―――諺
―――儂このまま寂しくて死ぬかもしれん。
そんな顔で飯屋の二階の騒音だらけの安宿のベッドで仰向けに寝転んで天上の染みを眺めている白毛は、もちろん死ぬような傷など負ってはいなかった。
ただ、その表情にはいつもの活力や自信が無いのは確かで、端的に言えば元気がなさそうだ。シャワーを浴びるのも億劫で着替えも横着したのか、飾り気のないジャージで済ませている。
これは孤独死しそうなのではなく、単に出撃後で頭痛がして疲れて歓楽街に出ていく気力が無いだけだ。飯を食うのも気乗りせず、部屋の電気を付けるのすら面倒くさがっている。
仙人模型と言う義体の型式名そのままに白毛が仙人であれば霞でも食っていればいいのだが、生憎とこの非力で生臭な生き物はそこまで高尚な存在ではない。
「あぁ~……ねーちゃん誰か呼んだんじゃけど、誰じゃったか忘れてしもうた……」
ごろん、と寝返りを打ちながら白毛はそんなことをぼそりと言う。
この似非導士は疲れてへろへろになりながらも兵舎で寝るのはなんかやっぱり嫌だったので、とぼとぼとここまで歩いてくる道中、しおしおな目で端末を操作して馴染みのねーちゃんにメールをしていた。
そして今、誰にメールを送ったのか忘れている。確認するために端末を肩掛け鞄から取り出すのすらめんどくさいのか、もぞもぞと手を動かして腹を掻き始める。
腹を掻いてジャージが捲れあがり白くて柔らかそうなすべすべの肌と少年らしいヘソが丸見えになって腹が冷えるが、なんかそれそら直すのが面倒くさいらしい。
階下の飯屋では仕事終わりのあんちゃんたちやオヤジどもや、飯屋のオバちゃんたちががやがやと騒いでいる。その声と飯屋の匂いを嗅ぎながら、白毛はほうっと息を吐いて、ぺたぁっとベッドで脱力する。日常のなんともない騒音や油の匂いは白毛にとって心地よいものだ。自分の身体がそこにあると確かに実感できる、いくつもある要素のうちの一つだ。
調理の音や談笑する声、気密もあんまりなさそうなガタつく窓から漏れ聞こえる道すがらの人々の歩く音や、内燃機関の響きに、屋台の売り文句が途切れ途切れで聞こえる。大豊の息遣いだ。鬱陶しいほどに人がいて、そこで生きるしかない連中の音だ。それはとても心地よく、白毛の精神を落ち着かせて、少しばかりの気力が身体に戻ってくる。
白毛はもぞもぞと起き上がろうとして失敗するのを何度か繰り返した後、ごろごろとベッドの端まで転がって、うつ伏せになってからむくりと起き上がる。腹が見えていたので、ぐっと裾を下に下げる。
「電気点けて……小腹に入れるもんと茶と、そっから酒貰ってくるかのう」
端末を取り出すのは面倒だからツケにしておこう、とぼそぼそ言いながら、白毛はまず部屋の電気をつけて左右によたよた危なっかしい足取りで玄関まで歩いて行った。
そこで自分が面倒くさがってそのまま履いてきた軍靴を見て、普通の外行用の靴かサンダルで来ればよかったと言いたげな顔で肩を落とした。さっきまで戻ってきた気力が急な出張でどこかに消えた。
もうええわいと唇を尖らせながらむくれる白毛が踵を返そうとした時、ビービーっと安っぽいドアベルが鳴った。ベッドよりもドアの方が近かったので白毛は無警戒にドアを開ける。
知った顔が居た。ただ、知った顔の中でここに今来るとは思っていなかった顔だったので、白毛は「ん?」と首を捻った。
凹凸の少ない体つきに白毛とどっこいの小柄な体格。黒髪を後ろで二房に結っていて、少し伏目がちな碧い目。右手には使い古された買い物籠を持っていて、そこにさっき白毛が貰いに行こうとしたものがすべて入っていた。羽織っているぶかっとしたジャケットの下には、華やかな黄色の色彩の旗袍が覗いている。
パチクリ、と金色の目を丸くしながら、白毛は思ったことをそのまま口に乗せた。
「スージー、すっごい綺麗じゃなそれ」
「そ、そう? あとこれ、下のオバさんが白大人にって」
「ちょうど欲しかったところじゃ。んま、入って食べるかの」
ほれほれ、と白毛は
蘇珊華を部屋に招き入れる。持っている買い物籠を白毛が貰い、スージーが靴を脱いで上がるのを見てから部屋の奥へ一緒に引っ込む。
部屋に一つだけある丸テーブルに買い物籠を置いて、白毛は中身を並べていった。軽食のスープは小ぶりながら肉がたっぷり入ったワンタンが12個入っていて、茶はポットに入ったものとカップが一つ、そして安い白酒のちっこいボトルが一本。
「……これ飲めんことはないんじゃが、なんかプラスチックみたいな味するんじゃよな」
「それって飲んで大丈夫なやつなの?」
「安酒じゃしそんなもんじゃよ。ほれ、部屋ん中じゃしジャケットも脱いで。あとワンタンもあったかいうちに食べてええからの」
「白毛のツケなら食べる」
「うん、儂のツケじゃ」
白毛は言いながら買い物籠を部屋の隅っこに置いて、スージーが脱いだジャケットを受け取り、四苦八苦しながらそれをハンガーにかける。
最初からツケにするつもりだった白毛のことは知らず、スージーはちょっと悩んだ素振りをして、ワンタンスープと白毛を順番に見た後、レンゲを取った。
「なら食べる」
「うんうん。儂はちょっとこれ飲む」
ふーふー、と湯気の立つワンタンスープからワンタンを一つ掬って冷ますスージーを眺めながら、白毛は小瓶の安酒を開けてぐいっと飲む。
飲めない酒ではないのだが、なんというか工業的な後味が残る安酒だ。溶けたプラスチックみたいな独特の風味がある。アルコールなのは確かなのだが。
さすがに二口も飲むと口の中が変な具合になってきたので、蓋を閉めて茶を注いでそれを飲み、ハムハムと美味そうにワンタンスープを独り占めするスージーを眺める。
ここの飯屋のワンタンは小ぶりで肉がたっぷりだが、スープはくどくないあっさり。小腹が空いた時にはもってこいの一品だ。白毛も一口食べたかったが、スージーが美味しそうに食べているのでそのまま全部食べてしまってええよと手振りで示す。スージーはそのまま完食し、白毛は空になったカップに茶を注いでそれをスージーに渡した。
「どうも」
「ええんじゃよ。儂は誰かが美味そうに飯食ってる方が好きじゃし。スージーはジャンク飯よう食ってそうじゃし」
「時間があるときはきちんと食べてるし……」
「時間がないときの心配をしとるんじゃが、儂」
椅子をスージーの隣に寄せて、どっこらせっと腰を下ろしながら白毛は早速アルコールのぽわんとしたほろ酔い気分に浸る。
音や匂いが薄布を羽織ったかのように微かに滲むのが心地よい。その心地よい一時、隣で茶を飲むスージーがそわそわしてきたのも面白くて可愛くて白毛は胸の奥をくすぐられる。
見たところ黄色の旗袍―――チャイナドレスは良い仕立てのものらしかった。スージーの身体にぴったり合っていて、胸から腰つきのラインがよく分かる。スリットから見える足も綺麗で健康的で良い。
ええなぁ、と白毛はスージーを見つめる。そわそわしていたスージーの碧い瞳が白毛の金色の瞳と合って、ぴくっと身体の動きが止まる。そっと手を伸ばして布越しに太ももを撫で回すと、小さい声をあげてそわそわする。ええなぁ、と思いながら白毛がその先に指を伸ばすと、
「ッ!!」
かぽっと太ももが閉じて、おろっととぼけた顔になった白毛の顔にスージーの左ビンタが直撃した。
太ももに挟まれた幸せな感触と手首が捻じれた痛みと、それからじんじんする右頬の痛みを感じながら、白毛は床に大の字になって首を捻る。今のそういう流れじゃなかったのかしらん。
顔を赤くしたスージーがすっと立ち上がってなにか言おうと口をもごもごさせる。白毛がそれを床から見上げていると、またビービーっと安っぽいドアベルが鳴った。
白毛がまた「ん?」と言って大の字になったまま玄関を見ると、扉がガチャっとあいて今度こそ馴染みのねーちゃんの顔が見えた。左腕に虎の刺青を掘ってるねーちゃんだ。
「白大人、遅くナテ申し訳ナイネ……哎呀」
「あー……うーん? もしかして儂が連絡したのって小姐?」
「是的。ブッキしちゃたネ」
「ブッキングというか、いつもの儂の勘違いじゃなぁ」
困った困った、とねーちゃんと白毛が笑い話に落とし込もうとするが、スージーはすっと立ち上がって白毛を跨いで腕を組み、じっと玄関の虎の刺青のねーちゃんを睨みつける。
実際は睨みつけている自覚は無いのかもしれないが、その目つきは実父っぽくもあり血の繋がりを感じさせるものだ。呼ばれて来たら子供のような体格の女に睨まれ、虎の刺青のねーちゃんはふっと笑みを消して据わった目でスージーをじぃっと見つめ、その後にすぐ二カッと笑ってパンパンと二度手を叩く。
「是这样啊。そゆことネ、完全に理解したヨ! あーとは頑張るネ!!」
白毛にはよく分からないなにかが二人の女の間で相互理解に至ったらしい。
虎の刺青のねーちゃんはぶんぶん手を振りながらそそくさと玄関ドアを閉めて出て行った。
何がなんやら分からないのでとりあえず天井を見た白毛であったが、見た先に天上はなかった。天上よりも先に目に入ったものがあり、白毛の目はそこで止まった。
スージーの健康的な両足と魅惑的なスリットと、そこから見えるもの。
「……のう、スージー」
「なによ」
「なんかすまんのう、そこまでしてくれとるのに」
「本当にすまないって思ってるなら、行動で示すべきでしょ」
「ほじゃな。それもそうじゃ。勝負下着が勿体ない」
よっこいせと立ち上がろうとした白毛は、そのまま胸倉を掴まれてぐっとベッドに引きずられ、ばふっとベッドに体が沈み込む。
押し倒されたというよりも、衝動的に張っ倒してやったというべきか。スージーの悔しそうでもあり怒っていそうでもあり、興奮していそうであり恥ずかしそうでもあり、そしてなによりそれらの感情を務めて顔に出さないようにしているような表情は、白毛が良く知る血の繋がりをよく感じるものだった。あれもこんな感じに顔に出さんようにしとるなと、白毛は口にせずに思う。口にしていたらここからさらにややこしいことになるのはさすがにこの人たらしにも理解できた。
「今日のスージーも綺麗じゃよ」
「爺爺、誰にだってそう言うでしょ」
「儂は思ったことしか言わんよ。そこまで考えられんし」
「ズルいってよく言われない?」
「言われるし似たような文句も一杯言われるのう」
「間抜けの大馬鹿貧弱爺爺」
「そこまで山盛りで言うのはスージーくらいじゃ」
白毛が両手を伸ばして背に回せば、スージーは身体の力を抜いてそのまま押し倒される。
回り道はしたけれどもこれはこれでええもんじゃなと思いながら、白毛はそっと顔をスージーに近づけ、思った。
そういや照明のリモコン、どこにいったんじゃったろうか、と。
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最終更新:2023年12月27日 17:33