本項では、悠里世界における戦争犯罪について解説する。
概要
悠里世界において、「戦争犯罪」は近代以降はっきりとした概念として浮かび上がってきた。特に国民国家の明確化の後に起こった度重なる戦争はその責任が何処にあるのかがはっきりとせず国民達の不満を引き起こしたと同時に思想家たちの反応を引き起こした。悠里世界における戦争犯罪概念はこのような経緯と歴史に基づいたものであり、現世のそれとは理論的にも歴史的にも異なるものであることを念頭に置いて、戦争責任者に対する歴史の記述を読まなければならない。
歴史的経緯を意識するならば、以下のような言い換えを使うことが出来る。
- 戦争責任者→圧政機構責任者(cc'd isnaxterger)
思想における「戦争犯罪」
ヴェルテール哲学
ヴェルテール哲学において、戦争とは
簡単には物理的に運命を与えられた人間が自身の運命を全うする際に他の主体と相克したり、対話という暴力的な過程を通じる間主体性行為が激化したものである。また、この主体は本質的には消滅しないために戦争は永遠のものとなることによって、無限戦争の概念を確立している。
ここで確認しなければならないのは近代思想の根源となる
ヴェルテール哲学は戦争の責任と根源を全ての人々に存在するものであると考えていることである。つまり、近代思想の初期においては戦争犯罪を持つ個人を裁くということは考えられておらず、
ヴェルテール哲学の元では戦争に関わった全ての人間に戦争の責任があると考えていたということになる。
ヴェルテール批評学派
ヴェルテール批評学派では、
ヴェルテール哲学が提示した無限戦争を統御するための共同体が人間存在に固有の人生目的を阻害し、必ず権利を侵害するものとして批判の対象となった。この議論に基づくと素朴な現実における戦争は共同体によって行われる限り、数多くの人間存在の固有の価値を毀損するものであり、動員されたうち殆ど固有価値の実現を行えなかった者――(理論上では)強制され、戦闘を行った者は救済されなければならないとした(
悠里世界における捕虜を参照)。
レヴェン思想
戦争を圧政機構の押し付けと考えるレヴェン主義の一派は戦争犯罪に関して独自の理論を立てている。法制が政治の一端を担うのであれば、それを行う実体が国家である。一つの国家が他の国家を戦争によって従えたり、占領しようとするのは非普遍主義な行為であり、お互いに裁かれなければならない事実となる。
ヴェルテール哲学における戦争概念とは別の戦争概念を提起することによって、反戦的レヴェン主義は圧政機構たる国家のうち、国家を圧政機構たらしめた責任のある者(圧政機構責任者)という概念を隆起させた。
イェスカ主義
イェスカ主義において、「基礎的な間主体性の保障」とヴェルテール哲学で定義される
最高尊厳は具体的に「権利と自由、安全と公正、公平と平等」と定義されている。イェスカ主義の具体的な憲章たるファールリューディア宣言に基づいて、
ユエスレオネ連邦憲法で定義される
生存権、経済的正義、文化権、自由信仰権、言語権、平等権、表現の自由、教育権、刑事上人権保障、思想権、発信の自由、労働者尊厳権、死刑を受けない権利、自由恋愛権、自由ウェールフープ権がそのより具体的な内容とされており、これらを害することはヴェルテール哲学のイェスカ主義における解釈では無限戦争を統御する最高尊厳に対する挑戦となることで、戦争責任と見做されることになる。これを主導した者が戦争責任者であり、それを認定し裁くことがイェスカ主義における戦争裁判概念である。
リパラオネ教
リパラオネ教においては、戦争は神族ヴェルガナが人間に与して行う神の怒りの解消であると考えられている。このため、戦争の原因を人間自身に求めることは出来ないことである。このため、戦争責任者を措定する戦争責任というもの自体が考えられないものであり、
戦争責任という概念を認めることは出来ない。
このため、戦争犯罪者としての処刑や収監に関して
リパラオネ教系人権団体が抗議声明を出すことが多い。
ラネーメ民族主義
特にアイル国際特別法廷における戦争責任概念は、旧政府の政府高官や軍事関係者を裁く都合のいい名目であり、非対称的に適用していると考えるラネーメ民族主義者は多い。戦争責任はラネーメ民族主義では、ラネーメ民族共和を目指した旧政権の希望を潰した概念であり、単なる政治的レトリックとしか見做されていない。
実際に認定された事象
ユエスレオネにおける粛清
ユエスレオネ革命の後に成立したイェスカ政権においては、イェスカによる内戦中の犯罪捜査が急速に進められた。特に身内である人民解放戦線系やPLELC系革命組織の戦争犯罪を厳しく検挙した。これにより旧政府派に元々属していた人々の信頼を勝ち得て、イェスカ暗殺後のユミリア政権のカリスマ性にも繋がったとされている。
アイル国際特別法廷
四年戦争
四年戦争の後に戦時中の戦争犯罪行為を裁く犯罪捜査が行われた。
エミリア時代は上層部のみの検挙が主であったがwoltsaskaiju即位後に現場の司令部の戦争犯罪での検挙、兵士の一般犯罪行為での検挙が行われた。
以外にも、woltsaskaijuはこの法廷を粛清に用いなかったがこれはwoltsaskaijuがレヴェン法学を修めていたこと、一応はイェスカ主義の理論家である影響と思われる。
最終更新:2024年11月06日 23:15