上杉憲顕(逃げ上手の若君)

登録日:2024/08/01 Thu 06:55:00
更新日:2025/04/06 Sun 23:15:57
所要時間:約 18 分で読めます






いやはや 武士を「造る」のは難しい


上杉(うえすぎ)憲顕(のりあき)とは初代関東管領*1となった山内上杉氏の祖であり、南北朝時代の武将の1人。
本項目では、史実を参考に創作されている漫画作品『逃げ上手の若君』における上杉憲顕を解説する。


●目次


ステータス


レアリティ
(1337年)
☆☆☆ SR
能力 南北朝適正
武勇 44 蛮性 21
知力 84 忠義 71
政治 93 混沌 94
統率 36 革新 77
魅力 70 逃隠 90


  • 属性:南北朝マッドサイエンティスト
知力・罠製作20%上昇

  • 技能:上杉流方技
治療・薬学・人体実験の複合技能

  • 技能:人造武士製造
農民から武士を製造できる

  • 技能:化学兵器散布
中確率で敵軍を毒状態にする

  • 固有武器:白漆塗注射竹筒(しろうるしぬりちゅうしゃたけづつ)蓬莱五号(ほうらいごごう)


概要


足利家に仕える若手の武将であり初登場の1334年時点で28歳。
荒廃した鎌倉の復興に必要なのは「若さと勢い」と計算した足利直義によって組織された関東庇番のメンバーに抜擢され、そちらでは二番組の副頭を務める。

容貌はあご髭をたくわえ、白黒反転した両目に尖った耳というまるで悪魔ダークエルフといった異形。
顔立ち自体は整っているものの、庇番衆の中でも馬を除いて特に人間離れした容姿をしている。
ただし、その特徴的な外見を突っ込まれることもないため、あの世界においては普通の容姿の範疇なのかもしれない。
マーキング・パターンは「九枚笹」であり、烏帽子の正面にも意匠が施されている。

出自は祖父の代までは中級貴族だった上杉家の出で、足利家とは姻戚関係を結んで足利一門となっている。
本人もそのことは度々自虐しており、己の本質を学問が生業の公家だと自覚している。
そのため、上司の直義や岩松といった生粋の武士はおろか、一回り以上年下の斯波孫二郎に対しても常に敬語で接するなど、丁寧ではあるがどこか一線を引いたような立ち振る舞いを見せる。

中先代の乱では第一陣が出陣準備をしている間に急拵えで兵を集めていたため、同じ二番組筆頭の岩松の出立から2日遅れで出陣。
小手指ヶ原にて寄騎の今川範満を主力、孫二郎を補佐役として北条時行諏訪頼重率いる軍勢と戦うこととなった。
平地での会戦*2ということもあってあまり策に頼れず、配下の長尾景忠が重傷を負い、範満が戦死した段階で士気も逆転されたことで早々に見切りをつけて鎌倉に帰還。
鎌倉直前で討って出た直義が敗戦した際には事前に確保した退路を使い共に撤退。自身の戦の弱さを自嘲する直義を励ました。

中先代の乱から2年後の1337年では「北朝関東府副執事」となり、孫二郎改め斯波家長の補佐を担っている。
戦場においても趣味の研究や実験に勤しむなど、変わらない様子を見せたが、家長が杉本城で戦死すると、彼から「関東足利一門」をまとめ上げる指揮官としての役割を託され、これまで忌避してきた政争に参戦することを決意。
長尾の改造実験を一時凍結するなど、スタンスに変化が見られる。

政争とは距離を置きたかったがそうもいくまい
貴方の意思は上杉憲顕が引き継ぎましょう


以降は北畠顕家の進軍に合わせて、家長に実力を見込まれた桃井直常や関東庇番の同僚でもあった吉良満義と共に関東足利一門として継戦する。
対立派閥である土岐頼遠や高師直から露骨に見下されたり冷遇されながらも、京都で孤立しつつある直義の元に参上。
斯波家長の最期を伝え、直義派閥としての団結を強めた。


人物


一人称は「私」。
その見た目に反して「恐ろしい」が口癖で、態度も謙虚。
庇番随一の学術知識を有する知恵者であるが「祖父の代まで貴族だった軟弱者」と自虐して、常に屈強な兵を複数侍らせるなど非常に慎重。

そのように控えめな性質のため、変態だらけ個性豊かな庇番衆の中では専ら引き気味のリアクションを取るツッコミ役のポジションに回っている。
特に今川範満とは小手指ヶ原以前から戦を共にした経験があるらしいが「正直言ってあの馬好きはどうも…」「(戦いぶりを評して)あれはもはや病気の域」と苦手意識をハッキリ口に出している。

そのため庇番では唯一の常識人にして苦労人……なワケはなく、その実はマッドサイエンティスト
街でならず者を捕らえては屋敷の地下や実験施設で日夜武士に造り変える実験に勤しんでいる。
実験の内容は薬物投与や手術による人体改造も含む非人道的なもの。屋敷の地下で行っている実験を例に挙げると
  1. 地下室に麻の実と天狗茸から精製した薬物を充満させる
  2. 縄で拘束した状態の多数のならず者達をその状態の部屋に放置
  3. ならず者に「ござる」と言わせる
  4. 薬物の効果でマトモに「ござる」も言えない精神の弱い者は実験失敗として斬り殺す
といった具合に半ば遊びの蠱毒と化している。
とは言え、そんな中から「良素材」たる長尾景忠を輩出したりもしているので一応の成果はある。

このような実験を繰り返す理由として、憲顕は「学問が生業の公家出身のため武士の思考を理解できない」ことを挙げている。
何故武士は戦が好きなのか、何故喜んで死ねるのか、そういった武士の常識が「恐ろしくて理解できない」からこそ、武士を解き明かすために「学識と理論で最強の武士を造る」ことを命題にしている。
そのために先祖代々管轄している教育機関「足利学校」に実験施設も併設したらしく、そこで数々の「作品」を造り上げている。
ちなみに征蟻党の腐乱はこの施設からの逃亡者だったりする。

このように武士に対して興味を持つ一方で「武士として」の感情がなく理解も及んでいない部分は時に誤解を生むこともある。
特に庇番の仲間が死んだ直後でも非道な実験に一喜一憂しているサマを見せつけられた孫二郎には直接怒りをぶつけられたが、一応これでいて仲間意識はきちんとある。
実際「武士としての憤り」は理解できないとしながらも、庇番衆の面々が討死した「仲間としての憤り」は憶えており、静かな表情のまま仇である時行一行への復讐の念を語っている。

また、そんな経緯もあってか孫二郎のことは特に気に掛けており、孫二郎が直義の真意を計りかねていた時には影ながら2人の関係を見守っており、さながら後方保護者面をしていた。
孫二郎が家長を名乗りだしてからはその傾向がより顕著になってきており、歳に似合わぬ洞察力に驚嘆したり、若くして責任を取らんとする姿に胸を痛めたりしている。
特に家長が自身の死を予言して記した遺言を読んだ際には強い衝撃を受けており、曰く「冷めた目で武士を見ていた私の胸すら熱くした」とのこと。
直義に対しても良き理解者として振る舞っており、本質的にはこの両者によく似た情の人である。


能力


前述通りマッドサイエンティストとしての頭脳や実験成果を活かすことが多く、戦では専ら後方支援担当。
やはり戦場を実験場と捉えたような遊びが目立つ部分も見受けられるが、後述の人造武士などの実験成果は戦に多大な貢献をもたらしており、その奇抜な発想で戦に混沌をもたらすトリックスター
孫二郎曰く「この人の博学と探求心があれば机上の理論も兵器になる」

また知識だけでなく実験に関わる手術もお手の物。
傷口や手足の縫合はおろか、筋繊維といった細かいものの結合までこなすなど、南北朝のスーパードクターである。
その縫合技術たるや、千切れてしまった長尾の片腕を戦場で縫合して元に戻すなんてことも平然とやってのける辺り、南北朝時代どころか現代の医療技術すらブッ千切ってしまっている
神力や玄蕃の変化の面、天狗躯体等の半ばファンタジーのガワを被せた異能や技術と違い、こちらは純粋な科学・医療の領域の範疇で時代錯誤な無茶苦茶をやっているため、本作では彼の技術力が一番ファンタジーのように見えることも。
ただし作中でのマッドサイエンティストのイメージ像は何故かねるねるねるねのそれ。


このように特定方面においては突出した技量を持つ反面、一武将としてはやや器用貧乏というか、諸将と比べて特に秀でた部分は少ない。
平地での会戦のセオリーも熟知しているなどある程度の軍略にも通じているが、本人曰く「兵法や機転は孫二郎に敵わない」とのことで、基本戦術以外の策に関しては完全に孫二郎に一任している。

戦闘能力に関しても、雑兵相手ならば大人数であっても孫二郎と談笑しつつ襲い掛かる兵の口から串刺しにして殺す程度には強いが、豪傑相手と渡り合えるほどではないため、基本的に傍に侍らせている護衛の武士や実験素材の長尾に任せている。
とは言え剣術を分析してこの時代にはない全く新しい流派を作り上げるなど、武に対する知識や興味がないわけではなく、むしろ強さについては人一倍貪欲。
あくまで強さの表現方法を学識に向けているだけであり、成果物の強さがその理論の正しさを証明している。

また、ステータスの能力欄において唯一90台を突破している「政治」については、本人が他の庇番衆同様に「京のドロドロした政争なんぞまっぴら」のスタンスを取っているため、活かされることは少ない。
しかし、家長の遺命を受けて「政争」に参戦する決意も固めているため、ここから本領を発揮すると思われる。
またあくまで嫌っているのは「政争」であって、自領の上野国を統治・運営する「内政」は実験同様に好きらしく、分類としては直義と同じで生粋の文官・政治家タイプなのだろう。
もっともその内政の実態は、農村で養えない子供を実験素材として引き取り、領民に結婚相手を種馬のように宛がいその子供の交配記録成長をつぶさに知らせたりと趣味と実益を兼ねたものだったが*3

なお、関東執事となった後も「善政と人体実験の両立」をこなしているように語っているが、研究の内容が「我が子に武士の獣性を培わせるために狼に育てさせるといった具合に倫理も常軌も逸した方向に迷走している
親としての資質は全く無いことは一応自覚しており、もはや獣のようになってしまった我が子は兄に引き取られた。


◆研究成果

  • 人造武士
憲顕が主戦力として活用している改造人間
主に武士階級ではないならず者を捕らえて薬物投与を施しており、出来上がった人造武士は痛みと疲れも感じないと同時に自我もない
鎧や髷も肌に直接縫い付ける形で一体化させているので見た目が中々に痛々しい。
また頭に縫い目も見えることから、脳を直接弄っている可能性もある。
表情に覇気はなく体格も武士と比べて貧弱ではあるが、逃若党随一の技量を誇る吹雪ですら初見では苦戦するほどの強さを誇っており、量産型ながら戦力としては一定以上の成果を発揮している。
ただし自我を失った代償として複雑な判断はできないため、戦においては何も考えさせずとりあえず突撃させる先鋒の用途が専ら。
また、一度剣閃を見た一定以上の強さを誇る豪傑にとっては敵ではなく、まとめて蹴散らされてしまうレベルなので戦闘力も過信はできない。

  • 変化する太刀筋
憲顕自ら「上杉流剣術」と名付け、上記の人造武士に覚え込ませている異色の剣術。
戦ではなく実験と理論で追求した剣術であり、刀を振るう際に複雑に刃先を操ることで、単純に腕を振るって放つ太刀筋とは異なる斬撃を可能としている。
その肝は真っすぐ振るわれる普通の太刀筋と、手首で曲げる独特の太刀筋を巧みに使い分け、刀が振り下ろされる直前までどちらの斬撃か来るか見分けがつかない部分にある。
南北朝時代当時では力任せに振るう剣術が主流であったため、こうした複雑な技術を使った剣術は珍しく、初見ではまず対応できない。
憲顕も武士の常識を覆すために、敢えて(・・・)剣術の常識をろくに知らない庶民出身の人造武士にこの技術を移植している。
征蟻党の腐乱も元は憲顕に捕らえられた実験素材であり、この剣術を無理矢理移植する形で覚え込まされた。
ただしその腐乱が技の真髄を理解しないままに使っているあたり、動きだけを無理矢理体に覚え込ませたが故の弊害も生まれている模様。

  • 硫黄毒
1337年の北畠顕家との利根川の戦いで使用。恐らくは硫化水素ガス。
知っての通り、硫黄には低地に溜まりそこにいる生物を死に至らしめるほどの毒性を発揮する性質がある。
憲顕はその硫黄を火山から密閉した容器に採取・保存することに成功。
低地の水場に流し込み、そこを守る兵士の大半を瀕死状態に追い込む毒ガス兵器として活用した。
憲顕によると「今一つ死にませんでしたなあ」*4とのことだが、この作戦を容認した家長としては「以後敵兵が硫黄の匂いがするだけで恐慌状態に陥る」という結果を作って戦術を絞ることを最重要事項と見做していた。
事実、これ以降の顕家は水場を守ることを諦めざるを得ず、犠牲の大きい力攻め一本に戦術が絞られることになった。

  • 九十九(つくも)型」活性剤
長尾景忠専用のドーピング剤
戦の最中に蓬莱五号から射られた注射器を右腕に撃ち込み注入することで、筋肉が鎧を破るほどに異常膨張
見た目通りに筋力が飛躍的に向上し、先ほどまで互角に渡り合えていた豪傑が成す術なく馬と太刀ごと斬られて吹き飛ぶほどの剣戟を可能とする。

その真髄は人間の肉体を「百八の型」に分類した上杉家三代の研究成果による。
長尾景忠の筋肉は「九十九型」にあたり、そして同型の肉体は繋ぎ合わせても拒否反応が少なく結合しやすい状態にある。
そこで憲顕は時に戦場の死体を漁り、時に豪傑を殺して「九十九型」の優れた筋肉を採取。それら全てを長尾の右腕に移植・増設していき、常識外れの超筋肉を生み出した。
いくら同型とは言え少なからず起きる拒否反応に耐え得る長尾の精神力と、南北朝時代という設定を忘れているとしか思えない上杉家のオーバーテクノロジーっぷりが合わさった作中屈指のトンデモ技術である。

作中でもその凄まじい研究自体は素直に称賛される一方、肝心の成果については弧次郎曰く「(腕がでかくなって剣戟が)大振りになり返し技が容易になった」「下手に改造しない方が強いと思う」と、かなり酷評されている。
当の長尾本人も主を慮って口に出すことこそなかったものの「憲顕が手出ししなければ勝てていた」という態度を取っており「焦って改造しても逆効果」とこの研究は一旦凍結されることとなった。


◆武装

  • 白漆塗注射竹筒(しろうるしぬりちゅうしゃたけづつ)蓬莱五号(ほうらいごごう)
憲顕の使用する弓矢。
鏃が小型の注射器になっており、矢が命中した対象に薬物を注入できる。
構造上戦には向かないのか戦闘でこの武器を用いることはなく、戦では刀を用いる。


配下


軍勢は主に上述の人造武士と鍛え上げた生身の武士の両方で固められており、兵として状況に応じて使い分けられている。
また、白い貫頭衣を身に付け目元をマスクで隠した研究員めいた配下も数名引き連れてきており、戦場においてもデータを取ったり実験や手術の助手として活用している。

長尾(ながお)景忠(かげただ)


没落した長尾家を この景忠が再興する
鬼に魂を売ろうとも 上杉様の実験動物となろうとも!!

北条氏との勢力争いに敗れ宝治合戦で族滅させられた長尾家の生き残りの家系の男。
どうやら没落した一族を養うため子供の時から盗みや殺人に明け暮れていたらしく、その中で憲顕に囚われて実験の材料にされていた。
薬物が充満した部屋に監禁されながらも、「ござる」と言うどころか意識をハッキリと保った状態で受け答えするなど非常に強靭な精神力の持ち主。憲顕曰く「誰か知らぬが良素材」
実際、憲顕に拾われて以降は武士らしく正々堂々と戦いに応じることで、子供の頃に奪った命への供養とするなど、実験に関係なく矜持と誉れを第一とする武士としての生き様が宿っている。

その実力は本物で、小手指ヶ原の戦いでは本調子ではないにもかかわらず、やせ細った体を筋力増強剤で補い、自前の精神力と武士としての技量で渋川をくだした弧次郎相手に善戦。保科の渾身の一刀をも紙一重で躱すなどの活躍を見せた。
内臓が飛び出る寸前の重傷を負ってなお好戦的で異常な戦闘意欲を燃やすも、将来性を買った憲顕に制止され正式に仕官を認められた。

1337年以降は上杉家執事となっており、憲顕のドーピングと鍛錬の結果なのか、捕らえられた時よりも遥かに体が大きく精強な姿になっていた。
というか、改造されすぎて 憲顕を肩に乗せて運ぶほどに異常巨大化している。憲顕曰く「膂力は二年で五倍に強化した」とのこと。
武士としての本来の技量や強さも取り戻しており、戦場では名刀匠「国行」作の名刀を振るい無双している。
並の豪傑ではまず歯が立たないレベルだが、足利党のバグである土岐頼遠相手では「十回戦って八回敗ける」と自己申告するように最強クラスには流石に遅れを取る模様。

弧次郎とはかつての戦いを経てライバル関係にまで発展しており、戦場で相まみえる度に笑みを浮かべながら死闘を繰り広げている。


史実では憲顕に仕えた腹心であり、没落した長尾家を立て直した一族中興の祖。
直接の子孫は関東各地で、弟の子孫は越後に渡って代々守護代を務めた。その子孫から後の軍神・上杉謙信となる長尾景虎が産まれている。


親族


上杉(うえすぎ)重能(しげよし)


憲顕お前…研究が迷走してないか?

憲顕の兄。普段は京の直義の下で働いている。
容姿は弟同様のダークエルフだが、表情は幾分穏やかであご髭のほか口髭を生やしている。
エルフ耳の長さや烏帽子の笹の数も控えめ。
弟の研究も把握しているが、我が子すら実験素材に使う非人道ぶりにドン引きしている
「研究が迷走している」として、憲顕から子供を引き取って真っ当に育てようとする辺り、かなりの常識人である。

京都に戻ってからは激化する高師直派との抗争に尽力。
執事を解任されて怒り狂う師直の動きを危険視して、刺客を送り込んで暗殺を目論むも失敗。
御所巻によって師直が直義を追い落としたどさくさに紛れて暗殺されてしまう。

史実においては藤原北家の勧修寺家の出身であり、重能が幼い頃に実父が亡くなったため、母方の伯父である上杉家に養子に入った人物。なので厳密に言うならば、憲顕の義兄弟(従兄弟)にあたる。
また、実子がいなかったため、憲顕の子供である能憲を養子に迎えている。


上杉(うえすぎ)憲将(のりまさ)

上杉(うえすぎ)能憲(よしのり)


重能の親父殿 俺ら言葉教えてくれタ 暖かい服与えてくれタ
それ殺した高師直 高一族… 殺ス!喰う!

上杉憲顕の実子。
憲顕の研究の迷走期に生まれたため、武士の獣性を人為的に培うために狼に育てられた
そのせいで成長してからも言葉を発せず、父親代わりの狼にも噛みつくほどに凶暴極まりない獣と化してしまった。
その容貌も牙や鋭い爪が生え揃い、服も着用しないなど獣そのものであり、上杉家の遺伝でもあるエルフ耳と反転目も相俟ってゴブリンか何かにしか見えない

流石に見かねた重能に引き取られて人間として養育され直し、カタコト気味ではあるが言葉を介するようになり、また重能への恩義という情緒も獲得した。
重能を殺した高師直及び、高一族には獣性を剥き出しにした復讐心を持っており、憲顕も引き気味になっている。
戦においては見た目通りの凶暴な強さを誇るが、反面獣のような戦いぶりもあって統制が取れないという弱点がある。

史実において重能の養子に取られたのは能憲だけだが、逃げ若においては憲将も養子に取られている。
憲将は父の憲顕の代理として活躍することが多く、父より早く亡くなったこともあり、山内上杉氏を継ぐことはなかった。
能憲は養父の仇である高一族の暗殺を決行した後は、憲顕の後任の関東管領となり、山内上杉氏の地盤を盤石なものにした。



余談


  • 足利学校
下野国足利荘に実在した教育機関。
その名の通り足利家が管轄する領地に存在しており、現在ではその跡地が「史跡」や「日本遺産」に指定されている。
関東における事実上の最高学府であるが、その創設年や創設者については諸説あり論争が起きている。
主に挙げられている説は以下の通り。
  • 律令制が実施された頃(飛鳥時代後期)の下野国の国学*5を起源とする説。国学は衰退したが、室町時代に足利家が将軍となったことで復興した
  • 839年頃(平安時代)に小野篁による創設説
  • 12世紀末(鎌倉時代)の足利家当主・義兼による創設説。上記2説の場合でも義兼は学校を復興させた人物とみなされることもある
  • そもそも1432年(室町時代中期)以前に学校は存在せず、創設者は憲顕の子孫である上杉憲実とする説
本作においては「衰退した朝廷の教育機関を上杉家が預かり、憲顕の祖父の代から訓練施設を極秘に増設してきた場所」として設定されている。

起源に対する諸説の真偽はともかく、北は奥羽、南は琉球に至る全国各地から生徒が集まり「坂東の大学」と謳われるほど栄えたのは、鎌倉滅亡から100年も後の上杉憲実の代であり、南北朝時代の足利学校の詳細は一切不明である。
そのため、実は腕利きの忍を養成する忍者学科があったとか、憲顕が敷地内に武士を造るための非道な人体実験の施設を併設したとかの本作独自の与太話が全くの創作であるという証拠もない

……まあ、そんな悪魔の証明めいた暴論はさておき、史料に残る上での足利学校では実際に兵学や医学も取り扱っており、卒業者がそのまま戦国武将に仕えることもあったほか、構内に薬草園も併設されていたという。

  • 上杉家について
本編での言及通り、上杉家は元は京都の中級貴族の出であり、憲顕の曽祖父である藤原重房が6代目鎌倉幕府将軍に就任した宗尊親王の介添えとして鎌倉に渡っている。この時、丹波国の荘園・上杉荘を賜ったことから上杉氏を称するようになった。
後に親王が謀反の疑いによって帰洛しても重房はそのまま鎌倉に留まり続けて武士となり、娘を足利家(宗家5代・頼氏)に嫁がせることでその配下となった。
本作では特に言及されていないが、尊氏・直義の母親も上杉家出身であり(上杉清子)、憲顕からしたら叔母にあたる。つまり足利兄弟と憲顕は従兄弟であり、足利一門の中でも特に近しい関係にある。

このように足利家との姻戚によって武士としての地位を確立した上杉家であるが、その関係はあくまで側室であり、足利兄弟と同様に天下の中心に座るポジションの家ではなかった。
しかし、先に足利の家督を継いだ嫡男高義の急死によって、尊氏が後を継ぐことになり、その有力被官として上杉家も重んじられるようになる。
ただ、憲顕が成り上がるその道程は決して七光による安寧な道ではなく、父・重房の戦死や、高師直率いる対立派閥との政争での義兄弟の暗殺等、親族の急死の度に家の立場が常に揺らいでいく非常に不安定な道であった。
そんな中で憲顕は曽祖父同様に政治の中心である京都から離れた関東に拠点を構えて政争を勝ち抜いていく。
その結果、初代関東管領となって権勢を振るい、後に山内上杉氏として関東にて覇を唱えるまでに至る。
松井先生も歴史雑誌『歴史人』のインタビュー*6において、好きな人物として挙げた榎本武揚*7によく似た「メインストリームに逆らって独立的な意地を見せた」ポジションとして憲顕を紹介している。また、その際に「彼の人生を作品の裏テーマのひとつとして描いている」と、憲顕が今後のキーパーソンになることも示唆している。


ところで、上杉と聞いて真っ先に思い浮かべるであろう人物は越後の軍神・上杉謙信であろう。
しかしこの謙信は憲顕からの系譜ではない
そもそも謙信は元の名を長尾景虎と言うように、憲顕配下の長尾景忠からの血筋
より正確に言うと越後に渡った景忠の弟が代々守護代を務めており、その子孫である景虎が憲顕の末裔である関東管領上杉憲政の養子となり、家督を譲られたことで上杉謙信(政虎)を名乗った。
つまり憲顕の「最強の武士を造る」という命題は、数百年の時を超えて毘沙門天の化身という形で実を結んだのだ。自分の系譜は滅んだけど*8
また、謙信の跡を継いだ景勝は母方の祖母が上条上杉氏出身のため、憲顕の血筋は現在の米沢上杉家に続いている。

憲顕のトレードマークと言える「九枚笹」も、後に2羽の雀と周りを囲む竹輪を加えた「上杉笹」の原型。
なお憲顕の特徴的な見た目については由来が一切不明
単純に高貴そうなイメージからエルフ耳なのだろうか……?
ちなみに「神奈川県立公文書館」では上杉憲顕の書状も展示されているのだが、そちらの解説では逃げ若に触れており、本作の憲顕については「独特な人物造形」と評されている。



よくぞ参られた編集者殿
丁度追記・修正前の最後の選別をしております

誤字脱字は一字でも減らしておきたいのですが
いやはや記事を「造る」のは難しい

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最終更新:2025年04月06日 23:15

*1 室町幕府が設置した鎌倉府の長官である鎌倉公方を補佐する役割。関東執事の呼称が変化したもの。

*2 山や川の地形を活かして陣取り合戦などの駆け引きが必要となる「野戦」に対して、広い平地で全力で決着をつけようとする戦のこと。

*3 一応口減らしを無くしたり、領民に対する面倒見が良いのは事実であり、上記の罪人に対する処遇も含めて乱世基準ではしっかり善政ではある。

*4 「硫黄の量が足りなかった」ことを理由として推測しているが、当時の密閉技術の限度という観点もあるだろう。

*5 律令制における官人育成のために各国に設置された教育機関。

*6 2024年8月号。

*7 幕末から明治にかけての政治家。元幕臣で戊辰戦争においては旧幕府軍を率いて蝦夷地を占領。「蝦夷共和国」という事実上の独立政権を樹立するも、五稜郭での戦いに敗れて政権は消滅。後に特赦されて北海道開拓使となり、内閣制度開始後は中央で数々の大臣を歴任するなど復権を遂げた。

*8 上杉憲政は謙信の死後も生き延びていたが、その後起きた家督争い(御館の乱)に巻き込まれる形で横死。孫の存在は江戸時代にも確認されるものの、武将としての憲顕から続く山内上杉氏の系譜は途絶えた。