人で唯一のブンデスリーガ得点王。
卓越したポジショニングと決定力でゴールを量産し「ハンター」の名で呼ばれ、そのプレースタイルはファン・バステンやファン・ニステルローイの再来と言われた。
ファン・ハールからも「ペナルティエリアの中では文句なしに世界最高の選手」と絶賛されている。
また、シャルケの同僚だった内田篤人曰くクロスが上げやすい存在だったようで、「よくわからないけど、ゴール前でフリーでいるんですよ。その前の駆け引きで色々やっている」とのこと。

○メンフィス・デパイ


オランダの歴代最多得点記録保持者。
父親との確執があることから姓を忌避して背ネームを「Memphis」にしており、そちらで呼ぶことを推奨している*14
少し引いた位置まで下がり、組み立てに参加しつつゴールを襲うタイプのFW。
ブラジルW杯に招集され、オーストラリア戦でアシストを決め、チリ戦で2点目を決めるなど活躍し、最優秀若手選手の最終候補に。
ここで名を売って移籍したマンチェスター・ユナイテッドではパッとしなかったが、リヨンでは4シーズン半で公式戦178試合に出場し、76得点を挙げている。
また、ヒップホップミュージシャンとしても活動しており、いくつかの楽曲を発表した後、20年11月27日にデビューアルバムとなる『Heavy Stepper』をリリースした。

○フィルジル・ファン・ダイク


所属クラブはおろか当代のプレミアリーグ史上最高、あるいは世界最高のCBとも呼ばれる選手。
的確なポジショニングに加え、瞬時の判断で相手の選択肢を限定し誘導する能動的な守備が特長。
特に対人守備の強さに関しては、18-19シーズンの全50試合で相手に1度もドリブルで抜かれなかったほど
身体能力も抜群で空中戦にも極めて強く、セットプレーからの得点源としても反則的なまでの強さを発揮する。
フローニンゲンのユース時代、虫垂炎から腹膜炎と尿毒症の合併症を引き起こし、遺書を書かなければならないほど深刻な症状に見舞われるが、奇跡的に一命をとりとめる。
その後移籍したセルティックでは足元の技術も向上し、FKも蹴るように。サウザンプトンではロナルド・クーマン監督の元でさらに成長、クラブ史上最高の順位と勝ち点を記録した。
リバプールに移籍する際はリバプール側の交渉手口に問題があったとして一度破談になったが、その後は大活躍。
FAカップ、エヴァートンとのダービーで決勝点を挙げるという華々しいデビューを飾り、翌18-19シーズンのCL決勝トッテナム戦は攻撃陣を0点に抑え14年ぶりの優勝をもたらした。
しかし全盛期真っ只中の20-21シーズンに相手GKとの接触で丸1年棒に振る重傷を負うが、復帰後も大きくパフォーマンスを落としたり怪我の再発をすることもなくクラブ・代表の両面で絶対的な選手となっている。

○デンゼル・ダンフリース


圧倒的なスプリント力、そして驚異的なフィジカルの強さを持つWB。
EURO2020では、ウクライナ戦で代表初ゴールとなる決勝ゴールを挙げ、オーストリア戦では先制点となったPKを奪取しただけでなくゴールも挙げるなど大ブレイク。
準々決勝アルゼンチン戦でPK戦の最中に2枚のイエローカードをもらい退場するという珍記録も
「デンゼル」の名の由来は、父がデンゼル・ワシントンのファンだったことからつけられた。
プロ入り前の14年には父の故郷であるオランダ領アルバ代表として親善試合に出場したことがあるが、最終的にオランダ代表を選んだ。

○フレンキー・デ・ヨング


卓越したパスとドリブルの技術を備え、かつ複数のポジションをハイレベルにこなせるユーティリティプレーヤー。
サッカー一家の出身で、8歳でウィレムⅡの下部組織に入団し、そこで「ウィレムⅡ最高のタレント」と評されていた。
アヤックス移籍後の18-19シーズンは、マドリーやユベントスを破り久々のベスト4に導いたり、初めて代表に選出されたりと大躍進し、翌シーズンバルサに移籍。
当初はインサイドハーフなのかピボーテなのか起用法が定まらなかったが、代表監督だったロナルド・クーマンが4-2-3-1を採用したことでピボーテとして活き活きとプレーを始めている。
なお、近い時代のオランダ代表選手に限っても13歳上で代表キャップ81試合を誇るナイジェル・デ・ヨング、3歳上で一時バルサで共闘したこともあるルーク・デ・ヨングといった選手がいるが、彼らとの間に血縁はない

○マタイス・デ・リフト


恵まれた体躯と高い足元の技術を活かした対人守備と、後方からの正確なビルドアップが武器の現代型CB。
セットプレーでも頼りになり、下手なFWよりも数多くのヘディングを決めることも。
アヤックス時代の18-19シーズンにはクラブ史上最年少の19歳でキャプテンに就任し、リーグとカップ戦の二冠に大きく貢献。
ユベントスの加入当初は適応に苦しんだが、3シーズンに渡って活躍。
22-23シーズンにバイエルンへ完全移籍加入。初年度はCBの主軸としてブンデスリーガ制覇に貢献し、2年目の昨シーズンは負傷離脱がありながらも公式戦30試合に出場した。
24-25シーズンにはアヤックス時代の恩師エリック・テン・ハグからのラブコールもあり、24-25シーズンにマンチェスター・ユナイテッドへ移籍。
が、そのテン・ハグは早々に解任に。
おまけに25年11月末に負った背中の怪我が当初の予想より複雑な症状だったことが明らかになり、結局手術のため北中米W杯の出場が欠場となることが明らかとなった。

○コーディ・ガクポ


左からの仕掛けとフィニッシュを担うチャンスメーカーにして得点源。
カタールW杯でブレイクし、グループリーグで3戦連続ゴールを挙げチームを決勝トーナメントに導いた。
EURO2024ではさらに大活躍しポーランド、オーストラリア、ルーマニア、トルコに得点を決め勝利に貢献。
特にルーマニア戦の2点目のアシストは「三笘の1mm」にそっくりだったことから「ガクポの1㎜」と呼ばれた。



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最終更新:2026年08月22日 14:36

*1 「オランジュ」の由来は、古代にはアラウシオと呼ばれていたのが転訛したとも、十字軍の遠征によって地中海沿岸にオレンジ栽培が広まり、ここがオレンジの一大集積地になったからとも言われている

*2 40年5月、オランダは中立宣言をしていたにもかかわらずナチスドイツから侵攻を受け占領された。当時は戦争体験者が当たり前に存在し、家族や親戚の多くが犠牲になった人も少なくなかった

*3 個々の選手が思いのままにポジションチェンジを繰り返すことで、「渦」を巻くようにチームがダイナミックに機能するというのが由来

*4 ルート・フリット、フランク・ライカールトなど

*5 スリナムは南米大陸に存在するが、カリブ海地域とのつながりが強いのでカテゴリは北中米カリブ扱いとなっている

*6 同じオランダ領のキュラソーは初出場を決めたばかりか、ドイツに7失点しながらも初の得点を挙げ、エクアドル戦ではスコアレスドローで初の勝ち点ゲットと大善戦したのに……

*7 厳密にはライカールトはこの大会後にミランに移籍して揃い踏みとなった

*8 ソ連崩壊後、バルト三国を除く構成国で作られた臨時チーム

*9 トルコ戦でPKを獲得した際、セードルフがボールを離さず、デ・ブール兄弟が不快感を示すように彼に背を向ける一幕があった。そしてセードルフはそのPKを宇宙開発したのだった

*10 ダビド・シルバ、ジエゴ・コスタ、イニエスタ

*11 ブルーノ・マルティンス・インディ、ロン・フラール、ステファン・デ・フライ

*12 本来の綴りは「Denis」だが、オランダだと女性名になってしまうため「Dennis」になっている

*13 もっともそれは「クラブでなかなか立場を固められずたらい回しになっていた」ということでもあるのだが…

*14 ファン・ダイクも同じような境遇であり、背ネームを「Virgil」にしている