概要
ヴェルテールは、原理的に殺人は不可能であると主張した。これは、「死」という行為が主体の行為でなく、その主体の消滅でもないためであり、
リパライン語の"jisesn"「死ぬ」という動詞も自動詞として表されているが、本来は中動態的な物事であるとした。
例えば、或る人間Aが言った言葉が
リパラオネ教的に許せないようなことであり、厳格な
リパラオネ教共同体がこれを取り消し、罰するためにAを殺したとしても、その言葉が信仰を毀損するようなものとして存在し続けるのは事実であり、その事実は永遠に主体を肯定するのである。こうして、どのような主体であれ、殺人によって打ち消されるものではなく、肯定も否定も最終的には追認にしかならないというものである。
このような殺人の不可能性を
「刻印」(
uluvo)と呼び、この原理による主体の性質を
「魂」(
nult)と呼ぶ。
無限戦争との関係
ヴェルテール哲学では、主体形成の性質に基づき、決意を抱いた主体間の相克――闘争が発生する。このような主体の性質を「間主体性」(cilylistavisi’anascho)と呼ぶ。対話や他者との接触とは本質的に暴力的であり、人間らはそこに共同の生活を行うだけで闘争に至り、最終的に戦争に至る。しかし、自己の主体に与えられた目的の達成の邪魔になる主体は先の「魂」という性質によって、打ち消すことができないのである。間主体性を統御できていない状態では、人々はこの否定の肯定性を更に否定するために否定を繰り返してしまう。こうして、人類は互いに憎しみ合い、永遠に闘い続ける。このような戦争のことを「無限戦争」(nodelm)と呼ぶ。
ヴェルテール政治論はこの無限戦争を解決するための議論である。
叙事詩において
da lex nalve berxa's stiesejt la l'd tatyerlkher.
pascafta, dosnud vietisto'i niveu liax da.
si diccel me lkurf larsine's plordeoss'tjeu.
"vel gentuano's es niliej lej reto'i vel da.”
ベーシャは驚きつつ、かの約束の娘の名を呼んだ
しかし、答えが返ることはなかった
彼は恐れ、ラージンは哀れみを帯びて言った
「忘れられるのは、死ぬことよりも恐ろしいことだぞ」
――Lerne.1:1 1:59
17世紀に書かれた叙事詩である
レーネガーディヤには、
ヴェルテール哲学の影響があると考えられている。上記の引用はその一例である。
ここでは、肉体的な死が本当の死ではないということが表されている。ヴェルテールにおける「刻印」の概念も同様である。しかし、限りなく死に近いことは「忘却」であると主張するのである。世界の中に自らが居た刻印を残し続け、最後に「自然」の中でしか残らなくなってしまっては、その主体は殆ど死亡したのと同じである。
主人公の村がもぬけの殻になり、自分が残した兵士たちが無惨に倒れているところを同時に目撃した
ヴェフィサイトのラージンは、肉体的な死を真の死とは捉えない。しかし、あり得る唯一の「死」への近似に生きている者として恐怖するのである。
"shrlo nillast totyt iulo faus niv dekut lax.
d’laz, belche mol niv pa niss karse niv ret da!
nalon vejt ve melferto faus berxa fas liax.
pascafta, nartol io jel cene niv larit da.
「とんでもないことをいうんじゃない
ラツもベルチェも居やしないが、それは死を示さない!」
そうしてすぐにベーシャは彼らを探し始めた
しかし、今度も影を見つけることが出来なかった
――Lerne.1:1 1:60
しかし、それを聞いたベーシャは「彼らはもはやこの村には居ないが、それは死を意味しない」と反発する。それはつまり、結局のところヴェルテールに基づいて考えるのであれば、「忘却」すらも人を死に至らしめることはできないというモチーフが背景にあるということも出来る。人々から忘れ去られ、その「刻印」が「自然」の中にのみ残るのだとしても、主体形成時に「決意」に影響する「他性物」として関わるのであれば、常にいつなんときであれ、死の可能性は残されていないからである。
最終更新:2024年12月28日 08:01