――自室 夜
アドラー「見れば見るほど、凄まじい傷じゃな」
俺「だな。背中の傷はデカかったが、それ以上に左腕の方が問題だ」
人型の見せた剣戟は見事だった。
西洋剣――分類としてはツーハンデッドソードを使っていたにも拘らず、その斬れ味は扶桑刀の如し。
鎌鼬にやられたように、斬り口が綺麗過ぎて出血が殆どなかったのが何よりの証明である。
俺の左腕はただの一撃で“開き”にされていた。
もし治癒魔法の使い手であるジョゼが居なければ、俺の左腕は永遠に動かなかったと老軍医に言わしめるほど、完璧に破壊されていた。
皮膚、筋肉、神経、骨。腕を構成し、腕を動かす機構の悉くが断ち斬られていたのである。
下手をすれば、肘から先を切断しなければならないほどの傷。ジョゼが左腕を治しただけで魔法力を使い果たしてしまうのも納得だ。
アドラー「確か、人型のネウロイは他にも確認されているらしいな。どれもウィッチを模しているようだが……」
俺「ああ、それがどうかしたか……?」
アドラー「いやな。もしかしたら、あの人型は主ら――暗兵を模したのではないか?」
確かに、アドラーの着眼は面白い。
ネウロイにとって最大の敵はウィッチである。なればこそ、数多くのウィッチを屠ってきた暗兵に目を付けるのも不思議ではない。
天敵を倒すのであれば、天敵の天敵を模せばいい。理屈も考え方も分からなくはないだろう。
俺「いや、恐らくその線は薄いだろうな」
アドラー「ふむ。どうしてそう思う」
俺「俺達はな、誰がどんな暗兵として大成し、どれだけの金を稼いだのかを、ある程度は記録を残してある」
その理由は、どのような戦争や状況下において、どのような暗兵がどのような戦法を用いれば効率よく金を稼げるかを知るため。
何も暗兵は戦いと暗殺だけが能ではない。仕事の効率化を図る術を模索している通り、頭脳労働も時には肉体労働よりも重要となることを理解している。
俺「ここ何十年、少なくとも第一次ネウロイ大戦から今にかけて、西洋剣の使い手はいない」
アドラー「ネウロイが現代のウィッチを模している以上、現代の暗兵を模していなければ辻褄が合わんか。だが、仮に怪異と呼ばれた頃の記録や記憶から有効だと判断したのなら?」
俺「それも可笑しい。なら、もっと早い段階で人型が確認されてもいいだろう」
アドラー「ま、そもそもネウロイに記録なぞあるかも分からんが、扶桑にも温故知新という言葉もあるだろう?」
俺「故きを温ねて新たしき知るか。分からなくもないが、ないと思うがな」
アドラー「……何故?」
俺「俺達の用心深さは一級品だ。敵がネウロイであれ、自らの手の内全てを晒すような馬鹿はいない」
成程、とアドラーは俺の物言いに納得する。
俺は常に全力で戦っているが、全てを晒している訳ではない。
最大の戦果を最小の浪費で、最短の内に処理することこそが最善の手段と考えている彼にとって、必要以上に手の内を晒すのは無駄な行為と断じている。
さすれば、次の仕事は敵にとって予測不能の手が増える。何処に人の目が潜んでいるか分からない以上、そう考えるのは当然だ。
シユウの暗兵は皆そうなのだろう。
恐らくは、身内であっても知らぬ奥の手を誰もが持っている。相手が誰であれ、自身に関する情報が漏れれば死に繋がることを理解しているのだ。
俺「厄介な奴だよ。これが人間ならば、如何様にでも殺し方はあっただろうに」
アドラー「寝込みを襲うも、食事に毒を盛るも自由自在だからの、我が主は。人間である以上、どうしたところで隙は生まれるか」
俺「ああ。しかし、相手はネウロイ。食事も睡眠も必要、ないとは言い切れんが生態がまるで分らん上に、居場所も判然としない。頭の痛い相手だ」
自身の性能を十全に発揮できないと歯噛みする。
元より彼は暗殺者。闇に潜み、奇襲を以って標的を討つ。入念な観察によって標的の情報を取得し、武器を抜かせる前に殺害するのが最も得意とするところ。
しかし、ネウロイとの戦いはそれができない。
現在の戦況と敵についての情報量の少なさから、ウィッチはどうしても後手に回らざるを得ず、専守防衛である場合が殆ど。
更に攻勢に出たとしても、空戦である以上、潜む場所など何処にもなく、加えてストライカーユニットという機械を身に着けなければならない。爆音を奏でる機械では隠密行動も糞もないだろう。
故に求められるのは真正面から戦っても勝ちを拾える能力と技能である。俺が得意とする手段と現実に求められる能力が、まるで噛み合っていない。
それでもなお戦っていられるのは、暗兵として積んだ狂気じみた鍛錬と技術故。
だが、あのネウロイの出現によって、その前提が脆くも崩れ去った。何らかの策を講じねば、そう遠くない未来、俺の命は失われるだろう。
アドラー「して、手段はあるか?」
俺「素直にお手上げしたいところだが、最後の瞬間まで生き足掻くのが暗兵だ。有効かも分からんし、全てが綱渡りだが考えはある」
アドラー「――ハ。流石は暗兵、流石は我が主。給料分の仕事は果たすか」
金だけ貰ってトンズラは主義ではないからな、と肩を竦めて応じる。
アドラーは、その様に皮肉げに笑った。決して俺を笑ったのではなく、己自身を皮肉で笑ったのだ。
この男は余りにも精神が強靭すぎる。最早、人の域にはないほどに。彼が“黒髪鬼”と、魔と呼ばれる所以は、そこにあるのだろう。
俺「――ん?」
アドラー「どうかしたか?」
俺「いや、誰か来るな。この気配と足音は、熊さんか」
アドラー(……あー、成程、今日の出来事、かなり気にしておったからのう。大方、伯爵辺りが背中でも押したか)
俺「こんな時間に何の用だ?」
アドラー「……お前さん、本気で分からんのか!?」
俺「ああ。お前が何をそこまで驚いているのか分からん」
唖然と俺を眺めるアドラー。
どう考えても、サーシャが俺の部屋を訪れるということは、今日の一件での謝罪か礼の二択だろう。
が、俺にとってその話は当の昔に終わっているらしく、まるで何も分かっていない。相当思い悩んで来たであろうサーシャの心境を慮って、黒鷲は憤慨しながら羽ばたいた。
アドラー「ああ、もうええわい! お前に何を言っても無駄じゃろうて、儂は出てくからの! 窓を開けてくれ!」
俺「何を怒ってるんだ、お前は。まあ、外に行くというのなら止めはしないが。ああ、何かあったらすぐ来られるよう、遠くには行くなよ」
分かっとるわ! と口角泡を飛ばしながらアドラーは窓から外へと飛んで行った。
人間の精神だか魂だかを無理くり鷲の身体にぶち込んだ訳だから、情緒不安定になっても仕方がないかと見当違いも甚だしい勘違いをする俺。
冷気の入ってくる窓を閉めると、タイミングよくドアがノックされた。
俺「どうぞ」
サーシャ「し、しちゅ……失礼します!」
俺(…………噛んでら)
サーシャ(…………噛んじゃった)
その上、取り繕った声は微妙に裏返っていた。
ここで開き直って、噛みましたとでも言えれば良かったが、いじらしいサーシャにそのような真似が出来る筈もなく、顔を林檎のように赤らめて部屋に入ってくる。
妙に緊張している彼女の様子に、あえて噛んだことも声が裏返っていたことにも触れはしなかったが、俺は耐えきれずに一つの疑問を口にした。
俺「……なんで寝間着?」
サーシャ「あ、……え、えっと、その、夜も遅いですし」
俺「だったら明日にでも回せばよかったのに。何、急用?」
サーシャ「いえ、急用ではないですけど、夜じゃないと意味がないと言いますか……!」
俺「…………? ……?」
わたわたと両手を顔の前で振って慌てるサーシャ。
仕事の話ならば軍服で来ることは請け合いである。かと言って、急用でもないのにこんな時間に己の部屋を訪れる理由も思いつかなかった。
淡い水色の水玉模様に、白いフリルを袖にあしらった寝間着。年齢以上の落ち着きを持った彼女からすれば、随分と可愛らしいものだ。
が、とても人前に出てくる格好ではない。少なくともサーシャはクルピンスキーのようにスボラでなければ、何かの手違いで酒に酔っているような様子もない。
ともすれば、それほど重要なことでもないだろう。急用でもなく、重要でもない話。はて、自身と彼女の間に話し合うべき問題などあったものか、と俺は困惑する。
サーシャ「きょ、今日はすみませんでした!」
俺「………………は? 何が?」
突然、頭を下げて謝るサーシャに、俺はクルピンスキーが予想した通りの反応を見せる。
本当に、全く、欠片も、何一つ謝られている理由が分からないという表情に、愕然と顔を上げた。
サーシャ「あの、……本当に、分からないんですか?」
俺「うん。心当たりがなくて申し訳ないんだけど、何? 熊さん、俺に謝らなきゃいけないようなことしたっけ?」
サーシャ「だって、左腕と背中の傷は……!」
ああ、とようやく得心がいったのか、俺はポンと拳で掌を叩いた。
その余りの無頓着さに、余りの自分自身の身体に対する興味のなさに、サーシャは怒りを覚えた。
だって、自分の身体ことだ。もっと怒ってもいい、もっと言うべきことがあるはずだ。どれだけ彼が道具を気取ろうと、人は人でしかないのだから。
怒りに肩は震え、掌に爪が白く食い込むほど拳を強く握り締める。
普通ならば、俺の言葉に笑うか、安堵の溜息を漏らすところ。それを、俺の身を案じて憤慨している辺り、彼女も人がいい。
しかし、サーシャは怒りを言葉にするでもなく、ぶちまけるのでもなく、呼気と共に吐き出した。
今まで自分が思い詰めていたのに、という気持ちが怒りの中にいくらか混じっていたからであり、仮に自分が同じ立場であったのなら、必要以上に気にはしなかったはずと結論したのだ。
俺「別に、謝る必要なんてないだろ。立場が逆だったら、熊さんだって似たような真似をしてただろ?」
サーシャ「かもしれません。でも、先生に腕のことを聞きましたよ?」
俺「あー、腕一本と命一つ。天秤に掛ければ、命の方が重くなるのは当然だろ」
サーシャ「…………だからって、もう少し自分の身体を、……あ、あら?」
ここは一つお説教でも、と口を開こうとした時、俺の顔が滲んでいることに気付く。
今日の出来事を気にしていなかったという安堵。傷に対する無頓着さへの憤慨。苦しみや痛みに屈しない強靭さを持つが故に悲しい俺の在り方。
他にも自身の不甲斐なさと情けなさ。戦闘隊長という立場から来る重責。封をし、目を背けていた様々な感情が堰を切って溢れだし、涙となって両目に溜まる。
突然の出来事に、何時ものような女の涙を前にした時の慌てふためきようも発露しない。ただ……
俺(…………あ、こぼれる)
そんな、目の前で起こっていることの感想しか抱くことしか、俺には出来なかった。
サーシャ「ぅ、ぐ、……す、すみません。突然、こんな……」
俺「ああ、いいよ。どうやら、俺にも問題があったみたいだ」
声を押し殺して泣き出したのを見て、そこでようやく自身の行動に不備があったと気が付いた。間違いと考えていないのはご愛嬌だ。
力が抜けてサーシャの身体が頽れる。俺は、それに合わせて膝を折った。
後から後から流れてくる涙を見て、最近こういうの多いね、どうにもと辟易する。
この基地へ二度目に足を踏み入れた時にはラルが、不定形のネウロイを相手取った時にはニパが、事情の毛色は違いがジョゼもその内の一つだろう。
ハンカチ――――は、すぐ手の届く場所になかったので、流れる涙を拭っていく。何度も、何度も。サーシャの涙が枯れるまで、声をかけもせず、飽きもせずに。
俺「落ち着いた……?」
サーシャ「はい、少しだけ、すっきりしました」
俺「そいつは重畳。…………全く、我がことながら度し難い。人の頭の内なら読むのは得意なのに、人の心の内までは読めんとは。笑い話にもならない」
どれだけの時間を泣いていたのか。どれだけの時間を黙って見守っていたのか。
一先ず落ち着いたサーシャと俺は、ベッドに隣り合って座っていた。
このシチュエーションを前にしても、次に似たような事態が相手に声をかけるくらいはしようとしか考えていない辺り、俺の糞真面目加減も度し難い。
サーシャの目は泣いて赤く充血し、瞼は少しだけ腫れていた。それでも様々なものを吐き出した表情が何時も以上に生き生きとしていたのは、俺の目からも理解できた。
サーシャ「すみません。昼間だけじゃなくて、今も迷惑を……」
俺「別に気にしちゃいない。色々とあるのが人生だ。流石に、こんなのことが俺の人生にあるなんて、思っちゃいなかったがね」
冗談めかした口調と皮肉な笑みに、サーシャもつられてニッコリと笑う。
俺「それにほら、いつか言っただろ、言うべき言葉が違うって。だから、熊さん、俺に言わせてくれ。あの時、教えてくれた言葉を」
サーシャ「うふふ、ちゃんと覚えていてくれたんですね」
俺「無論だとも。俺は一度や二度でモノを憶えられるほど利口じゃないが、人の言葉を簡単に忘れるほど馬鹿でもない」
サーシャ「そうですか。じゃあ、改めて。…………私を助けてくれて、ありがとうございました」
俺「“どういたしまして”」
それは、サーシャにストライカーユニットについての享受を請うた時、共に学んだ言葉だった。
お互いに頭を下げてから顔を見合わせると、一呼吸の間をおいて二人は腹を抱えて笑い出した。
サーシャは伯爵の考えていた通りの結果になったであろうことと、少し前までこんな簡単なことにすら気付かないほど思い詰めていた自分自身に。
俺は相も変わらず依頼人の心境すら分からぬ、人の痛み――殊更に心の痛みの分からぬ間抜けな自分自身に。
それでも卑屈に見えないのは、後悔をせず前向きに考えているから。純粋な笑顔とは本来そういうものだ。
俺「くくく、……っと、包帯が緩んできたな。巻き直さにゃならんか」
サーシャ「あ、私がやりますね」
俺「いや、熊さん、そういうことやったことあるの?」
サーシャ「………………や、やります……!」
一瞬、やる気に満ちた顔が不安で陰ったが、どうやら引き下がるつもりはないらしい。
サーシャは何らかの形で恩を返したく、俺も熊さんの気持ちが楽になるのなら、と受け入れた。
俺「あ、違う。そうじゃない、腋の下通して」
サーシャ「こ、こうですか……?」
俺「そうそう。……ちょ、ちょっと待って。首、首締ってる」
サーシャ「え、え? だ、大丈夫ですか?!」
サーシャが悪戦苦闘すること十数分。何とか包帯を巻き直しが終了する。
お世辞にも上手とは言えないが、日常生活を送るのに不便はしない。初心者ならば上等な巻き方だ。
包帯を巻くのも立派な医療行為。腕や足の一部分を巻くならば難しくはないが、そこに関節や患部が大きくなると途端に難しくなる。
ましてやサーシャは応急処置程度の知識と経験しかない。少々不格好になっても仕方ないだろう。
俺「ふむ、見た目は悪いが、肩も上がるし動き易い。素人にしちゃ上出来だ。だから、別にそんなに落ち込まなくても……」
サーシャ「い、いえ、やっぱり俺さんがやった方が良かったと……」
俺「そうでもない。無理に動くと傷が開くからな。助かった、ありがとう」
サーシャ「クス…………“どういたしまして”」
俺「じゃあ、部屋までおく――――熊さん?」
患者衣を着直し、ベッドから立ち上がろうとした俺を、サーシャは袖を掴んで止めた。
サーシャ「あ、あのですね。今日、俺さんのところへ来たのはですね、ただお話をしに来ただけじゃないと申します、か…………」
俺「は? じゃあ礼も、ってこと? それならさっきの包帯の件でちゃらにしよう。別に欲しいものがあるわけでもないし、気持ちは受け取ったつもりだが……」
サーシャ「そ、そうじゃなくて、一つ俺さんが困っている、と聞きまして」
困っていること? と首を傾げる。
ハッキリ言って、俺には困窮するような問題を抱えていない。
給料は依頼人を探して駆けずり回っている頃に比べれば破格と言ってもよいし、依頼人からの信頼もある。
常に喰うに困っている訳でもなく、雨風を凌げない訳でのない。周囲から――少なくとも、ラル達からは己について一定の理解もある。何の不満があろうか。理想的な職場、快適な居場所とは正に此処のことだ。
サーシャ「お、俺さんがですね。……毎晩、一人で夜泣きをしているそうですから、添い寝を、と…………」
俺「……………………」
サーシャ「ラル隊長も、それで一緒に寝て上げた、とか……」
サーシャはその言葉を本気で信じているのかは分からなかったが、俺を混乱の坩堝へと叩き落すには十分すぎた。
俺(は? 夜泣きって誰が? 俺が? 熊さん、そんな与太話マジで信じてんの? 俺が一体、どれだけ野宿してきたと思ってんの?
いやー、確かに俺くらいの歳だったら、夜泣きも可笑しくないよね。いや、ねーよ。俺の性格考えてくれよ、人が恋しいなんて可愛い精神が残ってるわけねーじゃん。
確かにね、ラルと一緒に寝たよ。でもね、それはご褒美とか称した苦行であってね、ぜんぜんご褒美でも何でもなかったって言うかね。つーか、そのこと喋ったの誰だよ)
混乱が混乱を呼び、時間が経つごとに思考は散逸していく。
それでもこれ以上の醜態は晒せない、と持ち前の精神力で、僅か数秒で現実へと戻ってくる。
思考の海から現実に帰還した俺の最初の一声は、そんな与太をサーシャに吹き込んだ人物を探るものだった。もっとも、大方の見当はついていたのだが。
俺「…………それ、誰から聞いたの?」
サーシャ「え? クルピンスキー中尉ですけど……?」
俺(あんの女ァァァァァアアアアアアアアアアアッッッ!!!!)
脳裏に浮かぶは、自分が想定した展開通りに転んでいるであろう俺とサーシャの状況に、にやにやと笑っている伯爵の姿。
ああ、間違いない。彼女ならやる。その胸中に何を思うかは謎だが、間違いなく面白がってやる。
わなわなと震える右拳と顔を覆う左掌。
別段、自分一人をおちょくるなら笑って許すか、鼻で笑うだけだが。サーシャを巻き込むのは、頂けなかったようである。
サーシャ「そんなに恥ずかしがることないんですよ? 私もウィッチとして親元を離れた時は、寂しかったですし」
俺「うん、気を使ってくれるのはありがたいけどね。それ、盛大な間違いだから。俺、夜泣きとかしてないから」
サーシャ「……………………………………え?」
俺「俺、寂しくて夜泣きするような可愛げ、ないない」
俺の言葉を咀嚼し、昼間クルピンスキーにかけられた言葉を反芻することたっぷり十秒。サーシャはぼん、と音を立てて赤くなったような気がした。
赤い。紅い。朱い。赫い。恐らくは、彼女の今までの人生において最大級の赤さだ。もう、他に表現しようのないほど赤い。
いくら思い詰めていたからと言って、あの伯爵の言葉をどうして信じてしまったのか。どうしてもう少し冷静になれなかったのか。さすれば鵜呑みにはしなかったろうに。
サーシャ「………………」
俺「落ち着いて。何か喋りたいのは分かったけど、声が出てない」
俺の言う通り、パクパクと口が動くだけで言葉になっていない。顔の赤さも相俟って、金魚のようだ。
サーシャ「うぅぅぅ、どうしてこうなったの……」
俺「いや、熊さん。伯爵とかの言葉を真に受けなくていいから」
恥ずかしさの余り、涙目で俯くサーシャであったが、俺は伯爵の馬鹿さ加減に呆れるばかりである。
俺「と、取り敢えず、部屋まで送るから、伯爵のことは明日考えよう」
サーシャ「い、いえ、待ってください。このまま帰ったら笑われます!」
俺「いや、その理屈はおかしい」
このまま部屋に帰ったのなら確かに笑われるかもしれないが、このまま添い寝しても笑われることに変わりはない。ならば、添い寝する意味など何処にもないのである。
サーシャも意地になっていた。
今回は伯爵の意図に気付かなかった自分の失態だ。そもそも相手はどんな時でも悪戯やからかいを忘れない人間なのだ、気付かない方が悪い。
だが、そこはそれ。これ以上馬鹿にされるのは我慢がならなかった。
可笑しな意地の張り方をし始めたサーシャを何とか説得しようと試みる俺であったが、そのような人間に説得など通じる筈もない。
サーシャ「いいから! 入ってください!」
俺「えええぇぇぇぇッ! ちょ! 熊さん、落ち着いてぇぇぇぇッ!!」
手を引かれ、あえなくベッドの中に引きこまれてしまった。
これで女に引き込まれてベッドに入るのはラル、クルピンスキーに続いて三度目。依頼人からの押しに弱すぎる男である。
サーシャ「四の五の言わず、明日まで我慢してください! そして、朝になったらクルピンスキー中尉にお説教です!」
俺「同意はするけど、何も同衾する必要はないじゃないか!?」
サーシャ「その怒りも疑問も、明日の朝、中尉にぶつけてください!」
無茶苦茶だ、と呟きたくなるが何とか抑える。
目の前にいるのは、まさに気性の荒い熊だった。完全に気が立ち、ふーッ! と荒々しく呼吸を
繰り返している。
このまま視線逸らさず、なるべく相手を刺激しないように後退の野生の熊相手にする対処法で逃げ出したかったが、逃げ切る自信はなかった。
しかし、暫らく経つと冷静さを取り戻してきたのか、落ち込んで溜息を吐いた。
サーシャの目まぐるしく変わる表情と心境に、俺は眼を回してしまいそうだ。
サーシャ「すみません、本当に色々と……」
俺「お互い様だよ。俺も皆に色々と迷惑をかけている。これくらい……これくらい、どうってことないんじゃないかな、うん?」
サーシャ「話してる途中で、急に自信をなくさないでくださいよぉ」
お互い向き合う形でベッドの中に入ったため、視線を外すことさえ出来ない状況でも、俺は必要以上に緊張しはしなかった。このような経験も三度目、いい加減慣れてきたらしい。
対しサーシャは激しい緊張の最中にあった。
乙女としての危機など自制心の強い、そもそもそんな考えすら持たない俺である以上、心配などしていなかったが、男と同衾など
初めてだ。緊張しない訳がない。
俺「そんなに緊張しなくても、俺は何もしないよ」
サーシャ「む、無理ですよ。……信じてますし、嘘でないことも分かってますけど、けどぉ」
俺「じゃあ、熊さんがベッドで寝てよ。俺は床で寝る」
サーシャ「そ、それは駄目です! 俺さんは怪我人なんですよ!」
じゃあ、どうしろと。俺はがっくりと首の力を抜いて項垂れる。
本当にどうしたものか。一週間は寝ずに戦っていられる自分ならばいざ知らず、サーシャにはゆっくりと休んで貰いたい。
普段の激務――とまでは言わずとも、様々な心労を抱えて生きているほど強い少女でもないのだから。
このままベッドを出るのが最良なのだが許して貰えそうもなく、いよいよ手詰まりかと思った時、ふと、かつて見たの村での光景を思い出した。
俺「ちょっとごめんよ、っと」
サーシャ「……お、俺さん!?」
俺「こうすると、眠くなるよな子供って」
少しだけ距離を詰め、布団から手を出してサーシャの腰辺りを叩く。
一定のリズムを刻む手付きは、親が赤ん坊を寝かしつける時のそれだ。
サーシャ「私、子供じゃありません」
俺「そうかな? まだまだ子供だと思うけどね。とても大人とは言えないよ」
サーシャ「かもしれませんけど。俺さんだって、そうじゃないですか」
俺「確かに、心は早熟せざるを得ない環境だったが、身体は子供だ。身長、伯爵よりも低いしね」
子ども扱いも同然の行為を受けてか、少しだけムっとしたような表情をするサーシャ。
しかし、俺は彼女の反撃の言葉すら受け流し、かねてより仲間の暗兵に散々からかわれ続けた身長の話を口にした。
他愛のない会話は続く。
それこそ男女がベッドの中でするような会話ではなかったが、相手の緊張をほぐし、眠気を誘うには十分な要素だったらしい。
月が空の頂点を跨ぎ始めた頃、俺の体温に慣れ始めたサーシャは、その胸に顔を埋め、心音をBGMに寝息を立てていた。
俺「おやすみ、サーシャ。ゆっくり眠ってくれ。………………さて、朝までどう時間を潰したもんか」
一度だけ眠り姫の名を呼んだ。だが、もう名で呼ぶことはあるまい、ちょっとした気紛れだ。
胸の中で眠るサーシャの夢が幸せなものであることを願いつつ、身体が近寄りすぎて再び緊張し始めた俺は一人呟く。
しかし、その顔に刻まれた笑みは、この時間が決して不快なものではないのを何よりも雄弁に物語っていた。
――Interlude
そこはまるで手術室だった。
壁に掛けられた何らかの医療器具。何が書かれているかも分からない難解な数式や人体の設計図。棚に敷き詰められた薬瓶の数々。部屋の中央に鎮座する鋼鉄製の手術台。
いや、手術室などではない。
壁は岩でできており、部屋は余りにも薄暗い。よくよく見れば、棚には瓶詰の生物や臓器の数々。何らかの研究内容が記されているであろう手帳まである。
そう、ここは自然が創造した洞窟を更に改造した研究室だった。
一体、誰が、何の目的で作ったのかも分からない研究室。
少なくとも真っ当な目的と理由ではないのは確かである。人々から受け入れられる研究であれば、人の寄り付かない洞窟に研究室を作る道理はない。
そんな研究室で、蝋燭の炎と共に揺れる影が一つ。
影の正体は男だった。
全身をマントで覆い隠し、表情すら伺いしれない。時折、手記のページを捲るために覗く節くれ立った手が、唯一男と判断できる材料であった。
「よもや、これほどまでとは……」
読んでいた手記を閉じ、男が天を仰ぐと、鉄をすり合わせるような、しわがれた声が響いた。
「“悪霊”、忌々しいお方だ。初めから、私の願いすら見通しておったのか……」
“悪霊”は、何百年と前にシユウの暗兵に殺された、歪んだ思想を持つ仙人達の追放者だ。ならば、此処はその男の研究室だとでもいうのか。>>>>>
「化け物め。だが、願いは目前だ。あとは、相応しい素体を見つけるのみ。我が悲願はようやく叶う」
お方と尊敬を込めながら、化物めと吐き捨てる男は一体何者なのか。その答えを知る術は誰も持ってはいない。
ただ一つ言えることは、この男は何らかの歪んだ情熱と信念を持ち合わせていることだけだ。
「――――む? ようやくご帰還か。ならば、出迎えねばな」
その時、何かを感じ取ったのか、“悪霊”の手記を男は扉へと向かう。
「しかし、恐ろしいものよな。あの男、今より何百年と前に怪異を、ネウロイの力を扱おうなどと」
扉を開け放ち、恐らくは洞窟の出入り口へと向かっていった。
誰に伝えるでもなく、己に言い聞かせるような言葉は、さながら何らかの呪詛のよう。
「その研究成果、……いや、途中経過こそが、あの竜型のネウロイか。そして……」
洞窟の内部は天井の所々から太陽の光が差し込んでいる。
歩く男の光が降り注いだ。その両腕には、魚か蛇の鱗を思わせる黒い刺青が刻まれていた。
最終更新:2013年02月06日 23:29