ジア・ドゥ・スキュリオーティエ・ア・シェルト=アンギル・ジキュアハイト
淮語: Jia de Skyliautie ats Chailté-Angilé jikyaheité
理語: Skurlavenija skurlavenija dzi'a fon skurdzi for xelt-an'gil
ジア大公
生年月日 1973年3月12日
出生地 デーノ共和国・ナジャールト
民族 ヴェフィス系ヴェフィス人
最終学歴 天神大学
貴族家 スキュリオーティエ・ア・シェルト=アンギル家
階級 ファリアガード条約に基づくシェルト・アンギルの支配者たるシャン及びヴェフィス共和国の君主たる大公(Le çhanths var est çhanths paifeanichau vaifiseit mait çhanths var paisé Chailté-Angillaile no Chiaktalé fol Faliagadé/Xanastan z'es vefisait chafi'ofese'd xan ad xan zu letis xelt-an'gil fai fali'agarda'd eo taloraxe)
勲章
渾名
ジア・ドゥ・スキュリオーティエ・ア・シェルト=アンギル・ジキュアハイト(淮:Jia de Skyliautie ats Chailté-Angilé jikyaheité)は、第99代目スキュリオーティエ家当主及び二代目ヴェフィス共和国大公。


概要

 アルフィア・ドゥ・スキュリオーティエの娘であり、姉としてインリニア・ドゥ・スキュリオーティエ、弟としてレイヴァー・ド・スキュリオーティエがいる。99代目スキュリオーティエ家当主及びヴェフィス共和国大公。叙事詩の主人公気取りで世界を変えようなどと誇大妄想の癖があると外部からは評価されることもある*1。諸島戦争等で不用意な発言を繰り返したため、君主としての癖の悪さを国外からは指摘されているが、保守派からは「ユフィアとサフィアを合わせたような最強の君主」としてのカリスマ性を獲得している。
 フィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャと交友関係を持っており、複数回会談を繰り返している。

来歴

幼少期

 1973年3月12日、スキュリオーティエ家当主第99代目継承順位第二位としてインファーニア・ドゥ・スキュリオーティエの妹として生まれる。母は98代目当主アルフィア・ドゥ・スキュリオーティエ、父はデーノ海軍大尉であるアルギアンティア・ド・スキュリオーティエであった。生まれてから、活発な性格であり、長女であるインリニアとその地位の差を敏感に感じ取り、暴力沙汰になることが多かった。一方で、格下のレイヴァーに対してはほとんど興味を持たなかった。
 叙事詩に登場する大家なりに裕福な生活を過ごしていたが、アルフィアはそのリベラルな政治志向により、彼女にスキュリオーティエ叙事詩を積極的には読ませなかった。
 1979年(6歳)、改革派教法学者であるフィシャ・ステデラフスキュリオーティエ叙事詩に基づく教法学的革命権の提唱を行う。この急進的な議論に社会は沸き立つことになり、ジアは子供ながらにその変化を感じ取り、それが「スキュリオーティエ叙事詩」という自らの家柄の根幹にある重要な文書に基づくのだと気づく。
 その頃から、ジアは一人叙事詩について調べながら、様々な家の人間に叙事詩について尋ねたがアルフィアも含め詳しく説明ができる、或いはしたい者は居なかった。
 1985年(12歳)、アルフィアは、そこまで興味があるなら当時天神大学教養学部の教授であり、王朝系貴族家であるキャスカ・ファルザー家の当主であったキャスカ・ファルザー・ユミリアに文通するようジアに促す。文通の中で、ジアの有能さを悟ったキャスカはジアに数ヶ月の間文通でスキュリオーティエ叙事詩に関する手引を行った。
 1990年(17歳)、ラネーメ共和国に一人旅を行い、キャスカと会う。一週間の間、滞在する予定だったが、ジアは「大学図書館を有効に使うため、ヴェフィス国立研究院大学のキャスカ研究室に滞在する」と言い出し、キャスカはそのストイックさに驚いたという。流石に、ヴェフィサイト主系貴族にほぼ野宿をさせるわけにもいかず、師弟であるラヴィル・ドゥ・エスタイティエにジアは面倒を見られたという。なお、エスタイティエ家はヴェフィサイト主系貴族家であるが、スキュリオーティエ叙事詩においてはスキュリオーティエ家に挑んで負けた北アレス家に従属していたためにラヴィルはジアに頭が上がらなかったらしい。この間に彼と話したチャショーテの未来に関する話題は、彼女に哲学的政治への興味を抱かせた。
 帰り際、ジアはキャスカに「保存されているスキュリオーティエ叙事詩の原本を見せて欲しい」と尋ねるがキャスカは少し困ったような表情を見せながら、「君がこの大学に合格し、研究院まで来てくれたらきっと見せてあげよう」と述べ、ジアは悲しみながらもその時点でヴェフィス研究院大学を受験することを決意する。

青年期

 1992年(19歳)、家族に一時の別れを告げ、キャスカとの約束を果たすためにヴェフィス国立研究院大学文学部に入学。学びが始まるというその時に第二次ホメーン・アッシオ戦争が勃発。ジアはラヴィルに連れられ、一時的にラネーメ国に疎開した。二人は天神大学に学籍を変更し、学び続けることになるが、キャスカの安否に関する情報が流れてこないことに長らく悩み続けることになる。
 世紀の名だたる学者の一人であるキャスカの悲報を彼女が聞くのはそれほど遠くはなかった。彼女はキャスカが貴重な資料を守るために施設に立てこもり、職業軍人であるレアディオ兵に抗戦した末に射殺されたということを聞く。事実を知ったジアとラヴィルは一日を泣き明かしたという。
 1997年(24歳)、キャスカの無念を心に必死に勉学を続けた彼女は順調に文学士を取得し、修士課程へ進む。ジアはキャスカが必死に護りたかった資料の真価を知るために研究院に進むことになる。研究院のみに参照することが許された高度貴重文書館に足を踏み入れた彼女は、キャスカが管理していた文書がもはや存在しないことに気づく。調べを進めていくと、彼女が護りたかった資料が何だったのかが判明した。
 それは、彼女がキャスカに求めた「スキュリオーティエ叙事詩の原本」であった。

「私はユフィアだ」

 1999年(26歳)、歴史学修士を取得する。ラヴィルは彼女に「キャスカの死は君のせいではない」と諭し、前進することを勧める。ジアはキャスカが護ろうとしていたものは「ユフィア」という概念そのものだったのではないかと思い至り、社会を変えるためにラヴィルと共に当時ラネーメ国で起こっていたファスマレー語国語化運動に参加したが、ラネーメ警察に逮捕される。すぐに解放されたが、ジアはこれでは社会は変えられないと悟り、当時流行していた保守チャショーテに興味を持つ。革新チャショーテを支持していたラヴィルからは、「やめたほうがいい」と諭されるも、彼女は「私はユフィアだ、英雄だ。いや、英雄にならねばならない。彼女の無念を果たすために」と述べて、彼の元を去っていった。

地位継承

 2000年の大災厄が発生したとき、ジアよりも上にいるスキュリオーティエ家継承者たちは、ユエスレオネに乗ってしまった。このため、ヴェフィス共和国が成立し、2001年にクーデターが発生した後に継承順第一位に昇格した(当時の大公はアルフィア・ド・スキュリオーティエ)

過去の発言

「なんで、本部をアイルに移転するんだよ。どう考えても、叙事詩の国が担うべきだ。腑抜け共に任せておけるか」
――2015年6月2日
 リナエスト内戦により、荒廃したPMCFの行政機能をアイル共和国に移動させようとする冠国首相タカマ・ソラナの提案に対する発言。「PMCF本部機能の移動はアイル共和国の影響権拡大を目指したものであり、許されないもの」とする世論は、この君主による発言でヴェフィス国民に瞬時に広がることになった*2
 フィシャ・グスタフ・ヴェルガナーデャはこの発言を擁護する発言を行った。

「まさか、ラヴィルが死ぬとはね。敵に討たれて死ぬんじゃなくて、自殺だと。ほんっと、ヴェフィサイトにあるまじき失態だよ(……可哀想だよ、誇りを捨てるほど辛かっただなんて)」
――2046年9月12日
 括弧部分以降は報道されずに、前の部分だけが切り取られて報道された。「お世話になった旧友にすらこの扱いである、流石無慈悲な君主様だ!!」と保守派からは歓声が上がり、革新派からは「不謹慎極まりない発言だ」との苦言を呈されるも、彼女はそれ以上言及をしなかった。9月12日当日の公務は全て取りやめとなり、ジアは一人寂しく誰とも接触せずにその日を過ごしたという。
 いつもは彼女を擁護するヴェルガナーデャも、この件には触れなかった。
最終更新:2024年08月27日 02:08