天井近くの壁に設置された窓越しの夜空を眺めていると不意に欠伸が漏れ出した。
起床してから三時間以上もの時が経過しているにも拘わらず、未だ睡魔が身体の奥底に蔓延っているのだろうか。
朦朧となりつつある意識に渇を入れようと両腕に力を込め、緩んだ精神を頬と一緒に引っぱたく。
真夜中のハンガー内に小気味の良い音が広がり、何事かと顔を上げて作業から目線を背けた夜勤の整備兵たちが苦笑いを浮かべてすぐさま仕事に戻っていく。
両頬に帯びる熱が段々と痛みに変わっていく感覚を覚えながら、目元に込み上げてきた涙を拭った。
少し力を強すぎたかと後悔しつつ、赤く腫れているであろう頬をさすっていると足音を伴った自分の名を呼ぶ声が耳元に届く。

定子「どうかしましたか?」

振り向けばストライカーの最終調整を終えた定子がこちらに歩み寄ってくるところだった。
それまで呆けたように夜天を仰ぎ見ていた男が急に自分の頬を叩いた姿はさぞ不可思議に見えただろう。

俺「いや、夜間哨戒自体は何度か出たことがあるから少なくとも足手まといにはならないよ。叩いたのはただ単に寝すぎただけだ」

みっともないところを見せちまったかなと苦笑いを作る俺とは対照的に定子は彼が放った言葉に戸惑いの色を浮かべていた。
世界各地の主戦場を駆け抜け、俗にベテランと呼ばれる類のウィッチである俺からの思いがけない一言に定子はどう返せば良いか見当もつかなかった。
少なくとも皮肉といった類のものでないことは口調から察することができるし、そのようなことをいう人間でないことも判り切っていた。
どちらかといえば、自分は変に出しゃばったりはしない、といったニュアンスのほうが強い。
そこにどのような意図が含まれているかまでは判別できないが。

定子「そんな……足手まといだなんて」

俺「俺には魔眼がないからな。その分頼りにしてるぞ」

定子「……わかりました。私のほうこそよろしくお願いします」

陽性を帯びる口調に含まれていたのは自分に対する確かな信頼。
重ねてきた実戦経験の差は歴然であるというのに決して見下さず、侮らず。
一介の小娘ではなく、戦場を駆ける一人のウィッチとして己の命を預けるという信頼を感じ取った定子は気を引き締め、重々しく頷いた。

定子「では、そろそろ」

俺「あぁ、行くか」

それぞれが互いの愛機を身に着けた瞬間、足元に魔法陣が展開。
円形のそれらから放たれる青白い光輝がハンガーの隅々を照らし出す。次いでストライカーの固定アームが音を立てて外された。
魔導エンジン、正常稼動。携行火器、問題なし。
出撃準備、完了。

定子「下原定子。いきますっ!」

まず初めに定子が滑走路に躍り出て闇夜に向かって上昇、微かに上着のポケットへと手を伸ばして中身を確認した俺も彼女のあとに続いて高度を上げた。
数秒で米粒大のサイズへと姿を変えた基地を尻目に周囲の空域を見回す。
暗夜の所々には灰色の雲が浮かび、お世辞にも良好な視界とは言い難いが作戦に支障をきたすほどでもない。

俺「……にしても朝は晴れていたのに日が沈んでから急に雲が出てきたな」

目を細めながら俺がぼやく。
ややトーンが落ちた口調には、せっかくの星空見物を邪魔されたことへの不満が含まれていた。
普段は地に立って仰ぎ見るだけの星空を夜間哨戒のときに限っては、それこそ手が届きそうなほどの距離で拝むことができるのだ。
重力から解放され、夜風を浴び、ただ無心に天蓋にばら撒かれた星たちを眺め回し、飽きれば眼下の街並みの灯りを眺め下ろす。
星々と人間たちの営みが生み出す二つの輝きが俺にとっての夜間哨戒に数少ない娯楽を与えていた。
しかし、それはあくまである程度の余裕を得ていたときの話であり、激戦区――それも最前線を担当する第502統合戦闘航空団に配属されてからというもの趣味を楽しむ時間はめっきり少なくなっていた。

定子「そうですね。高度を上げましょうか」

増速し先行する定子の後を追いながら意識を切り替え、周辺空域に警戒の眼差しを飛ばす。
彼女のような遠距離視と夜間視の複合魔法視力を宿していない俺はどう足掻いても視界外に位置する敵への反応が一瞬、遅れてしまう。
だからこそ後手を強いられたとしても、すぐさま回避及び防御体勢を整えられるよう常に目を光らせなくてはならない。
特に今の時間帯ではネウロイの黒い装甲は夜の闇に紛れているせいで目視が難しくなっている。故に索敵はどうしても定子の魔眼に頼らざるを得なかった。
夜間戦闘用の固有魔法を持たない自分に出来ることといえば、彼女に対し視界外から攻撃が放たれた場合に盾代わりになることぐらいか。
そんなことを、どこか他人事のように思い浮かべながら夜の帳の中を上昇。
高度が上がるに連れ、雲の切れ間から差し込む幾条もの淡く儚げな光が雲の海の終わりを告げていた。

定子「……わぁ」

海面を抜け、満天の星空に我が物顔で佇む巨大な満月を前に定子の唇から感嘆の言葉が零れ落ちた。
いま自分たちが飛ぶこの夜空の下で、同じように目の前の満月を眺めている人間が、いったいどれだけいるのだろうか。
そして何千、何万もの人間たちが仰ぎ見ているであろうこの満月を、彼と二人で独占しているかのような感覚を覚え、思わず笑みを零したとき。
視界の端に赤い光点が入り込んだ。
弾かれるように月から目線を逸らし、複合魔法視力を発動。
敵機確認。
小型五つに中型二つ。合計七機の異形が遥か前方の空域にて雲の上を這うように泳ぐ姿を捉える。

定子「敵小型級! 来ます!!」

自分たちを補足するや否や速度を上げて攻勢行動に入る小型編隊の迎撃に移ろうと携行火器を構える定子を俺が静止した。

俺「それじゃ……挨拶代わりに一発ぶち込んでやるか」

MG42を左肩に担ぎ、右腕を前方へ。
直後、掌に集束する魔法力。
青白い光輝は次第に鮮烈さを増していき、遂には手首から指先を覆うほどまでに。
一方、視界の中央に存在する五つの点は我先にと矮小な人類を手にかけようと増速を繰り返す。
自分たちを一瞬で滅却する威力を秘めた一撃の存在など気にも留めず、ただひたすらに敵への攻撃を優先するといった実に尖兵らしい単純な行動に俺の唇が微かに吊り上がる。
“寂滅”も“天壌無窮”も使わない。
あれら二つは対軍勢用の隠し玉――特に後者は全世界の制空圏が奪われた際の切り札。
このような羽虫に使っては体力も魔法力も保たない。胸裏で零す俺が深く息を吸い込み、

俺「破ッ!!」

腹腔に溜め込んだ氣を吐き飛ばし、万象一切無に帰す奔流を解き放つ。
限界まで押さえ込まれた破壊獣は自身を拘束する鎖が外された途端、静寂が支配する夜天を駆け抜け、獲物へと牙を剥いた。
一度も攻撃を行うことなく滅相された哀れな小型の存在など気にもかけず、機銃を構え直した俺が隣で見守っていた定子に目線を配る。

俺「悪かったな。出しゃばった真似して」

定子「い、いえ! むしろ助かりました」

俺「そう言ってもらえると助かるよ。それじゃ、潰すか」

月光に照らされる男の引き締まった横顔。
捉えた獲物を迅速に狩る鷹を彷彿とさせる鋭利な眼光を湛えた黒瞳。
狩猟者といった言葉とは彼のために用意されたものではないかと思えるほどに凛とした立ち振る舞い。
夜気に包まれたその全身に言い知れぬ頼もしさを胸の内側に懐いた定子は自分でも知らぬ内に興奮した面持ちを貼り付けたまま隣に佇む狩人とともに、悠然と夜空を泳ぐ異形へと向かっていった。








定子「ふぅ……」

残る一機の撃墜を終え、すぐさま周辺空域に視線を注ぐ。
数分のあいだ夜の闇を凝視していた定子であったが、増援部隊が存在しないと分かるや否や肩の力を抜いて吐息と共に携行火器を下ろした。
小型は先ほど俺が放った衝撃波によって全機撃墜されたため、対峙したのは残された二つの中型。
装甲も小型と比較すれば堅く火力においても雲泥の差があり、決して一筋縄でいくような相手ではない。
にも拘わらず自身の息が然程上がっていないのは傍らの男の存在が大きいのだろうと独り納得する。

俺「お疲れさん。もう他にはいないみたいだな」

後方で支援に徹していた俺の笑みに定子は知らぬ内に口許をほころばせていた。
小型五機を一撃で撃墜しただけに留まらず敵が攻撃に入ろうとすれば即座に妨害し、自分の防御が間に合わなかった場合も衝撃波を駆使して敵の攻撃を掻き消してくれた。
結果、敵からの攻撃を気にすることなく自分は対象の撃墜に専念することができたのだ。

定子「いいえ。俺さんのおかげで戦い易かったです。ありがとうございました」

俺「なぁに。役に立てて何よりだ」

笑みを浮かべて返した俺がふと、思いだしたように右腕を持ち上げる。
上着のポケットに手を潜り込ませて中身の無事を確認。指先に触れる感触から、どうやら壊れてはいないようだ。
貴重なプレゼントを夜間哨戒に持ち込む自分の感性もどうかしているが、元から派手に動いたとしても易々と壊れるものでもない。
だとしても今後また同じようなことを自分が起こさないとも断言できないことを考えるとこういった危険な真似は控えた方が懸命だろう。
そう己を戒めながら、大切な家族から贈られた腕時計に視線を落とす。月の光を受け、仄かな光を帯びる二つの針は午前零時を回っていた。
今の日付は5月7日。すなわち、傍に佇む定子の誕生日である。

俺「定子。いま時間あるか?」

基地に帰還しようと身を翻す定子に一声かける。
呼びかけられた彼女は慣れた動作で急制動をかけ、こちらのほうへと顔を向けた。その瞬間、俺が息を呑み込んだ。
輝く満月の光を浴びる整った容貌。
夜風を受け、不規則に揺れる艶やかな黒髪と使い魔の耳。
あたかも物語から飛び出てきたかのような幻想さを身に纏う彼女の姿を前に一度咳払いをして我を取り戻す。

定子「なんでしょうか?」

俺「ほ、ほら。今日は定子の誕生日だろう?」

腕時計を見せ、日付が変わったことを知らせると定子は微かに目を丸くした。
まさか自分が覚えていたとは思っていなかったらしく、双眸には驚きの色が浮かんでいる。
俺自身も彼女から直接誕生日を教えてもらったわけではない。ペテルブルグ基地へと向かう前にガランドから送られた書類を通して記憶していただけのことだった。

定子「覚えていて……くれたんですか?」

俺「同じ部隊で戦う仲間だからな」

そのことがさも当然だと言いたげな俺の言葉に定子は胸の内側が緩やかに温まっていく感覚を覚えた。
自分の誕生日を当たり前のように記憶していた彼の優しさが春風のように心地良い。

定子「ありがとうございます。嬉しいです」

俺「っ! あー……うん。それでだ。プレゼントなんだけど、受け取って貰えると嬉しい」

上着のポケットから取り出した桃色の紙袋を差し出す。
若干、皺が入っているが中身そのものの無事は先ほど確認済みだ。

定子「そんな、プレゼントだなんて!!」

俺「定子には美味しいご飯作ってもらったり、いつも世話になってるからな。これぐらいのことはさせてくれ」

定子「……本当に良いんですか?」

俺「あぁ。定子のために持ってきたんだからな」

定子「ありがとう……ございます」

差し出された紙袋を落とさないよう両手で受け取り、慎重に中身を取り出すと艶やかな光沢を放つ銀の鎖が姿を見せた。
先端部の円いプレートの中央には満月を思わせるかの如く円状にカットされた琥珀が嵌め込まれ、そのすぐ傍には小さな兎のレリーフが彫られている。

定子「かわいい……」

俺「女の子の趣味とかよく分からなくてね。気に入ってくれたのなら嬉しいんだけど」

定子「でも、こんな高価なもの……本当に良いんですか?」

十五夜の月夜に飛び上がる兎といった扶桑の風物詩を表す意匠のペンダントを両手で握り締めた定子が俺を見上げた。
琥珀が単なるプラスチックやガラスの塊でないことは手触りから容易に判断できる。
つまりこの琥珀は正真正銘の本物であり、相応に高価な品物ということになる。
本当に受け取ってしまっても良いのだろうか。そんな疑問を打ち払うかのように俺が笑みを濃くした。

俺「良いも何もさっき言ったように定子のために用意したものだからな」

気にせずに受け取ってくれと続ける俺の言葉に

定子「ありがとうございます……」

俺「おぅ。それじゃあ、帰るか」

定子「……あのっ!」

俺が基地の方角へと向かって飛行を開始する寸前、片手で彼の腕を掴む。
あまりにも突拍子な行動に自分でも驚きながら、

俺「うん?」

定子「そのっ……つけてもらっても構いませんか?」

俺「今か?」

定子「……はい。今すぐつけてみたいんです……無理でしたら、その」

俺「いや。そういうことなら構わないよ」

込み上げてきた言葉を飲み込まないよう何とか搾り出す。
すると意外にもすんなりとペンダントを受け取った俺が背後へと回った。
まず胸元の辺りに飾りの部分を垂らし、鎖の両端を首の後ろに回して留め具を固定しようと手を動かしたその瞬間。
俺の指先が微かに首筋に触れ、電流にも似た感覚が定子の背筋を駆け抜けた。

定子「んっ……おれ、さんっ」

俺「どうした?」

定子「そのっ。くすぐったい……です。もう少し、優しくしてください……」

俺「ごめんよ。すぐに終わるから我慢してくれ」

定子「ふぁ、はひゃぅっ!?」

時折、うなじをなぞり上げるように接触する異性の指。
女のそれとはまた異なる硬質を秘めた彼の指に柔肌を一撫でされるたび、自分の意思とは無関係に悩ましげな声を洩らしてしまう。
ただペンダントをつけてもらっているだけなのに、どうしてこんなにも艶を帯びた声を出してしまうのだろうか。
そんなことを考えつつくすぐったさに身を捩り、これ以上みっともない声だけは出すまいときつく瞼を閉じ、下唇を噛んで全身を蝕む官能に耐え忍ぶ。

俺「よし。これで終わりだ」

定子「はぁぅ……どう、ですか?」

息を整えながら背後にいる俺のほうへと振り向く。

俺「うん。よく似合ってる」

ペンダントによって飾り付けられた彼女の胸元に視線を注ぐ俺が親指を立てた。
傍から見れば、軍服の下から盛り上がった少女の乳房を見つめる危険人物と思われても何ら可笑しくない光景でもある。
もし、この場が基地内であるならば。もし、この場に他のウィッチがいたのならば。
間違いなく彼は袋叩きにされていただろう。

定子「本当ですか? 変じゃありませんか?」

俺「そんなに心配しなくても大丈夫だ。素材が良いんだからもっと胸を張っても良いんだぞ?」

定子「……」

俺「どうした?」

定子「俺さんは……ずるいです」

どうしてこの人はそんなことを平然と口に出来るのだろうか。
熱を帯びた頬が夜風によって冷やされていく感覚を感じながら、怪訝そうに表情を歪める俺に眼差しを注ぐ。

俺「ずるいって……何か気に障るようなことでも言ったか?」

定子「……なんでもありません。早く帰りましょう」

俺「ん? あぁ、そうするか。眠くなってきたしな」

言うなり期間を開始する俺の真横に並んだ定子が胸元に垂れるペンダントを両手で握り締める。
まるで陽だまりの中に手を伸ばしているかのような温もりが手の平を包み、その温かさが彼の優しさのようだと感じた定子が口許を緩め、隣を飛ぶ男に視線を向けた。

定子「俺さん」

俺「んー?」

定子「これ大切にしますね」

俺「ん。ありがとうな」

互いに小さな笑みを零しあいながら、二人は夜陰のなかを進んでいった。






その後、定子とともに夜間哨戒を終えた俺が基地へと帰還した頃には既にうっすらと顔を覗かせる朝日が東の空を淡く照らしていた。
出撃前に報告は後でも構わないという旨を思い出し、軽くシャワーを浴びて部屋に戻る。
糸が切れた人形のように堅いマットレス製ベッドの上に倒れこんだ俺が次に目を覚ますと時刻は昼過ぎだった。

俺「ん?」

寝ぼけ眼を擦っていると欠伸よりも先に腹の虫が鳴り始めた。
初めの内は黙殺していた俺だったが、あまりにも鳴く上に段々とボリュームも上がってきたため、観念して起き上がりベッドから降りる。
欠伸を噛み殺し、何か腹にでも入れてくるかと霞がかかった頭の中で考えながら着替えていると突然、部屋の扉が乾いた音を立てた。
もしかするとラルかもしれない。
司令としての立場上、早いところ出撃報告を耳に入れておきたいのだろう。

俺「ラルか? 少し待っててくれ」

定子「あのっ! 私です! 下原ですっ!」

俺「定子か? もう起きても大丈夫なのか?」

定子「はい。今、お時間貰えますか?」

俺「あ、あぁ。わかった」

意外にも扉の向こうから聞こえてきたのはラルの声ではなく定子のそれだった。
若干、慌てているようにも聞き取れる声色だと感じたのは自分の気のせいか。
予想外の来客に戸惑いつつも手早く着替えを終えた俺が廊下に繋がる扉を開けば、そこにはたしかに声の主である定子がやや緊張したような面持ちで立っていた。
彼女のすぐ真後ろにはジョゼの姿も。
二人揃って一体何事かと訝しげに首を傾げると、定子が大切そうに抱え持った金属製のトレーが視界に入り込む。

俺「おはようさん。ところで、それは?」

定子「その……俺さんの、昼食です」

所々、途切れさせながらも何とか言葉を紡いでいく定子から再び目線をトレーに戻す。
上には白米がよそられた茶碗に、底の深い皿の中に盛り付けられた彼女の得意料理である肉じゃがに味噌汁が入れられたお椀までもが綺麗に並べられていた。
おそらく彼女らの昼食の残りなのだろうが、ウィッチ用の食堂からこの部屋までそれなりの距離がある。
であるにも拘わらず定子はわざわざ自分の部屋まで食事を運んできてくれたのだ。

俺「……ありがとう。大変だっただろう? この部屋まで運んでくるのは」

定子「い、いえ! それで……その、俺さんさえ良ければ……食べて、もらえますか?」

俺「もちろん。ちょうど腹の虫が鳴っていたところだったんだ。ありがたく食べさせてもらうよ」

そう返した俺はいつまでも彼女に持たせているのも悪いと考え、トレーを受け取ろうと両腕を伸ばす。
すると気恥ずかしそうに周囲を見回したあとで定子が一歩、歩み寄ってきた。

定子「テーブルまで運びますから。椅子に掛けていてください」

俺「いや、でも悪いしさ」

ただでさえ、この部屋まで運ばせてしまったのである。
これ以上の苦労をかけさせるわけにはいかないと考えての申し出だったのだが、

定子「そんなことはありません。最後までやらせてください」

真面目な定子が途中で仕事を手放すはずも無く、俺はあっという間に彼女の入室を許してしまった。
こうなってしまっては無碍に追い出すわけにもいかない。
何か茶か茶菓子でも用意できれば良いのだがと頭を悩ませる。
元々私物といえる私物が常に持ち歩いている鞄の中に納まる程度の量であるためか、部屋自体は片付いている――というより散らかるほどの物が無いだけなのだが――から問題は無い。
見られては不味いものも寝る前に鞄の中にしまったので安心だ。

ジョゼ「俺さん」

そんなことを考えていると目の前に躍り出たジョゼが柔らかな笑みを浮かべてみせた。
部屋に差し込む午後の光を浴びるその笑顔はさながら天使の微笑を連想させ、更には俺の理性に向かって絨毯爆撃を開始した。
はにかんだ際に小さく揺れるおさげ。優しげに細められた目に漂う慈愛の光。
まだ一口も料理に手をつけていないというのに、俺は軽い胸焼けのような感覚を覚えた。

俺「えぇっと。何だ?」

ジョゼ「下原さんの好きにさせてあげてもらえませんか?」

俺「まぁ……ここまで来ると邪魔するつもりはないけど、どうしてだ?」

ジョゼ「どうしてもですっ」

胸の辺りまで持ち上げた両の手をきゅっと握りしめ一歩身を乗り出してくる。
珍しく強気なジョゼの態度に自分でも気付かない内に首を縦に振っていた俺は彼女に促されるまま椅子に腰を下ろした。
視線を眼前の卓上に移せば白い湯気を立ち昇らせる扶桑の伝統的な料理が俺の目を惹きつけた。
運んでくる前にわざわざ温め直して来てくれたのだろうか。食欲を刺激する香りが鼻腔をくすぐり、自然と口の中が唾液で満たされていく。
極上の餌を前に耐え切れなくなった腹の虫が早く食わせろとばかりに催促の声を上げはじめた。

定子「どうぞ。召し上がれ」

定子の気遣いに感謝の念を抱きつつ両の手を合わせ、

俺「それじゃ。いただきます」

手に取った箸の狙いを、まずは肉じゃがに。
程よい大きさに切り揃えられたじゃがいもを摘んで口許に運び、咀嚼。
箸で摘んでも崩れることなく形を維持していた芋が噛んだ瞬間、いとも容易く崩れ落ちた。
おまけに出汁もしっかりと染み込んでおり、口の中に芋の柔らかな食感と出汁の風味が広がっていく。
彼女の肉じゃがはよく口にするが不思議と今日はいつも以上に美味く感じられる。

俺「んっ……すごい。すごく美味しいぞ!」

定子「本当ですかっ!?」

俺「あぁ! んっ……むぐ……うん! 美味い!」

定子「よかったぁ」

瞳を輝かせ、無我夢中で肉じゃがを口の中へとかき込む俺の姿を前にトレーを胸の前で抱き締め、頬を綻ばせる。
年相応の幼さが残る可愛らしい笑みだが、一匹の餓獣と化していた俺がその微笑に気付くことは無かった。
ひたすらに箸を動かし、本能が命じるままに胃の中を膨らませていく。

ジョゼ「ふふっ。わざわざ作った甲斐がありましたね? 下原さん」

定子「ちょっ、ジョゼさん!?」

俺「わざわざ?」

それまで無我夢中で肉じゃがを貪っていた俺がジョゼの言葉に手を止め、顔を上げる。

ジョゼ「今日の食事当番はポクルイーシキン大尉で昼食はオラーシャ料理だったんです」

俺「……ってことは、この肉じゃがはもしかして」

ジョゼ「下原さんが俺さんのために作ってくれたものなんですよ」

定子「ジョゼさん! 内緒にしてくださいって言ったじゃないですかぁ!!」

頬を真っ赤に染め上げた定子が抗議の声を上げた。
宝石にも劣らぬほど透き通った瞳には心なしか潤んだ輝きを怯えているようにも見える。
彼女がこれほど感情的になった姿を俺は初めて目の当たりにしたような気がした。

ジョゼ「でも、帰還してから寝ないで頑張って作っていたのに何も知らずに食べられるというのは悲しいじゃないですか」

定子「そ、それでも……」

俺「そう……なのか? これ、俺のために?」

定子「…………はい。ご迷惑、でしたか?」

観念したように頷く定子に俺は静かに箸を置いた。
この肉じゃが。じゃがいもの絶妙な柔らかさや出汁の風味から判断するに相当な手間暇が掛けられたに違いない。
自分と同じ時間に基地に帰還したというのに。
本当は眠かったはずなのに。
彼女は自分のためにこの料理を作ってきてくれたのだ。
貴重な睡眠時間を削ってまで作ってくれた肉じゃがに、なんて罰当たりなことをしていたのだろうかと俺は自分を叱咤する。

俺「……まさか、すごく嬉しいよ。ありがとう。定子」

定子「いえ……」

俺「これ、味わって食べさせてもらうよ。本当にありがとう」

椅子から立ち上がり、赤らんだ彼女の頬に手を伸ばす。
よく目を凝らせば目の下辺りには薄いくまのようなものが浮かび上がっていた。

定子「はい……」

俺の言葉と手の平の感触にどこか満足げな表情を浮かべた定子が笑みを作る。
陽気な午後の光に照らされたその微笑みは優しさに満ちた彼女らしいものだった。


~おしまい~
最終更新:2013年02月04日 14:40