唐書巻二百一十三
列伝第一百三十八
藩鎮淄青横海
李正己 納 師古 師道 程日華 懐直 懐信 権 李全略 同捷
李正己は、高麗人である。営州の副将となり、
侯希逸に従って青州に入り、侯希逸の母は李正己の叔母であり、そのため推薦されて折衝都尉となった。宝応年間(762-763)、軍候として
史朝義討伐に従軍した。当時、回紇は功績をたのんで横暴であり、諸軍はあえて抵抗することはなかった。
李正己は気によって挫こうと思い、大酋とせめぎあい、軍の兵士は皆立ち並んで観戦した。約束して、「下がった者が殴られる」とし、追って
李正己が先んじたから、
李正己はその頬を殴り、回紇は小便を漏らしたから、軍は大声で笑った。大酋は大いに恥じて、これより憚ってあえて横暴することはなかった。
侯希逸に兵馬使に任じられた。冷静沈着で軍の心を掴んでいたから、侯希逸は内心嫌っており、罪としてその職を解任した。軍中は皆解任は不当であると言い、ついで侯希逸を追放し、詔によって代わって節度使となった。本名は李懐玉で、ここにいたって今の名を賜り、遂に淄州・青州・斉州・海州・登州・莱州・沂州・密州・徳州・棣州の十州を有し、
田承嗣・
薛嵩・
李宝臣・
梁崇義と藩鎮同士互いに助けあった。薛嵩が死ぬと、
李霊耀が叛いたから、諸道がこれを攻撃し、共にその地を分割した。李正己はまた曹州・濮州・徐州・兗州・鄆州を奪い取り、およそ十五州を領有した。渤海の名馬を公益し、毎年絶えることはなく、賦税は公平で軽く、最も強大であると号した。政令は厳格で、領内ではあえて向かい合って話す者はおらず、威信は隣境を震わせた。検校司空を経て、同中書門下平章事を加えられ、司徒兼太子太保となり、饒陽郡王に封ぜられた。宗室の系譜に入れられることを願い、許された。治所を鄆州に移し、子の
李納および腹心の将軍に諸州を守らせた。
建中年間(780-783)初頭、汴州が築城されたのを聞いて、そこで
田悦・
梁崇義・
李惟岳と盟約を結んで共に叛いた。自ら済陰に陣を敷き、兵を並べて演習を行い、軍勢を徐州に増やして江・淮を遮断した。天子はここに輸送路を改め、天下の兵に檄して守備させ、河南は騒然とした。たまたま疽ができて死んだ。年四十九歳。興元年間初頭(784)、
李納が帰順したから、詔して太尉を追贈された。
李納は、若い頃から奉礼郎となり、将兵と防衛にあたった。代宗が召見し、殿中丞に抜擢され、金紫を賜った。入朝し、兼侍御史に抜擢された。
李正己に淄・青二州刺史に任じられ、また行軍司馬となり、濮徐兗沂海留後となり、御史大夫に昇進した。
李正己が死ぬと、喪を秘して公表せず、兵を
田悦と濮陽で合流した。
馬燧が田悦を攻撃しようとしており、李納は大将の衛俊を派遣して救援させ、馬燧に洹水で敗れてほぼ全滅した。徳宗は諸軍に詔して合流して討伐させ、その従父の
李洧は徐州とともに帰順し、大将の
李士真は徳州、
李長卿は棣州をもって誼を通じ、李納は李洧が自分に背いたのを怒り、また徐州が要害であったから、全兵力で李洧を攻撃した。帝は宣武軍節度使の
劉玄佐に命じて諸軍を率いて援軍に進ませ、大いにその兵を破った。李納は濮陽に帰還すると、劉玄佐は進撃して包囲し、郭を残すだけとなった。李納は城壁に登って劉玄佐に見えると、泣いて悔み、判官の房説を派遣して子弟とともに京師に人質とし、よって劉玄佐に謝罪した。当時、宦官の
宋鳳朝は李納が窮地にあるから、功績を立てたいと思い、赦すべきではないと建言し、帝はそこで房説らを禁中に拘禁した。李納はここにおいて鄆州に帰還し、田悦・
李希烈・
朱滔・
王武俊と同盟を結び、自ら斉王と称し、百官を置いた。
興元年間初頭(784)、帝は己を罪する詔を下し、李納もまた帰順し、検校工部尚書を授けられ、平盧節度使に復し、鉄券を賜り、また同中書門下平章事となり、隴西郡王に封ぜられた。
李希烈が陳州を包囲すると、李納は諸軍と合流してこれを城下に破り、検校司空を加えられ、実封五百戸となり、検校司徒に昇進した。死んだとき、年三十四歳で、太傅を追贈された。子に
李師古・
李師道がいる。
李師古は、係累の蔭位によって青州刺史に任命された。
李納が死ぬと、軍は軍帥の継承を願い、詔して右金吾衛大将軍・本軍節度使に起用された。それより以前、棣州に蛤𧊱塩池があり、毎年塩数十万斛を産出した。
李長卿が棣州とともに
朱滔に降ったが、ただ蛤𧊱だけは李納が確保して利益を得ていた。後に徳州・棣州が
王武俊の手に入ると、李納はそこで徳州の南に砦を築いて、河を跨いで蛤𧊱を守り、これを三汊と呼び、魏博に通じて
田緒と通交し、徳州を掠奪したから、王武俊はこれを患しく思った。李師古が襲封した当初、王武俊はその弱さを組みやすしとし、また李納の時代の将軍がいなかったから、そこで兵を率いて蛤𧊱・三汊を奪取した。李師古は趙鎬に防衛させたが、王武俊は子の
王士清の兵に先んじて滴河を渡せたが、たまたま軍営中に火災が発生し、兵士は大騒ぎしてあえて前進しなかった。徳宗は使者を派遣して
王武俊に兵を罷めるよう詔した。
李師古もまた三汊を破壊して朝廷の命令を受けた。
かつて下僚の独孤造は怒りに触れ、京師に奏上のため派遣させ、大将の王済に絞殺させた。貞元年間(785-805)末、
杜佑・
李欒とともに愛妾を封じて国夫人とすることができた。同中書門下平章事に昇進した。
徳宗が崩じ、哀使が到着する前に、義成節度使の
李元素が遺詔を示した。
李師古は国喪をこれ幸いとし、州県に侵攻しようとし、そこで将兵を集めて「李元素は遺詔を偽作したが、どうして叛乱しようとしているのだろうか。討伐しないわけにはいくまい」と告げ、使者を捕らえて、名目上は李元素を討伐するとし、兵を集めて出兵させたが、順宗が即位したことを聞いて取りやめとした。累進して検校司徒・兼侍中を加えられた。元和年間(806-820)初頭に卒し、太傅を追贈された。
李師道は、異母弟である。
李師古はかつて「あいつは民間の疾苦を改めようとしない。民間は衣食に従うということを知らせる必要がある」と言い、そこで知密州に任命した。李師古が病むと、側近の
高沐・
李公度らを召寄せて「私が死んだら、誰を後継にしようと思うのか」と言ったが、二人は答えなかった。李師古は「どうして人の情によって李師道に仕えようというのか。彼は兵士が心服しておらず、職人が飾り立てたもので自らが貴いものとしているから、我が一族を滅亡においやるのではないかと心配している。君らはよくよく考えてくれ」と言い、李師古が死ぬと、高沐・李公度は家奴とともについに李師道を擁立し、朝廷に追認を願った。任命の制書は長らく交付されず、李師道は兵を集めて国境を守ろうと謀ったが、高沐はきつく諌止し、改めて上書して両税を奉り、塩法を遵守し、官吏の派遣を朝廷に要請した。宰相の
杜黄裳はその権力を削減しようとしていたが、憲宗は
劉闢を討伐しようとし、まだ朝廷の軍は東征できていないから、そのため建王
李審に節度大使を摂領させて、李師道を知留後とした。この年のうち、検校工部尚書を加えられ、副大使となった。
李正己より以来、表向きは王命を奉ってきたとはいえ、大げさに言っては謀反に引き込み、朝廷に罪を得ることがあればあつく納付して逃れた。厳しい法で部下を統率し、外地に派遣する場合は、必ずその妻子を人質にした。朝廷に帰順しようと謀る者があれば、その家族を皆殺しにした。そうやって軍を脅かして、地位を三代に伝えたのだという。
帝は
蔡を討伐しようとし、諸道の兵をおこすよう詔したが、詔は鄆州には送らなかった。李師道は兵二千を選んで寿春に駐屯させ、表向きは王師を助けるのだと言い、内実は蔡を助けようとしていた。亡命してきた少年が李師道のために計略を授けて「河陰は江・淮の物資の集積地で、ここから河南・帝都に輸送されています。河陰を焼き払って庫を奪い、洛陽の壮士を募って宮殿を攻撃させれば、朝廷は自分自身の腹の病気を救おうとします。これは蔡を解放するための一つの奇策です」と言い、李師道はそこで客人を派遣して河陰の漕院の銭三十万緡、米数万斛、倉庫百箇所を焼き払った。また李師道に向かって「お上は蔡を討伐しようとする志がありますが、謀はすべて宰相から出ているので、
武元衡は帝の信頼を得ており、漢の袁盎のように暗殺してしまえば、後に宰相に就任する者は必ず恐れ、戦いをやめるよう願うので、これによって軍を用いず、蔡を解囲できるのです」と説き、そこで人を派遣して武元衡を殺し、
裴度に重症を負わせた。
それより以前、
李師道は邸宅を東都に置き、伊闕県・陸渾県の間の田を多く買い、
山棚に住まわせ、将の
訾嘉珍・門察を派遣して分割管理させたが、これは嵩山の僧侶の円静の謀であった。元和十年(815)、兵士が大宴会を邸中で行い、牛を解体して酒を注ぎ、甲冑の上に着物を着て隠していたのを、その一味が官に密告して発覚した。留守の
呂元膺は兵で邸を包囲し、賊が突出すると、畿内のあちこちで掠奪を働いた。山中に入ること数カ月、山棚が交易した物を奪ったから、山棚は怒り、官軍を導いて襲撃し、全員殺害した。円静なる者は、年八十歳あまりで、かつて
史思明の将となり、武勇が超絶していた。捕らえられると、力士が槌でその脛を折ろうとしたが、折ることができず、罵って「小僧め、人の脛を折ろうとしてできないようなのは、健児といえようか」と言い、そこで自らその足を置いて折った。死に際して、「私は失敗したが、洛城の流血を見られなかったな」と嘆き、この時、留守・防禦将・都亭駅史の数十人は、全員密かに李師道によってその職に任命されていたから、偵察させても、そのため知ることはなかった。尋問におよぶと、訾嘉珍・門察は
武元衡を殺害した。塩鉄使の
王播もまた
訾嘉珍の隠していた弓材五千、および壊した建陵の戟四十七を鹵獲した。
それより以前、
李師道は
呉元済の虚実を知ろうと思い、劉晏平を間道から淮西に走らせた。呉元済は毎日一緒に宴し、厚く誼を結んだ。劉晏平は帰還すると、呉元済がにわかに軍数万とともに、安逸として領内におり、妻や妾と博打に戯れているから、必ず敗北するだろうと報告した。李師道はもとより蔡をたよって重じていたから、これを聞いて怒り、そこで他の罪を着せて劉晏平を殺害した。
李光顔が凌雲柵を陥落させたことを聞き、始めて大いに恐れ、使者を派遣して帰順した。帝は兵を分けて李師道・呉元済の両軍と対峙するのは重荷であると思ったから、そのため給事中の
柳公綽に命じて慰撫させ、検校司空に任じた。
蔡が平定されると、また比部員外郎の
張宿を派遣して地を割いて子を人質にするようほのめかした。張宿は、「公は今国に帰順して宗室の姓となっていますが、これによって尊卑を論じていますが、お上は叔父なので、屈していないことは第一なのです。十二州をもって三百余州の天子に仕え、北面して藩としていますが、屈していないこと第二なのです。五十年の伝爵で、二百年の天子の臣となっていますが、屈していないこと第三なのです。今背いていることはすでに明らかであるのに、お上はなおも反省することを許されています。子を派遣して宿衛に入らせ、地を割いて贖罪すべきです」と言い、李師道はそこで三州を納め、子の
李弘方を派遣して入侍させることとした。張宿が帰還すると、
李師道は心の中で後悔し、諸将を招集して議論した。皆が、「蔡は数州で、三・四年戦いましたが勝利をおさめました。公は今十二州あるので、どうして心配することがありましょうか」と言ったが、大将の崔承度は一人進み出て「公ははじめ諸将や腹心に示されませんでした。しかし今、軍を委ねるのは、これはすべて利を貪る者で、朝廷は一漿十餅ほどの小さな恩恵で誘って去らせようとしているのです」と言うと、
李師道は怒り、崔承度を派遣して京師に詣でさせ、軍候吏に帰還する時に斬らせようとしたから、崔承度は客省に待命となり、あえて帰還しなかった。
帝は
李師道が約束に背いたから、左散騎常侍の
李遜に諭旨させた。到着すると、李師道は兵を整列させて会見した。李遜は責め立てて「前にすでに約束したのに、今これに背くのはどうしてか。願わくば誓約して天子に奏上すべきです」と言い、李師道はこれを許したが、暗愚で自ら決められなかった。奴婢らがきつく「先に司徒の土地をどうして一旦割くのでしょうか。今三州を献上しなくても、戦うだけのことであって、勝てなかったときに地を割いても遅くはありません」と言ったから、李師道はそこで上書し、軍の反対のため地を献上できないとした。帝は怒り、詔を下してその官職を削り、諸軍に詔して討伐させた。武寧節度使の
李愿は将の
王智興にその軍を破らせ、二千の首級を斬り、馬牛四千を鹵獲し、攻略して平陰に至った。横海節度使の
鄭権は福城で戦い、五百の首級を斬った。武寧軍の将の
李祐は魚台で戦い、これを破った。宣武節度使の
韓弘は考城を陥落させた。淮南節度使の
李夷簡は
李聴を海州に急派し、沭陽・朐山を降し、進軍して東海を守備した。魏博節度使の
田弘正は自ら兵を率いて陽劉(楊劉)から渡河し、鄆州から隔たること四十里のところに陣営を敷き、二度戦い、三万の軍を破り、三千人を捕虜とした。陳許節度使の
李光顔は濮陽を攻撃し、斗門・杜荘の二屯営を奪った。
田弘正はまた東阿で戦い、その軍五万を破った。
李師道は敗報を聞くごとに、たちまち動悸がして病気となり、李祐が金郷を奪取すると、側近はあえて申し上げることはなかった。
それより以前、大将の
劉悟を派遣して陽穀に陣を敷かせ、魏博の軍に対応させたが、その逗留を疑ったから、劉悟は免れないのを恐れ、兵を引き返してかえって城を攻めた。李師道は起床してこれを聞き、その兄嫁の裴氏に向かって「劉悟の兵が叛きました。民となることを求めて、墳墓を守りましょう」と言い、そこで
李弘方とともに厠に隠れたが、兵に捕らえられた。李師道は劉悟との面会を願ったが許されず、また京師に送られることを願った。劉悟は「司空は今囚人となっています。何の面目があって天子に見えるのですか」と言わせたが、それでも俯いて哀願したから、李弘方は「早く死ぬのにこしたことはありません」と言い、そこで二人共斬られ、首を京師に伝送された。その死体は遺棄され、あえて埋葬しようとする者はいなかったが、兵士の英秀なる者が城の東に殯した。
馬揔がやって来ると、士の礼によって改葬した。
それより以前、
李師古は
劉悟に会うと、「後で必ず高貴となるだろう。しかし我が家を破るのはこの人だ」と言った。
田弘正が渡河攻撃すると、李師古の将
夏侯澄ら四十七人を捕虜としたが、詔して全員許し、絹布を給付し、戻して魏博・義成軍に属させ、父母がいて帰りたいと思う者は帰還を許し、賊は皆感謝して互いに告げあったから、これによって劉悟はその謀を行うことができた。李師道の首は田弘正の軍営に伝送され、夏侯澄を呼び寄せて首実検をした。夏侯澄は李師道の目の中の塵を舐めて、長いこと号泣した。劉悟はもとより李師道の妻の魏氏と乱倫関係にあり、鄭国公
魏徴の末裔と妄言していたから、死なず、掖廷に入れられ、他の一族はことごとく遠くに遷された。劉悟は上表して李師古の子の李明安を朗州司戸参軍とした。親将の王承慶は、
王承宗の弟であり、
李師道は兄の娘を娶せた。潜かに側近と約束し、軍が疲弊しているから
李師道を捕らえようとしたが、たまたま劉悟が侵入したから、徐州に出奔し、朝廷に帰順した。
程日華は、定州安喜県の人であり、始名は程華で、徳宗は功績があるから、日華とした。父の程元皓は
安禄山の帳下にあって、偽定州刺史に任じられ、そのため程日華も本軍に籍を置き、
張孝忠の牙将となった。滄州はもともと成徳軍所属の州であり、張孝忠は
李惟岳を拒むと、徳宗は滄州を義武軍に与えた。前刺史の李固烈は
李惟岳と婚姻関係にあり、そのため固守した。
張孝忠は程日華に行って諭させると、李固烈は恒州への帰還を願った。旅装が終わり、財産をすべて積んで出発しようとすると、軍中は怒って「馬は痩せ、兵士は飢え死にし、刺史は些細なことも見捨てず、我らの危急を憐れまなければならないのに、今地を刮げって去るのは、我らは何を望めばいいのか」と言い、遂に共に李固烈を殺し、その家族を皆殺しにした。程日華は驚いて牀(ベット)の下に隠れたが、将兵は出迎えて「我が軍に暴政をしいた者はすでに死んだ。何を畏れることがあろうか」と言い、共に領州に迫った。
張孝忠もまた
程日華が寛容であったから、遂に仮に刺史とした。
朱滔が叛くと、兵を河間に駐屯させたから、滄州・定州間の道が阻まれて遮断された。朱滔および
王武俊は皆程日華を招いたが、受け入れなかったから、ただちに攻撃された。程日華は城に入って守りを固くした。参軍事の
李宇が謀って「城が長らく包囲されており、府兵は援軍に来ません。今は一州十県の地は海にせまり、魚や塩の利益があって自給できます。この軍はもともと横海軍と号しており、将軍は易定(義武軍)と断絶して天子に帰順すれば、自ら一州となり、甲冑を修繕して兵士を訓練し、戦況が有利であれば出撃し、不利なら守り、賊の喉襟で均衡できます。あなたが私の計略を用いることができれば、京師にいたって天子のためにこのことを申し上げてください」と言うと、
程日華はそうだと思い、そこで李宇を西に派遣すると、帝は果して大いに喜び、御史中丞・滄州刺史を拝命し、再び横海軍を設置し、そこで
程日華を使とした。時に建中三年(782)のことであった。検校工部尚書を拝命した。詔して滄州は毎年義武軍に十二万緡、糧数万斛を送らせ、李宇を判官とした。
王武俊は滄州を得ようと思い、人を派遣して程日華に自分に帰順するよう説いた。程日華は偽って「私めの領は賊に攻められ、力に屈して降っています。騎兵二百をお借りして賊に対抗したいと思います。賊を退けられれば、地を公に授けます」と言ったから、王武俊は喜び、馬を贈ったが、程日華は馬を留めて使者を拒絶した。王武俊は大いに怒ったが、
朱滔と親しかったから、怨みとなるのを恐れて、罷めた。
王武俊が朝廷に帰順すると、程日華はそこで馬を返還し、珍しい宝物で厚く謝罪し、再び誼を結び、
王武俊もまた嫌悪感が消えて釈然とした。貞元二年(786)卒し、兵部尚書を追贈された。
子の
程懐直は勝手に知留事となり、帝は
程日華の故実によって、そこで権知滄州刺史を拝命した。
李宇は入朝し、東光県・景城県の二県を割いて景州を設置することを願い、また刺史の任命を要請した。河朔の刺史は朝廷の任命を受けなかったこと三十年にも及び、帝はその忠義をお褒めになり、
徐申を景州刺史とした。横海軍を昇進させて節度使とし、
程懐直を抜擢して留後とした。翌年、節度使となった。貞元九年(793)来朝し、寵遇に等級を加えた。検校尚書右僕射に昇進し、大邸宅・宮女を賜った。
程懐直は荒田で狩猟し、出るとたちまち数日戻らず、帳下の
程懐信は軍の怒りに乗じて、閉門して入れなかった。程懐信はその従兄弟である。ここに程懐直は入朝し、帝はこれを罪とはせず、改めて
虔王を節度使とし、程懐信を抜擢して留後とし、
程懐直を兼右龍武軍統軍とした。翌年、程懐信を節度使とした。貞元十六年(800)、
程懐直は卒し、揚州大都督を追贈された。
その後五年して、
程懐信は死に、子の
程権が襲封して軍務を領し、詔して留後を授けられた。元和元年(806)、節度使を拝命し、累進して検校兵部尚書となり、邢国公に封ぜられた。元和六年(811)入朝し、憲宗は寵遇してから鎮に帰し、検校尚書右僕射とした。程権は初名を程執恭といい、かつて夢に滄州の諸門にすべて「権」字が書かれており、そこで改名してこれに応じたのであった。淮西が平定されると、恐れて不安となり、入朝を願った。京師に到り、固く軍政を辞退し、そこで華州刺史の
鄭権に詔して代わらせた。後に検校司空となり邠寧節度使に任じられた。卒すると、司徒を追贈され、その宗族で朝廷に奉って宿衛を願う者は三十人あまりであった。
李全略は、本は王氏で、名を日簡といい、
王武俊に仕えて下級将校となった。
王承宗の時、その軍に酷使されたから、そのため入朝し、代州刺史を授けられた。
田弘正が殺害されると、穆宗は李全略がもと鎮州の将であったから、召寄せて言いたいことを尋ねた。李全略は多く利害を述べ、帝の意にかなうことを願い、また死力を尽くして報いることを願ったから、遂に徳州刺史を授けられた。この時、
杜叔良の軍が博野で敗北し、そのため李全略を横海軍節度・滄徳棣州観察使とし、今の姓名を賜った。しばらくもしないうちに、銭千万を貢納し、子の
李同捷に入朝させた。帰還すると、そこで奏上して李同捷を滄州長史、押中軍兵馬とした。帝はやむを得ず、その要請を裁可した。李全略は密かに長期的な計画を伝えようと謀り、武勇に優れた人材を選び、私的に兵士の心と結びついた。棣州刺史の
王稷がよく軍を懐かせ、家は財力に富んでいたから、
李全略は心の中で嫌い、計略によって殺害し、その一家を皆殺しにした。
しばらくもしないうちに死に、
李同捷が留後の事を領し、隣藩に賄賂を重ねて、父の節を領することを求め、敬宗は長いこと詔を下さなかった。にわかに文宗が即位すると、李同捷は帝が新たに位を継いだことによって、必ず大赦して四方に示すと思ったから、そこで弟の李同志・
李同巽を派遣して入朝し、その部下の
崔長に上表文を奉って任命を願わせたから、詔があって兗海節度使を拝命し、横海軍節度使は
烏重胤が交替することとなった。李同捷は計画につまり、偽って軍が自分を留めているのだと申し上げた。ここに
王智興は全軍で討伐に出撃することを願い、魏博節度使の
史憲誠は大将に手ずから詔を伝えて軍に入らせたが、李同捷は受けず、徳州・棣州の民は多くが鄆州に出奔した。そこで詔を下して官爵を削り、烏重胤に鄆・斉の兵を率いて討伐に進撃させた。史憲誠・王智興および汴滑の
李聴・平盧の
康志睦・易定の
張璠・幽州の
李載義が兵で越境してきた。李同捷は自らと成徳軍とが旧交あることによって、そこで玉帛や子女を傾けて河北三鎮の喜ぶところに贈った。李載義は許さず、その通交を絶やし、使者および派遣された奴婢四十七人を捕らえて朝廷に献上した。
王廷湊はもとより横海軍を窺っていたから、その隙に乗じて取ろうと思い、軍を率いて救援した。王智興は棣州を攻撃し、城門に火をつけ、水を引き込んで城に注ぎ込み、約七か月ほどして、その将の張叔連が降伏した。それより以前、刺史の欒濛は
李同捷の謀反を密かにお上に変事を報告したが、事は漏洩して、殺害されたから、工部尚書を追贈された。王智興は進撃して滄州を包囲した。
この時、帝は
王廷湊の朝貢を絶やし、またこれを討伐し、兵はおびただしく、調発は不適当であったから、始めて供軍糧料使を設置し、これによって両河を渡河し、諸将もまた多く敵の首を持って恩賞を得ようとした。
烏重胤が卒してからは、
李寰・
傅良弼は戦争を終わらせず、更迭して左金吾衛大将軍の
李祐に代わらせ、
王智興の将の李君謀は軽装兵で河を渡り、夜に無棣県を残し、饒安県に立て籠もった五千の兵を降伏させた。翌年、李祐は無棣県・平原県を攻略した。詔があって行営に防壁を建て農業に勤め、襲撃されないようにし、決戦してはならないとした。しかし李祐の兵はすでに徳州に迫り、帝は諌議大夫の
柏耆を派遣して宣慰させた。李祐は攻撃して徳州を陥落させ、敗残兵は王廷湊のもとに逃げた。李同捷はますます窮地に陥り、降伏を願ったが、李祐は偽りであるかと疑った。柏耆は兵を率いて直ちに入城し、李同捷および家族を捕らえて西に向かった。李祐は滄州に入り、柏耆は将陵県に至ると、李同捷を斬り、その部下に首を京師に伝送させた。詔して四州に租賦一年間を免除し、李同捷の母および妻と息子を赦して、湖南に遷した。
崔長を商州に配流した。
李同巽らは異母弟であったから死を許され、母に従って配所に流されたという。
最終更新:2024年07月16日 23:53