ユエスレオネ保守革命ルートとは、総合創作サークル「悠里」の対象とする創作世界におけるIFルートの一つ。略して、保革IFとも。
概要
ユエスレオネ保守革命ルートは、ユエスレオネ革命が保守勢力に主導されて行われたとするIF設定である。ユエスレオネに逃げることが出来た市民は殆どがリパライン語を話す者たちであり、
フィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャの設立した
リパラオネ民族解放党の勢力が掲げたリパラオネ・ナショナリズムの波に乗って旧政府の超国家主義に対して対抗の旗印を掲げることになる。革命の結果、主要勢力となった保守派は革命勢力であるイェスカ主義派を排除し、成立した
ユエスレオネ共和国はヴェフィス市民革命主義的な民主主義国家として落ち着いてゆく。
歴史
保守革命の狼煙
2000年5月にフィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャがリパラオネ民族解放党(lipalain lani'ar l'afnar lertasal/L4)を設立、リパラオネ民族主義や文化的活動を弾圧しようとする政府軍や警察を襲撃するようになった。L4は革命的進展に同調する左派勢力――ユエスレオネ人民解放戦線とも協力関係を結び、2002年5月12日にユエスレオネ革命戦争を宣言。ヴェルガナーデャと人民解放戦線のリーダーであるターフ・ヴィール・イェスカは協力関係を正式に結んで軍事力を提供した。
2002年5月20日、度重なる戦闘による政府機能の麻痺によりフェーユ政府が降伏を宣言。次いで、5月21日にアル政府が降伏を宣言した。クワク政府内部にはクワク共産主義勢力が居たために人民解放戦線内部での混乱を引き起こし、戦闘が長引いたが結局の所5月30日にはクワク政府が降伏を宣言した。しかしながら、以降もクワク共産主義者による蜂起が方々で発生し、革命政府の悩みのタネとなってゆく。
革命政府樹立
全超国家主義政府の降伏に伴って、ヴェルガナーデャは
ユエスレオネ革命政府の樹立を宣言する。この革命政府は、リパラオネ民族解放党とユエスレオネ人民解放戦線を主要な閣僚として採用し、その他の少数勢力に多くの議席を与えたことで安定した政府の構築を目指した。
2002年7月12日、経済再建計画の行き違いによってイェスカ主義者が一部の都市で蜂起する。イェスカや説得主義に同調する
ターフ・ヴィール・ウォルツァスカイユなどはこれを抑えるように人民解放戦線に命ずるが、過激派に家族を人質に取られたアレス・デュイネル・エレンがこの二名を銃殺した。民族解放党は話し合いによらず射殺したエレンの処罰を人民解放戦線に求めるが、過激派に上層部まで染まった彼らから回答は無かった。
2002年7月21日、
ターフ・ヴィール・ユミリアとその一派が民族解放党に転向。ヴェルガナーデャはあくまでもユミリア派を「まともなイェスカ主義勢力」として扱い、過激派イェスカ主義者との戦闘の前線に送った。以降、「サージェのユナフラ月」と呼ばれる残酷で凄惨な大量殺戮がイェスカ主義者の間で行われた。過激派はユミリア派による掃討で弱体化し、八月末までには実効的な勢力を維持できなくなった。
2002年9月1日、アレス・デュイネル・エレンが逮捕される。ユミリアは見せしめとして、ヴェルガナーデャなど革命政府官僚が集う前でエレンを
ヴェントタード刑に処した。
ラヴィル・ド・エスタイティエや
ターフ・ヴィール・タリェナフ、メイア・ド・ノーヴデリエ・メノーヴなどのイェスカ主義指導者は依然それぞれの武装勢力を指揮して革命政府を攻撃し、自身の領域を確保した。
2002年10月5日、タリェナフ系武装勢力が解体される。ターフ・ヴィール・タリェナフは最後まで抵抗を主張していたが、最も親しい側近である
ターフ・フューザフィスに射殺された。
2002年10月15日、処刑されたはずのエレンが革命政府とユミリア派に対する反攻作戦を開始、反民族解放党派イェスカ主義者を糾合して南フェーユを占拠する。ここでユミリアが処刑したのがエレンと無関係の人民解放戦線メンバーだったことが判明してしまい、民族解放党内部に不信感が募ってゆく。
デュイン戦争
2002年11月11日、テロ攻撃の苛烈化に対して疑念を抱いた革命政府は
ウェールフープ学者の力を借りて、敵がxelkenであり、未知の領域(デュイン)に本拠地があることを認知する。これが
デュイン戦争の始まりとなった。民族解放党は本土の安定のために三面戦争(対エレン派、クワク共産主義、xelken)をせざるを得なくなった。
一方で、エレン派ではエレンが
ターフ・ヴィール・エレーナと協力関係を結ぶ。つまり、エレンがウォルツァスカイユを処刑したのは事実無根であったのである。信頼性が低くなっていくユミリア派に対して、ユミリアは発起を促して革命政府に対して反抗を促した。
2002年12月1日、ユミリア派は蜂起して国政の奪還を試みるが数日で鎮圧された。12月11日、ユミリアは戦場で狙撃され死亡し、同日全軍が投降した。この間、エレン派はデュインの
Xelken.valtoalと関係を結び、相互に協力関係を構築。ユミリア戦線を戦う民族解放党を側部から狙う形となり、初戦を有利に進めた。また、それによって獲得した資源により、クワク共産主義者を撃退し、エレン派は領土を広げていくことになった。
2002年12月21日、エレーナがクワク共産主義者の捕虜たちに対して演説を行う。「我が兄ウォルツァスカイユ」と名された演説はクワク共産主義者たちの心を揺さぶり、彼らの多くをイェスカ主義者に転向させたという。
ハタ王国との邂逅と戦線の拡大
2002年12月27日、民族解放党占領領域に突如
スカルタンを着た少女と不思議な服装の大人たちが現れた。戦時中であるが故に軍師たちは彼女らを敵軍と認識したが、武器も持っておらず奇妙なことを言うため独房に打ち込むことになった。2003年1月2日、独房を視察したヴェルガナーデャに、収監されていた少女は噛み付くように自分がこの世界に来た理由を主張した。側近は無視するよう進言したが、ヴェルガナーデャはデュインの前例を知っていたため調査を指示し、1月10日にデュインXelken.valtoal政権の存在を認知した。ヴェルガナーデャは即座に少女らを放免するように指示し、会見の場を整えるよう更に指示した。これがヴェルガナーデャと
ハタ王国王女たるカリアホ・スカルムレイの初の会見となった。
2003年1月13日、カリアホ・スカルムレイの同行者に古典リパライン話者が居たため、それの通訳者を同伴させての会見が実現した。会見では、ハタ王国はXelkenに対抗するために民族解放党勢力に付くと明言しており、これらの情報を受けたエレン派の頭を悩ませることとなった。
最終更新:2022年03月28日 04:07