サーシャ誕生日 特別編 『鶯の戯れ』
春の到来の後、いよいよもってサーシャの誕生日である3月6日を迎えた。
ロンドンへの出立前で慌ただしくはあったが、その日は502の一同が集まって彼女の誕生日を祝った。
サーシャの誕生日会が終わると、下原少尉から何やら用があるというので、俺は彼女の自室に招かれることになった。
夕刻、俺は仕事を終えた後で彼女の部屋を訪れた。彼女は俺の姿を見ると中にみちびき入れる。
下原「俺さん、来た所で悪いのですが…少し待っててもらえますか?」
俺「いいけど…なにか用事あるのかな?」
下原「ちょっとやる事がありまして…すぐ戻ってきます」
そう言って彼女は急ぎ足で部屋を出ていった。
一人残された俺は、部屋の片隅に置かれた椅子に腰かけると辺りを見回す。少尉の部屋は几帳面な彼女らしく、綺麗によく整頓されていた。
とりわけ目を引いたのは部屋の一隅に扶桑の伝統ともいうべき座敷が設けられている様である。その一劃は懐かしい藺草の香りで芳しく、観水の
活けられた花々は独自の繊細さを持っている。
暫くすると廊下の方から何やら戞々と跫音が聞こえた。やがて、扉の向こうから騒がしい声が響いてくる。
サーシャ「えっと…こんな姿…俺さんには…」
下原「大丈夫です、大尉。俺さんならきっと可愛いといってくれますよ。ささ、早く部屋に入りましょう」
サーシャ「…あ、あの、ちょっと…下原さん」
そう彼女が呟いた所で、目の前の小さな扉が開かれる。
そこには振袖姿のサーシャと下原少尉が立っていた。
俺はなんと綺麗なのだろうと思った。サーシャは若草色の布地に淡い桜の花弁が描かれた振袖を纏い、
一方の下原少尉も浅葱色の控え目な花の紋様の着物を着こんでそこに立っていたのだから…。
彼女達の艶やかな髪は後ろに結わえられ、振袖との見事な対比で白い相貌が際立って眩いばかりだ。
俺は彼女たちに見とれて、暫く視線を離すことが出来ずにいた。
俺「二人共とても似合ってる…。何というか…すごい綺麗だよ」
俺は何て言ったらいいかわからず、言葉足らずな感想を漏らした。
下原「ありがとうございます」
俺「まさか着物を着てくるとはね。…サーシャって細身だしさ、凄く可愛いからびっくりした」
サーシャ「あ、ありがとうございます」
サーシャは俺の眼を憚ってか、恥ずかしそうに顔を横に向けて頬を染める。
俺「…えっとひょっとして、これ全部下原が準備したのか?」
下原「ええ。この日のために実家から取り寄せました。サーシャさんのは私の昔の古着ですけどね」
彼女は微笑を浮かべながらそう言った。
俺「なるほどなあ」
下原「それでは、俺さん。遠慮なく畳の上にお上りになって、お寛ぎ下さい。…大尉もどうぞこちらに」
茶室に似合わぬ服装なままの俺は、彼女に着替えなくてもいいのかどうかを聞く。
俺「俺はこのままの格好でいいのか? 見ての通り、仕事着のまんまなんだが…」
下原「そのままの格好で構いませんよ。特段…お茶会をやるわけではないので…」
下原少尉は朗らかな調子でそう返した。
その応えの後、俺は畳の上に上がり脚を畏まらせて坐った。
彼女もまた、固くなって俺の向かいに坐る。
下原「えっと、気を楽にしてくださいね…。御二方は客人ですし、特別なお茶の作法とかも無視しても大丈夫です」
俺は彼女にそう促されると、身体をほぐして胡座の体勢になる。彼女もまた体躯を緩めて女性らしい崩した座り方をした。
下原「今、お茶を出しますので…」
そう言って下原少尉は作法に習ってお茶を淹れ始める。扶桑人といえども、間近でみるのは生まれて
初めての事である。
その流れるような作法は茶道の師匠のように精錬されていた。俺は忽ちにして彼女の洒脱な動作に魅了されていく。
サーシャもまたその動きに射止められ、その一連の作業に眼を遣る。
サーシャ「何というか流れるような作業に驚きました。これ…長いことずっと続けてらしたのですか?」
下原「いいえ、ここ数年程やっていません。…昔とった杵柄といいますか、少々祖母から教わった程度です」
俺「数年もやってないのにこれだけ出来るっていうのは凄いよ」
下原は照れくさそうに笑うと、『出来ましたよ』と言った。
下原「お薄茶ですが…先に御二人から」
そう言って、下原少尉は俺の前に膝行すると、青磁色の茶碗をすすめた。その抹茶は鶯色をしていて、独特の甘い香りがした。
俺はすすめられたその茶を作法を気にせずにぐいと一口に飲む。口の中で爽やかな苦味が溶けて広がっていった。
俺「凄く美味しいね、口の中で溶けるような、まろやかな舌触りだよ」
俺は思わずそんな事を言った。
下原「あ、サーシャさんもこれどうぞ」
下原はそう言って、サーシャの前にも丁寧な作法で差し出した。
サーシャ「それでは、私も遠慮なく…」
彼女は少尉にすすめられるがまま口をつけた。
サーシャ「これ…、すごく上品な味わいがしますね。普段、私はあんまり抹茶を飲まないのですが、とても
飲みやすくて美味しいです」
下原「そう言っていただけるのは、とても嬉しいです」
彼女はポツリとそう言うと、いそいそと何やら準備をし始めた。
下原「ええっと、お茶を頂いた所で一つお願いがあるのですが…そのカメラを用意したので
二人のお姿を撮らせていただきませんか?」
俺「いいけど…急にどうしたんだ…?」
下原「ええっと、それはですね…」
少尉は口ごもって、妙にそわそわしている。何かあるというのだろうか…。
下原「それはですね…、大尉の可愛いお姿……いえ、お二人の姿を記念にと思いまして」
今ほんの少し彼女の本音が垣間見えた気がするが、それは俺の胸の裡だけに留めておこう…。
サーシャ「あの…そ、それは今ここで…ということですか?」
下原「大丈夫です、すぐ終わりますから。…ほんの数枚だけでもいいんです」
サーシャ「で、ですけど…」
サーシャが恥ずかしそうにしているのを見て、俺は優しく言葉をかける。
俺「そうだね、こんな機会はあんまりないんだし、一緒に撮らせてもらおうよ」
サーシャ「…俺さんがそう言うのなら。けど今回だけですからね」
彼女は少しむくれたようにして言った。彼女のそのむくれた仕草はとても可愛げがあった。
少尉はその応えを確認すると、何処からか三脚を取り出してカメラをセットした。
下原「それじゃ、撮りますよ。3、2、…」
カウントが始まり、俺は彼女の肩を抱きよせた。彼女は目を見開いて驚いていたが、直ぐに俺の服の胸元
を掴んで眼を細める。そうして、撮られた写真は二人にとって最初に撮られた記念の写真となった。
暫くすると、下原少尉は茶道具を持って部屋から立ち去ろうとする。
下原「それでは、二人でごゆるりと」
俺「少尉、どっかいっちゃうのか…」
下原「ええ、お二人の邪魔は出来ませんから…」
そう言って、彼女はひそかに何処かへ立ち去った。残された俺達は二人だけになり、寂寥感に包まれる。
カーテンが風を漉して形を変え、その合間から寂光が微かに漏れていた。
俺は殊更緊張してか、サーシャの方を見つめてしまう。サーシャもその視線に気づいて、胸元に手を置いて視線を逸らし、
恥ずかしそうにしている。
彼女の襟は崩れ、白い肌が覗く。袂は乱れて艶かしい赤脚が露になった。その扇情的な姿は俺に一種の
恍惚に似た感情を与えた。その人形のような肢体は不朽をも思わせる程に美しいのである。
サーシャ「…俺さん、一体何処を見てるんですか…」
彼女はそう言ってジト目で訴えてくる。
俺「あ、いや、その…ゴメン」
サーシャ「…まったくもう…俺さんは」
彼女は呆れたように言った。暫くして、彼女は思い出したかのように俺に言葉を振った。
サーシャ「そういえば、下原さんが抹茶プリン置いて行きましたね…。せっかくご用意してくれたようなので…食べますか?」
俺「そうだな。じゃあ、少しごちそうになりますか」
サーシャは抹茶プリンが置かれた皿を手に取ると、スプーンで一部分を掬いとると、俺にそれを差し出した。
サーシャ「それじゃ、はい…あーん」
俺「へ?」
俺は間の抜けた声を発した。
サーシャ「どうかしましたか?」
俺「ええっと…今日はサーシャの誕生日なんだから、なんだか逆な気がしてさ」
サーシャ「二人きりですし、あんまり細かいことは気にしちゃダメですよ」
俺「…まあいいか。そんじゃ、お言葉に甘えて」
そう言って、俺は彼女から差し出されたスプーンを、口に咥えた。そのデザートは甘美な味わいがした。
サーシャ「フフッ、おいしいですか?」
俺「うん、とても美味だ」
サーシャ「それでは、私も一口…」
そうして、二人きりの静謐な時間は流れていった。辺りは次第に暗くなっていき、静まり返っていく。
サーシャはいつの間にか俺にしなだれかかっていた。彼女の饒多で長い髪が俺の項に触れるたび、
さざなみ立つような甘い香りは確かな心地よさを与える。
俺はその最中、内ポケットから、古びたかんざしを取り出すと彼女に手渡した。
サーシャ「あの…これは」
俺「俺からの誕生日プレゼント。母から昔もらったものやつ。もっといいのを用意しようと思ったんだけど…他に思いつかな
くってね。正直…こんなプレゼントでごめん…」
サーシャ「こんな大切なもの…頂いてもいいんですか?」
俺「うん。母さんから『大切な人ができた時、その人にあげなさいよ』って言って渡されたものだからね」
サーシャ「俺さん…」
彼女はぽつりとそう静かに言った。彼女の唇弁は仄暗い闇の中で震えていた。
俺「誕生日おめでとう、サーシャ」
俺は彼女に対座して、改めてそう言った。
サーシャ「ありがとう。…この簪、いつかまた機会があるときに着けたいと思います」
俺「今からじゃダメかな。…だって目の前に着物を身につけた小さな女の子がいるんだしさ」
俺は冗談めかしたように言う。彼女は『まったくしょうがないですね』と言って嫣然とした笑みを浮かべた。
その日の夜は、広々とした闌干たる空が広がっていた。
そして、これは俺にとって記憶に残る一日となった。
しかし、それにも関わらず、既に予兆は始まっていた。風が地上を吹き抜け、部屋の窓を叩いたその瞬間から
次なる兆がちらつきはじめていたのである。
…いつかは永遠なる日々の
繰り返しが破綻し、それ限りになるのかもしれぬという不安。
あるいは、その繰り返しが旧き社会の構造を破壊し、新たな合理的社会構造へと変遷するやもしれぬという不安。
不安の予兆は今まさしくそこに歩み寄ってきていた。
俺たちを取り巻く激湍の時代。
…出発の日はもう近かった。
おわり
最終更新:2013年02月15日 13:08