「――――、―い。――ろ。―遅刻だ―、サーシャ」

「……ん、んみゅ?」


ふと、まどろみの中で、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
それは、色々な出来事の果て、自分を選んでくれた彼の声であったような気がする。

――ああ、昨日はどうしたんだっけ?
そうそう、また菅野さんとニパさんがストライカーユニットを壊してくれたんだった。それも、訓練中に。
二人供、彼のお陰で全損率こそ減ったものの、それでも一般のウィッチよりも消費していくストライカーユニットは遥かに多い。
自分も結構な数のストライカーユニットを壊してきたので、強く出れないのが悩みの種でもある。

新しいストライカーユニットの受注やらネウロイの襲撃やらで、各書類を片付ける頃には、日付が変わっていたと思う。
それでも彼が手伝ってくれたお陰で、随分速く終わったんだっけ。
あれ? でも、何で手伝ってくれたんだろう? いつもは君の仕事は君がやるべきだ、とか言う癖に。

そうだそうだ。何でか、隊の皆して一緒に書類を片付けている私と彼の姿を見て、ニヤニヤと笑っていたのを憶えている。
しかも、仕事を増やした張本人二人も壁から半分だけ顔を出して笑っていた。


『おい、お前等な、笑ってるくらいなら手伝え。明日は■■■なんだ。それも初めてのな』

『ヒュー、言うねぇ俺! 見せ付けてくれちゃってさ!』

『流石先生! ボクには言えないことを平然と言ってのける! そこに痺れる憧れるぅ!!』

『やかましいわ、この馬鹿女に馬鹿弟子がぁぁぁああああッ!!!!』


伯爵と僕さんの茶化すような言葉は、とても恥ずかしかったような……。
でも、その後に僕さんは彼のドロップキックを顔面に受け、伯爵はコブラツイスト? オクトパスホールド? をかけられて、とても可哀想だったな。自業自得だけど。

と、そこまで思い出して、自分の理性が警鐘を鳴らした。
あれ? 何だか、今こうしている状況がとてもマズい気がする。何か、大切なことを忘れているような……?


「――やれ、参ったね。今日の―――は中止かな?」


遠くで聞こえていた彼の声がより一層近くで聞こえた。眠りが浅くなっている。
年相応の渋い男性の声に、ゾクリとする。何というか、年を重ねた男の人特有の色香というものを感じる。これは、ちょっと惚気かな?
でも、今は困っているみたい。なんでだろう。

そうだ、昨日か一昨日、この声でビックリするような提案を持ちかけられた。
それが嬉しかったのは憶えている。だって、そんなことを持ち掛けられたのは生まれて初めてだったし。

正直、自分と一緒に居るだけで何もしない彼に、ちょっぴり女としての自信を失いかけていた。
だって、私は伯爵のように美人ではないし、ラル少佐のようにスタイル抜群でもないし、ロスマン曹長のように女として度量も大きくない。
それでも、今回の件で誘ってくれたのは、本当にうれし――――――


「ひゃああああああッッ!!!」

「おや、眠り姫のお目覚めだ。おはよう、サーシャ。よく眠れたか?」


ニヤァ、と皮肉げな笑みを浮かべる彼――俺さんが、片手を上げて朝の挨拶をしてくる。
今の彼はブリタニア空軍の制服を着ておらず、黒い上下のスーツに黒いネクタイを締めて、何だかちょっと喪服みたい。

彼曰く――


「スーツは男の戦闘服だ(キリッ」


――らしい。この人時々格好を付けたがる。男の人は皆こうなのだろうか?

いやいやいや、違う。そうじゃない。重要なのは、そこじゃない。


「あああああ、ごめんなさいごめんなさい。今すぐ、今すぐ用意しますから!」

「ああ、慌てなくていい。男と違って、女は何かと準備に時間がかかるものだからな」

「……うぅ」

「いやぁ、眼福眼福。それはそれとして、服は出しておいた。朝食の用意も終えてる。食堂で待っているよ」


じゃあ、と片手を上げて、クツクツ笑いながら私の部屋を後にする。
……あれが、大人の余裕だろうか。何だろう、この無意味な敗北感は。

いや、今は本当にそれどころじゃない。時間がないのだ。

ベッドから立ち上がり、部屋にある鏡台の前に座る。気合を入れて準備しなくちゃ!
……アレ? 俺さん、何で眼福なんて言ったんだろう。


「――――ハッ! み、みみ、見られた!」


見られた。見られてしまった。このスケスケのネグリジェを。
気付いた瞬間、ボン! と音を立てて顔が赤くなっていく。うぅ、今日は厄日だ。
伯爵に、女の色気は寝巻きからとか訳の分からない理屈で渡されたものなんて着るんじゃなかった……。

思わず、鏡台に向かって突っ伏してしまう。
でも、俺さんも結構、男の人やってるんだ。正直、第一印象からは想像も出来ない茶目っ気を見せることがある。
僕さんや伯爵と供に悪ふざけをすることもあれば、ロスマン曹長(この人も伯爵の友人だけあって、私生活は結構な享楽家なのだ)と食料調達に一日費やしたり。

ダメダメ。どうにも混乱していて、思考が乱れてしまう。戦闘中はこんなことにならないんだけどなぁ。

眠気と混乱を吹き飛ばすためにパンと両頬を叩く。力加減を間違えて、ちょっと涙目になったのは秘密だ。
だけど、気合は入った。これくらい気合を入れないと。だって、だって今日は――――


「お、俺さんと、…………初、デート、なんだから……」


自分で言っておいて、自爆してしまった。
この後、私はたっぷりと悶絶して、また10分程遅刻してしまうのだ。俺さん、本当にごめんなさい!





◇ ◇ ◇







「本当にすみません。寝坊の上、色々と手伝って貰うなんて」

「気にするな、好きでやってるんだ。それに男を待たすのも、女の甲斐性だろう?」


基地から一番近く、そして比較的大きい街へと向かう車内の中、謝る私に対して俺さんは意地悪な表情を刻んで返してくる。
運転は俺さんが。私も運転は出来るのだけど、デートだからと彼が運転する運びとなった。
まあ、確かにデートに向かう車の運転を女性にさせる訳もないだろう。……私の運転は荒いし。

それにしても、静かな運転だ。もう、見事としかいいようがない。
以前、この道を軍用トラックで走ったけれど、舗装されていない道は非常に揺れて、舌を噛んでしまった。
そう考えると、この人の運転技術はどうなっているのだろう。
確かに、サスペンションのよく利いた一般車だけど、これはいささか静か過ぎる。あ、ちょっと眠気が……。


「眠いのなら寝ても構わないが? 街にはあと一時間はかかる」

「初めてのデートで寝る女、なんて思われていたなんて心外です」

「おいおい、オレは君の身体を心配しているんだ。そんな意地の悪い男だと思われているなど、それこそ心外だ」

「何言ってるんですか。貴方はどう考えても底意地が悪くて、その上外道な人間です」

「ふむ。実に的を射ているな。的確すぎて否定できん」

「少しは否定してください、まったく。………………俺さんは眠くないんですか?」

「欠片ほども。オレはね、1,2時間の睡眠で、8時間相当の休息を得られる睡眠法を会得しているからな。オレは“精神の解体作業”と呼んでいる」


何それ、凄く教えて欲しい。
正直、デスクワークが長引いて、次の日にふらふらの状態で再びデスクワークに向かうこともままある。
しかも、その途中で寝てしまって、随分と恥ずかしい思いを何回もしたものだ。


「え? オレは、それが愛嬌だと思うが?」

「事もなげに私の心を読むの止めてください! それから運転中は前を見て!」

「それだけ君と心が繋がっているということで、此処は一つよろしく頼む」

「よろしく頼まれません!」

「駄目かぁ。…………まあ、正味な話、君はやらない方がいいと思うがね」

「何でですか?」

「慣れない内にそれの途中で起こされると、精神が崩壊して廃人コース一直線だ」


こ、この人はそんな危ない睡眠法を実践しているの!?

何でも自分の精神を文字通り解体し、再構築することで睡眠時の回復率を高めるのだとか。
本当にこの人は同じ人類なのだろうかと疑ってしまう。それほどにとんでもない人物なのだ。

俺さん曰く、慣れたら大丈夫だから、との事だけど、そんな話を聞いたら気が気じゃない。
これからこの人が昼寝をしているところを見ても起こせそうにない。他の人が起こそうとしていたら、慌てふためいて止める羽目にあるだろう。


「それはそれとして、もう少し僕さんに優しくしてあげてもいいんじゃないですか?」

「おや? 伯爵には優しくしなくていいのか?」

「あの人は自業自得です」


自分でも驚くほど冷たい声が出来てしまった。
俺さんも驚いたようで、表情を強張らせて、ビクっと肩を振るわせる。

だって、だってだって! あの人、ちょっと俺さんのことを諦めていない節がある。
私が目を離すと、胸元をはだけさせて誘惑していたり、一緒にお酒を飲んだり、夜中に俺さんの部屋に突撃したり。
そのことで以前、ちょっと――いや、かなり本気で怒ってしまった。


『クルピンスキー大尉! これ以上俺さんにちょっかいを出すのは止めてください!』

『やだよ。熊さん、君の言うことも一理あるのは分かる。でも、恋愛なんて自由なものさ。
 それに、俺は僕が初めて心と身体を重ねた男なんだよ? そう易々と諦められる訳ないじゃないか』

『おい伯爵、誤解を招くような言い方は止めろ。オレはお前に手を出してない。というより、二人ともいい加減にだな……』

『『ちょっと黙ってて(くれないか)下さい!』』

『…………はい』

『ボク、先―――、俺さんのこと軽蔑しそうです』

『名前で呼んだ!? 既に軽蔑してるじゃねぇか! 嫌だ、止めろ! お前にだけはそんなゴミみたいな目で見られたくない!!』


一応の決着を見たけれど、師弟の絆に罅が入ってしまった。そういえば、僕さんが積極的にからかうようになったのはあの頃からだったような気がする。
伯爵は伯爵で、堂々と宣戦布告をしてくるし、他の人達は面白がってみているだけだし。


「あのな、オレが浮気なんてすると思っているのか?」

「いえ、そんなことは思っていません。俺さんが浮気なんてする訳ないじゃないですか」

「良かったよ、そこは信じて貰えて」

「でも、俺さんの駄目なところは、自覚なく色んな所でフラグを立てちゃうことだと思います」

「……それは、オレのせいじゃない、よな?」


この人、普段は他人に厳しく、自分には更に100倍くらい厳しい。
だから、ふとした時、優しさや甘さを見せると女性は案外コロっといってしまう。
特に、まともな恋愛経験のないウィッチなんてイチコロだ。私も、その一人であるのだけど。


「ともかくだ。オレは君以外を女として見ていないから、安心しろ」

「はい。不安ですけど、信じていますよ」

「君が、本当にいい女で嬉しいよ」


はあ、と安堵の溜息を吐いて、俺さんは運転に集中する。

信じてはいるのだけど、嫉妬をしてしまう乙女心を理解して欲しい。
いや、理解しようと努力をしている分だけ、この人もいい男に入るのだろう。

もっとも、俺さんは伯爵の誘惑もなんのその。
胸元がはだけていたら無言でボタンを締め、お酒を飲んでいる時もロスマン曹長やラル少佐を交えて二人きりになるのを避け、部屋に突撃されれば蹴って追い出すほどだ。
あれ? ちょっとだけ、伯爵が可哀想になってきた気がする。

まあ、あの人は私を焚きつけるのが半分、そして本気が半分で、私が泣くような真似をする人ではない。
時々、自分を抑えられずに雌豹の目になるのが不安だけど、大切な仲間で、優しい女性だ。
そこが分かっているので、私自身が強く出れないのも問題なのだろう。本当に困った人である。


「まあ、オレが僕に厳しくするのは、師として当然のことだよ。アイツにはオレと同じ下らん道を歩んで欲しくない」

「それでも、アレはやりすぎですよ。顔、じゃがいもみたいになってましたよ?」

「あー、最近、オレ舐められてるからな。一度しめておいた」


私が自室から食堂に向かい、扉を開けた瞬間に見た光景は、悪魔のような笑みを浮かべる俺さんと正座で慄く502隊員一同だった。
その中で僕さんの顔だけが、普段の倍くらいに腫れ上がり、何だかよく分からない生き物になっていた。
あ、あと伯爵がソファに寝そべり、腰が、背骨がぁ、と呻いたところを見ると、きっとバックブリーカー系の技をかけられたのだろう。


「それに、あの後にルマールにも治して貰えるだろう? 二人の距離も近づいて、一石二鳥だ」

「あの二人は、どうしてくっつかないんでしょうね」

「どう考えてもルマールが奥手で、僕がヘタレなせいだ」


一刀の元にバッサリと私の疑問に答え、苛立ったように舌打ちする。
この人は一定の距離に近づいて、尚且つ相手が自分を好いていると分かれば、問答無用で距離を詰めてくる。
なので、くっついたり離れたりを繰り返しているあの二人が鬱陶しくてたまらないんだろう。ああいうのも、いいものだと思うのだけれど。


「ところで、街に着いたらどうしましょう?」

「取り敢えず、君の服を買おう。年頃の娘が、コート以外に私服も持っていないなんて、おっさん引くわ」

「し、仕方ないじゃないですか! まさか、従軍中にこんな関係になるなんて思う訳ないですし……」


ああ、後半に行くにつれて意気消沈していく自分の言葉が恨めしい。
本当に、予想外だった。まさか、こんな恋人が出来るなんて、思ってもみなかった。
服なんて、軍服だけで十分だと思って、家に置いてきてしまったのが悔やまれる。数年前の私に会えるのなら、必ず正座で説教を開始することだろう。
そういう訳で、今の私は軍服を着ている。オーラシャの軍服が他の軍よりもデザインが凝っているのが唯一の救いだろう。


「俺さんは買いたいものはないんですか?」

「特に。物欲が極端に薄いんだよな、オレ。あー、でも何か本が欲しいかな?
 それは時間が空いたらで構わんよ。オレとしては君の服を見繕う方がきっと楽しい」


そう言ってくれるのは嬉しいけれど、もう少し自分の欲を優先してくれてもいいのに。
でも、それも仕方のないことだ。この人の生い立ちを知ってしまった私としては、そう簡単に口に出せることではない。

大抵のウィッチはかなり波乱万丈の人生を送っている。それこそ、一人一人に本一冊が作れてしまうほどのストーリーがある。
それと比較しても、彼の人生はとても厳しく、悲しい物語だった。そして、そんな物語の主人公である彼は…………未だに自分自身に価値を見出せないでいる。

人格破綻者にして社会不適合者、存在不適合者。俺さんは、そんな人。
だからこそ、こんなにも強い精神と身体、多彩なスキルを持ちながら――今にも消えてしまいそうだ。


『アイツはな、自分が大切じゃないんだ。
 だから、他人のために命を捨てることは出来るが、他人を大切にすることは出来ない。悲しい奴だよ』


そう。俺さんを愛し、俺さんが愛していた人は私達の前で、泣き出しそうな顔で語っていたっけ。


『だからこそ、アイツのことは全力で愛して、無償で存在を肯定してやってくれ。そうでもなければ、アイツをこの世に繋ぎ止めておくことは出来ないからな』


はい。貴方の言葉と愛は、私がしっかり受け継ぎます。それが、横から男さんをさらっていった私に出来ることだから。

ちら、と真面目な表情で運転している彼の横顔を見る。
それを見ていると、むくむくと悪戯心が湧いてくる。うーん、この人と一緒に居ると自分でも理解できない感情が沸き上がってくることがある。困ったなぁ。

そう思いつつも、一つ思いついたことを実行に移してみることにした。
す、凄く恥ずかしいけど、何とかできるだろう。あの、その、こ、恋人同士なのだし。


「俺さん俺さん」

「――ん?」


ちょいちょいと、小さく手招きをして彼を呼ぶ。
一瞬、何をして欲しいのか分からないという顔をしたが、すぐさま正面を向いたまま顔を此方に寄せてくる。
彼は、私が何か耳打ちして話したいことがあると思っているのだろう。運転中にはちょっと危険だけど計画通り……!

ふう、と深呼吸をして暴走気味の心臓を落ち着かせる。
よし、大丈夫大丈夫、これは自然の営み。大丈夫大丈夫、私はオラーシャの荒熊だから大丈夫大丈夫大丈夫…………。


「俺さん、――――」

「何かな?」

「――愛しています」


そのまま、彼の頬にキスをする。
唇にするのは、今の私にはちょっとハードルが高過ぎた。でも、全身全霊をかける気持ちでいったので許して欲しい。
見る見る内に自分の頬が赤く――それこそ、林檎や夕焼けよりも真っ赤に染まっていくのが分かる。
熱暴走でもしているんじゃないだろうか、今の私は。

暫く、彼は頬を擦りながら、何が起きたのやら分からないという表情で安全運転を続けていた。
しかし、ようやく状況を理解したのか、横目でわたしを見る。
その視線に耐えられずに俯いて、膝の上でぐっと拳を作って叫びだしたくなるのを何とか堪えた。


「サーシャ――――」

「あ、いや、今のはでしゅね」


か、噛んだ。噛んでしまった!
興奮と恥ずかしさが限界を迎えて、今すぐメルトダウンを起こしそう。この熱から開放されるのなら、それもいいかもしれない。


「――――ありがとう」


彼は、オレもだとか、愛しているとも返さず、ただただ感謝の言葉を返してくる。
その言葉にはっとして、顔を上げてみれば、俺さんは笑っていた。


――それはそう。まるで、彼から理不尽に奪われた少年時代を取り戻そうとするかのような、あどけない笑み。


そんな彼の年齢に似つかわしくない、少年そのものの笑みを見て、私は素直に――ああ、やられたなと思った。

恋愛は、よく男女の戦いに喩えられる。惚れた弱み、などいい例だろう。
元々、私は負けっぱなしだったけれども、もう、これは、完敗もいいところ。無条件降伏だ。
こんな表情をされたのなら、してくれるのなら――――もう、自分の全てを捧げてもいい。そう思ってしまった。だからきっと、私は“やられた”のだ。

すっ、と一気に頭から熱が引いたのに、その癖心だけがほんのりと温かい気がする。


「俺さん、今日は楽しみましょうね」

「無論だ。忘れたくても、忘れない一日にしてみせよう」


……もう、忘れられそうにないですよ、俺さん。
私は、貴方から離れられそうにありません。だから、私は貴方に繋いだ手綱を絶対に放しません。
だから、どうか。非情で、見ているだけの神様でも構いません。どうか、今この気持ちが、永遠のものとなりますように――――
最終更新:2013年02月04日 14:19