チャショーテ(理:chaxorte)とは、近世近代リパラオネ思想のイデオロギーの一つであり、またその運動や主要団体を包括して呼ぶ用語である。後のイェスカ主義やクワク主義の根源となった。


概要

 ピリフィアー暦1579年頃に、ディヴィージ帝国崩壊後のリパラオネ圏で発達した「市民が政治に参加することによって問題を解決しよう」と積極的な参政権を主張する「レシュト」に由来する。レシュトは「政治に参加しよう」という純粋な動機による運動であったために、個々人やグループに代表されるイデオロギー差によって対立関係が形成された。1585年には、レシュトの右派と左派の対立は明確となり、左派が自警団を形成したことにより、右派もこれに呼応した。この経緯により、双方の対立・紛争・分裂により、国内情勢は劣悪となった。1630年に始まる右派連合と左派連合による紛争は25年続き、最終的な新国家樹立、総合化分派の形成によって右派連合はリパナス(リパラオネ民族主義)となり、左派連合は本項で説明するチャショーテ(共和国革命派)となった*1
 チャショーテ運動は、旧ディウィージ構成国家を元にリパラオネ連邦共和国を成立させるにあたってリパナスよりも優位な地位を持った。1992年には、第二次国家統一戦争で敗戦に帰したラネーメ国に対して、内政干渉を行って「共和国革命」を実現した。しかしながら、これに関してはチャショーテの中でも議論があり、急進的に対立関係が形成された。1993年には、保守チャショーテと革新チャショーテの分派構造が明確化された*2
 大災厄の結果、保守チャショーテがクワク社会主義、革新チャショーテがイェスカ主義として変化していった。

問題

 近世近代に思想的土壌を用意し、社会変革のために活躍したチャショーテ思想は、現代ファイクレオネで発展解消したに見えた。しかし、ユエスレオネ革命以後は、チャショーテ思想家は既得権益を振り回すようになり、革命を先導したイェスカ主義勢力はこれに対する対応に難儀した。特に、連邦議会におけるメイリクヮ(軍事議会)の存在はその影響力の省庁であった。
 イェスカも問題視していたようであり、ショレゼスコによってメイリクヮは廃止され、憲法裁判所特別法廷に吸収されつつ、弱体化された。
 ウォルツァスカイユ政権は、「軍の無党派化」による粛清により、特別法廷内の党派的人物とされる人間は尽く信頼の置ける連邦軍将校に置換した。
 更に、シルミヤ政権は、そもそも特別法廷をチャショーテの単なる後継的な存在であるとして、徹底的な分解を目指した。これにより、特別法廷の要員は連邦参事会連邦安全保障枠へと分散させた。
 エレン政権は、最終的に特別法廷を解散させた。裁判員などは連邦軍軍事関係者犯罪捜査局法務省構成体紛争解決委員会に分散させられ、関係性を徹底的に解体させられた(特別警察国家公安警察が関与したとされる)。
 不徹底との批判もあるが、これによって、チャショーテの組織・社会的影響力は完全に除かれたとされているのが、ユエスレオネ社会共通の認識であると言えよう。

現代における評価

 このように、ユエスレオネ国家にしても長年を掛けて、その影響力を排除してきた経緯には、チャショーテが現代社会において旧弊な思想構造を時代の変遷に合わせて変革させず、既得権益を元にセクト・カルト化してきた背景があり、考え方の違う首相の間でもこのような政策が継続されてきた理由は実際の治安や国土安定化に脅威的だったとする意見が大きい。一方で、初期からイェスカ主義的体制に対して、大きな影響力を持ってきたその存在感を忌避して排斥しようとしたというのは、イェスカ・ユミリア時代に対して言及されることであるものの、それでもユミリアは積極的にチャショーテ排斥に乗り出したわけでもなく、影響力の大きさに難儀していた世代があったということを考えても、歴史的カンフル剤が無ければ対策に乗り出せないような根を張った存在になってしまっていたと考えるのが筋である。
 ただ、一方としてイェスカ主義などの近現代思想を導いた「思想のタネ」としてはチャショーテ初期から中期までに至る思想的運動に注意すべきであり、思索自体が近現代思想の基礎となっている点を考えると思想史的な評価は非常に高くなるだろう。
 市民的にはチャショーテは「革命の由来となったが、反革命にすら近くなった老害」と捉えられている。しかしながら、ターフ・フューザフィスのような古典的な思想家は、一種の既成インテリゲンツィア的貴族と化したチャショーテ成員と反して、現代のチャショーテの中には残っている。

関連項目

革新チャショーテのメンバー

保守チャショーテのメンバー

  • アレス・シュカジュー
最終更新:2024年07月26日 01:49