――15.02.1940 帝政カールスラント
俺「……寒い……」
身体を突き刺すあまりの寒さに、俺は目を覚ました。
枕元の時計を手繰り寄せて目の前に持ってくる。針は午前一時を回った所だ。
カールスラント空軍第52戦闘航空団の隊員宿舎、その管理人室が俺に与えられた個室だった。
他のウィッチは二人で一部屋を使っているのだが、女性が大多数を占めるこの部隊の中において
男女を同室にするわけにはいかず、だからと言って俺一人に大部屋を使わせるわけにもいかず、
この部屋があてがわれたのだ。俺が『管理人』などとあだ名される所以の一つである。
俺「うう、毛布……あれ。何処だ……?」
容赦なく身を蝕む冷気に震えながら、身体を包んでいたはずの毛布を手探りで探す。……ない。
俺はそんなに寝相が悪かっただろうか……と薄いまどろみの中で手を動かしていると、
むにゅりと柔らかいものに五指が触れた。この触感は少なくとも俺の部屋に置いてある物ではない。
しばらく指を動かしていると、息が荒々しく吐き出される音に混じって喘ぐような声が聞こえ……声?
振り返ると、毛布の塊が何やらぷるぷると震えていた。ええと、探し物を発見したはいいが、これは……
「……何処触ってるんだ。ええ?」
毛布の中から部屋の寒さなど足元にも及ばないほど低く冷たい声が響き、ヴェニーシャンブロンドのアホ毛が覗く。
次の瞬間、寝惚けた頭に掛かったモヤが一気に吹き飛び、一拍置いて俺の身体も吹っ飛んだ。
「この、バカ……!」
俺「……わ、悪かったよ……。でもティナ、わざとじゃないんだ。蹴り飛ばすことないだろ……?」
床の冷たさと身体を打ち付けた痛みに涙目になりながらよろよろと起き上がると、
羞恥で顔を真っ赤に染め上げたティナ……ハンナ・ユスティーナ・マルセイユが、毛布を纏ってベッドの上に座っていた。
マルセイユ「うるさいっ!」
目尻に涙をうっすらと溜めて、俺の恋人は咆哮した。
間髪入れずに二の句を浴びせ掛けようとする彼女を、その唇の前で人差し指を立てて止める。
俺「静かに。あんまり大声出すと人が来るぜ?」
ここだけ切り取ったらまるで悪役だな……と苦笑しながら、俺は彼女の隣に腰を下ろす。
毛布にくるまったままのティナは顔を逸らしこそすれ、距離を置こうとはしない。
……もしかして満更でもなかったのだろうか。いやいや、まさかな。
マルセイユ「~~~っ」
俺「悪かったって……機嫌直してくれよ」
ティナは肩越しにこちらを窺い、俺は彼女の顔を見ようと覗き込む。
視線が交差した途端、ティナはもともと赤かった頬をますます紅潮させて、ぷいっと向こうを向いてしまった。
普段の快活さは何処へやら、何とも愛くるしい姿だ。そんな彼女の肩を、思い切って抱き寄せてみた。
マルセイユ「なっ、ななななっ、何するんだ!」
俺「誰かさんが俺の毛布持ってっちゃったから、寒くて仕方なくてな」
マルセイユ「……バカ」
許してくれたのか、諦めたのか……。
ティナは俺に体重を預けると、まるで猫のように、寝間着越しの俺の胸板に頭をすり寄せた。
その感触を味わいながら、彼女の肩の毛布を広げて俺たち二人を包むように掛け直すと、
今にもゴロゴロと喉を鳴らしそうな少女の頭をそっと撫でた。
……俺たちはいつまでこうして居られるんだろうか。
戦況はカレンダーに比例して厳しさを増し、出撃の頻度は日に日に上がっていく一方だ。
春には大撤退作戦が計画されているという噂もある。
これから何がどうなるのか……正直な所、想像なんてとても付きやしなかった。
そんな先行き不透明な情勢の中で、俺は文字通り身を粉にして、死に物狂いで戦闘技術を鍛え始めた。
上官に頼み込んで個人的に指導を受けたり、射撃訓練場に足を運んで自主訓練に明け暮れたり……。
今は付け焼き刃でも、いつか必ず、彼女を守る力になる。
そう信じて。それが裏切られる未来なんて、一片も想像せず。
今の俺に出来ることなんて、それくらいしかないんだと思っていた。
道を誤ることも、何が間違いなのかも知らず、ただ、そう信じていた。
ところで、男女七歳にして席を同じくせずという言葉があるように、部隊においてもこの手のお泊まりは御法度である。
それがなぜ同じベッドで寝ていたのかと言うと……事の起こりは前日に遡る。
* * *
――14.02.1940
マルセイユ「なぁ俺、今日の夜は暇か?」
朝食の席にて、ティナは上機嫌な様子で尋ねて来た。
同様の質問を投げ掛けるタイミングを計っていた俺としては、出鼻を挫かれた形だ。
俺「夜……うん、まあ、暇っていうか隊舎内待機だけど」
マルセイユ「よし、それじゃ部屋に居ろ。遊びに行くから」
俺「待機だっつったろ。バルクホルン中尉に見つかったら何言われるか……」
あのクリスマスイヴの出来事から一ヶ月と半月ほど。
いわゆる彼氏彼女の関係になった俺とティナだが、互いにそれほど変化があったわけではなかった。
周囲からの視線の方が変わったくらいだ。主に女性陣が生温かい方向に、男性陣が凍てつく方向に。
バルクホルン「もう見つかっているぞ。待機中に遊ぶなど言語道断だ。大体お前たちは軍紀についてだな……」
何が悲しくて朝からお説教を食らわねばならないのだろうか。
ティナは反省の色一つ見せず、早くどっか行けというオーラを全身から発しながら中尉を睨み付けていた。
バルクホルン「……マルセイユ、言いたいことがあれば挙手の後に発言しろ。睨んだだけでは何も伝わらんぞ」
マルセイユ「ふん……言った所であんたが聞き入れるとは思えないな」
バルクホルン「理に適っているなら聞くさ。お前に出来るとも思えんがな」
マルセイユ「じゃあ言わせてもらう。相変わらず言うことだけは堅いな、妹狂いめ」
バルクホルン「何だと、この!」
マルセイユ「何だよ、この!」
俺「やれやれ、またか……」
深々と嘆息する俺の肩を、誰かがトントンと叩いた。
すぐ後ろで朝食を取っていたグンドュラ・ラル中尉だ。
ラル「おはよう、管理人。相変わらず苦労が絶えないな」
ラル中尉は、いがみ合う二人を指して意地悪な笑みを浮かべている。
当事者としては冗談ではない。
俺「他人事だと思って……。見てたなら止めて下さいよ」
ラル「お前の女なんだ、お前が何とかすればいい。私は野暮なことはしないよ」
俺「ううう……」
レクリエーションも程々にな、と言い残してラル中尉は爽やかに去って行った。
後には今にも掴み合いになりそうな二人と、途方に暮れた俺が残された。
……俺少尉、これより介入行動に移る。殴り飛ばされませんように。
* * *
俺「……うう……ん……」
目が霞む。
視界は茶一色で、あちらこちらに木目が見える……どうやら天井のようだ。
マルセイユ「お、俺っ!!」
エーリカ「もう、やっと気が付いたよ……」
俺「ティナ……エーリカ……?」
声の方に顔を向けようとすると、鈍く重たい痛みが頬に走った。
今朝の記憶がいまいちはっきりとしないが、どうやら殴り飛ばされたらしいということだけはこの痛みが教えてくれた。
マルセイユ「まだ痛むだろ。寝てろよ」
ティナの白い手が氷嚢を俺の頬に押し付ける。
ひんやりとした感触が、患部の熱を奪うと同時に意識を現実へと引き戻した。
俺「……またか」
マルセイユ「うん……まただ」
ばつが悪そうに視線を逸らすティナ。
このやり取りも、もう何回目になるんだか。
俺「あのさ。もう仲良くしろとは言わねぇけど、せめて喧嘩しないようには出来ねぇのか?」
マルセイユ「……むう」
ますますばつが悪そうに、閉口したまま俺を見るティナ。目が口ほどに無理だと告げている。
彼女の手から氷嚢を受け取って引き続き頬を冷やしつつ、俺は苦笑と諦観の入り混じった嘆息と共に上体を起こした。
俺「……ん?」
ふと、あるべき物があるべき場所にないという何とも落ち着かない感覚がした。
俺は懐に手を突っ込んで……その感覚が間違っていないことに気が付いた。
俺「あれ? 落としたかな」
キョロキョロとあちこちを探してみるが、見当たらない。
そんな俺の姿を訝しんだのか、ティナが声を上げた。
マルセイユ「何をだ?」
俺「ええと……小さな包みなんだ。リボンが付いてて」
エーリカ「これかな?」
エーリカがサイドテーブルに手を伸ばし、まさに俺が言った通りの紙包みを差し出す。
ああ、はい、それです。返して下さい。
エーリカ「だーめ。だってこれお菓子の匂いがするんだもん」
マルセイユ「お菓子?」
俺「エーリカ、今回ばかりは冗談抜きだ。返してくれ」
声のトーンを落とした俺に、エーリカは一瞬キョトンとしたが……
すぐさま合点が行ったように口の端を歪めた。
エーリカ「なーるほど。今日はそういう日だもんねぇ」
マルセイユ「あ、それ、もしかして……?」
俺「あーもう、驚かそうと思ってたのに。そうだよ、
バレンタインのプレゼントだ」
エーリカ「ちなみに中身は?」
俺「クッキー。俺謹製のな」
一ヶ月半前の朝帰りが原因で、俺は当面の外出を厳しく禁じられていた。
お陰様でティナに渡すための花束を買いに出られず、せめて何かしら贈ろうと
昨日のうちに厨房を借りて手作りのクッキーを用意しておいたというわけだ。
エーリカ「手作りクッキーかぁ。いいなぁハンナ、私も欲しいなぁ。ねえ、私にも頂戴?」
スチールブルーの瞳がチラチラとこちらを窺っているが、無視を決め込む。
今日はあくまで恋人同士の日だ。功労者には感謝こそすれど、渡す物など用意していない。
俺「バレちまったし、今渡すよ。今年は外に出られなかったから花はナシだ。こいつで勘弁してくれ」
エーリカの手から紙包みを素早く掻っ攫うと、リボンを直してティナの手の中に押し込んだ。
当のティナは、いくつもの感情が入り混じった複雑な表情で手の中の包みに目を落としている。
やはりこの渡し方はまずかっただろうか。それとも……
俺「……やっぱり、野郎の手作りなんか嬉しくねぇか? 味見はちゃんとしたんだけどな」
マルセイユ「ああ、いや、そうじゃないんだ。ちゃんと用意してくれてて、すごく嬉しいよ。
でも、イヴの時から貰ってばかりじゃないか。私、何にも返せてない……」
俺「俺はそうは思ってねぇけどな。言っただろ、俺だってたくさん貰ってるって」
そう、たくさん貰っている。身体や命を張る理由も、飛ぶ理由も、引鉄を引く理由も――
思い返せば、今の俺を形作る大部分がティナからの貰い物だ。
俺「だから気にすることなんかねぇよ。な?」
マルセイユ「そうは言ってもなぁ……」
うーん、と唸りながら、ティナは考え込んでしまった。
クリスマスイヴにも同じようなことを言っていたが、やはり物理的に返さなくては気が済まないのだろうか?
まるで時間が停滞したかのような、何とも微妙な空気が流れる。
が、程なくして、そんな空気を破って医務室のドアが開かれた。
バルクホルン「失礼する……む、目が覚めたのか。……その、すまなかったな」
ドアの向こうから、俺を今朝の記憶ごと吹っ飛ばしてくれた張本人であるバルクホルン中尉が姿を見せた。
もう一人の当事者の登場に、ティナの表情が見る見る不機嫌一色に染まっていく。
マルセイユ「ふん……よくも顔を出せたもんだな」
バルクホルン「止さないか、怪我人の前だぞ」
むすっとして椅子の上で足を組むティナを尻目に、バルクホルン中尉はベッドサイドに立つと、
それはそれは見事にぴしっと腰を直角に折り曲げた。
バルクホルン「本当にすまない。どうも、私は熱くなると周りが見えなくなってしまって……。
これが
初めてというわけでもないのにな。正直な所、もうどう詫びたら良いのか……」
俺「いいですよ、もう。毎度のことなんで慣れました。痛いのは勘弁ですがね」
すぐ傍でやり取りを見ていたエーリカが「そんなことに慣れてどうすんの」と呆れ顔になる。
全くもってその通りだ。
バルクホルン「埋め合わせと言ってはなんだが、今日の訓練は全て中止にしようと思う。
司令の許可を取って、本日の夜間待機を解除、緊急以外の出撃もなしにした。しっかり休んでくれ」
俺「そいつはどうも。でも、中尉にお願いしているいつもの訓練はやります。
今は一分一秒が惜しいんです。やらせて下さい」
ティナとバルクホルン中尉が、揃って俺の言葉に目を丸くした。
それはそうとも、俺はつい先ほどまで意識を失っていたのだから。
無茶をしているという自覚はある。が、生憎と俺のような凡人は
そうでもしないと追い付くことさえままならなくなってしまう。
バルクホルン「ううむ。お前が望むならそうするが……いや、しかしだな……」
エーリカ「そうしてあげてよ。頑張るのは良いことじゃん?」
エーリカらしからぬ言葉に、今度は俺とティナが目を丸くした。
渋っていたバルクホルン中尉は腕を組んでしばらく考え込み……
バルクホルン「お前までそんなことを言い出すとは……まぁいい、分かった。
では俺、訓練は予定通りに行う。時間までにハンガーに来ているようにな」
お前もそのくらい殊勝ならな、とエーリカを小突いて、医務室から出て行った。
さて、いつまでも寝ては居られない。
訓練のメニューを思い起こしながらベッドから出ようとすると、まだむすっとしているティナが目に入った。
俺「ティナ? どうかしたか?」
マルセイユ「……お前、最近やけにバルクホルンとの訓練に熱心だな?」
表情に負けず劣らずの不機嫌そうな、それでいて弱々しい声音が俺に噛みつく。
バルクホルン中尉が絡むと何かと不機嫌になるのは周知の通りだったが、
このような何処か元気がなさそうな反応は初めてで、俺もエーリカも虚を突かれてしまった。
俺「ええっと……まずいか?」
マルセイユ「いいや、お前は間違ってない。訓練するのは大いに結構だ。
お前がそれを望むのなら尚更な。でも……、でもな……」
一瞬だけエーリカを窺い、すぐに視線をこちらに戻して、ティナは再び口を開く。
マルセイユ「それは、私と一緒に居るよりも大事なことなのか?」
そう言うなり、そそくさと俯いてしまった。
耳まで赤くなっている所を見ると、相当赤面しているらしい。
マルセイユ「あ、あのな? そりゃ、一緒にご飯食べたり待機したりしてるけど、
それって今までとそんなに変わらないじゃないか。ええとだな、その、つまりだな……」
エーリカ「もう少し恋人らしく過ごしたいな、と」
マルセイユ「う、ま、まぁ、そういうことだ」
言われてみれば、ここの所は訓練と出撃が交互に繰り返されているような状態で、
あまりティナに構ってやれていなかったかもしれない……と思い当たった。
マルセイユ「それに、やっぱり私も俺に何かしてやりたいんだ。してもらってばかりだからな。
俺はいつも別にいいとか気にするなとか言うけど、折角対等な関係になったんだから」
エーリカ「そうだねぇ。俺はもう少しハンナの気持ちを考えてあげてもいいかもね」
マルセイユ「そうそう……って、お前どうして当然のようにまだ居るんだ。
お前は……その……二人きりにしてやろうとか、思わないのか?」
エーリカ「二人が不適切な行為に及ばないよう見張っているのであります。にししし」
マルセイユ「ぐぬぬ……ハルトマンんん……」
及ばねぇよと心の中で突っ込みを入れながら、二人のやり取りを
ぼんやりと眺める俺の脳裏では、ティナの言葉が延々と反響していた。
ティナの好きなようにさせていたつもりだったけれど、
当人からしてみれば寂しい思いをしていたのだろうか。
俺「取りあえず、最初の質問に答えておこうか」
俺の一言に、二人はこちらを振り返った。
その、そんなに注目されても、困る。
俺「訓練はな、必要だからって言うか……今のままじゃダメだからやってるんだ」
そうしないと、ティナから貰った理由を果たせないから。
力がなければ、もっと強くならなければ、何も出来ないから。
俺「でも、ティナの言うことも分かる。これからは自主訓練の量を少し減らすよ。
そうすれば、もう少し二人で落ち着ける時間も作れるようになるだろ。それでいいか?」
マルセイユ「うん。……ごめんな、我儘言って」
俺「いや、いいんだ。こっちこそ気付いてやれなくて悪かった。
根詰め過ぎって自覚はあったしな」
彼女の頭をそっと撫でながら立ち上がると、大きな伸びを一つ。
身体に異常はないらしいことに安堵していると、いつもの勝気さを取り戻したティナが
下から顔をずいっと寄せてきた。
マルセイユ「で、何か欲しい物はないのか? して欲しいこととかは?」
俺「早速か。うーん……」
彼女の勢いに思わず仰け反りつつ、少し真面目に考えてみる。
目下切実な願いとしては『バルクホルン中尉と喧嘩しないで欲しい』これに尽きるのだが、
速やかに却下されるのは目に見えているので、別の方面から考えねばなるまい。
物は要らない。今は、強いて言うなら、力が欲しい。
そのために昼は空戦、夜は射撃と、俺に許された時間の大部分を訓練に費やしている。
力さえあれば、俺は……。いや、止そう。
これは無い物ねだりだと、あるいは本末転倒だと、すぐに自戒が思考を占める。
第一、こんなことをティナに言ってどうにかなるものでもない。
俺は軽く頭を振り、馬鹿げた考えを脳の外へと追い出した。
俺「そうだなぁ……。それじゃあ、手料理、とか? 一品でいいからさ」
マルセイユ「手料理か。分かった、女の腕の見せ所だな」
ひとまず、無難に男の夢を託すことにした。そこまでは良かったが……問題が一つ。
十年近く幼馴染をやっている俺だが、ティナが料理している所を一度も見たことがない。
マルセイユ「ふふん、存分に振る舞ってやる。覚悟してろよ!」
『覚悟』という単語がどうにも悲壮なものに聞こえてならないのが不安で仕方ないが、
愛情が不安を超越することに期待して、医務室から気力充分に走り去る彼女を送り出した。
エーリカ「……良かったの、あれで?」
良くないだろ?と言外に告げながら、エーリカが上目遣いにこちらを見る。
それはまあ、そうだ。しかしながら。
俺「急に言われてパッと思い付くほど、あいつに餓えちゃいねぇよ」
我ながら情けない方便で誤魔化して、取りあえずの懸念の方に意識を剥けた。
俺「まあ……ぶっ倒れることはねぇか。エーリカじゃあるまいし」
エーリカ「むうっ……料理のことだね。本人を前にその言い方は酷くない?」
俺「経験者は語る、ってな」
学生の頃、エーリカが弁当を作ってくれたことがあった。
既に料理の姿をしていなかった『それ』を、外見と味は別だと己に言い聞かせて一口食べるや否や、
儚くも微かな希望を裏切られて卒倒してしまったのだ。
ついでにしばらく死線を彷徨う羽目にもなった。
エーリカ「うぎぎ……」
当事者として言わせて頂くならば、あれは料理ではなかった。もっと別の……そう、おぞましい何か。
そう形容するのが相応しいと言うか、あれを料理と呼んだら世の料理に非常に申し訳ない『物体』だった。
効果も見てくれ通りに抜群だ。エーリカには悪いが、このままではいずれ犠牲者が出る。
エーリカ「でもでも、練習しないと上手くならないよう」
俺「あれからお前が厨房に入るとみんな警戒するようになったからなぁ。
まぁ、乗り掛かった船だ。同期のよしみで味見くらいはしてやるよ。死なねぇ程度にな」
エーリカ「本当? 本当に本当?」
本当ですとも。
エーリカには借りもあることだし。
エーリカ「それじゃあ私も頑張ってみようかなぁ」
結局、エーリカは料理が上達する前に上官命令で厨房入りを禁じられてしまったため、
後に俺たちが第501統合戦闘航空団で再会するに至ってなお、料理の腕も威力も相変わらずだったのだが……
それは四~五年ほど未来の話になるので、今は置いておくことにする。
* * *
俺「あいつ、何作るつもりだろう?」
エーリカと別れて医務室を後にした俺は、隊舎の廊下を歩きながら想像を膨らませていた。
不安もそれなりにあるにはあるが、正直な所、やはり恋人の手料理というものは楽しみだった。
そんな幸せオーラがダダ漏れになっていたのか……
クルピンスキー「やあ、管理人くん。殴り飛ばされた割には幸せそうだね?」
俺「うわっ、伯爵!?」
ヴァルトルート・クルピンスキー少尉……通称『伯爵』に捕獲されてしまった。
伯爵は俺の背後から喉元に腕を回して身体を寄せると、脇を締めてしっかりと抱きすくめてきた。
……当たっている。ナニとは言わないが、当たっている。
俺は慌てて周囲にティナの姿を探す。
以前こんな風に伯爵にスキンシップされている所を見つかった時、
機嫌を損ねてしばらく口も利いてくれなくなったからだ。
俺自身は浮気なんてこれっぽっちもしていないと付記しておく。
クルピンスキー「大丈夫だよ、あの子ならさっき書庫で見たから。ホントに可愛いよねぇ、君たちは」
兎にも角にもマイペースなこの人には何を言っても無駄である。
俺は早々に話題を切り替えることにした。
俺「……で、何ですか?」
クルピンスキー「ん? ああ……うん、そうだね。悩める子羊の相談に乗りたいっていうのはどう?」
俺「却下で」
伯爵の訴えを即座に棄却しつつも、彼女の言葉に引っ掛かりを覚えた。
ティナが書庫に? 料理の本でも探しに行ったのだろうか。
クルピンスキー「まぁまぁ、そう言わずに。これでも女の子相手に場数は踏んでるから。
あのね、ここの所の二人を見ていて、気付いたことがあるんだけど」
俺「その前に、離しちゃもらえませんかね」
俺を拘束する伯爵の腕を引き剥がそうと力を入れてみるが、
対抗して伯爵も力を込めるため、ホールドされた状態から抜け出せない。
クルピンスキー「お二人さん、何となくすれ違ってないかな?」
声が発せられると同時に、俺の身体から抵抗する力が消え失せる。
それは何よりも雄弁に伯爵の言葉を裏付けてしまっていた。
クルピンスキー「図星か。自覚もあると見たね」
俺「すれ違っていると言うか……お互いに求めている物が一致していないと言うか。
まあ、その件はついさっき一応の解決を見たので、心配は無用です」
そう、と残念そうに呟く伯爵。
一瞬ムッとしたが、続く伯爵の言葉がそんな反感を吹き飛ばしてしまった。
クルピンスキー「君はさ。マルセイユを守って、マルセイユの夢を守って、
これからもきっと、あの子を守り続けて行くんだろうね」
俺「何です、急に?」
クルピンスキー「時々、あの子が羨ましくなるんだよね。
こんな騎士が居てくれることとか。それで意地悪したくなっちゃうのかもね」
騎士と呼ばれることには抵抗があったが、その前に伯爵が言ったことは否定出来なかった。
その通りだと思う。事実、俺には他の生き方を選ぶ自分が想像出来ない。
クルピンスキー「まぁそれはそれとして、君はちょっと女心に無神経過ぎるかな。
マルセイユとのすれ違いだって、彼女の気持ちをちゃんと汲んであげられなかったからじゃないの?」
俺「視野が狭いってことですか……?」
クルピンスキー「加えて言えば、想像力が欠如している、かな」
そこまで言われて、いつの間にか伯爵のペースに完全に引きずり込まれていることに気付く。
それでいて指摘は全て的確だ。なんて人だろう。一年早く生まれただけでこんなにも違いが出るのか?
クルピンスキー「男も女も、大事なのは器量だよ。
それに……私だって好きでもない男にこんなにベッタリにはならないんだからね?」
俺「……それはそれは」
それ以上の言葉を、俺には絞り出すことは出来なかった。
それはそうと……失礼ながら、伯爵に対して「彼女」という呼称を用いることに
決して小さくない違和感を感じないでもない。
クルピンスキー「あ、酷いなぁ。私だって、これでも十三歳の少女なんだよ?」
普通、十三歳の少女は、女の子相手に場数を踏んでいるなどと言わない。
クルピンスキー「これは手厳しいなぁ。はっはっはっは……と」
伯爵の朗らかな笑い声が急に途切れる。
何事かと伯爵の視線を追うと、その先には銀髪を肩の上で切り揃えた小柄な少女がむすっとした表情で立っていた。
ロスマン「このニセ伯爵……ハルトマンに続いて俺まで毒牙に掛けるつもり? 私の生徒を何だと思ってるのっ!?」
エディータ・ロスマン曹長……俺とエーリカの戦技教導を担当してくれている先任曹長だ。
男の俺や長身の伯爵と並んで立つとその背の低さが際立つ。何でも、幼い頃に大病を患ったせいだとか。
俺もエーリカも少尉任官してこのJG52に配属されたが、この小さな先生には頭が上がらない。
クルピンスキー「え、聞きたい? まいったな……ここでかい?」
ロスマン「この……! 俺も俺よ! こんなのの言うことを真に受けてるんじゃありません!」
俺「はぁ。俺も何から何まで真に受けるつもりはありませんが……」
こんなのとは酷いなぁとぼやく伯爵と、興奮冷めやらぬ様子で指示棒を振り回しながらまくし立てる先生。
先生は『可愛いハルトマン』を伯爵に『あんなにされた』ことを根に持っているらしい……。
顔を合わせる度にこんな光景が展開されることも珍しくないが、個人の関係としては仲が悪いわけではないという。
ロスマン「マルセイユ、ねぇ」
クルピンスキー「二人がすれ違ってる気がしてね。聞いてみたら案の定だったよ」
その証左に、気が付けば伯爵と先生の攻防は終息し、ああでもないこうでもないと話し合っている。
それが一段落すると、先生は標的を俺に変えた。
ロスマン「ねぇ俺。俺は、マルセイユをどうしたいの? あの子に何を望むの?」
俺「え? どう、って?」
突然投げ掛けられた質問の意図を測りかねながら、医務室でエーリカに誤魔化したアレではないかと思い当たる。
そうしてさんざん首を捻った挙句、答えが言葉にならないことに、俺はうなだれた。
俺「どう……したいんだろう。よく、分かりません……」
ロスマン「きっとね、マルセイユもよく分かってないと思うの。
お互いにお互いの望む姿が見えていないのよ。二人の歳を考えれば無理もないけど」
どうしたいのか分からないから、互いに肝心な部分を相手に委ねようとするのだろうか。
だからすれ違ってしまうのだろうか?
ロスマン「でもね、答えはもう出ていると思うわ。
それは多分、恐ろしく単純で、難しく考えているから気付かないのよ」
俺「そうでしょうか……?」
ロスマン「どんなに複雑な問題でも、答えはシンプルに出来ているものよ。
そして、それはここが知っているわ」
美しく微笑みながら、先生は人差し指を伸ばして俺の左胸をトンと突く。
その瞬間、俺の心臓が一際大きく鼓動を打ったような気がした。
クルピンスキー「エディータもまた、なかなかロマンティストだね」
ロスマン「ふふ。あんたほどじゃないわ」
先生の指の感触が、つい一ヶ月半前……クリスマスイヴの出来事を脳裏に呼び起こしていく。
あの時、俺が願ったことは何だっただろうか?
たった一ヶ月半の間に俺は忘れてしまったのだろうか?
ただ彼女を守る『力』を手にしたいがために、そんな大事なことを――
ロスマン「その様子だと、思い当たることがあるみたいね?」
俺「はい……知ってました。ちゃんと、覚えてました。
今はこうして思い出せるのに、どうして今までは……」
ロスマン「そのくらいにしておきなさい。思い出せるなら、それでいいのよ。
間違ってもそんなしょげた顔、恋人になんか見せるもんじゃないわ」
俺「……はい。覚えておきます」
何に迷っても、答えは『ここ』が知っている、と。
喉のつかえが取れたような、腹の中の重石が消えたような、そんな気分が身体中に満ちて、
ようやく俺は自然に笑うことが出来た。
ロスマン「ところで、昨日の夜に作ってたクッキーはちゃんと渡せた?」
俺「はい。まあ、渡す前にエーリカに見つかったんで、その場の勢いでしたけど……」
ロスマン「うーん……。渡せたなら、まあ、いいか。ムードも大事なんだけどねぇ」
クルピンスキー「なになに、何の話?」
俺は伯爵に昨晩の出来事を説明した。
出来事と言っても、厨房でクッキー作りに悪戦苦闘していた所を
偶然通り掛かった先生が見かねて助けてくれたというだけなのだが。
クルピンスキー「むう。そんな面白そうなことをしていたのに教えてくれないだなんて。
君はどうにも、先輩に対する敬愛の精神が欠けているようだね。そんな悪い子は……こうしてあげるよ」
あんたが言うなという俺と先生のツッコミを華麗に受け流して、
伯爵は俺にぴったりと密着したままもぞもぞと動き出した。
……擦れている。ナニとは言わないが、擦れている。
俺「あの、伯爵。いい加減に勘弁してもらえませんかね?」
そろそろ生理現象を抑えるにも限界だった。こんな状態でティナに見つかったら……。
それだけは避けたい。いくら相手が伯爵であろうとも……だ。
ロスマン「伯爵、離してあげなさい。二人の仲をこじれさせたいわけじゃないんでしょ」
クルピンスキー「やれやれ、冗談の通じない人たちだね。だからこそ構いたくなるんだけど。
二人とも肝心な時にお堅いんだから……そんなのバルクホルンだけで充分だよ」
「確かに石頭は一人でいいな。いや、いっそ居なくてもいい。困らん」
低いトーンの声が空気を揺るがし、俺の全身が一瞬で凍りついた。
辛うじて首だけを声の方向に回すと、そこにはヴェニーシャンブロンドの長髪にピンと立ったアホ毛。
俺「あああの、ティナ、これは、その」
マルセイユ「随分楽しそうじゃないか? 私も混ぜろよ」
言葉とは裏腹に咎めるような視線で俺と伯爵を刺しながら、
一冊の本を小脇に抱えて腕組みをしたティナが、立っていた。
* * *
ロスマン「だ、大丈夫、俺? 頬が真っ赤になってるわよ」
クルピンスキー「ううん……何か様子がおかしかったね。
前にこうなった時は頬っぺたつねってぐにぐにするだけじゃなくて、
ありとあらゆる表現で君を罵倒したのにね」
嵐の過ぎ去った場に、残されたのは二人の女と一人の男。
俺は赤く染まった患部を押さえて、じわじわと口腔を蝕む痛みに耐えていた。
伯爵の言う通りだった。
以前同じ目に遭った時は、三日三晩ヘコむ程の罵詈雑言を食らったものだ。
ところが今回はそうはならず、ティナは俺の頬を力一杯こねくり回すだけこねくり回して去って行った。
俺「そう、ですね……いてて」
客観的に見ればティナの方が全面的に正しい。
俺だってティナに男が絡み付いているのを見たら、例え冗談でも腹が立つし頭に来る。
二度目ともなればなおさらだ。
クルピンスキー「……ごめんね。二人のこと、邪魔したいわけじゃないんだよ」
俺「分かってます。でも、スキンシップはもうちょっと自重して欲しいですね」
ロスマン「本当よね。あと、他の子に対してもよ。このニセ伯爵」
先生が、手に持った指示棒で伯爵の頭を小突く。
伯爵は苦笑いしながら小さく舌を出した。
クルピンスキー「で、どうするつもり?」
伯爵の言葉に、先生も指示棒を動かす手を止めて俺を見た。
大丈夫、何てことはない。為すべきことなど最初から決まっている。
俺「会いに行きます。ちゃんと誤解を解いておかないと。
それからのことは……二人で話をして、それで決めます」
そのために必要なモノを、俺はちゃんと持っているはずだから。
もっと早く気付くべきだったのに、こんなに遅くなってしまった。
ロスマン「それがいいわね。行ってらっしゃい」
クルピンスキー「いいねえ、まさに青春って感じで……あ」
俺・ロスマン「?」
伯爵の視線が俺から外れ、さらに後ろへと向けられる。
そこに立っていたのは……先ほどのティナ同様、咎めるような視線で俺を貫くバルクホルン中尉だった。
バルクホルン「こんな所で、お前は一体何をしている?」
怒気を孕んだ声を叩き付けられ、思わず筋肉が委縮する。
懐中時計を取り出して見ると……ああまずい、訓練の約束をした時間を過ぎてしまっている。
俺「す、すみません……」
バルクホルン「どうせそこの伯爵モドキに絡まれて足止めされていたんだろうが……
カールスラント軍人たるもの、如何なる状況だろうと時間を守れないでどうする?
二人とも、彼は貰って行きますよ。先約ですから」
有無を言わさぬ強い口調で言い切るバルクホルン中尉を前に、その場の誰もが沈黙する。
先生と伯爵の人格的な信用の差か、先生には一切のお咎めなしだ……
などと心中で呟いているうちに俺は腕を掴まれ、ずるずると引きずられ始めた。
俺「ちょ、あの、少しでいいんで待ってもらえませんか……」
バルクホルン「ならん! 一分一秒が惜しいと言ったのはお前だろう。徹底的にやるからな。
そうだな……お前には目で見ずとも敵の攻撃を捌ける程度にはなってもらうぞ。
でなければあの突撃バカの背は守れないと思え!」
俺「うええ。流石にそれはちょっと人間には無理じゃ」
バルクホルン「なぁに、私たちはただの人間じゃない。ウィッチだ。
やってやれないことはないはずだ! さあ行くぞ!」
無理難題をおっしゃる。が、バルクホルン中尉は本気も本気のようだ。
抗う余地もなく、俺は悲鳴を上げながら連行されたのだった。
……何処へって? そりゃ、地獄の一丁目さ。
ロスマン「……ううん。このまま放っておくのは忍びないわね」
クルピンスキー「だねぇ」
ロスマン「仕方ない。可愛い生徒のために一肌脱ぎましょうか」
クルピンスキー「脱ぐなら半脱ぎまでね。全部脱いだら色気どころかアグネスって痛い痛い、先生、体罰はよくないな」
ロスマン「何言ってんの! 元はと言えばあんたのせいでしょうが……って伯爵、それ何?」
クルピンスキー「マルセイユが落っことして行った本だよ。書庫から持ち出したみたいだね」
ロスマン「ふーん、これは……。そうだ、いいこと思い付いたわ。伯爵、ちょっと付き合いなさい」
クルピンスキー「ヤー。……全く、何だかんだで管理人くんには甘いんだから」
* * *
最終更新:2013年01月30日 14:27