黒江との
模擬戦を終えた俺は談話室に入るなり、窓辺に設置されたソファに身を投げた。
靴を脱ぎ捨て仰向けに寝転がる少年の表情は全身から発せられる苦痛によって歪んでいた。
とりわけ激しい痛みを生むのが両脚。衝撃波を用いた“縮地もどき”の使用は両の脚に大きな負荷がかかる。
戦闘脚を履く部位だけあって日頃から念入りに鍛え続けているものの、成長段階にある筋肉にとって瞬間的な高速移動は大きな負担でしかない。
武子に約束した手前、過度の修練が積めなくなった以上は今後“縮地もどき“の使用は控えるべきだろう。
それにしても、
俺「(揺れてた、な)」
先ほど繰り広げていた激戦の光景を思い出しながら、胸裏で独りごちる。
自身が握る木刀を弾き飛ばそうと何度も切り掛かる黒江。
さらしに包まれているであろう発育の良い彼女の乳房は制服の上からでも判るほどに、激しい挙動に合わせて揺れたわんでいた。
尤も打ち合いを続けている最中は視界のなかで感じ取っているだけであり、実際に凝視していたわけではない。
激戦による高揚が収まり、幾分か精神が落ち着いた今だからこそ、こうして思い返すことが出来るのである。
引き締まったウェストといい、首筋といい。最近の彼女はどうも艶っぽく映ってしまう。
――もう少し……このままが、いい……
脳裏に蘇った黒江の声音に思わずむせてしまった。
常に自信と明るさに満ちていた声が嘘のようにしおらしくなった少女の懇願は俺の情欲を掻き立てるには充分過ぎるほどの艶を秘めていた。
普段の快活な振る舞いを目にしてきただけに、その格差が余計に黒江を女として意識してしまう。
「……ちょっといいかしら?」
煩悩を振り払うかのように瞼を閉じた矢先のこと。頭上から降り注ぐ聞き慣れた声。
自覚している以上に疲労が溜まっているのか、いつになく重い瞼を開く。
視界を独占したのは力なく横たわる自分をソファの背もたれから身を乗り出して見下ろす圭子の容貌だった。
疲弊しているとはいえ寝転がったままの体勢では礼に欠くと判断し、上半身を起こす。
圭子「……疲れてる?」
空いた隣に腰掛けながら尋ねてくる圭子に無言で頷き返す。
癖のある髪から漂う甘い香りが鼻腔をくすぐり、俺は気まずげに視線を逸らした。
俺「さっきまで綾香と手合わせしていてさ」
圭子「そういうことね」
納得がいったような表情で頷く。
勝敗はともかく、激戦であったことが疲弊しきった俺の様子から容易に想像できた。
寒さが厳しい季節であるにも拘らず彼の額にうっすらと浮かび上がる汗がその証拠だ。
圭子「(タイミング悪かったかしら……)」
隣に座る俺に気付かれないよう脇に隠した小箱に視線を落とす。
武子に居場所を尋ねたとき、既に黒江が向かったと聞いた圭子は可能な限り彼女の邪魔をしないよう渡す機会を見計らうことにした。
渡すときは二人きりのときに渡したいし、それは黒江もきっと同じはず。
その後独りで談話室へと入っていく彼の背中を捉え、慌てて後を追いかけたまでは良かったが、こうまで疲れ切った様子を見せ付けられると渡そうとしていた決心が鈍ってしまう。
本音を言えばせっかく丹精込めて作ったのだから出来ることなら、食べて欲しい。
けれども疲れたときに押し付けてしまうのも気が引ける。自然と影が差し込む圭子の面差し。
俺「……どうした?」
圭子「えっ!? あ、いや……その……」
普段ならばここで笑みの一つを浮かべて首を振りながら誤魔化すのだろうが、今回は状況が違う。
早く渡さなければチョコレートが溶けてしまうというのに肝心の一歩を踏み出せずにいる自分を恨めしく思う。
どうしてこの子の前だとこうもぎこちなくなってしまうのだろう。
戦場に出ているときのように瞬時に判断を下すことが出来れば、こんなに迷うことなどないに。
そういう意味において、目の前の少年は怪異以上に手強い存在といえた。
圭子「その、ね? 疲れたときに渡すのもなんだけど、作ってみたの。受け取ってくれるかしら?」
俺「圭子もくれるのか?」
返された言葉が胸に突き刺さる。
既に武子、黒江の二人から受け取っているのは圭子とて分かってはいた。
分かってはいたが今更ながら三番手という貧乏くじを引いてしまったことに後悔の念を抱いてしまう。
本当は一番に自分のチョコレートを食べて欲しかった。他の誰よりも先に彼の美味しいという言葉を聞きたかった。
こんなことになるなら、もっと早くに手渡せばよかったと零しつつ脇に隠しておいた箱を差し出す。
急ごしらえだったため箱も包装紙も古びたものだが、それでも中身だけは自信を持って手渡せる代物だと自負している。
だって、一生懸命想いを込めて作ったのだから。
圭子「貴方さえよければ」
俺「ありがとう。身体動かしてお腹空いてたところなんだよ」
圭子「ふふっ。なら残さず食べてちょうだいね?」
笑みを伴って返された言葉に圭子は口元を綻ばせた。
受け取った箱を眺め、丁寧に包装紙を剥がしていく俺の姿に。
あたかも小さな子どものような表情を浮かべる彼を前に、改めて彼が年下の少年であることを実感する。
よほど空腹だったのか夢中でチョコレートに齧りつく姿がいつになく可愛らしい。
圭子「(可愛いは禁句だったわね)」
俺「……んぐ? どうした?」
圭子「なんでもないわ。どう? 美味しい?」
俺「うん。甘くて美味しいぞ」
圭子「そう……ふふっ。よかったわ。そう言ってもらえると作った甲斐があるわね」
チョコレートを咥えながらこくこくと頷く年下の少年の姿に笑みを零す。
やはり心を込めて作った料理が喜ばれるのは嬉しい。
自分が食べているわけではないというのに、こうも満ち足りた気分にさせてくれるのだから。
また来年も作ろう。来年こそは自分のチョコレートを真っ先に食べてもらおう。そして絶対に、誰よりも先に彼の美味しいという言葉を聞いてみせる。
柔らかな感情を胸のなかで膨らませているとチョコレートで汚れた俺の口周りが目に入った。少し視線を落とせば同じように汚れた指も。
圭子「やっぱり……少し溶けていたみたいね。口周りがチョコで汚れてるわ」
俺「えっ。あ、本当だ」
圭子「拭いてあげるからじっとしてなさい」
そう言って身を寄せながらポケットの中身に手を入れるもハンカチやちり紙といったものは見当たらない。
俺「えっ!? いいよ! これくらい自分でできるよ!」
圭子「だーめ」
慌てふためく少年の口周りに指を伸ばす。その白魚のような指を。
俺「け、圭子っ!?」
圭子「ほらほら。動いちゃ駄目よ?」
顔を赤く染め、目を白黒させる俺の反応を楽しみながら丁寧に彼の口周りを拭っていく。
指を動かすたびに身体を強張らせる光景に思わず口元を緩めてしまった。
彼に寄りかかり、甘えてみるのも良いが。こうしてたまには年上らしく振舞って翻弄するのも悪くない。
どれ、ここは試しにもう一押ししてみるかと意地の悪い笑みを口元に浮かべるなりチョコを拭い取った指を咥え込む。
そしてそのまま目を丸くする彼に見せつけるかのように付着したチョコを舐めしゃぶり始めた。
口内で混ざり合う唾液の音が唇の隙間から漏れ出し、二人だけの談話室に木霊する。
直後、一気に顔を赤らめる俺。年相応の反応に気を良くしたのか指を咥えたまま浮かべる笑みを深める圭子。
予想以上の効果を秘めていたようだが、少し卑猥すぎたか。変に勘違いされない内に切り上げるとしよう。
俺「な、ななななな!! なにやってんだよぉ!?」
圭子「んちゅ……ぷぁ。せっかく作ったんだし舐めないと勿体ないでしょう? うん。甘くて美味しいわね」
俺「だけど――はぁぁ」
後に続く言葉は深い溜息に変わった。澄んだ黒瞳に浮かぶのは諦観の光だった。
圭子「ふふふっ。ごめんなさいね」
鈴を転がしたような笑い声。
からかわれているにも拘わらず何故だか俺は、不快感といったものを抱くことはなかった。それどころかこの一時を。
彼女と過ごすこの瞬間を愛おしく感じていた。
俺「もういい……今度からはちゃんと自分で出来る。というか……もうやめてくれ。心臓に悪いよ」
少年はこれ以上の言及を止めた。どれだけ反論してもきっと上手く丸め込まれると察したから。
口周りに残るむず痒さを振り払おうと乱暴にチョコを齧る。
満面の笑みを浮かべる圭子の視線を浴びながら味わうそれは、胃がもたれるほどに甘く感じられた。
頬を紅潮させる圭子はそっと視線を逸らす。澄んだ眼差しの先には自身の肩に寄りかかり、静かに寝息を立てる少年の姿が。
鍛え上げられたその身体は静かに上下し、口元から零れ落ちる寝息が首筋をくすぐり続け、その都度圭子は滓かに身を捩じらせる。
圭子「疲れちゃったのかしら……」
思えば談話室で会ったときも彼はソファに横になっていた。黒江との手合わせが相当堪えたのだろう。
そのようなときに声をかけてしまったことへの罪悪感が静かに沸き起こる。
何か自分にしてあげられることはないかと、可愛らしく首を傾げる圭子。名案が思い浮かんだのか、僅かに身体を強張らせて周囲に目を向ける。
広々とした談話室。自分と寝入る彼以外の人間は誰もいない。
圭子「誰もいないわね……よしっ」
寝息を立てる俺の両肩に手を添え、起こさないようゆっくりと横たわらせる。
自分の膝を枕代わりにして。
圭子「かわいい……」
顕となった少年の無防備な寝顔。
その身に強大な固有魔法を有している者とは思えないほどの安らかな表情。
自然と圭子の口元に笑みが漂いはじめる。
圭子「えいえい」
人差し指をぴんと立てて寝入る少年の頬を突っつく。
指の腹に伝わる、ぷにぷにとした触感。
唇に漂わせた笑みが深まっていくのを感じながら圭子は残りの四指を立てるなり、引き締まった頬にあてがった。
先ほどまで外に出ていただけあって幾分か冷える少年の頬を温めるように、包み込むように撫でていく。
何故だろう。こうして寝息を立てる彼に膝を貸し、頬を撫でているだけで胸のなかが満ち足りてしまうのは。
年上らしい振る舞いが出来ることによる優越感?
それとも…………
俺「ん……?」
頬の刺激を受け、身体を強張らせた俺が徐に瞼を開ける。
澄んだ黒い瞳には弱々しい光が漂っていた。
少年の寝惚け眼に圭子は笑い声を零しながら片方の手で彼の黒髪を撫で付ける。
圭子「ごめんなさい。起こした?」
俺「なんで……おれ、膝枕されて……」
圭子「覚えてないの? 寝ちゃったのよ?」
言われて俺は記憶を探る。
受け取ったチョコレートを食べて、口元を拭われ、食べ終えたところまでは覚えているがそれ以降の記憶が無い。
どうやら彼女が言うように寝入ってしまったようだ。
俺「……そりゃ悪いことをしたな。いま、起きるよ……」
圭子「駄目よ。疲れているなら休みなさい」
重たげに身体を起こす俺の胸元に手を添え、寝かしつける。
彼に休んで欲しいという気持ちと、彼と過ごす穏やかな一時を少しでも長く享受したいという想いを胸裏に宿しながら。
俺「いいよ……圭子だって、疲れるだろ?」
圭子「私は……いい、わよ? 貴方なら……」
頬を覆う熱を感じながら、か細い声で返す。少し大胆過ぎたかと思いながら。
俺「…………じゃあ、頼む」
圭子「……はぁ」
勇気を出して付け加えた肝心の部分は睡魔によって受け流されてしまったようだ。
悔しさに歯噛みしつつ片手を俺の頬に、もう片方の手を彼の胸元に添えるなり一定のテンポで優しく叩く。
あたかも寝付けない弟を寝かしつける姉のような姿。
事実、彼女の口元に漂う微笑は母性に満ち溢れていた。
圭子「どう? 気持ち、いいかしら?」
俺「…………うん」
圭子「このまま耳掃除でもしちゃう?」
俺「あー……うん。いや、だめだ」
それまで眠りの世界に沈みつつあった俺が思い出したように首を横に振る。
圭子「あら、どうして?」
俺「圭子のは……気持ちよすぎるから駄目だ」
圭子「そう。それは残念」
くすくすと鈴を転がしたような笑い声が談話室に響く。
俺「別に良いだろ。こうして落ち着いているんだし…………ほら」
圭子「あ……」
手が頬に伸ばされる。途端に、圭子の口から小さな声が零れ落ちた。
頬を覆う少年の手のひらの感触。
大きくて、堅くて。触れていて安らぎを与えてくれる、その感触に圭子の口元に漂う笑みが深くなっていく。
圭子「えぇ。本当に落ち着くわね」
茜色に染まり始めた陽光が彼女の笑顔を照らし出す。
一日の終わりが、近い。
―――
――
―
夜の静寂に佇む俺の自室。窓際に設置されたベッドに腰を下ろし、穴拭智子は両手に持つ箱を見下ろしていた。
青白い月明かりに照らされる箱。
彼の好みに合わせた緑色の包装紙に包んだそれを見下ろす少女の唇から、深い溜息が零れ落ちる。
チョコレートを渡そうと彼の姿を探し回っている内に武子たちは渡し終え、智子が渡す番は最後となった。
トリや真打ちと聞こえは良いかもしれないが、全員とも同じ材料でチョコレートを作っている。
つまり彼は今日、形こそ違えど既に同じ味のチョコレートを三回も口にしているのだ。
果たして四度目も喜んでもらえるかというと、自信がない。
それどころか、
智子「(最近、俺との距離が遠い気がする……)」
胸の裡でぽつりと呟くなり箱を胸元に抱き寄せてベッドの上に横たわる。
去年の温泉旅行と誕生日で少しでも距離を縮めることが出来たかと思ったが、結局はまた旅行前の関係に戻りつつある。
積極的に攻めていく武子たちとは違い、状況に流され易い自分はどうしても後手に回ってしまう。
そんな流れを変えようとチョコレート作りを提案したまでは良かったが、やはり彼女らに先を越されてしまった。
部隊のなかで誰よりも彼を恋い慕っているのは他ならぬ自分だというのに……
悔しさと切なさに胸が張り裂けそうになるのを堪えようと、シーツのなかで身体を丸める。
月明かりに照らされた純白の布の上に広がる智子の黒髪が幾何学的な模様を描いた。
智子「あの人の匂い……良い匂い」
シーツから漂う汗の香りに思わず口元を綻ばす。まるで彼に抱きしめられているかのような錯覚が智子の全身を包み込んだ。
陸軍に入隊する前は、それこそ毎日のように抱きついていた日々がいつになく懐かしく感じる。
いっそ今日はここで寝てしまおうか。そうすれば彼もあの時のように自分を抱きしめてくれるはず。
智子「こうすれば……私のも匂いもつくかしら?」
子供のころ、抱きついたときは決まって彼の胸板にしていたように、顔をシーツに擦りつける。
すりすり、すりすり。
また昔のように自分だけを見て欲しいという想いと、妹ではなく一人の女として見て欲しいという願望が混ざり合う。
その二つが矛盾していることは智子自身も理解していた。
昔のように自分を見て欲しいということは異性ではなく家族として意識されることであり、一人の女として見つめて欲しいということは特別視されなくなるということ。
コン平『お嬢様?』
智子「コン平?」
不意に声が響く。それは周囲から発せられたものではなく、彼女の頭に直接語りかけるものだった。
智子の使い魔こと狐のコン平の声である。
使い魔のなかでも人間の言葉を解する稀少な存在である彼の言葉には不安が混ざりこんでいた。
コン平『お嬢様。どうされましたか……? また、若様のことですか?』
智子「……えぇ、そうよ」
若様――という言葉に頬を赤らめながら頷いた。コン平は決まって彼のことを若様と呼んでいる。
最初は坊ちゃんと呼んでいたのだが本人の強い要望と油揚げ三枚で今の呼称に落ち着いたらしい。
それにしても油揚げ三枚とは随分と安いものだが食べ物で買収されたことに智子は驚きを隠すことができなかった。
使い魔のなかでも人語を解す稀少な類に属するこの狐にもそのような俗物めいた欲があったとは。
智子「コン平。わたし……どうすればいいの? このままだとあの人が取られてしまうわ……」
コン平『お嬢様……』
智子「私は……あの人が、俺のことが好き。けど、あの人は私のこと……」
――妹としか見ていない。
今日に至るまで使い魔として智子に付き添ってきただけあり、彼女が胸に秘める感情が単なる親しみでも憧れでもないことはコン平も理解している。
それ故に彼女が紡ぐ言葉の続きも想像に難くなかった。
コン平『今日はいっそ若様と添い寝してみてはどうでしょうか? お嬢様も先ほどお考えになったのでは?』
智子「そ、そうだけど……」
コン平『加藤少尉、黒江少尉、加東少尉。そして江藤中佐が積極的に動かれている以上はお嬢様も攻めるしかありません』
智子「そうね……って、ちょっと待ちなさい! どうして戦隊長の名前まで入っているのよ!?」
コン平『お忘れですか? 江藤中佐は去年のお嬢様の誕生日に若様を布団に引きずり込んだんですよ?』
告げられた言葉に目を剥く。
脳裏に蘇るのは同じ布団に包まり、江藤の豊満な双丘に顔を摺り寄せ安堵に満ちた寝顔を浮かべる俺の姿。
そして、そんな彼を愛おしそうに抱き寄せる部隊長を務める女の満足げな笑顔。
客室の扉を開けた先に広がる光景を捉えたときは自分や武子はもちろんのこと、黒江や圭子まで開いた口が塞がらなかったことは今でも覚えている。
やや鋭い空気に包まれた帰りの列車のなかで俺に話を聞くと偶然にも自分と同じ誕生日の晩に彼は江藤にもプレゼントを贈り、その後無理やり布団に引きずり込まれたらしい。
魔法力まで使われてしまい抵抗することも叶わず、そのまま睡魔に負けて寝入ったそうだ。
智子「だ、だけど! 戦隊長まで俺のことを好きだなんて確証はどこにも!!」
――あるわけがない。
そう力強く否定したくとも、後に続く言葉は再び何処かへと消えてしまっていた。
彼を抱きしめていたときに見せたあの笑顔を考えると江藤が俺のことを弟以上の存在として見つめているのは誰が見ても明らかだった。
智子「……だったら、どうすればいいの?」
身体つきも現状では部隊のなかでは最も不利。押しも弱く、唯一つ誇れるものも彼に向ける愛情だけ。
こんな状態でどう彼の心を射止めろというのか。
コン平『だからこそこの機会を逃してはなりません。それに、お嬢様には若様のために作った愛情たっぷりのチョコレートがあります』
智子「だけど……」
コン平『女性からのチョコレートを受け取って喜ばない殿御などおりません。大丈夫。私も傍にいます』
智子「うん……うん。ありがとう、コン平」
幾分か胸中が軽くなったことを感じつつ、不意に開いた扉に視線を移す。
脇に見慣れぬ本を抱えた部屋の主の姿を捉えた途端に息を呑む智子。
俺「智子? 俺に何か用か?」
照明を点け、脇に抱えた本をテーブルの上に置く俺におずおずと頷く。
それにしても分厚い本だ。辞典だろうか。
僅かに姿を覗かせた表紙は幾重もの薔薇に似た赤い花が十字に絡み付いている意匠だった。
表紙に付着した埃を手で払う俺を前に智子は唾を飲み込んだ。
そのオニキスを思わせる黒い瞳に浮かぶのは硬質の光。強い意志の輝き。
口元を強張らせ、少女は覚悟を決めた。
智子「…………」
身を起こし、ベッドから立ち上がって俺の元へと歩み寄る智子。
一歩、また一歩。
歩を進めるに連れて速まる心臓の鼓動を耳にしながら想い人を見つめる少女の頬がゆるやかに紅潮していく。
智子「ね、ねぇ!」
俺「ん? どうした?」
差し出そうとした箱を戻して胸元に抱き寄せる。
丹精込めて作り上げたチョコレート。
笑って欲しくて、喜んで欲しくて作ったチョコレートが入った箱を、智子は包み込むように抱きしめる。
自分の想いを注ぎ込むかのように。
智子「……はいっ。これ!」
そして再び、差し出す。
胸に秘める想い全て注ぎ終えたそれを。形に変えた彼への恋慕を。
俺「良いのか?」
智子「良いもなにも。貴方のために作ったんだから!」
俺「そういうことなら、いただくよ。本当にありがとうな!!」
ベッドに腰かけるなり包装紙を剥がし、蓋を開け、中身を取り出して一口。
舌の上に広がる甘い風味に少年の口元が自然と綻んでいった。
本日四度目のチョコレートであるにも拘わらず、微塵も飽きを感じないのは何故だろう。
自分が気付いていないだけで実は甘いものが好きなのか。それとも彼女たちが手間暇かけて作ってくれたからなのか。
きっと後者なのだろう。ただ甘いのではなく、胸の内側をこうも柔らかく温めてくれるのだから。
そう結論付けて俺は咀嚼を続ける。歯によって砕かれ、唾液によって溶かされたチョコレートが薄まり消えるまで。
智子「ど、どう……?」
何度も顎を、舌を動かす少年の横顔を食い入るように見つめる智子。
味のほうは綻ぶ彼の口元を見るに何も問題は無いようだが、やはり本人の口から感想を聞きたい。
ごくんと音を立てる彼の喉の動きに少女は思わず生唾を飲み込んでしまう。
気がつくと左右の手の平には彼女の緊張を表すかのように脂汗が浮かび上がっていた。
俺「うん……美味い!!」
智子「ほ、ほんとうに? うそじゃないわよね?」
唸るような一言に白い柔肌に象嵌された優美な黒真珠を輝かせながら、隣に腰掛ける俺へと詰め寄った。
俺「嘘なんか言うもんか。本当に美味しいよ。ありがとう、智子」
智子「よかったぁ……」
少年が浮かべる笑みに智子はそっと胸を撫で下ろした。
美味しい。
たった一言。けれど、その一言によってそれまで胸裏に巣食っていた不安が吹き飛されていく感覚に浸りながら瞼を閉じる。
喜びのあまり白い頬をほんのりと桜色に染めながら。
湧き上がる喜びを隠そうともせず唇を吊り上げながら。
次いで全身の力が緊張とともに抜け落ちていき、その心地よい脱力感に身を預けるかのように、隣に腰掛ける少年の躯にしなだれかかる。
智子「ね、ねぇ」
俺「……甘えたくなった?」
小さく頷いてみせた途端、肩に手が回される。
自分や友人たちのそれとは異なる、大きくて硬い手のひらの感触。
温かく、しっかりとした感触に自然と閉じていく智子の瞼。
まだ幼かった自分が彼に身を摺り寄せて甘えると、決まってこうして抱き寄せてくれたことを思い出しながら。
智子は愛しい人に身を預ける。
俺「最近はごめんよ。あんまり構ってやれなくて」
智子「……最近は忙しかったから」
俺「訓練、訓練。そんで実戦。いつになったら落ち着けるんだか……」
智子「ねぇ? 武子から……聞いたんだけど」
俺「あぁ。修練のことか?」
智子「無理、してない?」
俺「…………してないよ」
返された言葉はどこかぎこちないものだった。
見上げれば気まずげに目線を逸らす俺の姿が視界を埋める。
せめて自分にだけは心配をかけまいと目を伏せる彼の表情を捉え、智子は自身の胸裏が痛みを発していくのを感じた。
――嘘ばっかり。私が知らないとでも思ったの? 何年連れ添ってると思ってるのよ。
智子「本当に……相変わらず隠し事が下手なんだから」
切なげに、悲しげに零れ落ちた言葉は窓の外を疾駆する風によって掻き消され、愛する男の耳に届くことはなかった。
―――
――
―
それは同僚たちからチョコレートを貰った翌日の朝のこと。
朝食を終えて食堂を出ようとした矢先、俺は部隊長である江藤敏子に呼び出された。
何の用かと尋ねても後で話すの一言で切り捨てるなり彼女は一足先に食堂を後にした。
それにしても一体何用か。首を捻りつつ、自分を呼び出した女性の執務室へと足を運ぶ俺。
わざわざ執務室を選んだ以上はよほど重要な話に違いない。
もしかしたら自分の固有魔法を使った大規模作戦が行われるのではないか。
益体もないことを考えている内に執務室の前に到着した俺は雑念を捨てて手を上げる。
扉をノックすれば間髪入れず部屋の主が澄んだ声音で入室を促してきた。
俺「失礼します」
執務室に入るなり敬礼の姿勢を取る。
すぐさま部屋の奥で執務用の椅子に座る女が静かに伸ばした手を振った。
江藤「楽になさい。口調も今ならいつもの通りでいいから」
俺「それじゃ遠慮なく。わざわざ呼び出した理由はなんだよ?」
江藤「ん」
投げかけた疑問に対する返事は手招きだった。
余りにも唐突な行為に思わず首を傾げてしまう俺の態度に痺れを切らしたのか、江藤はわざとらしく咳払いし、
江藤「いいから! こっち来なさい」
俺「な、なんだよ……」
やけに険しい顔つきで力強く手招きする彼女の姿に気圧されながら歩み寄る。
何か取り返しのつかない失態を知らぬ間にしてしまったのだろうか。
脳裏に過ぎる不安に苛まれ、緊迫した表情を浮かべる少年に突きつけられたのは色鮮やかな緑の包装紙で包まれた長方形状の物体だった。
俺「……これ、は?」
江藤「一日遅れたけど……チョコレート。もう他の子から沢山貰ってるみたいだから、嫌なら食べなくていいわよ。いらなかったら、後で食べるから」
気恥ずかしげに顔を逸らし、やや乱暴に自身の胸元にチョコレートが入った箱を突き出す彼女の姿に唖然としつつも徐々に思考が働き始める。
最近は女性が男性にチョコレートを渡すことが流行っているのだろうか。
思わず首を傾げるが、その疑問はすぐさま喜びによって掻き消された。
俺「本当に、貰っても……いいのか?」
江藤「普段頑張ってるから、そのご褒美よ」
ほら、と続けて突き出される箱を恐る恐る受け取る。
同じ部隊の少女たちだけでなく、まさか姉代わりである彼女からもチョコレートを貰えるとは。
自分が思っている以上に仲間たちから大切に思われている現実に幸福を覚えながら少年は頬を綻ばせた。
単に異性から菓子を贈られることも嬉しいのだが、その相手が慣れ親しんだ彼女らなら尚のことだ。
ここは素直に好意に甘え、甘い幸福で口内と胃袋を満たすとしよう。
俺「嬉しいなぁ……ありがとう、敏姉!! 俺、これからも頑張るよ!」
江藤「……ばか。あんたの場合は頑張り過ぎなのよ」
直後、ぴしっと額に鈍い痛みが走る。
俺「な、なんだよ……説教かよ」
空いた片手で痛みを発する部位を抑えながら、俺は江藤によって額を指で弾かれたことを認識した。
腕の動きすら捉えることが出来なかった自分の未熟さも実感しながら。
江藤「説教よ。上官として、部隊長として」
――あんたの姉代わりとして、ね。
そう最後に付け加えた江藤はデスクに頬杖を突いて目を細めて、少年を見据えた。
江藤「少しは身体を休めることも覚えなさい」
告げられた言葉が何を意味しているのかを分からない俺ではない。
むしろ昨日一日で嫌というほど周囲に心配をかけさせてしまったことを実感している。
俺「分かってる。色々と……心配させちゃったんだよな」
江藤「あんたが皆のこと大切に思っているように私や皆もあんたのこと大事に思ってるんだから。そのことだけは肝に銘じておきなさい」
隊長である自分の言葉なら尚更自粛するだろう。
無鉄砲なところこそあるが、聞き分けの良さはこの少年の長所といえよう。
江藤「あんたがそこまで無理する必要なんて何処にもないでしょう。それとも、一人で何でも出来るなんて思ってんじゃないでしょうね?」
俺「そうじゃない。ただ俺は……女の子戦いに送り出すのが嫌なんだ」
自分でも可笑しなことを言っているのは俺とて自覚している。
怪異に決定打を浴びせられるのは魔法力が殆どだ。そしてその魔法力を有している存在は女のみ。
自分のような“例外“もいるが、その数は圧倒的に彼女らよりも少ない。
故に、最前線に立つのは必然的に目の前にて座る彼女や自身の妹分のようなうら若い乙女が大半を占めている。
その現実を俺はどうしても許せなかった。
華奢で可憐な彼女らが何故戦う必要がある。自分の好きな男を見つけて家庭を築くなり、社会に出て競うことも出来るというのに。
何故よりにもよって戦場の、それも最前線に出る必要があるのか。
俺「俺は男だ。だから、女の子が戦う後姿を指咥えて見るつもりも無い。ましてや後ろから黄色い歓声送るつもりもない」
暗夜よりも深い黒瞳が弾き飛ばしたのは鋭く強い輝きだった。
厳然たる決意の光輝だった。
彼女らが鉄火場に出ずとも良いよう自分が強くなって、危険な役目を引き受ける。
そう物語る双眸を前に江藤は小さく溜息を吐いた。
俺「誰よりも強くなって、誰よりも多く敵を壊す。俺には、その力がある。俺の衝撃波はそのためのものだ」
江藤「それを万能感に酔いしれているって言っているのよ。この馬鹿たれ」
分からず屋の弟分の額を再度、細指で弾く。
どうやら今回ばかりは彼の長所も影を潜めているようだ。
俺「ってて……わかってる。俺独りの力なんてたかが知れているよ」
だからこそと一度言葉を区切り、
俺「守れるようになりたいんだ。せめて、手の届く所にいる大切な人たちくらいは」
真剣な面持ちで自身の心情を吐露した。
かつて、これほどまでに心地よいと感じた居場所はなかった。
尊敬でき、競い合える仲間がいる。
信頼できる姉代わりの女性もいる。
だからこそ、この居場所を守れるほどの力が欲しいのだ。
彼女らを脅かす存在を跡形残らず消却できるほどの力が欲しいのだ。
俺「俺はみんなのことが好きだ。智子も武子も、綾香も圭子も。皆が好きだ」
いつか互いに別々の道を歩むことになったとしても。
せめて同じ時間を過ごせる間くらいは彼女らの力となりたい。
俺「そのなかには当然、敏姉だって入ってる。敏姉のこと、大好きだから」
江藤「な……何を、言って」
凛々しい面持ちのまま告げられた言葉に江藤の心臓が大きく脈を打った。
江藤「馬鹿なこと、言うのは……やめなさい」
心臓の激しい脈動の音を耳にしながら江藤は隊長として、姉としての威厳を守ろうと。
胸裏に爆ぜた動揺を悟られないよう、紅潮した頬に気づかれないよう平静を装いつつ顔を逸らす。
その姿に自身の想いが生半可なものと思われていると感じたのか彼女の肩に手を伸ばした。
以外にも柔らかく、丸みを帯びた感触に心奪われそうになるもすぐさま全身を強張らせながら目を丸くする姉に俺は口を開く。
俺「馬鹿なことじゃない! 俺は本当に敏姉のこと大す――」
江藤「わかったから! もうわかったから! ほら、早くそれ持って戻りなさい!!」
身を乗り出してまで自身の覚悟を告げようとする少年の胸板に両の手の平を添えて押し返し、
俺「まだ話は終わっ――」
江藤「うるっさい! これから仕事するから出て行きなさい! 出ていけ!」
尚も食い下がろうとする俺に向かって足元に転がっていたクッションを投げつけ、強制的に執務室から追い出した。
江藤「私のこと、大好きって……」
背もたれに身を預け、弟分から告げられた言葉を独りごちる。
もちろん少年が自分を女としてではなく、仲間として姉代わりとしての好意を向けていることは江藤とて分かっている。
それでも。
あの迷いの無い眼差しと肩を掴むほどの強引さ。
嫌でも彼を弟ではなく男として意識してしまう。
寝顔や自身の胸元に顔を摺り寄せて甘えてくる極稀に見せる年相応の少年らしい可愛さとは正反対なほどの凛々しさと男らしさ。
その格差が更に江藤の意識を俺という少年に向けてしまう。
江藤「情が移っちゃう……本気になっちゃうじゃないの。ばか……」
自分はこんなにも心乱されているというのに。
きっと告げた本人は何とも思っていないのだろう。
江藤「……あぁ、もう! これからあいつのこと、どんな目で見たらいいのよぉ……」
おしまい
ウィンターソルジャー見てたら遅くなりました
確立されし運命立てても圧し折っているから何の問題も無いんだそうだ
白き約束の日短編は何一つ満ちて存在し得ぬです(…未だに…未練があるというのか……)
最終更新:2015年02月16日 20:45