巻三十四 志第二十四

唐書巻三十四

志第二十四

五行一

木不曲直 常雨 服妖 亀孽 鶏禍 下体生上之痾 青眚青祥 鼠妖 金沴木 火不炎上 常燠 草妖 羽蟲之孽 羊禍 赤眚赤祥 水沴火



  万物が天地の間に溢れているもののうち、その物として最大かつ多いものは五つあり、一つ目は水、二つ目は火、三つ目は木、四つ目は金、五つ目は土である。それを人が用いると、この五物でなければ生を推し量ることができず、その一つも欠けてもできず、これによって聖王が重んじるのである。所謂五物というのは、象を天に見て五星とし、位を地に分けて五方とし、四時に行って五徳とし、人に受けては五常とし、音律をひもといて五声とし、文章を発して五色として、その精気の用を総じて五行というのである。

  三代(夏・殷・周)の後、数術の士が興って、災異の学とした者は努めてその説を極め、天地・万物・動植物をあげ、大小なく、すべてその類をおしてこれを五物に付属して、五行の属とするにいたったのである。思うに人は五行の全気を受けて生じ、そのため物においては最霊となったのである。そのほかの動植物の類は、それぞれ気の片鱗を得たものは、発して草木は実をつけ、香りは豊かで美味で、羽毛や鱗、模様や硬さは、またすべて一気の盛を得るのである。奇っ怪非常となって、その本性を失うようになったのは、思うに事類によって吉凶が影響したことで、その説が最も委曲繁密となったからであろう。

  思うに王者が天下にあるのは、天地にしたがって人を治め、万物を選んで用いれば十分なのである。もし政治にその道を得て、取るに度を過ぎなければ、天地は順成となり、万物は生い茂り、民は安楽となり、これを最良な安定した政治というのである。もし政治がその道を失い、用物は夭折損傷し、民がその害を受けて苦しめば、天地の気沴(災害不祥の気)は、三光は交互に働き、陰陽寒暑は節を失い、そのため水害や旱魃、蝗害、風雹、雷火、山崩、洪水、水源の枯渇、時期ではない雪や霜、雨以外のものが降ることとなり、あるいは発して霧、虹、光怪の類となり、これは天地災異の大なるもので、すべて乱政に生じるのである。しかしその発するところを考えてみれば、験は人の事によるのであり、往々としてこれは失うところのようなものであって、その類になるのである。しかし時にこれを推測したのに符号できなければ、どうして天地の大なるを、もとより知るべからざるものがあろうか。もし諸物の種類をあえて数えることができなければ、下は細微の家、人里の巷の場所にいたるまで、人の事を考えるとよいのであり、漠然として応じることがなければ、すべて言うに足りないのである。

  『論語』に「雷がすさまじく風がはげしく吹くときは、必ず顔色を変えて居住まいを正した」とあるのは、思うに君子が天を恐れるのをいうのであり、物が常に反して変化し、その本性を失うのを見れば、その結果があってこれを警戒恐懼を思い、微であってもあえておろそかにしないだけなのである。災異の学をする者はそうではなく、事を指して応じるものとするのである。合致が難しければ、あらゆるものを引用してその説に迎合する。思うに漢儒の董仲舒・劉向とその子の劉歆といった連中は、すべて春秋・洪範によって学び、聖人の本意を失ったのである。それが通じなければ、父子の言は自然に互いにそむくが、あえて歎くべきことであろうか。昔、箕子が周の武王のために、禹が述べるところの「洪範」の書を、その事類をわけて九類とし、その説をわけて九章とし、これを「九疇」というのである。その説を考えるに初め互いに付属しなかったから、劉向が『五行伝』をつくり、そこでその五事を取材し、皇極・庶証を五行に付属した。これによって八事としすべて五行に属しようとしたのか、そこで八政・五紀・三徳・稽疑・五福・六極の類もまた付属しようとしてできなかった。「洪範」の書をしてその倫理を失うにいたり、そのためあらゆるものを引用してその説に迎合されるようになったのである。漢より以来、今までこれを非とするものはいなかった。またその祥・眚(異物)・禍・痾(病)の説は、その数術の学より、そのためほぼここにあることとなり、深識博聞の士がこれによって考え選ばれるよう願うところである。

  いわゆる災いというのは、物にかぶさって知るべきものなのである。水害や旱魃、蝗害がこれである。変化したものはそうなった理由を知ることはできない。日食・孛(ほうきぼし)・五石・六鷁の類がこれである。孔子の『春秋』に災異を記してその事応を著わさないのは、思うに慎んだからであろう。思うに、天道は遠く、よくわかるように繰り返して人を教え諭すのではないから、君子はその変を見て、天の譴告する理由を知って恐懼して身を修め反省するのみである。もしその事応を推測しても、符合したり符号しなかったり、同じであったり同じではなかったりする。符号しなかったり同じでなかった場合は、君子はこれを怠らせ、これによって偶然だと思わせて恐れさせないのが、天の深意なのである。思うに聖人は慎んで言わないのは上記の通りであって、後世は曲説をして天を思うことを忘れてるから、伝えることができないのである。そのため武徳年間(618-623)以来のことを考察して、だいたいを『洪範五行伝』によって、その災異を著して、その事応を削るにほかならない。

  『五行伝』に、「狩猟して休まず、飲食に節度を失い、内外の出入に節度がなく、人々を使役して農事を妨げ、および悪事を企むことがあれば、木は曲げたり伸ばしたりできなくなる」とあるのは、生けるものは生い茂らず、多くは折れたりし、変怪してその性を失うようになるのである。また「容貌が恭しくないこと、これを不粛(厳粛ではない)という。これによりおこる咎徴は狂で、罰は時宜を得ない長雨、六極は悪にあたる。時に衣服の妖がおこり、時に亀の孽(げつ)が起こり、時に鶏の禍がおこり、時に下半身に上半身のものが生えるという痾がおこり、時に青色の眚・祥が現れる。鼠の妖は、金が木を損なうのである」とある。


  木不曲直(木は曲げたり伸ばしたりできなくなる)
  武徳四年(621)、亳州の老子祠の枯樹に再び枝葉が生えた。老子は、唐の祖である。占いに「枯木が再び生えれば、権臣が執政する」とあり、眭孟(眭弘)がそのため受命したようなものである。武徳九年(628)三月、順天門楼の東の柱が傾き壊れていたのが自ら直立した。占いに「木が倒れて自然に起きるのは、国の災いである」とあった。

  永徽二年(651)十一月甲申、陰霧が氷固まって樹木を封じ、数日解けなかった。劉向が思うには木は少陽で、貴臣の象である。この人がまさに害をなそうとすれば、すなわち陰気が木を脅かし、まず凍え、そのため雨が降ると凍るのである。またこれを樹介というが、介は、兵の象である。

  顕慶四年(659)八月、野生の桃の樹に李(すもも)が生えた。李は国姓である。占いに「木に異なった実が映えると、国主に災いがある」とあった。

  麟徳元年(664)十二月癸酉、霧が終日晴れなかった。甲戌、雨降って木が凍った。

  儀鳳三年(679)十一月乙未、暗い霧が四方を塞ぎ、連夜晴れなかった。丙申、雨降って木が凍った。

  垂拱四年(688)三月、桂子(キンモクセイ)が台州に降り、十日ほどで止んだ。占いに「天が草木を降らすと、人が多く死ぬ」とあった。

  長寿二年(693)十月、万象神宮側の檉杉(ネズ)の木がすべて柏に変わった。柏は季節を通じて、枝を変えて葉を改めず、士君子の操がある。檉杉は脆く柔らかく、小人の性である。小人が君子の位にあることを象る。

  延載元年(694)十月癸酉、白霧がおこり、木を凍らせた。

  景龍四年(710)三月庚申、雨降って木が凍った。

  景雲二年(712)、高祖のもと邸宅に柿の樹があり、天授年間(690-692)から枯死していたが、ここに到って再び生えた。

  開元二十一年(733)六月、蓬州の枯れた楊に李の枝が生えて実がなったが、顕慶年間(656-661)の野生の桃に李が生えたのと同じである。開元二十九年(741)、亳州の老子祠の枯樹が再び生い茂った。この年の十一月己巳、寒さが厳しく、雨降って木が凍り、数日解けなかった。

  永泰元年(765)三月庚子、夜に霜がおり、木が凍った。

  大暦二年(767)十一月、霧が雪のようになり、草木が凍った。大暦九年(774)、晋州神山県の慶唐観の枯桧が再び生えた。

  興元元年(784)春、亳州真源県に李の樹があり、植えて十四年たっており、その長さは一尺八寸であったが、ここにいたって枝がたちまち上に伸び、高さ六尺となり、周囲は蓋のようになって九尺あまりであった。李は国姓である。占いに「木生えて枝伸びるのは、国に寇盗がいる」とあった。この年、中書省の枯柳が再び生い茂った。

  貞元元年(785)十二月、雨降って木が凍った。貞元四年(788)正月、木が陳留に降ること十里ばかりで、大きさは指ほどで、長さ一寸あまり、中空で、降ったところに立って植えたかのようであった。木が下に生じて、上より降ったのは、上下位を替えるの象で砕けて中空となったのは、小人の象で、植えたかのようであったのは、自立の象である。貞元二十年(804)冬、雨降って木が凍った。

  元和十五年(820)九月己酉、大雨で、樹が風なくて砕けるものは十五・六であった。近くの木は自然と抜けた。占(京房『易伝』妖占)に、「木が自然に抜けるのは、国がまさに乱れようとしている」とあった。

  長慶三年(823)十一月丁丑、雨降って木が凍った。成都の栗の樹が実をつけ、食べてみると李のようであった。

  宝暦元年(826)十一月丙申、雨降って木が凍った。

  大和三年(829)、成都の李の樹に木瓜が生え、空中では実らなかった。大和七年(833)十二月丙戌、夜霧で木が凍った。

  開成四年(839)九月辛丑、雨雪、木が凍った。十月己巳、また同じようであった。

  会昌元年(841)十二月丁丑、雨降って木が凍った。四年正月己酉、雨降って木が凍った。庚戌、また同じようであった。

  咸通十四年(873)四月、成都の李の実が変わって木瓜となった。時の人は「李は国姓である。変わるのは、国が人に奪われるの象である」と述べた。

  広明二年(881)春、眉州に檀の樹があって枯れて倒れたが、一晩で再び生えた。


  常雨(長雨)。
  武徳六年(623)秋、関中に長らく雨が降った。陽が少ないのを暘といい、陰を少ないのを雨といい、陽徳衰えれば陰気が勝り、そのため常雨となるのである。

  貞観十五年(641)春、長雨となった。

  永徽六年(655)八月、京城は大雨となった。

  顕慶元年(656)八月、長雨となり、九十日になって止んだ。

  開元二年(714)五月壬子、長らく雨が降り、京城の門で山川の神々を祭った。開元十六年(728)九月、関中で長らく雨が降り、実りを阻害させた。

  天宝五載(746)秋、大雨が降った。天宝十二載(753)八月、長雨が降った。天宝十三載(753)(754)秋、大いに長雨となり、実りを阻害させ、六十日間止まなかった。九月、坊市の北門を閉め、井に蓋をし、婦人が街市に入るのを禁じ、玄冥太社を祭り、明徳門で山川の神々を祭ったが、京城の垣や建物を壊してほとんどなくなり、人もまた食料が乏しくなった。

  至徳二載(757)三月癸亥、大雨が降り、甲戌になって止んだ。

  上元元年(760)四月、雨が降り、閏月が終わってから止んだ。上元二年(761)秋、長雨が月を重ね、溝や穴に魚が生息した。

  永泰元年(765)九月丙午、大雨が降り、丙寅になって止んだ。

  大暦四年(769)四月、雨が九月まで降り、坊市の北門を閉ざし、土台を設置し、台の上に壇を設置し、黄幡を立てて祈った。大暦六年(771)八月、雨が重なり、秋の実りが阻害された。

  貞元二年(786)正月乙未、大いに雨や雪が庚子まで降り、平地に数尺、雪の上に黄や黒が塵のようであった。五月乙巳、雨が丙申まで降った。当時、大飢饉で、ここに到って麦が実ろうとしていたが、また大いに長雨が降ったから、民衆の心は恐れおののいた。貞元十年(794)春、雨が閏四月まで降り、その間止んだのは一・二日に過ぎなかった。貞元十一年(795)秋、大雨が降った。貞元十九年(803)八月己未、大いに長雨が降った。

  元和四年(809)四月、皇太子李寧を冊立したが、雨が服を濡らしたから中止となった。十月、再び日を選んで冊立したが、また雨が服を濡らしたから中止となった。近ごと常に雨であった。元和六年(811)七月、長雨で実りが阻害された。元和十二年(817)五月、雨が重なった。八月壬申、雨が九月戊子まで降った。元和十五年(820)二月癸未、大雨が降った。八月、長らく雨が降り、坊市の北門を閉ざした。宋州・滄州・景州等の州で六月癸酉から丁亥まで大雨が降り、家屋が流され、ほとんどなくなった。

  宝暦元年(826)六月、雨が八月まで降った。

  大和四年(830)夏、鄆州・曹州・濮州等の州で雨が降り、城郭・家屋を壊してほとんどなくなった。大和五年(831)正月庚子朔、京城で雪が残ること十日であった。

  開成五年(840)七月、長雨で、文宗を葬ったが、龍輴(棺車)が嵌まって進むことができなかった。

  大中十年(856)四月、雨が九月まで降った。

  咸通九年(868)六月、長らく雨が降ったから、明徳門で山川の神々を祭った。

  乾符五年(878)秋、大いに長雨となり、汾、澮および河が氾濫して実りを阻害した。

  広明元年(880)秋八月、大いに長雨が降った。

  天復元年(901)八月、長らく雨が降った。

  服妖(服装の異常)。
  唐のはじめ、宮人で乗馬する者、周の旧儀により、羃䍦(全身を覆う網付き笠帽)を着用し、全身を覆ったが、永徽年間(650-655)以後、帷帽(首・顔を覆う網付き笠帽)を用いて、はだぎを頸にまで及ぼし、見えるようになり、神龍年間(707-710)末になって、羃䍦が始めて途絶え、すべて婦人が政治に関わった象となった。

  太尉の長孫无忌は烏羊の毛で渾脱の氈帽をつくり、人々の多くは真似をし、これを「趙公渾脱」といった。これは服怪のようなものである。

  高宗はかつて宮中の宴で、太平公主が紫の衣を着て玉帯をつけ、折上巾(冠)をかぶり、白粉をつけて帝の前で歌い舞った。武后は笑って、「女子は武官になることができないのに、どうしてこのような装束を身にまとっているのか」と言ったが、これは服怪のようなものである。

  武后の時、寵臣の張易之が母の臧氏のために七宝帳をつくり、魚龍鸞鳳の形があり、そのために象牙の寝床、犀角の座席をつくった。

  安楽公主は尚方署に百鳥の毛をあわせて二裙を織らせ、正面から見ると一つの色で見え、斜めから見ると一つの色で、日中には一つの色で、影の中では一つの色でみえたが、百鳥の形はすべて見え、その一つを韋后に献上した。公主はまた百獣の毛で下鞍をつくり、韋后はそこで鳥毛を集めてこれをつくり、すべてその鳥や獣の形となっていて、工費は巨万を費やした。公主がはじめて降嫁すると、益州は単一の青糸で網絹の裙をつくり、金糸で花鳥をつくり、細かさは糸や髪のようで、大きなものは黍や米のようで、眼・鼻・くちばし・甲はすべて備わり、視力が良い者には見えた。すべて衣服の妖怪である。自ら毛の裙をつくり、貴臣富家の多くは真似をしたから、江・嶺の珍しい鳥、変わった獣の毛・羽は採られてほとんど尽きてしまった。

  韋后の妹はかつて豹の頭で枕をつくって邪をしりぞけ、白沢の枕で魅をしりぞけ、伏熊の枕で多子を願ったが、これもまた衣服の妖怪である。

  景龍三年(709)十一月、郊祀で、韋后は亜献となり、婦人をもって斎娘とし、祭祀の服によって執行した。これは服怪のようなものである。

  中宗は宰臣の宗楚客らに巾子様を賜った。そのつくりは高さがあったが踣(たお)れており、が藩邸にあった時の冠であったから、そのため当時の人は「英王踣」と名付けた。踣は、転倒のことである。

  開元二十五年(737)正月、道士の尹愔が諌議大夫となり、道士の服を着て政務を行ったから、また服怪のようなものである。

  天宝年間(742-756)初頭、貴族および士民が好んで胡服・胡帽をつくり、婦人は簪をさしては歩いて揺り動かし、衿と袖は窄まって小さかった。楊貴妃は常に仮鬢(かもじ)を首飾とし、好んで黄色の裙を着用した。これは服怪のようなものである。当時の人はこれを「義髻を河の中に投げ込んで、黄裙を水の流れに追いやる」と言っていた。

  元和年間(806-820)末、婦人が円鬟・椎髻をつくって、鬢飾りをつけず、朱粉を施さず、ただ烏膏を唇に注し、形は悲啼しているようであった。円鬟は、上は自ら樹てず、悲啼は、憂い憐れむの象である。

  文宗の時、呉・越の間で上げ底の草履が織られ、綾絹や縮緬のようであり、前代にはなかった。履は下物であり、草を織ってつくるのは、また正服ではないのに、着るのに文飾をするのは、思うに品格卑しい物が奢侈に驕るの象なのであろう。

  乾符五年(878)、洛陽の人が帽子をつくり、すべて冠軍の兵士が被るのを被った。また宦官が木で象の頭を刻んで幞頭の中に入れたから、百官が真似をし、工匠の門は市のようになり、木を切るたびに「今切ったのは尚書の頭、今切ったのは将軍の頭、今切ったのは軍容の頭」と言い、これは服怪のようなものである。

  僖宗の時、宮女が髪を束ねて非常に急ぎ、成都に到着したから、蜀の婦人はこれの真似をした。当時の人は「囚髻」と言った。

  唐末、京都の婦人で髪を梳かすのに両鬢で顔を抱え、形は椎髻のようであったから、当時はこれを「抛家髻」と言った。また世俗では琉璃(ガラス)を簪にするのを尊んだ。これは服怪のようなものである。抛家・流離は、両方とも播遷の兆であるという。

  昭宗の時、十六宅の諸王は豪華奢侈を互いに尊び、頭巾はそれぞれ自ら制度をつくり、都の人々はこれを真似した。そのため「私のために某王の頭をつくった」と言ったが、識者は不祥であると思った。

  亀孽(亀に関する異常)。
  大足年間初頭(701)、虔州で亀が獲られたが、六つの眼があり、一晩で消え失せた。

  粛宗の上元二年(761)、鼉(わに)が揚州城の門の上に集まり、節度使の鄧景山が族弟の鄧珽に尋ねると、「鼉は介物で、戦争の象です」と答えた。

  貞元三年(787)、潤州の魚や鼈が江を蔽って下り、すべて首がなかった。

  大和三年(829)、魏博管内で虫があり、形は亀のようで、その鳴き声は昼夜絶えなかった。これは亀に関する異常のようなものである。

  秦宗権が蔡州にあって、州中の地がたちまち裂けて、石が出てきて、高さ五・六尺、広さ長さは一丈以上で、まさに大亀のようであった。

  鶏禍(鶏の異変)。
  垂拱三年(687)七月、冀州の雌鶏が雄となった。

  永昌元年(689)正月、明州の雌鶏が雄となった。八月、松州の雌鶏が雄となった。

  景龍二年(708)春、滑州匡城県の民家の鶏が三足あった。京房の『易伝』妖占に「君が婦言を用いれば、鶏妖に生ず」とある。

  玄宗は闘鶏を好み、貴臣・外戚は皆これにならい、貧者はあるいは木鶏で遊んだ。識者は、「鶏は、酉属で、帝が生れた年である。闘は、戦争の象である。これは鶏の異変のようなものである」と思った。

  大中八年(854)九月、考城県の民家の雄鶏が雌となり、地に伏せて卵を温めていた雌鳥が雄鳴となった。化して雌となったのは、王室が卑賤になろうとするの象であり、雌に戻って地に伏せるのである。漢の宣帝の時、雌鶏が雄となり、元帝に到って王氏が始めて萌ばえたが、思うに次第にその禍いに至るのであろう。

  咸通六年(865)七月、徐州彭城の民家の鶏に角が生えた。角は、戦争の象で、鶏は、小畜で、なお賎しい類である。

  下体生上之痾(下半身に上半身の物が生えるという病)。
  咸通十四年(873)七月、宋州襄邑で猟師が雉を得たが、五本足で、三本足が背の上に出ていた。足が背に出るのは、下が上を犯すの象であり、五本足は、衆である。

  青眚青祥(青色の異物・青色の祥瑞)。
  貞観十七年(643)四月、晋王を立てて太子とし、青気が東宮殿をめぐった。冊命すると不吉な気である祲があり、不祥であった。貞観十八年(644)六月壬戌、青黒の気があって広さ六尺となり、辰戌に貫き、その長さは天にわたった。

  大和九年(835)、鄭注の箱中の薬が化して蝿数万となり飛び去った。鄭注ははじめ薬術によって昇進し、化して蝿となったのは、敗死の象である。これは青色の異物のようなものである。

  乾元三年(760)六月、日暮れ時、西北に青気が三あった。

  鼠妖(鼠の異変)。
  武徳元年(618)秋、李密王世充は洛水を隔てて互いに対峙し、密かに陣営中の鼠が、一晩で水を渡って尽く去った。占(京房『易伝』妖占)に「鼠が理由なくすべて夜に去るのは、村に戦争がある」とある。

  貞観十三年(639)、建州で鼠のため実りが阻害された。貞観二十一年(647)、渝州で鼠のため実りが阻害された。

  顕慶三年(658)、長孫无忌の邸宅に大鼠が庭に出現し、一月ばかり出入りしたりしなかったりであったが、後に忽然と死んだ。

  龍朔元年(661)十一月、洛州の猫と鼠が同じところに住んだ。鼠が隠れ伏せるのは密かに盗むの象であり、猫の仕事は捕え噛むことであり、かえって鼠と同じところに共にするのは、盗を捕らえる者が職を廃して悪に容れるの象である。

  弘道初年(683)、梁州の倉に大鼠があり、長さ二尺以上で、猫に噛まれると、数百の鼠が反撃して猫を噛んだ。しばらくして、一万以上の鼠が集まり、梁州は人を派遣してこれを捕え撃ち殺し、他はすべて去った。

  景雲年間(710-712)、蛇と鼠が右威衛営の東街の槐樹で闘い、蛇が鼠に傷つけられた。闘は、戦争の象である。

  景龍元年(707)、基州の鼠が実りを阻害した。

  開元二年(714)、韶州の鼠が実りを阻害し、千万が群れとなった。

  天宝元年(742)十月、魏郡の猫と鼠が同乳した。同乳は、同じところに住むより甚だしいものである。

  大暦十三年(778)六月、隴右節度使の朱泚が兵の家で猫と鼠が同乳していたのを献上した。

  大和三年(829)、成都の猫と鼠が互いに乳を与えた。

  開成四年(839)、江西の鼠が実りを阻害した。

  咸通十二年(871)正月、汾州孝義県の民家の鼠が多く藁を咥えて樹の上に巣をつくった。鼠は穴に住むものであり、穴を去って木に登るのは、賎人が貴くなろうとするの象である。

  乾符三年(876)秋、河東諸州に鼠が多く、家に穴をあけて、衣を壊し、三月で止んだ。鼠は、盗であり、天が「まさに盗があらんとす」と戒めたのである。

  乾寧年間(894-898)末、陝州に蛇と鼠があって南門の内で闘い、蛇が死んで鼠は逃げ去った。

  金沴木(金が木を損なう)。
  武徳元年(618)八月戊戌、突厥の始畢可汗の衙帳が理由なく勝手に損壊した。

  中宗が即位すると、金鶏竿が折れた。鶏竿が立てる理由は赦免のためであって、始めて大きな音を立てて鶏竿が折れたのは、不祥である。

  神龍年間(707-710)、群狐が御史大夫の李承嘉の邸宅に入って、その堂が理由なく壊れ、また筆を持つと筆管が縦に割れ、替えたがまた割れた。

  開元五年(717)正月癸卯、太廟の四室が損壊した。

  天宝十四載(755)十二月、哥舒翰が軍を率いて潼関を守ることとなり、前軍が出発し、牙門旗が坊門に到ると、触れて槍の刃が落ちたから、軍はこのことを不祥とした。

  永泰二年(766)三月辛酉、中書省の勅庫(制勅甲庫)が損壊した。

  貞元四年(788)正月庚戌朔、徳宗含元殿に御して朝賀を受け、夜明けになると、殿階および欄干が三十間以上勝手に損壊し、衛士の死者は十人以上になった。含元殿は正庁で、大朝会で御するところであり、正月朔は、一年のはじめである。王者の事は、天が戒めを重んじる理由である。

  大和九年(835)、鄭注が鳳翔節度使となり、鎮所に出発しようと、開遠門を出ると、旗竿が折れた。

  光啓年間(885-888)初頭、揚州府署の門屋が勝手に損壊したが、これはもと隋の行台門であり、制度は非常に大きく素晴らしかったといわれる。

  『洪範五行伝』に、「法律をないがしろにし、功臣を追い出し、太子を殺し、妾を妻とすると、火が燃え上がらなくなる」とあり、火はその性質を失うと災いになることを述べている。京房の『易伝』に「上が慎まず、下が分を弁えなければ、強い炎がしばしば上り、宮室を焼く」とあるのは、思うに火が礼を司ることをいうのであろう。また「目が明るくないことを不哲(判断力がない)という。これより起こる咎徴は舒であり、罰は暖冬であり、六極では疾病である。時に草木の妖が怒り、時に羽蟲の孽が起こり、時に羊の禍が起こり、時に目の痾が起こり、時に赤色の眚・祥が現れる。これらは水が火を損ねたのである」とある。

  火不炎上(火が燃え上がらなくなる)。
  貞観四年(630)正月癸巳、武徳殿北院で火災があった。貞観十三年(639)三月壬寅、雲陽石が燃えて一丈四方に及び、昼には灰のようで、夜には光があり、草木を投げつければ焼き尽くし、長年たって止んだ。火はその性質を失って金を損なった。貞観二十三年(649)三月、甲弩庫で火災となった。

  永徽五年(654)十二月乙巳、尚書司勲庫が火災となった。

  顕慶元年(656)九月戊辰、恩州・吉州で火災があり、倉庫・兵器・民家二百家以上を焼失した。十一月己巳、饒州で火災があった。

  証聖元年(695)正月丙申夜、明堂で火災があり、武太后は正殿を避けようと思い、音楽を徹夜で演奏させた。宰相の姚璹は、火災は人為的な原因であると思い、天災ではないから、抑えるべきではないとした。武太后はそこで端門に御して祀りを行い、建章宮の故事を引いて、再び明堂を建造し、そこで占いした。この年、内庫が火災となり、二百区以上を焼失した。

  万歳登封元年(696)三月壬寅、撫州で火災があった。

  久視元年(700)八月壬子、平州で火災があり、千戸以上を焼失した。

  景龍四年(710)二月、東都凌空観で火災があった。

  開元五年(717)十一月乙卯、定陵の寝殿で火災があった。この年、洪州・潭州で火災があり、州署に延焼し、州人は赤い物体がとんとんと飛来し、旋回して火災が発生したのを見た。開元十五年(727)七月甲戌、興教門の楼柱で火災があった。この年、衡州で火災があり、三百戸以上に延焼し、州人は大きい甕のようなものが、赤く灯籠のようで、至るところで火災となって発火したのを見た。開元十八年(730)二月丙寅、大雪が降り、突然落雷となり、左飛龍厩が火災となった。占(京房『易伝』妖占)に「天火が厩を焼くのは、兵大いに起こる」とあった。十月乙丑、東都宮仏光寺が火災となった。

  天宝二年(743)六月、東都応天門観で火災があり、左右延福門に延焼し、一日たっても消火しなかった。京房『易伝』に「君主が道を考慮しなければ、それに応じる災異は火が宮殿を焼くことである」とある。天宝九載(751)三月、華岳廟で火災があり、当時、は西岳を封(まつ)ろうとしていたが、華岳廟の火災のため中止した。天宝十載(751)八月丙辰、武庫が火災となり、兵器四十万以上が焼失した。武庫は、兵士の根本である。

  宝応元年(762)十二月己酉、太府左蔵庫で火災があった。

  広徳元年(763)十二月辛卯夜、鄂州で大風があり、火災が江中で発生して、舟三千艘が焼失し、岸上の民家二千家以上に延焼し、死者数千人となった。

  大暦十年(775)二月、荘厳寺の浮図(金堂)で火災があった。それより以前、疾風落雷があり、にわかに火が浮図の中から発生した。

  貞元元年(785)、江陵の度支院が火災となり、江東の租賦百万以上が焼失した。貞元十三年(797)正月、東都の尚書省が火災となった。貞元十九年(803)四月、家令寺が火災となった。

  二年(806)七月、洪州で火災があり、民家一万七千戸が焼失した。元和七年(812)六月、鎮州の甲仗庫で火災があり、主たる役人が罪となって死者百人以上となった。元和八年(813)、江陵で大火があった。元和十一年(816)十一月甲戌、元陵で火災があった。李師道は鄆州の宮殿より、謀乱をはかり、それがなって火災となった。

  大和二年(826)十一月甲辰、禁中昭徳寺で火災があり、延焼して宣政殿東垣および門下省まで到り、宮人の死者数百人となった。大和三年(827)十月癸丑、仗内で火災となった。大和四年(830)三月、陳州・許州で火災があり、一万戸以上が焼失した。十月、浙西で火災があった。十一月、揚州海陵県で火災があった。大和八年(834)三月、揚州で火災があった。全民家千区が焼失した。五月己巳、飛龍神駒中厩で火災があった。十月、揚州の市で火災があり、民家数千区が焼失した。十二月、禁中昭成寺で火災があった。

  開成二年(837)六月、徐州で火災があり、民家三百戸以上が延焼した。開成四年(839)十二月乙卯、乾陵で火災があった。丁丑晦、揚州の市で火災となり、民家数千戸が焼失した。

  会昌元年(841)五月、潞州の市で火災があった。会昌三年(843)六月、西内神龍寺が火災となった。万年県の東市で火災となり、家々で焼失したものが非常に多かった。会昌六年(846)八月、武宗を葬り、辛未、霊駕が三原県に行くと、夜に大風となり、行宮幔城が火災となった。

  乾符四年(877)十月、東都聖善寺で火災があった。

  大順二年(891)六月乙酉、幽州の市楼で火災となり、数百歩延焼した。七月癸丑甲夜、汴州の相国寺の仏閣で火災となった。この日暮、小雨で落雷となり、ある者が、赤塊が楼門の藤網の中に転がって周囲に火災を起こし、しばらくして赤塊は北に飛び、仏閣の藤網の中に転がって、また周囲に火災を起こしたのを見た。その後大雨が突然降り、平地の水深が数尺にもなり、火災はますます激しくなり、民家に延焼して三日消えなかった。

  常燠(常に暑い)。
  天宝元年(742)冬、凍らなかった。先儒は陰となって節を失うのが原因であるとした。また『易伝』に「罪があることを知りながら誅しない。その奥は、夏ならば暑気が人を殺し、冬ならば物が花咲き実を結ぶ」とあるのは、思うに寒くあるべき時期にかえって暖かいのは、刑罰・報償を行うべきの象なのであろう。

  貞元十四年(798)夏、非常に暑かった。

  元和九年(814)六月、非常に暑かった。

  長慶二年(822)冬、雪は少し降るだけで、水は凍らず、草木が芽吹くことは正月のようであった。

  広明元年(880)十一月、暖かさは仲春のようであった。

  草妖(草木の異常)。
  武徳四年(621)、益州が芝草が人の形になっているのを献上した。占(京房『易伝』妖占)に「王の徳が衰え、下の者が興隆しようとすると、木が人のような形になる」とあり、草もまた木の類である。

  景龍二年(708)、岐州郿県の民の王上賓の家が、苦菜で高三尺以上、上の広さは一尺以上、厚さ二分あるのを献上した。これは草木の異常のようなものである。景龍三年(709)、蒜の茎が内より出て、上に重ねて蒜が生えた。蒜は悪草であり、重ねて生えるのはその類が多いことである。景龍四年(710)、京畿藍田山の竹の実が麦のようになった。占(京房『易伝』妖占)に「大飢饉となる」とある。

  開元二年(714)、終南山の竹に花が咲き、実は麦のようで、嶺南でも同じようになり、竹は共に枯死し、この年大飢饉となり、民は採って食べた。占(京房『易伝』妖占)に「国中の竹・柏が枯れれば、三年喪あるを出さず」とある。開元十七年(729)、睦州で竹が実った。

  天宝年間(742-756)初頭、臨川郡の人の李嘉胤の家柱に芝草が生え、形は天尊像のようであった。

  上元二年(761)七月甲辰、延英殿の御座の上に白芝が生え、一莖に三花咲いた。白は、喪の象である。

  大和九年(835)冬、鄭注の金帯に菌が生えた。これは草木の異常のようなものである。

  開成四年(839)六月、襄州の山の竹に実がなって米が出来、民は採って食べた。

  光啓元年(885)七月、河中の解州・永楽州で草が生え、葉が勝手に互いに絡まり合い、旌旗の形のようになり、当時の人は「旗子草」とした。一年七月、鳳翔の麟游県で草が旗の形のようになった。占(京房『易伝』妖占)に「その野は戦争となる」とあった。

  羽蟲之孽(羽の生えた生物に関する異常)。
  武徳年間(618-623)初頭、隋将の堯君素が蒲州を守ると、鵲が石弓に巣をつくった。

  貞観十七年(643)春、斉王李祐が斉州刺史となり、鴨を飼育することを好んだが、狸が鴨を噛み、頭が断たれるものは四十以上であった。この年四月丙戌、晋王が太子となると、雌雉が太極殿前に集まり、雄雉が東宮顕徳殿前に集まった。太極殿は、三朝(正月)の朝会するところである。

  永徽四年(653)、宋州の人の蔡道基の家の傍に獣がいて高さ一丈(3m)あまり、頭は羊のようで一つの角があり、鹿のような形で、馬のような蹄で、牛の尾があり、五色で、翼があった。占(京房『易伝』妖占)に「鳥が獣のような形をしているのは、大戦争となる」とある。永徽五年(654)七月辛巳、万年宮に小鳥が雀のようであり、子が生まれると大きさは鳲鳩(カッコウ)のようであった。

  調露元年(679)、鳴鵽(サケイ)の群れが飛んで辺境に入り、相次いで野を覆い、至調露二年(670)正月、また北に飛び、霊夏の北にいたり、すべて地に墜ちて死んだが、見るとすべて首がなかった。

  文明年間(684)以後、全国でしばしば雌雉が雄になった、あるいは半ば雄となったとの奏上があった。

  景龍四年(710)六月辛巳朔、烏が太極殿の梁に集まり、追い出そうとしても去らなかった。

  開元十三年(725)十一月戊子、雄雉が馴れて泰山斎宮内に飛んだ。封禅は、成功を告げるために、祀事でこのことを重要視する者はおらず、しかも野鳥が馴れて飛んでいるから、禁衞も問題とせず、不祥であった。開元二十五年(737)四月、濮州で二羽の烏、二羽の鵲、二羽の鸜鵒(はっかちょう)が同じ巣をつくった。隴州の鵲が烏を育てた。開元二十八年(740)四月庚辰、烏が宣政殿の斗栱に巣をつくった。辛巳、また宣政殿の斗栱に巣をつくった。

  天宝十三載(753)、葉県の鵲が車の轍の中に巣をつくった。木に巣をつくらず地に巣をつくるのは、その所を失うことである。

  至徳二載(757)三月、安禄山の将の武令珣が南陽を包囲し、鵲が城中の石弓三機に巣をつくり、雛ができると去った。

  大暦八年(773)九月、武功県で大鳥を捕獲し、肉の羽で狐の首で、四足で爪があり、長さ四尺以上、毛は赤く蝙蝠のようで、群鳥は従って騒いだ。これは羽の生えた生物に関する異常のようなものである。大暦十三年(778)五月、左羽林軍に鸜鵒(はっかちょう)が鵲二羽に乳を与えた。

  貞元四年(788)三月、中書省の梧桐樹に鵲が泥で巣をつくった。鵲の巣は年を知り、羽の生えた生物は知ることができるから、今泥で巣を現したのは、風雨にあって壊れるのである。この年の夏、鄭州・汴州の境内に烏が群れとなって飛び、魏博の田緒、淄青の李納の境内に集まり、木をついばんで城をつくり、高さ二・三尺、一方十里(4.3km)であった。田緒・李納は憎んでこれを焼き払い、連夜にわたって燃え、烏の口はすべて流血していた。貞元九年(793)春、許州の鵲が烏の雛を育てた。貞元十年(794)四月、大鳥が飛んで宮中に集まり、残飯の骨を食べること数日してこれを捕獲すると、食べずに死んだ。六月辛未晦、水鳥が左蔵庫に集まった。貞元十三年(797)十月、懐州の𪄢鵊(不明。水鳥の一種か)の巣の中に黄雀がやってきて育てた。貞元十四年(798)秋、変わった鳥がいて、色は青、鳩・鵲に似て、宋州の郊外で見かけ、止まるところは、群鳥が翼で守り、朝夕稻・粱を咥えて育て、睢陽の人で野に行って見物に集まる者が十日ほどいた。貞元十八年(802)六月、烏が徐州の滕県に集まり、柴をついばんで城をつくり、中に白烏一羽、碧烏一羽いた。

  元和元年(806)、常州の鸛(こうのとり)が巣を平地につくった。元和四年(809)十二月、群烏が夜に太行山上に集まった。元和十三年(818)春、淄青の府署および城中の烏・鵲が互いにその雛をとって、それぞれが子に食べ物として与え、さらに互いに攻撃しあい、止めることができなかった。

  宝暦元年(826)十一月丙申、群烏が夜に鳴いた。

  開成元年(836)閏五月丙戌、烏が唐安寺に集まり、翌月に飛び散った。雀が玄法寺に集まり、燕が蕭望之の墓に集まった。開成二年(837)三月、真興門外の鵲が古墓に巣をつくった。鵲の巣は避歳を知り、古えの占もまた巣の高低によって水害・旱を占うから、今、巣を木につくらずに墓を穴とするのは、不祥である。秋、突厥の鳥が塞北より群れで飛んで辺境に入った。開成五年(840)六月、禿鶖が群れて飛び禁苑に集まった。鶖は水鳥である。

  会昌元年(841)、潞州の長子県で白頸烏が鵲と戦った。

  大中十年(856)三月、舒州の呉塘堰で多くの小鳥が巣をつくり、広さ七尺、高さ一尺であった。水禽山鳥は馴れ親しんだ。中に人面のようなのがいて、緑毛で、紺の爪と觜があり、その鳴き声は「甘」と言い、人はこれを「甘蟲」と呼んだ。占(京房『易伝』妖占)に「変わった鳥がいて、邑中にやってきて留まれば、国に戦争があり、人々は互いに喰らいあう」とある。

  咸通七年(866)、涇州霊台県百里戍に雀が燕を生み、大きくなると一緒に飛び去った。京房の『易伝』に「賊臣が国におれば、その咎として燕が雀を生む」とあり、雀が燕を生むのは同じ説である。咸通十一年(870)夏、雉が河内の県署に集まった。咸通年間(860-874)、呉・越に変わった鳥がいて極めて大きく、四つ目で三本足で、山林に鳴き、その鳴き声は「羅平」といった。占(京房『易伝』妖占)に「国に戦争があれば、人々は互いに喰らいあう」とある。

  乾符四年(877)春、廬江県北で鵲が地に巣をつくった。乾符六年(879)夏、鴟・雉が偃師県の南楼および県署に集まった。劉向は「野鳥の入るところ、宮室もまた廃墟となろうとする」と説いた。

  広明元年(880)春、絳州翼城県に鵂鶹鳥(ふくろう)が群れて飛び県署に集まり、他の鳥は逐って騒いだ。光啓元年(885)、光啓二年(886)にも、また同じようなことがあった。鵂鶹は、一名に訓狐という。

  中和元年(881)三月、陳留で烏が変化して鵲となった。中和二年(882)、鵲が変化して烏となった。古えは烏で戦争の勝敗を占った。烏が変化して鵲となるのは、民が賊に従うの象で、鵲がまた変化して烏となるのは、賊がまた民となるの象である。中和三年(883)、新安県の役人の家で雉を捕獲して育て、鶏と馴れさせたが、一月ばかりで互いに闘いあって死んだ。中和四年(884)、臨水・淮水・漣水の民家の鷹が変化して鵝(がちょう)となったが、遊ぶことはできなかった。鷹はあらどりとなって攻撃するから、武臣の象であり、鵝は羽毛が清潔だが、飛んでも遠くまでいくことができず、攻撃することができず、包丁にあてられるだけである。

  光啓元年(885)十二月、陝州平陸県集津山に二首背を向けて首が連なった雉がおり、集津倉の建物後方に住み、数ヶ月して、群雉数百がやって来て闘って殺した。光啓二年(886)正月、閺郷・湖城の野雉および鳶が夜に鳴いた。七月、中条山の鵲がその巣を焼き払った。光啓三年(887)七月、鵲がまた巣を焼き払った。京房の『易伝』に「人君暴虐なれば、鳥その舎(やど)を焚く」とある。光啓三年(887)十月、慈州仵城の梟が鴟と闘って互いに殺し合った。

  光化二年(899)、幽州節度使の劉仁恭が貝州を滅ぼし去った。夜に鵂鶹鳥(ふくろう)が十数羽飛んで帳中に入り、追い払ってもまたやって来た。

  昭宗の時、禿鶖鳥の巣が寝殿の隅にあり、が自ら射殺した。

  天復二年(902)、は鳳翔にあって、十一月丁巳、日南郡に到着した。夜につむじ風となり、烏数千が、夜明けまで飛んで騒ぎ、数日しても止まなかった。車駕が岐に到ると、常に烏が数万、殿前の木々にいて、岐人はこれを「神鴉」と呼んだ。天復三年(903)、宣州に鳥がいて雉に似ていたが大きく、尾に火の光があって散星のようで、戟門に集まり、翌日大火となり、曹局はすべて灰燼となり、ここに兵器があった。

  羊禍(羊の異物)。
  義寧二年(618)三月丙辰、麟游県に子羊が生まれたが尾がなかった。この月乙丑、太原が羖羊(黒雄羊)を献上し、頭がなかったが死ななかった。

  開元二年(714)正月、原州が肉角羊を献上した。開元二年(714)三月、富平県に肉角羊がいた。

  会昌二年(842)春、代州崞県で二つの首が連なり、尾が二つある羊が生まれた。占(京房『易伝』妖占)に「二首は、上一つならざるなり」とある。

  咸通三年(862)夏、平陶県の民家の羊が小牛のような小羊を生んだ。

  乾符二年(875)、洛陽建春門外が暴雨のため、物が地に墜ちて羖羊(黒雄羊)のようであったが、食べず、しばらくして地中に入り、その跡は一月以上消えず、あるいは土が降ったともいう。占(京房『易伝』妖占)に「旱となる」とある。

  赤眚赤祥(赤色の異物)。
  武徳七年(624)、河間王李孝恭輔公祏を征伐することとなり、将軍たちと舟中で宴し、李孝恭が金杯で江の水を酌んで、飲もうとすると、ただちに化して血となった。李孝恭は「杯の中は血となり、それは輔公祏が首を授けるの祥(きざし)なのだ」と言った。

  武徳年間(618-623)初頭、突厥の国中で血が降ること三日であった。

  光宅初年(684)、宗室で岐州刺史の李崇真の子の李横・李杭らが夜宴すると、たちまち気があって血生臭さのようであった。

  武后の時、来俊臣の家の井戸の水が赤に変わって血のようになり、井戸の中に夜に嘆き恨みの声が聞こえ、来俊臣は木で蓋をしたが、木はたちまち自ら十歩外に飛んでいった。

  長安年間(701-705)、并州晋祠の水が血のように赤かった。

  中宗の時、成王李千里の家で血が地を点々とし、箱の上まで来ると上に血がしたたり、数歩先まで生臭かった。また中郎将で東夷の人の毛婆羅が飯を炊くと、一晩で化して血となった。

  景龍二年(708)七月癸巳、赤気が天に広がり、光が地を灯し、三日で止んだ。赤気は、血の祥である。

  天宝六載(747)、少陵原楊慎矜の父の墓の封域内で、草木がすべて流血し、楊慎矜は浮屠の史敬思に祓わせ、退朝して裸で草むらの間を拘束したが、このように数十日しても流血は止まらなかった。天宝十二載(753)、李林甫の邸宅の東北の隅で毎夜火光が発生し、あるいは小児が火を持って出入りしているようであった。これは赤祥のようなものである。

  宝応元年(762)八月庚午夜、赤光が天にわたり、紫微を貫き、東北にゆっくり移動し、半天に充満した。

  大暦十三年(778)二月、太僕寺に泥像があり、左臂の上に黒汗が滴り落ち、紙で受け止めると、血であった。

  貞元二年(786)十一月壬午、日没に赤気が五あり、黒雲の中から出て天にわたった。貞元十二年(796)九月癸卯、夜に赤気があって火のようであり、北方に見え、上は北斗まで到達した。貞元十七年(801)、福州の剣池の水が血のように赤くなった。貞元二十一年(805)正月甲戌、赤い雪が京師に降った。

  元和十四年(819)二月、鄆州従事院の門前の地に血があり、四方一尺以上、色は非常に鮮やかな赤で、どこからきたのかわからず、人々は空から堕ちたと思っていた。

  長慶元年(821)七月戊午、河の水が赤くなり、三日で止んだ。

  宝暦元年(826)十二月乙酉夜、西北で霧が発生し、しばらくして天に広がり、霧が止むと、赤気があり、あるいは浅くあるいは深く、しばらくして散った。

  大和元年(827)四月庚戌、北方に赤気があり、中にしばしば白気がまばらにあった。六月乙卯夜、西北に赤気があった。八月癸卯、京師に赤気が天に満ちたのが見えた。大和二年(826)閏三月乙卯、北方に赤気があって血のようであった。

  咸通七年(866)、鄭州永福湖の水が三日間凝血のように赤くなった。

  乾符六年(879)、中書省の政事堂で突如死人があり、血の汚れは地に満ちたが、何者かわからなかった。また御井の水の色が赤く生臭く、浚渫すると、一人の女子の腐爛死体があった。これは赤祥のようなものである。

  中和二年(882)七月丙午夜、西北方で赤気が絳(あか)のようで、天に広がった。

  光啓元年(885)正月、潤州の江の水が赤く、およそ数日になった。

  水沴火(水が火を損ねる)。
  幽州坊谷地に常に火があり、長慶三年(823)夏、遂に水が溜まって池となった。これは水が火を損ねるようなものである。


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