本項ではアルヴェイルガード教法主義共和国の歴史について解説する。


建国まで

 アルヴェイルガードと呼ばれることになる領域に近代的な行政システムが導入されたのは、2003年であった。その時期はデュイン東西国境策定計画によって独立したILGAF諸国の一つであるヒェフュル部族連合の北海岸地域に過ぎなかった。
 北海岸地域は2003年にデュイン東西国境策定計画によって独立したILGAF諸国の一つであるヒェフュル部族連合の一地域だった。ヒェフュルはタフターニ人が多くを占めていたが、北部に住んでいたのはラッビヤ系のジェンイェン人(jenyen jenyön)でこれをまとめて独立させたことに関しては多くの異議が申し立てられていた。協議の結果、ヒェフュルの北部は平和裏に独立することになり、2004年に北方海岸自治政府として独立した。
 ヒェフュルとの分離独立後、連邦による経済支援の過程でヒェフュルと繋がっていた経済圏は分断されることになった。連邦経済圏に接続されるも自治政府の財政運用や経済は不調が続き、大量の失業者や飢餓が発生した。2013年、当時の開発独裁の主◯◯◯◯はヒェフュル侵略による経済回復を目指すが、宣戦布告の前夜全国のフィアンシャのシャーツニアーたちは示し合わせて蜂起した(アルヴェイルガード教法革命)。
 アンポールネムに書かれた護教と人民救済を掲げ、シャーツニアーたちの教法革命により、◯◯◯◯政権は打倒されアルヴェイルガード教法主義共和国が成立した。

過激派との闘争

 リパラオネ教政治のシステムを構築していく。初代最高指導者であるショニヌ・リヤウタイ・シュニ師は「全てのアレフィスを信じる者に開かれた共和制の実現こそが国の前身のために必要である」とした。これに反発する過激派勢力は次々と各地で立ち上がることになった。
 群雄割拠の武装組織は、教法革命人民予備隊や憲兵捜査局と交戦するうちに、xelken.alesの後継組織「xelken.fiurs」やリパラオネ教過激派武装集団「インフェンド・レチ」、独立武装組織「アポーイェヴァル人民解放運動」の三組織へと形成され、また東部辺境地域を実効支配するようになった。

逆四年戦争

 詳しくは「逆四年戦争」を参照。
 2037年、アルヴェイルガードのタミア(宗教省)の圧力により、最高指導者のシュニは南サニスが反政府勢力を支援しているとして非難するが、南サニス政府はこれを否定した。このためにシュニは配下のアルヴェイルガーデン・ヴェフィサイト(戦争省)に「特殊解放作戦」を指示し、南サニスへと侵攻する前哨戦としてヒェフュルへ攻め込み、逆四年戦争が始まった。同年5月に終戦、アルヴェイルガードは南サニスとETCAの連合軍に降伏した。
 ヒェフュルへの駐屯・東デュピネートでの居留区成立・アルヴェイルガード国内の過激派駆逐を条件に講和が成立した。

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最終更新:2023年11月06日 23:09