善のみ行い罪を犯さない人間はこの地上にはいない
―――コレヘトの言葉 第7章20節
愚か者は愚か者でなければ愚か者たりえないと、どこかで聞いた諺を
V.A シギンは思い出していた。
溜息をつきそうになるのを堪えながら眉間を指で揉み、あたりを見渡す。簡素なオフィス。つまらない、デスクワークの最中だ。
自分の前の画面にあるのは、反省文。よくできた反省文の署名は、
V.A ツァラ。
「……ふむ」
反省文の他にもツァラが署名してる書類はある。それも大量に。
第8世代型強化人間手術で忍耐力が焼き切れた彼女は、それでも未だにキャリアウーマンとしての仕事量をこなしている。そちらの能力は失われていなかったのだ。
ただ、今の彼女は忍耐や堪えるということがほぼできない。それを考えてもこうしてデスクワークを任せられるのは、企業業務に疎いシギンにはありがたい。
どの書類も、よくできている。おそらくは、という言葉が頭につくが。
「あとはこれを、俺が処理する、と」
面倒だしつまらない、と思った。
しかしながら、やらなければならない仕事ではある。そこに至って、よくもまあこの書類をツァラは片付けたものだと感心した。
以前の彼女ならこの1.5倍はやってのけたし、シギンの署名などなくとも上は満足しただろう。それだけ、彼女は良くできた女だった。
かつては、頼りがいのある女だった。冷徹で頭が切れる。だが、今はもう違う。頭が切れるのは変わらないが、冷徹とは到底言えない。
あの手術さえなければ、と未だに何人かは口にする。何かあったに違いない、と。しかし、何かあったとすれば、今の彼女はそれを許しはしないだろう。
「………」
ふと、気になった。
シギンは書類が山になっているデータから目を逸らして、タイプして調べる。
だが、該当するものはでてこない。ツァラは、誰にも復讐していない。誰の頭にも風穴を開けていない。
では、あの手術は本当になにもなかったのか、とシギンは足を組み、ふむと唸る。
「失礼、趣味の時間だったかな」
声の方を見ると、痩せぎすの、神経質そうな壮齢の男がいた。
「ツァラに任せていた仕事がここで止まっていると知った。だから来た」
「そうか。どれのことだ?」
画面を書類の山に戻すと、隣のバルデスの目元がぴくりと動く気配がした。
「これを全部、まとめて私のところに送ってください」
「良いのか」
「ゴミ山からプラスチックだけを分別するくらいなら、あとで丸ごと処分しますよ」
「なら、任せる」
肩の荷が下りた。シギンは書類の山をバルデスのオフィスに転送する。
それが終わるまで、バルデスは動かなかった。終わっても、やはり動かなかった。
怪訝な顔をして、シギンは言った。
「なんだ。他にも、なにかあるのか」
「ツァラの手術でなにがあったのか、調べていたように見えたので」
「ああ。だが、ツァラは馬鹿だが愚かではない。なにかあったのなら、答えに行きついているはずだと、そう思った」
「なるほど。たしかに、彼女は答えにたどり着きましたよ」
「……どういう意味だ、バルデス」
フムン、とバルデスは考え、オフィスの片隅にコーヒーメーカーがあるのを見て、少し待てとジェスチャーした。
シギンは足と腕を組み、バルデスが珈琲を淹れて戻ってくるまで待つ。
バルデスは湯気の立つカップをデスクに置き、椅子に座る。
「ツァラの手術でなにがあったか、お前は知っているんだな」
「仕事の出来過ぎる人間と言うものは、出世の階段を昇る際に後ろから刺されることもある。あれもそうだ。刺されたところが脳のどこかだっただけだ」
「それを何故、お前が知っている」
シギンは、睨んだ。
しかし予想通り、バルデスは怯まない。
ガラス玉のような眼でこちらを観察して、コーヒーカップを手に取り、それをずずっと飲み、事も無げに言った。
「ツァラの手術を台無しにした連中は、私が処分した」
「………何?」
「妙な動きをしていたので、事前に眼を付けていた。案の定、やらかした」
「分かっていて、お前はなにもしなかったのか」
「危険思想を持つからと予防処分はできない。事が起こってからでなければ」
再び、バルデスはコーヒーをずずっと啜る。
シギンはガラス玉のようなその目を見つめ、深く、息を吸った。
厭な臭いがする。そういう感触だ。
「バルデス、俺に誤魔化しは通用しないぞ」
「そうですか。では、訂正しよう」
コーヒーカップをデスクにおいて、バルデスは続ける。
「すべて知っていたとも」
立ち上がり、拳を振り上げる。
しかしバルデスはシギンのその動きを予見していたかのように、それを手で制した。
シギンが睨みつける中、バルデスはゆっくりと立ち上がり、椅子を戻して、両手を広げる。
「一発。一発は許容する」
「ありがたいお言葉だ」
遠慮なく、シギンはバルデスをぶん殴った。
痩せぎすの男の身体が宙に浮き、オフィスの廊下で受け身を取り、そのまますくっと立ち上がる。
乱れた髪を手で直し、口から血が出ているのに気づけばハンカチを取り出してそれを拭う。
「すべて知っていてお前は止めなかった」
「シギン。勘違いされては困るから言うが、私は規則上なんら不正はしていない。見つけて、処分しただけだ」
「ツァラは―――」
「彼女は自分で犯人にたどり着き、拳銃を片手に私の下に来たよ。処分したと言ったら、泣いて喜んでいた」
少しふらつきながらもバルデスはコーヒーカップを手に取り、啜り、口の中を漱いでそれを飲み下ろす。
あともう何発かぶん殴ってやれば息の根を止めてやれるかもしれないが、シギンは激情を制して椅子に腰を下ろした。
バルデスが一発は許容すると言ったのだから、二発目を叩き込もうとすれば何が起こるか分かったものではない。
「幸いにも彼女の処理能力は変わらず健在だと彼女自身が証明した。私は彼女の処分を差し止めた」
「感謝しろとでも」
「恨んでくれていいとも。だが、ツァラの事務能力は君も私も、ヴェスパーも必要としている。彼女が死ねば我々が苦労する」
他に言い方があるだろうとシギンは思ったが、口に出す前にその言葉を飲み込んだ。
バルデスとは、こういう男だ。俗物で、人形のように働き、動く。
デスクに腰かけ、バルデスはコーヒーをぐっと呷り、言った。
「ツァラで気になったことはそれだけか」
「それだけだ」
「良かった。それと君の方からツァラに、事務仕事はそのまま私に転送するように言っておいてくれ」
「次に会ったら伝えておこう」
うんざりしながらシギンがそう答えると、バルデスは満足したと言わんばかりに頷いて去っていった。
溜息をつき、シギンは項垂れた。
知らなくてもいいことを知ろうとすると、疲れる。
企業はそういうことが多すぎる。
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最終更新:2023年12月04日 21:27