クルピンスキー「ねぇ? 本当に何もなかったの?」
俺「あぁ。本当に何もなかったよ」
粘り気を帯びる黄金色の生地にチョコチップを散りばめたあと、手にした箆でボールの中をかき混ぜる俺が隣に立って作業を眺めるクルピンスキーに返す。
二人が今いる場所は台所という言葉が似合うほどの小さな厨房。
ウィッチ専用の食堂に併設されたその場所で俺は昼食後の小憩を菓子作りに費やしていた。
ちょうど一ヶ月前の今日、ラルから手作りのチョコレートを
バレンタインのプレゼントとして受け取った俺はそのお返しのためのクッキーを作っているのだ。
そんな自分の様子を偶然見つけたクルピンスキーがこれ幸いと言わんばかりに先日のラルとの温泉旅行について詳しく質問し、今に至るのである。
クルピンスキー「だって一泊二日の温泉旅行だよ? 若い男女が同じ屋根、それも同じ部屋で過ごしたんだよ?」
信じられないとでも言いたげな声色。
何も起きないほうが変じゃないかなと続ける彼女の言葉に耳を傾けながら何度か頷く。
たしかに年若い男女が同じ布団で眠りに就けば彼女が想像しているような情事が起きてもおかしくはない。
この考えは何もクルピンスキーに限ったことではない。年頃の少女なら誰もが考える異性との甘いロマンスだ。
もしもラルが魔法力を持たない一介の少女であるならば彼女が想像したようなことが起きたのかもしれない。
だが彼女はうら若き少女であると同時に魔女である。処女を失えば魔法力を失うという話を何度か耳にした俺は己の性欲よりも彼女のウィッチ生命を優先した。
俺「生憎とお前さんが想像しているようなことは何も無かったの」
魔法力が残り僅かで、ウィッチとしては老い先短い自分が下手に手を出して良いはずがなく、故に俺は彼女と付き合い始めてからというもの自身の性欲を完全に隷属させている。
全ては偏に恋人であるラルを思ってのこと。
尋常ならざる愛の賜物ともいって良いが、男として腑抜けと言われても反論でき無い現実でもある。
クルピンスキー「本当?」
俺「あぁ。本当だとも」
チョコチップが生地全体に行き渡るよう入念に箆を握る手を動かし続ける。
目つき、身体の構えはあたかも一流パティシエの姿を髣髴させた。
気合の入り方が違うのはやはり恋人が口にするからなのか。
クルピンスキー「指輪まで渡してプロポーズしたのに?」
俺「…………それ。誰から聞いた?」
その瞬間、凍るように固まった俺が油の切れたブリキ人形のように首を九十度横に曲げた。
どうして彼女がそのことを知っているのか。
もちろんラルの左手の薬指に通された指輪を見れば自分が彼女に求婚したことなど口に出さずともわかる。
しかし、クルピンスキーの口ぶりはいかにも本人から聞いたそれであった。
クルピンスキー「誰って君の“奥さん”からに決まっているじゃないか。あとは……自慢の旦那が出来たって」
俺「……」
予感的中。
真夏の陽射しを浴びたか、あるいは質の悪い風邪を引いたかのようにじわじわと顔が熱を帯びていく。
どうやらラルは自分の与り知らぬところで彼女相手に惚気話を炸裂させていたらしい。
若干、不機嫌そうに唇を尖らせるクルピンスキーの表情からラルが彼女にどんな顔で、どんなことを話していたのか容易に想像がつく。
この様子だと他の隊員たちにも話していると踏んで間違いない。おおかた旅行の土産話をせがまれて話してしまっているのだろう。
俺とて隠すつもりは微塵も無いのだが、やはり気恥ずかしさだけはどうしても捨てきれずにいた。
いずれはこの羞恥心も別の感情に変わるのだろうか。そんな考えに耽りながら、俺は胸裏に生じた疼きを振り払うかのように黙々と手を動かす。
クルピンスキー「そんなに恥ずかしがることなのかい?」
やはり頬を赤らめていたのかクルピンスキーが珍しいものでも目にしたかのような表情を貼り付けて、顔を覗き込んで来た。
心なしか彼女の双眸には悪戯めいた光が浮かんでいるように見える。
何か面白いものを見つけたときに決まって浮かべるそれを捉えた俺は彼女に気付かれぬよう嘆息を洩らした。
俺「別にそういうわけじゃないけどさ。お前はどうなんだ?」
クルピンスキー「どうって?」
俺「俺が……あいつと夫婦仲になることだよ」
いつのまにか生地をかき混ぜる手が止まっていた。
部隊内で最も早く自分の裏の仕事を突き止めたのが他の誰でもない、隣に立つヴァルトルート・クルピンスキーという少女である。
故に彼女と目を合わせるのが辛かった。
クルピンスキー「気にしているの? 自分がしてきたこと」
まさかと笑い返すも、その笑みからは日頃帯びる陽性は感じ取れずどこか苦いものが含まれていた。
俺「いちいち罪悪感を覚えていちゃ出来ない仕事だ……ただな」
クルピンスキー「ただ?」
俺「俺が傍にいて……あいつに何か起きたりするのが、嫌なんだよ」
だからこそ自分は異性との一線を越えた関係を築くことに対して抵抗を抱いていた。
自分だけに災いが降り注ぐならそれも構わない。
だとしても自分が原因で相手に何らかの危害が及ぶのがどうしても怖かったのだ。
クルピンスキー「…………ねぇ? 隊長は俺が裏で何をしてきたか知っているんだよね?」
無言で頷くと意外にも彼女は深い笑みを見せる。
予想通りだと言わんばかりの微笑。
クルピンスキー「なら信じてあげようよ、隊長のこと。それに俺だって覚悟した上で指輪を渡したんでしょ?」
俺「そりゃ、な」
ラルとて自分が何をしてきたか知った上で自分のことを愛し続けると言ってくれた。
俺もまたそんな彼女だからこそ指輪を贈った。
初めて想いを伝えたときも、そしてあの夜に指輪を贈ったときも。
彼女に対する愛に嘘偽りは微塵も存在していないし、それは今も同じである。
クルピンスキー「なら悩む必要なんかないじゃないか。ううん、悩んじゃ駄目なんだよ」
一言一句に耳を傾け、噛み砕くように頷く。
クルピンスキー「君たち二人は不器用すぎる。互いを思うあまり相手のことを疎かにしちゃっているほどにね」
正鵠を射るクルピンスキーの言葉に俺は苦笑で返した。
自分を守るために基地へと押し込んだラルと彼女を守るために基地から飛び出して戦地に赴いた自分。
たしかに傍から見れば不器用な恋人同士に映っただろう。
俺「伯爵」
クルピンスキー「うん?」
俺「…………ありがとう」
迷う必要はない。まったくその通りだ。
そもそも既に後戻りがどころか、迷うことすら許されない所まで足を進めているのである。
今更こんなことで迷うこと自体が愚かしいではないか。
それに自分は決めたはずだ。何もかもを投げ捨てる結果になったとしても彼女を愛し続けると。
ならば自分がすべきことはこれから起きるかもしれない不幸に怯えることではなく、どんな困難からも彼女を守り抜き、共に生きていくことなのだ。
彼女の身に降り注ぐ災いが恐ろしいなら、それらから彼女を守ればいい。
どうしてこんな簡単なことに早く気がつけなかったのだろうかと改めて自分の小さな脳みそに嫌気がさす。
クルピンスキー「どういたしまして。お礼は焼きあがったクッキー七枚でいいよ」
悪戯っぽく微笑んだプンスキー伯爵の言葉に俺の口許からまたもや苦笑いが零れた。
枚数から見てラルと自分を除いた残りの隊員たちの分だろう。
飄々としていながらも抜け目ないのは相変わらずのようだ。
俺「わかったよ」
クルピンスキー「チョコチップもどっさり頼むよ」
俺「程ほどにしてくれよ。これ、あいつに食べさせるものなんだから」
そう言いつつも残りのチョコチップを全軍投入するあたりこの男の人となりが窺える。
何だかんだ言いつつもウィッチの頼みを断れないのが俺の性分なのだ。
人それを、甘やかし癖とも呼ぶ。
上層部へ提出する戦闘報告書を始めとしたあらゆる書類や資料等を片付け終えたラルが小奇麗になったデスクの上に突っ伏した。
枕代わりにした腕と顔の隙間から倦怠感に満ちた呻き声とも溜息とも知れぬものが漏れ出す。
ラル「うぅぅ」
たった一日休むだけでこんなにもデスクワークが堪えるとは。
あるいはその一日で骨を休めすぎたからこんなにも疲労の溜まり具合が違うのかもしれない。
長時間座った姿勢を維持してきたせいか身体の節々が痛み、顔をしかめる。軽く肩を回し、チェアから立ち上がっただけで全身の骨が音を鳴らした。
ラル「(まだこんな時間なのか)」
ふと視線を壁時計に向ければ短針は3の辺りを指していた。
随分と長い間、書類作業をこなしていたと思っていただけに実際は昼食を終えてから三時間も経過していないことに感慨深い呟きを洩らす。
先ほどサインした書類が最後の一枚だ。
他に何も飛び込んでこなければ、もしくは指令が降りなければ今日のデスクワークは終了となる。
妙な手持ち無沙汰を感じたラルは夕食までの時間をどうしようかと考え始めた。
ラル「……俺」
不意に左手の薬指に通した指輪が目に入った。
リングの中央に象嵌されたアクアマリンが春の日差しを受けて優しげな光を放つ光景にラルの口許が自然と緩んでいく。
脳裏に浮かぶのは春宵の下で俺が指輪を贈った情景。あの夜の出来事を思い出すだけで身体の芯が熱くなる。
想いを寄せる男にプロポーズされたという事実は彼女をウィッチから年頃の少女へと引き戻していた。
ラル「ふふっ……ふふふっ」
あれからというもの俺から受け取った指輪をラルは肌身離さず身に着け、時折こうして見つめては笑みを零していた。
この指輪が自分に対する彼の愛。この指輪が自分と彼の将来を約束してくれている。
そのことが、どうしようもなく嬉しい。
自分にとってこの今が人生の春だと断言できるほどに。
ラル「おれ……おれ……ふふっ。ふふふっ」
歌うように弾んだ声で愛しい彼の名を呼ぶ。
そうしては指輪を通した左手を胸の前で抱きしめるのがすっかり彼女の習慣となっていた。
ラル「そうだ。俺はたしか今日は休みだったな」
偶然にも自分の仕事が一段落した今が彼と会える絶好のチャンスであることに気付く。
手早くデスクの整理を終えたラルが出口へ身を翻すと同時に扉から洩れる乾いた音が室内に木霊した。
その瞬間、ラルは身を強張らせた。もしや新たな書類でも届けられたのだろうか。
そうなれば俺と会えるのは夕食時か就寝するときになってしまう。
軍人である以上仕事を優先しなければならないとはいえ恋人と会えないというのは、やっぱり寂しい。
「おーい。俺だけど! 今入ってもいいか?」
ラル「俺!?」
意外な来客に戸惑いつつも頬を緩ませたラルが扉を開けると金属製のトレーを左手に持ったまま廊下に立つ俺の姿が視界に飛び込んできた。
鼻腔をくすぐる甘い香りにつられて目線を動かせばトレーの上にはティーポットとカップの他に二種類のクッキーが盛られた皿が見られる。匂いから焼きたてとみて間違いない。
俺「デスクワークお疲れさん。もしよかったら一緒にお茶でもしないか? 根詰めすぎるのも身体に毒だぞ」
トレーを持つ左手を軽く掲げながら片目を閉じてみせた俺につられてラルも口許に手を伸ばした。
こんな些細なことでも自然と笑みを零す日が増えていることに気がつき、いっそう笑みを深くする。
ラル「私もちょうどお前のところに行こうと思っていたんだ」
それだけに俺が自分の許を訊ねて来てくれたことが、離れていても互いを思い合っていることがたまらなく嬉しかった。
唇を綻ばせたラルが胸の内の喜びを隠そうともせずにっこりと微笑む。
日頃から浮かべる周囲を安心させるための笑顔とはまた違う、年頃の少女が零す可愛らしい笑みを前に俺が息を詰まらせる。
銃を手に取り、ストライカーを身に着けて空へと舞い上がれば部隊の誰よりも凄烈な戦いぶりを発揮する彼女が見せる柔らかな笑顔に見惚れていたことに気がつき、慌てて視線を逸らしながら、たった今抱いた感情を洩らした。
俺「や、やっぱり恋人同士っていうのは惹かれあうものがあるんだろうな」
ラル「そうかもしれないな。さぁ、入ってくれ」
俺「それじゃ。お邪魔します」
ウェイター顔負けの身のこなしでトレーをテーブルの上に置いた俺がソファに腰を下ろす。
すると隣に腰掛けたラルが突然彼の身体を押し倒す勢いで抱きしめた。
逞しい体躯に身をこすりつける様にしがみ付き、温もりや匂いを堪能しようと頬を摺り寄せる様は無邪気な仔狼の姿を連想させる。
一方、抱きすくめられた俺はというと突然の抱擁に少しばかり目を丸くしたあと彼女の頭に左手を乗せ、ほんのりと甘い香りを漂わせる茶髪を撫で始めた。
俺「どうした?」
ラル「少し甘えさせろ。会えなくて寂しかったんだぞ」
使い魔である狼の耳を発現させ、やや拗ねたような口調でラルが唇を尖らせる。
時たま見せるこういった子供っぽい姿もまた彼女の数ある魅力の一つであった。
頭を一撫でする度にぴょこぴょこと可愛らしい動きを見せる三角形状の狼耳の間に顎を乗せ、背中に手を這わせるとくすぐったそうに腕の中で恋人が身を捩った。
そんな何気ない仕草に胸を締め付けられる思いを味わいながら俺が口を開く。
俺「寂しかったって。ほんのちょっと前に会ったばかりじゃないか」
ラル「それでも寂しかったんだ……お前は違うのか?」
俺「そうとは言ってないよ。俺だって寂しかったさ」
ラル「だったら。もっと抱きしめてくれてもいいだろう?」
言うなり再び俺の胸元に頬を摺り寄せてきたラルに柔らかな笑みを落とした俺が華奢な背中を静かに撫でさする。
初めの内はこそばゆさに身体を捩る彼女であったが次第に強張りは抜け落ちていき、大人しく身を任せつつあった。
戦場に立ってネウロイ相手に銃を向けるだけでなく、司令として結果を急かす上層部との駆け引きを演じなければならないラル。
柔らかくて、温かくて、魅力的なこの背にありとあらゆる重圧が圧し掛かっているのかと思うと胸が痛んだ。
恋人として、そして将来を共に歩んでいく者として自分に出来ることはこうして彼女に温もりと安らぎを与えることくらいなのだろうか。
そう思うと胸に生じた亀裂が深くなっていく。
ラル「ばか。せっかくの二人きりのときにそんな顔する奴があるか」
視線を胸元に落とせば不機嫌そうに目を細めたラルの顔。
徐に頬へと手を添えた彼女は自身の胸裏に広がる溝を見抜いたのか花が咲いたような微笑を注いできた。
ラル「お前のことだ。また私のことを心配していたんだろ? 大丈夫だよ。部隊を守るのは私の仕事だ。お前にはお前にしか出来ない大切な仕事があるじゃないか」
俺「……あぁ、そうだな。そうだったな……ありがとう。目が覚めたよ」
自分を見つめる深い湖を思わせる宝玉の眼差しに俺は徐に頷いた。
お前の仕事――その言葉が何を意味しているのかラルはあえて明言を避けた。それをわざわざ訊ねるほど俺とて間抜けではない。
つい先ほど厨房で自身の胸に誓ったというのに、またもや迷いを生んでしまったことに忌避の念を抱きつつも自分の本懐が何かを分からせてくれた彼女に礼を述べ、唇を奪った。
唇を通して自分の愛を彼女の全身に注ぎ込むように。彼女から送り込まれる愛で全身を満たすように。
ラル「んっ……ぁ、はぁ……どうだ? 少しは落ち着いたか?」
俺「あぁ。どうかしていたよ……癖になってるのかな。悩むのが」
ラル「俺……私はお前のことが好きだぞ。お前が背負う全ても受け止めてやれるほどにな。だから、そんなに一人で抱え込まないでくれ。何も教えてくれないのは寂しいぞ」
両頬に手を添え、微かに青い双眸を潤ませたラルがゆっくりと顔を近づけ額を軽くぶつけた。
触れ合い、擦れあう鼻と鼻。互いの吐息がかかる程の距離であるにも拘わらず自然と心地よさが込み上げて来る。
俺「……ありがとな。俺の魔女」
もう大丈夫だからと小さく微笑んで見せた俺がラルの鼻先に軽く口付けした。
うっすらと頬を朱色に染めながら小さく頷く彼女の可愛らしい仕草を視界に収めながら、改めて胸の内に誓いを刻み込む。
将来を誓い合った彼女を一生かけて守り抜き、幸せにするという誓いを。
俺「さてと! 目が覚めたところでティータイムを始めますか。お茶も程よく冷めて飲み易くなってるはずだ」
ラル「そういえば……このクッキーはどうしたんだ?」
いつも通りの陽気な笑顔を取り戻した俺がティーカップの中にポットの注ぎ口を傾ける姿を尻目に皿に盛り付けられたクッキーの一つを手にとって目線の高さまで持ちあげる。
サロンや厨房の棚にこんなクッキーなどあっただろうか。
訝しげに凝視していると俺が白い湯気を漂わせるカップを差し出しながら、
俺「これか? 俺が作ったんだよ」
ラル「お、俺がか!?」
彼の何気ない一言にラルは危うく受け取ったカップを落としそうになった。
それでも中に注がれた液体が一滴も零れ落ちていないことから彼女の身体能力が如何に優れているのかが窺える。
俺「そんなに驚くなよ。今日が何の日か知っているだろう?」
ラル「あ……」
カレンダーへと目線を移したラルが消え入りそうな声を洩らす。
今日の日付は三月十四日。
世間ではホワイトデーと称される日であり、主にバレンタインにプレゼントや菓子を貰った者がお返しをする日だと認知されていた。
俺「あー……もしかして忘れてたか?」
ラル「…………すまない」
ここ最近は先日の温泉旅行のことばかりに気を取られていたためか、ホワイトデーに対する認識が極端に薄れていたのだ。
わざわざ俺が自分の為にクッキーを作ってくれていたというのに肝心の自分は今日が何の日かも覚えていなかったという事実に罪悪感が込み上げて来る。
俺「いいさ、俺がしたくてやったことなんだ。さっ! 湿っぽい話はこれでおしまい。食べてくれないか?」
ラル「俺は食べないのか?」
俺「いや、だってこれはお前へのお返しなわけだし」
自分の分のカップにポットの中身を注ぐ俺が言葉を濁らせる。
俺にとってこのクッキーはバレンタインに受け取ったチョコのお返しとして作ってきたものだ。
だからこそ自分が食べることに抵抗感を抱いたのだが、当の彼女はそれが気に入らなかったのか再び唇を尖らせた。
ラル「私一人で寂しく食べろというのか?」
俺「わかった、わかったから。でも最初はグンドュラが食べてくれよ?」
ラル「あぁ。それじゃ、いただきます」
摘んだクッキーを一口齧ると軽やかな食感とほんのりとした甘みが口の中に広がった。
生地とチョコチップのバランスが取れた甘みに自分でも気付かない内に頬が緩む。
俺の優しさが詰まったクッキーを丁寧に噛み砕いて飲み込むと全身が緩やかに温まっていく。
ラル「……うん、美味しいぞ。お前も食べてみろ」
俺「そ、それじゃあ……」
ラル「はい。あーん」
俺の手よりも先に皿へと伸びたラルの繊手が彼の口許に掴んだクッキーを運ぶ。
視線を泳がしながら躊躇いがちに口を開いた俺が口の中に放り込まれた手製の菓子を咀嚼する。
ラル「どうだ?」
俺「美味しいな。きっとお前が食べさせてくれたからだよ」
正直に感想を告げると今までの攻勢とは打って変わってしおらしい表情を浮かべたラルが気恥ずかしそうに身を捩り始めた。
そんな初々しい姿を前に徐々にほぐれていく俺の頬。
他の部隊員たちも。整備兵たちや医務室の女医も。彼女に無理難題を押し付けてくる軍上層部の将校たちも。
この少女がこんなにも可愛らしい素顔を秘めていることなど想像もつかないだろう。
恋人の隠された内面。
それを知るのは世界中で自分ただ一人という事実に優越感と喜びが同時に押し寄せてくる感覚に浸っていると視線を泳がせたラルがシャツを掴んできた。
ラル「そういうことを言うのは……ずるいぞ」
俺「嫌だったか?」
ラル「嫌なわけ……ない。お前だって分かってるくせに。やっぱり、ずるいぞ……お前のそういうところ」
仕返しだと言わんばかりに唇を塞いできたラルを受け止める。
こうして求められるだけで幸せなのだ。
きっと、これからの生活では幸せ過ぎて死んでしまうのではないだろうか。
そう思ってしまうほどに俺の胸裏は温かいもので満たされていた。
俺「ごめんよ。それじゃ、お詫びに今度は俺が……はい、あーん」
ラル「あーん……」
摘んだクッキーを彼女の口許に差し出す。
嬉しさと気恥ずかしさを同居させたような表情のラルがもごもごと口を動かし、零れんばかりの笑みを浮かべた。
ラル「俺。今度はお前の番だぞ? あーん」
俺「あーん」
この子の可愛らしい素顔を知るのは自分一人で良い。
そんな考えに耽りながら俺は再び口を開くのだった。
結局、このクッキーの食べさせ合いは整備班からの報告書を持ってきたサーシャが執務室に訪れるまで続いたそうな。
いくらノックをしても返事がないことに訝しんだ彼女が部屋に入った途端に顔を赤らめたのは言うまでもない。
おしまい
時間の関係上、直投とさせていただきました
ロスマンタイムとなりましたが、その辺りは目を瞑っていただけると幸いです
最終更新:2013年02月04日 14:36