Velteal Shtek Revani elshtiknoheite
生年月日 |
1303年5月1日 |
出生地 |
アルトラブラエン侯国シュヴェー |
没年月日 |
1400年3月12日 |
死没 |
リパラオネ共和国アルザッツァ |
出身校 |
ルティーセ詩学院 |
称号 |
クローマ |
時代 |
近代哲学 |
地域 |
リパラオネ哲学 アレス学派的視野主義形而上学 |
学派 |
新クローマ主義 サルドムリレーン学派 理語学会聖学会派 |
研究分野 |
政治哲学 歴史哲学 人理学 |
主な概念 |
歴史の無意味性、他性物、神、私、誕生、宿命、決意、刻印、魂、間主体性、戦争、無限戦争、最高尊厳 |
影響を受けた人物 |
ルティーセ家、フィシャ・グスタフ・インターメーデッタフ、アレン・イシュファンタフ 、 コウネド |
影響を与えた人物 |
近代以降の哲学者ほぼ全て。 |
ヴェルテール・シュテック・レヴァーニ(
理:Irfel velterl shtek revani、布:Velteal Shtek Revani elshtiknoheite)とは、は、フラッドシャー人の哲学者である。
視野主義的古教法学の
アレステーゼ化を通して、
サルドムリレーン学派的な認識論を元に思想を組み立てていった。これらの思想は近代的な思想の原点となり、近代市民社会の成立に強い影響を与えた。思想史学ではユナ語の神聖名称に使われている
ヴェルテール(velterl)で呼ばれることが多い。
なお、「ヴェルテール・シュテック・レヴァーニ」という名称は神聖名称の「ヴェルテール」とフラッドシャー語での名前を混同して定着したものであり、正式なユナ・リパライン語名は
デヴァニエ・ヴァルトル・フォン・デヴァルヴァ・シュトゥーガ・ヴェルテール(理:Devani'e valtoal fon devalva xturga velterl)であり、一般的には
デヴァニエ・ヴァルトル(理:Devani'e valtoal)と書かれる。
経歴
ルティーセ詩学院で伝統的な詩学を学びながら、新クローマ主義の潮流に乗って古典的な哲学の復興を目指した。これによって、ヴェルテールは多岐に渡る近代的思想の基礎を展開し、以降の思想家に多大なる影響を与えることになる。30歳から著書を書き始め、詩学院での講義録などもまとめ始めた。
思想
人理学
ヴェルテールは、宗教は「社会的なもの」を規定する役目があり、そして自然科学に対しては人間ではない存在を中心に対象とすると考えた。哲学が対象とするべきなのは人間であり、正に人間存在を対象とするべき学問たる人理学(lartacelyr)を目指すべきだとした。
また、人理学は宗教と自然科学に優先する第一の学問(pantelyr)であるとした。何故なら、社会を対象とする宗教は社会を構成する個人を検討するにあたってまず人間存在の分析を必要とし、また自然科学は自然科学を利用して目的を達成しようとする根源的存在である人間存在を分析しなければ正しく運用することが出来ない。こうして、何事にもまして人理学は全学問の根源として提示されるのである。
基盤論
発展的概念と現状認識
視野主義的古教法学のアレステーゼ化を通して、ヴェルテールは人間の視野性を元にそれ以前に実在する視野性の生じるところとしての「主体」(cilylista)を見出す。また、フィメノーウル哲学の観点を基礎として、「フィーマスタ」(firmasta)の集合体としての主体とそれ以外の区別が行われる世界を前提とする。フィーマスタのエントロピーの最大化によるアルセウンテン・フィーマへの世界の動き自体が「世界の善的志向性」(unde’d ple lartenezza)を持つ。しかし、人間の世界は負を生み出し続けているという矛盾が存在する。
未完の歴史と既完の歴史
世界の善的志向性という歴史観が「既完の歴史」(lirsesen philifiar)であるなら、人が実際に生きている行程は「未完の歴史」(neftilienen philifiar)である。人は完了した歴史からしか何かの意義を言うことは出来ないが、実際に生きているのは未完の歴史である。人類の歴史も生から死までの人の歴史を引き継いでゆく未完の歴史の繋ぎ合わせでしかない。このために世界の善的志向性ということ自体は今この時を生きる人間にとっては負を取り除く要素にはなりえないのだ。ここから「歴史の無意味性」(philifiar’d la nefsuitennasch)が見いだされる。この思想が視野主義を採用するのはこの原則に拠るものである。
人間の本性
主体は主体の行為ではなくして、この世界に投げ出された瞬間から、「発生」(volesel)と「自然」(xyfoatost)という「他性物」(la etili’a)が伴う。他性物は主体以外の全世界の全てである。他性物はそれ自体では視野性を持ち合わせない全であるために主体のように動くことが出来ない。このため弱者である他性物は、措定される「神」(irfel tonir)という存在によって、主体に賭けられるという形で主体にまとわりつき、その結果「私」(irfel mi)が生まれる。これを「誕生」(lidysto)と呼ぶ。私は賭けられたものに答えることによって人生を成就していく。このため、人間が善く生きるということは「賭けられた他性物」という神から課された宿命に真剣に臨むこと(決意、tractorvo)なのである。
死の刻印と魂
死は主体の行為ではないだけでなく、主体の消滅でもない。(羊皮紙の)書き損じを削るという行為は、削るという時点で書かれていたものが世界の中では肯定され(何故なら存在肯定されなければそもそも削られないからである)、削られた場所が新たな局面として現れるという二面性として現象する。書かれることによっても、削られることによっても、世界の中で肯定されるならば、実存はもはや否定し得ない。これが人の殺害を原理的に不可能であるとする「刻印」(uluvo)である。こうした原理によって主体の性質である「魂」(nult)が見いだされる。
間主体性と無限戦争
私は決意を抱き、また他者である私も決意を抱く。この二人の間で発生の他性物において宿命が相克する場合がある。なお、自然の他性物では他者との間に相克は生まれない。何故なら、自然は完全に予測不可能であり、誰にも所有されないために偶然に現れて、発生の他性物へとすぐに還元されるからである。この相克が闘争の根源であり、また主体(cilylista)の間(-isi’a)の性質(-nasch)としての「間主体性」(cilylistavisi’anascho)の根源である。このように対話というのは本質的に暴力的なのであるが、その対話が激化したものが「戦争」(elm)である。しかし、暴力によって主体は滅されることはない。何故なら、主体は魂であるがゆえに不滅であるからである。これゆえに私たちは「無限戦争」(nodelm)に動員されている。
政治論
無限戦争の解決
間主体性を統御することが無限戦争を解決する案である。これは人々の間で間主体性を統御させる装置として議会や国家というものが考えられる。このような議会や国家を十全に運営するために民間議会・法律統治・最高尊厳(vasprard)・私財保障という考え方が生まれる。民議によって対話を制御し、整理し、実現へと導く、こうして実現へと導かれたことを適切に実行するために法治を徹底する。また、基礎的な間主体性の保障のための最高尊厳と私財保障を導入することで無限戦争は終了へと向かう。このようなことを基盤とする会議を設置し、お互いを一人の自由人として取り扱う機構(cela)を元とし、その機構の上に地方自治装置、国家装置、国家間装置、国際装置などの装置(apia)を実装することでこれらは実現できるのである。
義務教育の提唱
用語
レティンノ(暴力)
ヴェルテールにおけるレティンノ(letinno)概念は、「自分さえ『宿命』の達成に至れば良い」という自分よがりによって生まれる力であり、無限戦争の根本点であるとされる。ラネーメ系の暴力概念であるヒャーベット(心圧、hiarbet)と対置する
リパラオネ民族における暴力概念とされ、他者の他性を毀損する全ての力を指す。
ゼルディア(正義)
レティンノの自己と他者への平行な分配のことをゼルディア(seldi'a, seldia)と呼ぶ。自己を保持するためには他者の否定が必要であり、他者の肯定のためには自己の否定が必要である。この事実において、無秩序の状態で発生するのがまさに無限戦争である。無限戦争を防ぐためには秩序たる「倫理」を配置する必要があり、その秩序こそが他者否定による自己肯定と自己否定による他者肯定の均衡を保つゼルディアなのである。
ゼルディアを実行すると、宿命達成に対しての妨害が最適化される上に、自身と社会が保全されることによってより多くの宿命が達成されることによって、より多くの存在が幸福となるという利点がある。
メウ(文化)とラニアー(民族)
ヴェルテールにおいて、メウ(meu)とは、特定の「他性物」を共通に持ち合わせる集団であるラニアー(lani'ar)の共通他性物のことを指す。これによって、措定される「民族」は共通の「決意」を持つことによって、共通の倫理観と社会性―すなわちゼルディアを達成する経済性(kykolanascho)が生存戦略的に構成される。このような考え方において、ヴェルテールが述べる文化継承の理念は、民族に本性的なものであることが示される。
ヴェルテールの後期政治論は、このような自然生成的な社会集団をより効率的かつ人としてのよりよい生を追求するためのものであった。これを観念論的民族主義(lani'arvera)と呼び、後の各民族主義の基盤となってゆくと共に様々な差別思想の原理ともなった。
これは、ヴェルテールの議論に基づくと、人間の倫理観と社会性は民族の本性によって構成されるため、ある民族と別の民族の間にはゼルディア実現のための経済性が異なる、つまり共有する他性物が異なるということから、抱く共通決意も異なるため、互いの倫理に差異が生じることで民族に属する個々人の使命達成の邪魔となることから、「異民族は害悪である」という排外的思想を補強する理論になるためである。
ただし、ヴェルテール自身は民族間に起こるこのような闘争も無限戦争の範疇としており、政治論において提唱した装置による統制によって無限戦争を抑えるべきであるとしているため、誤った読みであるとする考え(ヴェルテール平和主義)もある。
ラルデュネムナスチョ(残酷性)
ヴェルテールにおいて、ラルデュネムナスチョ(raldiunemnascho)とは、主体の様式のことを指す。視野性を持ち合わせる主体は、ある主体の質的体験と同一のそれを経験することが出来たということを証明することはできないという様式である。絶対的肯定としての主体の性質である「魂」は、共に他の主体によって理解という経験の範疇に完全に入ることは出来ないということから傍証される。
このような主体の様式は、個々の主体同士が競争、治癒、殺害の可能性を担保する。主体が絶対的に肯定されているからこそ、それを理解したり、体験しきれないところに他の主体の自由があり、救いや争い、そして「殺人」の可能性があるのである。ここから、ヴェルテールは倫理起源の可能性(konpleuldirsykinascho)を提示し、魂という性質を持つ主体に対する「殺人」がなぜ罪と評価しうるのか、或いは他の罪もまた何故そのように評価できるのかということに根源を与えようとした。
著書
- lartacelyr es lartacel fon lyrss(1333年)
『人理学は学問の胆嚢である』
- dirawirnglergeranasch arlefi'ar'd alestersergili'avosti(1340年)
『視野主義的古教法学のアレステーゼ化について』
- lirsesen philifiar ad unde'd ple lartenezzasti(1344年)
『既完の歴史と世界の善的志向性』
- larta'd cirla ol jisesno'd nefesykinaschosti(1351年)
『人間の本性、または死の不可能性』
- latirnonasch fonti'avosti elmi'esm(1363年)
『哲学的戦争批判』(講義録)
- ditiernasch letisen celasti fon la cilylistavisi'anasch(1366年)
『間主体性の社会的制御機構』
- akademice'd delususti fon icco'd cela(1369年)
『国家機構におけるアカデミスの必要性』
関連項目
最終更新:2025年05月31日 16:37